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episode 01. 医局秘書 廣崎彩

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 耳の下で内側に丸まったボブが、小顔によく似合う。その髪型が自分でも気に入っていて、月に一回必ず美容室に通って、三年ほどこの髪型を保っている。
 先月、すっかり気心の知れている美容師に頼んで、顎まであった前髪を眉の上まで切ってもらった。すると、クールと言われていた雰囲気が一転して、職場の同僚たちから可愛いと言われるようになった。
 知的な顔に掛けられたまん丸メガネが、一層その少し尖った雰囲気を穏やかにしている。

「お疲れ様でした」

 廣崎ひろさきいろは、定時の十七時きっかりに席を立った。
 元々医者が足りてない上に、今日は二人も欠勤していて医局の体制が非常に悪い。医局のソファーでは、当直明けでそのまま健康診断の診察に入った消化器内科医の玉利がタオルを被って寝ている。

 この病院に新卒で入職して七年目。医局秘書課に配属されて四年目の春。医者たちに文句を言われながら体制を組んだ。看護部からも「病棟医が掛け持ちなんて、あり得ないでしょ!」と怒鳴られた。
 医局の体制が悪いのは、断じて彩のせいではない。それなのに、外来の応援の医者がいない、待機の先生はどうなってるの! と、全ての苦情が彩に集中する。
 理不尽だと思いながら、彩は欠員が出るたびに体制を組み直した。

 だって仕方がない。
 医者がいなきゃ医療に関する一切が、何も出来ないのだから。

 そんなこんなで、ただでさえ煩雑な医局秘書の仕事が膨らんで、残業続きのストレスフルな毎日が続いている。
 そんな日々に耐えきれなくなって、今日は定時で帰ろうと彩は決心していた。行きつけのバーに行って、マスターが弾くピアノを聴きながら極上のハイボールを呑むために。

 彩は医局の通用口を出て、タイムカードを通す。打刻された時間は17:09。
 よし、とタイムカードを棚に刺す。部署ごとに並べられたタイムカードは三百枚ほどある。大病院ではないが、そこそこ規模のある病院だ。

「おっ、廣崎さん。お疲れ様。珍しいね、定時で帰るなんて」
「お疲れ様です、篠崎先生。今日は用事があって、お先に失礼します」
「デート?」
「ふふっ。そうだと良いんですけどねっ」

 外科医の篠崎に茶化されて、彩はクールな顔をにっこりさせて笑う。
 入職したばかりの頃は、医療界のヒエラルキーに馴染めずに退職を考える毎日だった。しかし、勤続六年も経つと医者たちとも良い信頼関係が出来て、今では冗談を言ったり他愛もない世間話もできる。
 医者たちは、彩の地道で真面目な働きぶりを評価している。彩も気さくな医者たちを好きになった。

「気を付けて帰れよ」
「ありがとうございます。先生も早く帰れると良いですね」

 じゃあな、と篠崎が白衣の裾を翻して去って行く。術野が狭くなったとぼやいている五十代半ばの篠崎は、とってもダンディーだ。

 自然豊かな田舎の一般家庭に生まれた彩は、東京の飯田橋にある理系の大学を卒業した。しかし、自適に生活する文化で育った彩に、満員電車はとても苦痛だった。毎朝電車に詰め込まれるこの生活が一生続くのかと想像すると、それだけで生きるのが嫌になった。それで、大学に通う四年だけ不快な都会生活に耐えて、東京では就職をせずに田舎に戻ったのだ。
 この病院に就職が決まり、実家から車で一時間半ほど離れた県庁所在地で一人暮らしを始めたのも丁度、この季節だ。
 仕事に疲れて真っ暗な部屋に帰ると、心を満たしたくなって夜の街に出る。

 この町に住み始めてから行きつけになったピアノバーで、老齢のマスターがしわしわの指から軽やかに奏でるジャズを聴きながら呑むのが、彩の日課になっている。しかし、最近は夜遅くまで仕事漬けの日々で、ここ数ヶ月お預けになっていた。

 そして彩には、ある一定の周期で必ず訪れる、寝れない夜がある。そのせいで、彩は昼間の真面目な顔とは違う夜の顔を持っていた。
 訳の分からない不安が心を占めて、一晩中眠れないのだ。何度か睡眠導入剤を試してみたが全く効果なし。その夜が、実は二日ほど前から彩をさいなんでいる。これを解決する術を一つだけ知っていた。

 それは男と寝ること。

 セックスの後は、嘘のように深く眠れるのだ。それに気付いたのは大学二年の夏休みだった。
 それから彩は、彼氏というものを持たなくなった。必要な時に男を探す。そうやって不眠を解消している。今夜も、行きつけのバーで相手を探そうと思っていた。

 階段を下りて外に出る。四月になって、薄桃色の桜がちらほらと花開き始めている。それでも、時折吹く冷たい風に、彩は腕に掛けていた青色のストールを羽織った。
 病院から駐車場まで徒歩で三分ほどかかる。スマートフォンを見ながら歩道を歩く彩を、医局の窓から一人の研修医が見ていた。

 ――ながらスマホは危ないよ、彩さん。

 くすくすと笑う研修医の心の声は彩に届かない。病院を出れば、彩の心は夜に向いていく。ストールの裾が風になびいて、ふんわりと舞い上がる。
 コホコホと咳が出た。気管が少しヒューヒュー言っている。喘息が出そうだと、彩は足を速める。
 そう言えば、朝の吸入を忘れていた。と言うよりも、疲れが溜まってそんな事どうでもよくなってしまっていた。

 ――やっぱり、サボっちゃうとだめね。

 彩はスマートフォンをバッグに入れて、口元に手を当てて咳をする。その様子を見ていた研修医は、急いで帰り支度を始めた。自分の席に戻って、電子機器を手荒くバッグに放り込む。それから更衣室で、白衣から私服に着替える。

「僕、帰ります」
「あっ、お疲れ様」

 医局の奥で、電子カルテと睨み合いをしていた呼吸器内科医の和田が声を掛けたが、それを無視するように、研修医は慌ててバッグを握って医局を飛び出した。そのまま全速力で彩を追いかける。
 彩は車の運転席に乗り込んで、大きく深呼吸をした。幸い、発作まではいかないようだ。咳が治まるのを待って、ブレーキペダルに足を乗せる。
 そして、エンジンスターターに手を伸ばした時、助手席のドアが開いて男が乗り込んで来た。驚き過ぎて、彩は口を開けて固まる。

 はぁはぁ。

「ねぇ、何してるの?」
「はぁっ、えっと。ちょっと、待って。息が苦し」

 全速力で走って来たのか、すごく息が荒い。助手席の男がスプリングコートを脱ぐ姿を、彩はしかめっ面で見ていた。
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