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episode 02. 研修医 藤崎仁寿

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 両親共に医者の家庭に生まれた藤崎ふじさき仁寿じんじゅは、名だたる国立大学の医学部を首席で卒業した。
 医学部付属病院の医局は、てっきり彼が入局して来るものだと思っていたし、そう期待していた。だが、仁寿が前期臨床研修先に選んだのは、誰も想定し得なかった地方の中規模病院だった。

 180cmの細身に、整った童顔の、かっこいいと言うよりは可愛い顔。くせ毛がくるっとした黒い髪。そして、顎にちょびっとだけ見える無精ひげ。物腰の柔らかい話し方がたまらない。
 昨年の四月、入局するや否や彼はたちまち若い看護師たちの熱い視線を浴びることになった。いや、実は医学生の時から既に目を付けられていた。
 歓迎会だ何だと称した飲み会に必ず誘われる仁寿だったが、皆と楽しく呑んだ後は二次会などには行かず必ず帰る。それを皆はいつも悔しがったが、同時にすごく好感を持った。

「両親医者だって」
「うへーっ、サラブレッド!」

「藤崎先生、彼女いるのかな」
「いないはずがない!」

「一人暮らしかな」
「同棲してたりして!」

 看護師たちは口々に仁寿という男を分析する。有名な国立大学医学部出身、両親が医者、医学部を出るための借金ゼロ。すらっとした背丈、甘い顔。とどめに柔らかな話し方。悪い所は無いのか、この男。
 とにかく高性能ハイスペックな二十四歳、独身男。それが分析結果である。

 そうして、一年があっという間に過ぎる。

 病棟で指導医に付いて胸腔穿刺きょうくうせんしを終えた仁寿は、一息ついて書類を書こうと医局に戻った。医者たちは皆、検査だの読影だの、はたまた外来の診察だので出払っている。
 給茶機でコーヒーを注ぐ。仁寿が医局のソファーに深く座ると、正面で唸りながら体制表を見ている彩が目に入った。彼女はまん丸メガネを指で上げながら、一人で何やらつぶやいている。

「あぁ、だめ。丸井先生はこの時間、二件ICが入ってるんだった。和田先生も……、だめかぁ。どうしよう、病棟医がいない」

 今日の彩は、事務員の制服ではなくて私服で仕事をしていた。どこかに出かける仕事があったのだろう。彩の服はとても趣味が良い、と仁寿は思う。
 柄のない単色の服。ナチュラルで個性的。体の線を強調しない品の良さ。
 仁寿はコーヒーカップを片手に立ち上がって、彩のそばへ寄った。彩はかまわず体制表を指差しながら考え込んでいる。

「ねぇ、彩さん」

 二人きりの時、仁寿は決まって彩を名前で呼ぶ。それも甘えるような声で。

「何ですか、藤崎先生」
「そこ、僕が病棟医しても良いよ。八時半から十時までで良いんだよね?」

 殺気立っていた彩の表情が、途端に華やいだ笑顔に変わる。彩が体制を組みあぐねているその日は、当直明けで本当はちょっと休みたい。しかし、彩のために自己を犠牲にして、仁寿は優しく解決策を提示する。

 ――その日一緒に当直に入る先生、誰だっけ。まぁ、良いか。

「本当ですか? やったー! すごく助かります」
「そお? 僕、彩さんの役に立てた?」

「はい。とっても助かりました。ありがとうございます、藤崎先生」

 ――その他人行儀な呼び方、傷付くなぁ。

 ――そう、他人なんだけど。他人なんだけどさっ!


「ピピピ……」

 白衣の中で、仁寿のPHSが鳴る。

「はい。研修医、藤崎です。……はい、分かりました。すぐ行きます」

「病棟から?」
「うん、血ガス採ってだって。行って来ます」
「あ、そのコーヒーカップ洗いましょうか?」
「うん、お願いします」

 湯気立つコーヒーが、まだ半分以上も残っているカップを渡しながら、仁寿が彩の手を握る。

「早く行って」
「うん」

「離して」
「うん」

 仁寿がこんなことをしたって、彩は顔色一つ変えない。離れた手が、すごく冷酷だった。一分にも満たない時間で仁寿は傷付いて、でも、彩を追いかけたくなる。

 ――さて仕事、仕事。

 いざ病棟に上がると、採血以外にもいろいろと頼まれる羽目になった。看護師の愚痴を聞かされながら、依頼された事を全てやり終えた時、時計は「17:00」を表示していた。それから追加で処方を頼まれて、結局、仁寿が医局に戻った時には、彩はもういなかった。
 夕日を見ようと窓辺に立つと、歩道を歩く彩が見える。
 青いストールを羽織る姿が可愛らしい。クールな彩に青色はよく似合う。仁寿は彩から目を離さない。
 スマートフォンを見ながら歩く彩に、内心で危ないと注意する。

 ――まったく彩さんは。

 その姿が微笑ましくて、仁寿はついつい笑ってしまう。

 仁寿は将来的に、呼吸器内科へ進みたいと思っている。一時期、小児科のアレルギー専門への道も考えたが、採血で泣く子供の声に尋常じゃなく心が痛む自分に気付いて、小児科医には向いていないと自覚した。
 なぜ呼吸器内科、小児アレルギーなのか。それは彩が喘息を持っているからだ。

 医学部に入学して最初の夏、十八歳の仁寿は彩に一目惚れした。まだ社会人になり立て三ヶ月の、初々しい彩に。

 それからずっと、仁寿は彼女を作らずに六年過ごしている。言い寄られてもぐっと堪えてきた。若い男子らしく、当然女性に興味がある。性欲もちゃんとある。
 仁寿の中にあるそれらは全て、彩に向いている。彩でなくては満たされないのを分かっているからこそ、仁寿は他の女性で代用したりせずに一人マスターベーションをするのだ。
 嘘。何回か誘惑に負けた事がある。多分、許される程度だと、思う。

 ――ただのむっつりじゃないか、僕。……悲しいなぁ。

 外を歩く彩が口元に手を当てている。遠くて詳細に見えないが、喘息かも知れない。そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、仁寿は急いで帰り支度を始める。

 ――定時過ぎてるし、仕事は一応片付いた。今日は捕まえよう。

「僕、帰ります」
「あっ、お疲れ様」

 医局の奥から和田の声がする。仁寿は「お疲れ様でした」と言うのも忘れて医局を出た。医者にタイムカードはない。朝も夜も、日曜も祝日も、医者には無い。

 そして、全力疾走の末に助手席へ乗り込んだ、という次第である。
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