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鍵使い

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鍵使い

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目覚めたとき、僕はベッドに拘束されていた。拘束衣に固められてはいたが、猿轡まではされていない。曖昧な笑みを浮かべて、白衣の医師が僕を覗き込んでいる。医師の背後には無表情な看護師が二人、マネキンのように控えていた。
「気分はどうかな」
医師が身を乗り出した。口には笑みを浮かべているが、目元は笑っていない。
「最悪だ」
僕は漸く声を絞り出した。頭が妙に重い。白塗りの壁と天井。首だけ動かしてみると、すりガラスのドアが見える。
「ここはどこだ」
「閉鎖病棟」
医師の顔から笑みが消え、冷酷な性格が垣間見えた。
「きみは昨日も同じことを尋ねたな」 
医師は落ち着かない様子で、ベッドの周囲を歩きまわった。
「ところできみは、何か思い出せたのかね」
医師の足音がリノリウムの床に響く。
「全く」
何も思い出せなかった。自分の名前も職業も、これまで何をしてきたのかも。気づいたら、僕はこのベッドにいたのだ。
「困るんだよ、それでは。身元不明の人間を、いつまでもここに置いておくわけにはいかない。だがきみは身元を特定できるものを何も所持していなかった」 
僕は全ての記憶を失っていた。僕は誰だろうか。
「鍵使い」
呪文を唱えるように、医師は口にした。
「鍵使い…何だ、それは」
「何って…あんたが言った言葉だろう。こっちが聞いてるんだろうが」
医師の言葉が急にぞんざいになった。苛立ち始めたようだ。鍵使い…何かを思い出せそうな気がしたが、頭が酷く痛み始めた。
「あんたは三日前のことを覚えてるか」
「わからない」
「この街の海辺に、あんたは立っていたんだとさ。そして、海へ向かって歩き始めた。あんた、自殺する気だったのか」
「わからない」
僕は繰り返した。記憶の扉は堅く閉ざされたままだった。
「まあ、死にたきゃ、死ねばいいが…。もう少しこっそりとやってもらえないものかね。死にたいなんて考える奴は、どうせ人間のクズだからな。あんたのような人間のことだ」
医師の言葉に、僕は強い憤りを覚えた。胸の奥底から何かドス黒いものが、こみ上げてくる。
「くたばれ!」
僕は医師の顔に唾を吐きかけた。顔色一つ変えずに、医師は白衣のポケットからハンカチを取り出した。顔を拭くと、医師は看護師を振り返った。
「鎮静剤を」
注射器が僕の腕に突き立てられた。急速に意識が薄れていった。

目覚めると、医師がまた僕の顔を覗きこんでいた。
「さて、お目覚めかな」
医師の背後には、あのマネキンのような看護師が二人、今日も立っている。
「今日はもう少し友好的な話し合いができるといいんだがね」
「ああ」
昨日の怒りは、どこかへと消え失せていた。
「海へ向かって歩き始めたと言ったな。その後、何があったんだ…」
「海へ向かって歩き始めたあんたを、サーファー客が見つけて、海辺に引き戻した。救急車の中では、あんたは大人しくしていたそうだが、ここへ来るなり、あんたは大立ち回りをやらかしてくれた。まあ、酷いもんだ。見ろよ」
医師は白衣の腕を捲った。青痣が何カ所か出来ていた。
「あんたを大人しくさせるには、ほんと、苦労させられたぜ。他の医師や看護師、数人であんたを取り押さえたんだ。鎮静剤を打つ前、私はあんたの名前を尋ねた。あんたは、鍵使いと答えて、歯茎まで見せて、かん高い声で笑い続けたのさ」
「そいつは悪いことをしたな」
僕は呟いた。
「だけど本当に何も覚えていないんだ。鍵使いも何のことだかわからない」

暴力の危険性は少ないと判断されたのか、僕は一般病棟に移された。日々はするすると流れていった。医師は毎日、回遊魚のようにやってきては、僕に同じことを尋ねた。
「何か思い出したか」
僕が首を振ると、医師はため息をつき、黙って病室を出ていくのだった。

何日も何日も同じことが、飽かずに繰り返された。潮の満ち引きのように。僕は半ば諦めかけていた。記憶が戻らない以上、僕の身元がわかることは、最早ないのかもしれない。
今日もまた、医師が病室に入ってきた。あのマネキンのような看護師は連れていない。
「何か思い出したか」
いつもと同じ言葉が繰り返されるとばかり思っていたが、その日は違った。
「あんたの身元がわかった」
医師の声には何の感情もこもっていなかった。無機質でマニュアルを読み上げるような声だ。
「奥さんが迎えにきてる」
「奥さん?」
僕は医師に問い返した。
「僕には連れ合いがいたのか…」 
「そうらしいな。あんたの捜索願が出されていた」
医師は口の端をゆがめて笑った。
「だけどありゃ、相当イかれてる。あんたにはお似合いだよ。二人とも頭のネジを巻き直した方がいい」
医師は踵を返すと病室を出て行った。

程なくして、小柄な女性が病室に入ってきた。彼女は僕を見ると言った。
「迎えにきたよ、蓮」
彼女は、ショッキングピンクのTシャツに、鮮やかなブルーのチュチュ・スカートを履いていた。そして黒のサングラス。なるほど。僕は医師の言葉の意味を理解した。この格好は確かにド派手に良く目立つ。
彼女はサングラスを外すと、悪戯っぽく笑った。まだあどけなさすら残る笑顔だった。彼女はハイヒールを履いたまま、ベッドに這い登ってきて、それまで自分がしていたサングラスを僕の目にかけた。
「じゃあ、行こ」
彼女は僕の手を取った。

会計を済ませると、彼女と手を組み合わせて、病院を出た。
「何も覚えていないんだ…きみのことも…」 
後ろめたさを覚えながら、僕は口にした。
「知ってるよ。あの医者から説明を受けたから。だけどあの医者、何か感じ悪い」
彼女は不愉快そうに眉根を寄せた。笑ったり、怒ったり、猫の目のように変わる彼女の表情は、見ているだけで飽きなかった。
「私のこと眺め回して、旦那が旦那ならカミさんもカミさんだ、なんて言っちゃってさ。ふん。ムカついたから、転んだ振りして、わざと足を踏んづけてやった」 
このハイヒールで踏まれたら、さぞかし痛かったろうな、と僕は半分だけ医者に同情した。
「きみの格好は僕にも規格外のように思える」
僕は正直に口にした。
「そうかなあ」
「いや、少しね」
僕は慌てて訂正した。
「ねえ、きみの名前は?」
「凛子」
「凛子…」
「そう。そして、あなたの名前は蓮」
「蓮…」
「そう。そして、蓮と凛子は、なんと夫婦の関係にあるのです!」
凛子はくっつきそうになるほど、僕に顔を近づけてきた。
「ごめん。駄目だ」 
僕は力なくうな垂れた。 
「全く思い出せない」
「思い出せないなら、無理に思い出さなくてもいいんじゃないかなあ」
凛子は軽く明るい声で言うと、無邪気に笑った。まるでそんなことは、さしたる問題ではないというように。
「私と蓮はゼロから始める。何もかも全てゼロから始める。蓮、それで良くない?」
心の内を確かめるように、凛子は上目遣いで僕の顔を見た。口元にはまだ悪戯っぽい笑みを残している。凛子の言葉に気分がほどけて、すっと楽になった。
「僕もそれでいいと思う」
凛子の言葉に、僕は同意した。

高速道路の高架下には、既に廃線となった赤錆びた線路が続いていた。平均台で演技する体操選手のように、バランスをとりながら線路の上を歩いていく凛子の後ろを、僕はついていった。彼女は本当に僕の妻なのだろうか。
「どこへ行くんだい」
凛子の背中に、僕は声をかけた。
「不動産屋さん」
振り返りもせずに、凛子は答えた。
「不動産屋…何しに行くんだ」
「家探し」
漸く振り返って、凛子はクスッと笑った。

ガード下の小さな不動産屋の前まで来ると、凛子は立ち止まった。看板も外装も薄汚れた安っぽい不動産屋だ。窓ガラスには「格安物件、多数有ります」の貼紙が半分剥がれかけて、テープで留めてあった。凛子がドアノブを回すと、重く軋むような音が響いて、扉は開いた。
思った通り、店内はひんやりと薄暗かった。憂鬱な薄曇りの空のように、澱んだ空気が室内に満ちていた。テーブルと椅子だけが、深海魚のようにぼうっと白く浮かびあがっていた。疲れを滲ませたスーツ姿の男が、灰色の机の後ろに座っている。僕らに気づくと、男は不機嫌に顔を上げた。
「なんだい」
「家を探しています」
「ああ」
かったるそうに、男は首を振った。
「あんたら客か」
「あるんでしょ、格安物件」
「あるよ。というより、うちは安い物件しか扱っていない。こんな所に来るのは、訳ありの客しかいないからな」
男は自嘲めいた苦笑を浮かべた。
「安ければ安いほどいいんですけど」
「へえ」
「一番安いの見せてよ」
「一番安いやつねぇ。まあ、座んなよ」
部屋の隅に置かれたテーブルと椅子を、男は顎でしゃくった。
机の背後にある業務用ロッカーを、男は漁っていたが、
「一番安いのはこれだね」
クリアフォルダーに入った間取り図を、テーブルに放り投げた。
「もう取り壊すことが決まっている物件なんだけど…家賃だけは格安だよ。月額一万五千円」
「保証人は必要ですか」
「必要ないね。このマンションは借り手のいない不人気物件だから。住人もみんな出てっちまって、どの部屋もガラガラだよ」
「ガラガラ…ですか…」
 「ああ。余りお勧めできないね。半年経ったら、出ていかなきゃならないから。長く住むなら、他の物件の方が…」
男の言葉を凛子は柔らかく遮った。
「それでいいの。長く住むつもりはないから」
そして微笑んだ。

「まあ、一度見てみなよ」
僕と凛子は、不動産屋の男に連れられて、そのマンションに向かった。大きくカーブした海沿いの道を歩く間、男は一言も喋らなかった。
マンションにエレベーターはなく、部屋にたどり着く為には、コンクリートの外階段を五階まで昇っていく以外なかった。部屋番号は五〇二だった。男が懐から鍵を出して部屋のドアを開けた途端、鮮やかな緋色の色彩が、視界いっぱいになだれこんできた。
「眺めだけは最高だがな」
男が言った通り、大きな窓いっぱいに嵌められた格子ガラスの向こうには、海が眺望できた。海に沈むルビーのような夕陽が、室内を赤く染めていた。部屋の中央にはチーク材の小さな丸テーブルと、椅子が二脚。長く伸びたテーブルの脚は、黄昏の影を伸ばしていた。歩く度、軽やかな羽毛のように、綿埃が舞ったが、それすらも緋色に輝いていた。
部屋は大きめのワンルーム。隅にはベッドも置かれている。その他にも冷蔵庫や洗濯機、掃除機まで揃っていた。さすがにエアコンまではなかったが。
「このベッドや冷蔵庫は?」
僕は男に尋ねた。
「前の住人が夜逃げ同然に置いていったものだ。どうせ取り壊すから、そのままにしてある」
男は溜息をついて肩をすくめた。
「あんたらで処分するか、それが嫌なら他の物件にしてくれ」
だけど、凛子は頭を振った。
「これで結構です」
強くきっぱりした声だった。男は怪訝な顔をしたが、
「じゃ、これ鍵」
スペアキーも含めた二つの鍵を、押しつけるように、凛子に手渡した。
「契約は明日にでも来てくれ。家賃は現金払い。銀行引き落としなんて、うちはやってないからな」
そう言い残すと、男はそそくさと去っていった。

僕は凛子と初めて出会ったとしか思えない。その彼女と夫婦であるという事実。戸惑いながらも、僕は彼女と生活を共にすることにした。
ただ暮らしていくだけなら、元から部屋にある物で充分足りる。車もエアコンも当面は必要がない。凛子は代わりに、数冊のスケッチブックと絵の具セットを買って、絵を描き始めた。他にすることのない僕は、日がな一日、それを眺めて過ごした。腹が減れば、デリバリーのピザを取って、二人で食べた。
「ウサギの絵だね」
スケッチブックに描かれた絵を眺めて、僕は静かに呟いた。淡い温もりのあるタッチだった。
「そう」
凛子は顔も上げずに、絵筆を走らせた。
「これは何」
わかってはいたけれど、僕は戯れに尋ねた。
「空と雲」
「じゃあ、これは」
「太陽」
「それなら海も描いたらいい」
僕はふと思いつきを口にした。
「海はないの」
凛子は初めてスケッチブックから顔を上げた。
「ウサギは海を見たことがなかったの」
口元に笑みを浮かべて、凛子は言った。
   
凛子が三つだけ、僕に渡したものがある。スマートフォンと銀行の預金通帳、それにキャッシュカードが一枚。スマートフォンには、アドレスも履歴も、何も残されていなかった。写真や動画等、僕が過去の記憶を取り戻す手掛かりになるようなものは、何もなかった。しかし、銀行の預金残高は優に一億を超えていた。これだけの預金があるなら、わざわざこんなマンションに住む必要はない。都心部に一戸建てを買ってもお釣りがくる額だった。これだけの金を、僕はいったいどうやって手にしたのだろうか。

ある朝、僕が目を覚ましてみると、ウサギと太陽が部屋の壁にも描かれていた。
「あっ」
僕が驚いて声をあげると、
「なに」
凛子はきょとんとした。
「大丈夫かな」
「なにが…」
「だって、この部屋、借りてるんだよ」
「大丈夫だよ。だって半年後には取り壊すんでしょ」
「そうか」
「そうだよ」
凛子はきっぱりと言いきった。
「またウサギの絵だね」 
大きく伸びやかに描かれたウサギ。青々とした空には、鮮やかな朱で塗り重ねられた太陽。天使が舞い降りてきそうな程、黄金色に輝く柔らかな雲。明るいタッチなのに、僕にはウサギが淋しげに見えた。どうして凛子は同じ絵ばかり繰り返し描くのだろう。
「これは字のない絵本なの」
「字のない絵本?」
「そう」
「どんな話なの?」
「ウサギは空や雲や太陽が大好きだったの。それだけでなく、風のそよぎや雨粒の輝き、雨の後にかかる虹も大好きだった。ウサギは好きなものに囲まれていたけれど、ただ一つ気になることがあったの」
「何、気になることって」
「ウサギはまだ海を見たことがなかったのよ」
「海を見たことがなかった?」
「そうなの」
「それで続きは?」
「続きはまた今度。今日はここまで」
凛子は笑ったが、その笑顔はどこか淋しげに見えた。

「ねえ、凛子。僕に何があったんだ?   僕の記憶はなぜ戻らないんだ?」
そう尋ねてみたことがある。
「僕ときみは…」
僕の言葉を凛子は遮った。
「ゼロから始める」
凛子は毅然として言った。
「蓮と凛子はゼロから始める。そうでしょ」
僕の意思を確かめるように、凛子はじっと目を覗きこんできた。そう言われてしまうと、僕にはもうそれ以上なにも言えなかった。
相変わらず記憶は戻らなかった。読むことを禁じられた書物が、僕の心の奥にはあるようだった。心の回廊には番人がいて、閉じられた書庫の扉を見張っている。黴臭く懐かしい匂い。忘れ去られた書物…忘れ去られた記憶…。

グラスメイクというアクリル絵の具を使って、凛子は窓ガラスにも多様な形象を描き始めた。ウサギ、空、雲、太陽、そして虹…。グラスメイクは乾くと、ステンドグラスのように透きとおり、窓ガラスを通過した光は塩ビタイルの床を淡く染めた。
「今日は話の続きを聴かせてくれるのかな」
僕が尋ねると、
「うん。いいよ」
凛子はこくりと頷いた。
「この前はウサギが海を見たことがなかったって所までだったね」
「うん。ウサギはね…」
凛子は語り始めた。
「ウサギは…とても海に憧れていたの。それでね。ずっとずっとこう思っていたの。海を見てみたいなって」
「好きなものに囲まれていたのに?」
「うん。ウサギの海への憧れは、それほど強いものだったの」
「どうしても海が見たかったんだね」
「そう。それは苦痛に近い位の憧れだったの。どうすることもできない憧れがウサギの心を焦がしていたの。ウサギは海に恋していたのよ」
「それでウサギはどうなったの」
僕は先を促した。
「ある日、海への憧れは、堰を切ったように、ウサギの心を満たしました。とうとう我慢ができなくなったウサギは、それまで棲んでいた野原を捨てて、海へ出かけていきました。おしまい」
続くべき言葉は唐突に断ち切られていた。
「えっ、それでおしまい?」
「そう」
「その後ウサギはどうなったのかな」
「それきりウサギは野原に戻らなかったんだって。だからウサギがどうなったかは誰にもわからないの」
凛子は笑ったが直ぐに真顔に戻った。僕は凛子の顔から目を離せなくなった。
「どうしたの、凛子」
涙を一杯に溜めて、凛子は僕を見つめていた。凛子は何も言わずに何度か首を振った。この話には、酷く僕の心を打つものがあった。心が疼くように痛んだ。寄せては返す波のようにズキズキと脈打っていた。僕は戸惑った。淡く哀しげなこの感情は何だろうか。

凛子の話に含まれる哀しみの感情について、それから僕は考えさせられることになった。凛子が何を語ろうとしたのかはわからない。しかし、そこにある哀しみの感情は本物だった。その哀しみの背後には真実が隠されている。きっと何処かに鍵はあるのだ。けれども僕はその鍵を探し当てることができない。
僕はぼんやりと凛子が壁に描いた絵を眺めていた。この絵に含まれる哀しみと、凛子が語った話に含まれる哀しみは、等質のものだった。果たして真実は何処にあるのか。
凛子は浴室でシャワーを浴びている。そのとき、起こる筈のないことが起こった。古代の石盤のように鳴るはずのない電話。時を止めたはずのスマートフォンのコール。何百万年も眠りについていたかのような電話がいきなり目覚めのだ。怖ろしいものでも見るように、僕はスマートフォンを眺めていたが、コールは鳴り止まなかった。僕は恐る恐るスマートフォンに手を伸ばし、耳に当てた。
「はい」
「私だ…鍵使い…仕事だ」
低い男の声が聞こえてきた。
「仕事…」
「そうだ。おまえに頼みたい案件がある。N社の顧客情報を盗み出せ」
「盗む…」
「N社の情報セキュリティは固い。この仕事は鍵使いであるおまえにしか出来ない」
この男は僕を「鍵使い」と呼んだ。あの病院で名前を尋ねられて「鍵使い」と答えたと、医師は言っていた。この男は僕を知っているらしい。
「待ってくれ。僕は何も覚えていないんだ。過去の記憶がない」
「ふっ」
男は電話口の向こうで笑ったようだった。
「おまえの事情など、私の知ったことではない。三日待つ。その間に任務を遂行できなければ、おまえは用済みだ」
男は最後に言った。
「メモリはS川の橋の下に隠せ」

「少し散歩してくるよ」
スケッチブックに向かって絵筆を走らせている凛子に、僕は声をかけた。絵筆を止めた凛子は、顔を上げて、にんまりと笑った。
マンションを出ると、僕は街の中心部へと向かった。自分の身元を隠し、警察の追跡を逃れる為に僕が使用したのは、ネットカフェのコンピュータだった。N社のシステムには厳重なファイアウォールが施されていたが、それでもシステム内の機密情報にたどり着くのに、ものの五分とかからなかった。
他のこと全てを忘れてしまっても、ハッキングの仕方は全て指先が覚えていた。殆ど無意識のうちに、僕はコンピュータシステムに潜入することができた。しかも僅か数行のコマンドを打っただけだ。一流のハッカーは手間をかけない。端末に申し訳程度の文字を打つだけで、自由に電脳世界を操ることができる。夜の叢に潜む黒豹のように、獲物は一発で仕留める。それが僕の流儀だった。

顧客情報を記録したメモリスティックは、男が指示した橋の下に隠した。数日後、記帳に行くと、僕の口座には数百万の金が振り込まれていた。一つだけ思い出したことがある。僕はコンピュータハッカーだった。それもとびきり優秀な。(本来「ハッカー」とはンピュータ技術に精通した者を指し、データを改竄したり盗み出す者は「クラッカー」と呼ぶのだが、この呼称は余り普及していない。いずれにせよ僕は紛れもない「クラッカー」だった訳だが、呼称なんてどうでもいい)。ものの数十分あれば、僕はどんなコンピュータシステムにも易々と潜り込むことができた。しかも、あとには何の痕跡も残さなかった。どんなセキュリティも僕の前では意味をなさなかった。仲間達は僕をこう呼んだ。「鍵使い」と。

記憶の扉を開ける鍵。それはどこにあるのか。その鍵さえあれば、閉ざされた書庫の鍵を開けるように、僕は忘れ去られた記憶の鍵を開けて、読むことを禁じられた書物を読むことができる。あと少しで何かを思い出せそうな気もしたが、心の書庫の扉は堅く閉ざされたままだった。

「蓮、海へ行こう」
ある朝、凛子がこう誘ってきた。すぐ目の前が海だというのに、僕も凛子もまだ海に出たことがなかった。
僕と凛子はマンションを出ると、湾岸道路を横切って、防波堤の突端へと向かった。ちぎれ雲のようにカモメたちが群れ飛んでいた。カモメたちの鳴き声が甘く心に染みた。一羽のカモメがすぐ傍までやってきて、暫くふわふわと揺れていたが、また離れていった。目に染み入るように鮮やかな空と海。埠頭の先端で砕け散った波しぶきは、ガラス玉のように輝いた。
凛子は防波堤に屈み込むと、ポシェットから飴色の小瓶を取り出し、コルクの蓋を開けた。凛子が小瓶を傾けると、白い灰がさらさらとこぼれ落ちた。風に流された灰は光の粒子となって、きらきらと舞っていった。
「きれいだ」
風に乗って拡散していく煌めきに、僕は心を奪われた。
「これはなんなの?」
「これはね…海を見たことがなかったウサギ…」

僕が記憶を失う以前、凛子と過ごした家は何処か別の場所にある。僕はそう推測した。閉ざされた書庫の扉の鍵もそこにある。住所地を知る為に僕が利用したのは、自分の銀行口座だった。銀行口座を開設するときに、住所地が特定できる身分証を提示しているはずである。自分の住所地を知る為に、自分の口座にハッキングをかけるのも可笑しなものだが、尋ねても凛子は答えないだろう。
ネットカフェのコンピュータの前に座ると、僕はコマンドを打った。ハッキングという程のこともなかった。何しろ、名前も口座番号も暗証番号すら、わかっている。僕の住所地は隣の県になっていた。

すべきことはまだあった。家に鍵がかかっていた場合、無理やり玄関のドアを壊して侵入するという手もなくはないが、非常に大きな物音が立てることになるし、人に見られたらやっかいだ。僕としてはもっとスマートにやりたかった。
僕は試しにピッキングのトレーニングセットをネットで入手してみた。トレーニングセットの錠前は透明で内部機構が透けて見える。透明な錠前に、ピッキングツールを差し込み、いじっているうちに、五分もかからず解鍵することができた。このマンションの錠前も同様だった。少し練習するうち、ものの数秒で開けられるようになった。僕はその呆気なさに愕然とした。

スマートフォンのマップを頼りに、僕はその住宅街へ向かった。何処にでもある閑静な住宅街だった。どの家の庭木も綺麗に手入れがされ、花壇にはゼラニウムやベゴニア等、初夏の花が咲いている。銀行口座にハッキングして入手した住所地から、僕はその家を見つけ出した。この住宅街で、その家だけは異彩を放っていた。庭には丈の高い雑草が暴力的なまでに蔓延り、もと有った庭草は、押し潰されたように縮み上がっていた。家全体が暗く荒んだ雰囲気に包まれ、瘴気のようなものが滲み出していた。
僕はその家の玄関の前に立つと、背負っていたナップザックから、ピッキングツールを取り出した。まさか「鍵使い」の僕が、本当に鍵をこじあけることになるとは思わなかった。
僕は鍵穴にピッキングツールを差し入れた。カチッと錠の外れる微かな音がした。ドアノブを引くと、何の抵抗もなくドアは開いた。僕はドアの隙間から、素早く身体を滑り込ませた。
何もない家だった。一切の家具、一切の物は、絶滅した古代生物のように消え去り、後には静寂と空虚感だけが支配していた。見えない糸に引かれるように、僕は二階へと続く階段を昇っていった。僕が踏みしめる度、階段は暗く冷たい音を軋ませた。
二階は三部屋にわかれていたが、そこも同じだった。部屋を見てまわりながら、僕は寂寞たる気分になった。肌を覆うざらついた感触。やはり此処からはあるべき何かが失われたのだ。まるで大量発生したバッタが通り過ぎた後の田畑ように、荒涼とした空気だけが存在していた。此処には本当に何も残されていないのだろうか。そう思って、僕は背後を振り返った。そこには作り付けの白いクローゼットがあった。
そのクローゼットを見た途端、僕は目眩を覚えた。黒い鳥がすぐ傍を掠めたような不吉な予感があった。視線はそこに強く惹きつけられ、目を離すことができなくなった。心臓の鼓動が警鐘を鳴らすように、身体中に響き始めた。
意を決して、クローゼットを開くと、醜くひしゃげたピンク色のランドセルが置かれていた。途轍もない力で、このランドセルは押し潰されたのだ。ランドセルを見た瞬間、意識の底から、鋭い矢のように鮮明な情景が放たれ、僕を貫いた。
「パパ!」
娘だ。髪を三つ編みにした僕の娘。両手を広げ、僕に向かって駆けてくる。やがて、僕は娘と抱き合い、その軽やかな、だが確かな輪郭を感じとる。心が和らぐ温もりと、鼻をくすぐるような柔らかな匂い。
「パパ。ぎゅっとして」
「香歩…」
その瞬間、濃い霧が取り払われたかのように、心の書庫の扉が開いた。溢れるような記憶の奔流。僕は驚きで息もつけないほどだった。過去の記憶が蘇ってきた。
そうだ…香歩…香歩は僕の娘だった。だが香歩をこの腕に抱くことは、もう二度と叶わない。香歩は既に僕の手の届かない場所にいた。十万億土という言葉が頭に浮かんだ。香歩の幼い命は、線香花火のように束の間の輝きを放ち、ぽつりと地面に落ちて消えていた。
「海が見たいなあ」
果歩は良くそう口にしていた。果歩はまだ本当の海を見たことがなかったのだ。騒めき立つある種の予感を覚えながら、僕はランドセルを開けた。もどかしさに手が震えた。そこにはスケッチブックがひっそりと仕舞い込まれていた。果歩が遺したスケッチブック…。胸の高鳴りを抑えながら、僕はスケッチブックを捲った。
空と雲、太陽と虹、ウサギ…。そして…そこには海も描かれていた。目に沁みるような青い海…。果歩はテレビや写真で海を目にしたことはあったのかもしれない。けれども、それは果歩が想像した海だった。果歩の海への憧れが、煌びやかに、伸びやかに、膨らみを持って描かれていた。

その頃、僕は大きな仕事を抱えていた。数十社にのぼる軍事企業のコンピュータシステムに潜り込み、軍事機密を盗み出す。「鍵使い」の僕にとっても、根気と手間のかかる作業だった。この軍事機密が何処に渡るのかは、だいたい想像がついた。恐らくは「内閣情報調査室」。
ネットカフェで片手間にできるハッキングではなかった。僕は自宅のコンピュータで、痕跡を残さないように細心の注意を払いながら、作業を進めた。昼夜を徹しての作業だった。
作業する僕の傍で、果歩は言った。
「パパ。海へ行きたいよぅ」
「この仕事が終わったら、海へ行こうな。香歩」
「本当?    絶対?」
「うん。絶対だよ」
「パパ。約束だよ」
その細っこい小指を、香歩は僕の小指に絡めてきた。

極度の緊張を強いられる作業も、次第に終わりへと近づいた。僕は膨大な情報を、数枚の大容量CD−ROMに焼いて、男が指定した場所に隠した。これで全て終わったのだ。しかし安息の日々を取り戻して三日後に、その事故は起きた。
押しつぶされたピンク色のランドセルを抱いて、僕はどれだけ泣いたことだろう。先へと続くはずだった娘の人生は突然、断ち切られた。僅かな時間であったかもしれないが、ダンプトラックに巻き込まれて、娘が味わったであろう苦痛。ときおり見せてくれた可憐な仕草と相まって、僕は涙が溢れて止まらなかった。
そのようにランドセルを抱えて涙を流すうち、僕は精神のバランスを次第に崩していった。全ての現実が、急速に僕から遠ざかりつつあった。凛子は涙を湛えた眼で僕を見つめたが、結局は何も言わなかった。
そしてある朝、僕は思ったのだ。さあ、海へ行こう、果歩。一緒に海へ行こう。約束だものな。そうして僕は家を出た。

記憶は又そこで途絶えていた。

果歩が遺したスケッチブックをナップザックに入れて、僕は持ち帰った。
僕は床に胡座をかくと改めてスケッチブックを捲った。空と雲…ウサギ…太陽…虹…。だけどスケッチブックが終いに近づくにつれ、果歩は海ばかり描いていた。何枚も何枚も。どこまでも青い海だ。伸びやかな、しかし哀しいほど透きとおった海だ。スケッチブックを捲る度に、僕の胸は張り裂けそうに痛んだ。気づくと、凛子が僕の前に立っていた。
「思い出したんだね、蓮」
スケッチブックに目を落として、凛子は低く呟いた。
「ああ。きみはわかっていたんだろう?   僕が記憶を失くした訳を」
「うん」
凛子の顔が歪んだ。
「蓮が記憶を失くしたと知ったとき、私も果歩のことは忘れようとしたの。だけど忘れられなかった。写真も家具も全部処分した。だけど、果歩のランドセルとスケッチブックだけは捨てられなかったんだよ」
僕は黙って深く頷いた。
「ゼロから始めるつもりでいたの…」
凛子は顔をくしゃくしゃにして、懸命に笑顔を作ろう努めていたが、目の縁から涙が一筋こぼれ落ちた。風の中心にいるかのように、凛子の声は震えた。
「だけど可哀想だね。果歩が可哀想だね」
静謐に流れた涙は、やがて嗚咽に変わった。凛子は繰り返した。
「忘れたら果歩が可哀想だね」
僕はそっと凛子の肩を抱いた。
  
そして哀しみは次第に透きとおっていった。哀しみは変わらず僕の胸にあったが、果歩は海を吹き渡る風のような存在になったのかもしれない。そう思えるようになっていった。同じ哀しみを抱きしめながら、僕は凛子と寄り添えばいい。風花のように舞っていった果歩は、海を吹き渡る風にのって、驚きの声をあげたかもしれない。

日々は流砂のように流れ、季節は夏に近づいていた。このマンションの取り壊しが始まったら、僕と凛子は元の家に戻ることを決めていた。
夕暮れ時だった。真っ赤に熟した夕陽が、小刻みに震えながら、真っ逆さまに海へと落ちていった。凛子は僕のすぐ傍らで、その有り様をスケッチブックに留めようと、絵筆を走らせていた。夕陽を眺めているうち、フッと引きいられるように、僕は眠りに落ちたらしい。遠い太鼓のような響きで目を覚ました。
ドーンという、くぐもった鈍い響きが遠くから聞こえてきた。一発、二発。その音は空気を僅かに震わせながら、この部屋にまで届いた。打ち上げ花火の音だった。
僕は部屋の中を見まわした。凛子がいない!   凛子まで手の届かない所へ行ってしまった気がして、僕は取り乱した。心いっぱいに黒雲が拡がった。僕の妻は何処へ行った!   
「凛子!」
僕が叫んだとき、ドアの陰から凛子が顔を覗かせた。
「屋上においで。蓮」
息を弾ませて、凛子は言った、
「花火が見えるよ!」
凛子は繰り返した。
「蓮、花火が見えるよ!」
















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上瀧麗奈
2016.10.26 上瀧麗奈

「雪の夜、耳をすまして」と同じで、最後が切ないです。涙なくして読めません。

関谷俊博

有難うございます。
少し大人向けということで、文体を変えたのですが、ラストは同じですね。私の作品は、どうしてもこうなってしまいます。

2016.10.26