トップ>小説>その男、青い女を落とす
5 / 15

episode 04. 寝室(1)

しおりを挟む
「あ、でも彩さん。喘息の薬は持ってるの?」
「いえ。全部家に置いてます」
「じゃあ、取りに帰らないとね。朝の吸入ステロイドは欠かしちゃだめだよ」

 抱擁を解いて、仁寿が彩の顔を覗き込む。メガネもコンタクトもしていない彼の裸眼に、自分の顔はどう映っているのだろうと、彩もメガネ越しに仁寿の目を見つめる。

 ――んん? ちょっと待って。朝の吸入?

「と言う事は、わたし泊まるんですか?!」
「当たり前じゃないか! ヤリ逃げはなしだよ。それに僕はね、彩さんと一緒に住みたいとまで思ってるんだ」

 彩はセックスの後、相手と寝るのが嫌で必ず帰宅する。自宅の布団に、疲れ切った体を思い切り沈めて熟睡するのが、最高に気持ち良い。しかし、この男は危ない。大変危険な生物だと彩は察知する。さらりと、一緒に住みたいと口にした。

「ねぇ、彩さん」

 いつもの甘えた声。彼の声や表情は、その高い知能で計算され尽くされた上で、意図的に造り出される芸術アートにしか見えない。もしかしたら、女が落ちていく過程を楽しむゲームでもしているのではないかとさえ思ってしまう。そう思わないと腑に落ちなかった。彩はいつも疑問に思っている。

 ――どうして、わたしを好きなんだろう。

「もう一度、キスしても良い?」
「ほっぺたに、だったら良いですよ」
「何それ。ゾクゾクするんだけど」
「ゾクゾク?」

「彩さん。好きだよ」

 魔法の言葉みたいな甘い言葉を乗せて、仁寿の唇が彩の唇に重なる。彩が許した頬に……ではなく、絶妙なしなやかさで唇を押し付けて、じっくりと彩を確かめるようなキス。性衝動を掻き立てるような生々しさも荒々しさもない。
 なぜか仁寿の唇は、彩の想像を遥かに超えて気持ちが良かった。そう思った時、彩はふと気付く。

 ――ああ、わたし、愛のあるキスをして来なかったんだ。

 最後に下唇に吸い付いて、仁寿の唇が離れた。その瞳には真剣な光が宿っている。四つも年下でその上童顔の、突然男の顔になる。その顔に、彩は一瞬ドキッとした。

「じゃ、彩さんは必要なものを取りに行っておいでよ。僕は夕食の買い物をして来る。彩さんに僕の手料理を食べさせてあげるね」
「わたし、戻らないかも知れませんよ」
「うーん。それはさすがの僕も傷付くなぁ。けど、それはそれで仕方ない。僕は彩さんのために作った手料理を一人で寂しく食べて、彩さんと入るはずだったお風呂に一人で入って、そのまま彩さんと寝るはずだったベッドに……」
「分かった、分かった。分かりましたっ!」

 ――って、どれだけ企画プラン練ってるのよ!

「はい、これ。ここの鍵。じゃ、気を付けて行ってらっしゃい」

 笑顔の仁寿から鍵を受け取って、彩は一人でマンションを出て自宅へ向かった。鍵を渡されたら戻らない訳にはいかない。まんまと仁寿の罠に掛かってしまった。
 一度、マンション前の道路に立ち止る。よく見渡すと、アパートまで歩いて行けるくらい近い場所だと気付いた。彩は小走りで通りを渡って路地を曲がる。
 アーケードの商店街を十分ほど歩くと、彩のアパートが見えて来た。すっかり日が暮れた街路には、街灯が灯っている。子供を乗せた自転車が彩を追い越した。

 ――子供か。可愛いなぁ。大変なんだろうけど。

 ――わたしには……。

 ヘルメットを被って、母親の後ろで陽気に歌っている子供が可愛らしくて、彩はついつい笑ってしまった。三、四歳くらいのその男の子は、自分の歌声に「よくできましたー」と拍手喝采しながら角を折れて行った。

 ――あ、忘れてた。明日は検査の日だ。診察券と予約票も持って行かないと。

 彩は部屋に入って薬と着替えと化粧道具をバッグに詰めた。それから財布の中に診察券と保険証が入っていることを確認する。それから壁に掛かったコルクボードから、押しピンを抜いて検査の予約票を外した。

 4/8(金) 14:45 CT(骨盤腔)

 明日の日時で間違いない。彩はその予約票を、財布やスマートフォンを入れていつも持ち歩いているトートバッグの内ポケットに挟んだ。
 部屋を出て鍵を掛ける。そして、また商店街を抜けて彼が待つマンションへと向かった。

 彩が仁寿の部屋に戻ると、仁寿はキッチンで黙々と調理に勤しんでいた。腕まくりをして、落し蓋を持ち上げるその姿に、彩はぎょっとする。

「ただいま」
「お帰りなさい。ちゃんと戻って来てくれたんだね。彩さんはゆっくりしてて。もうすぐ出来るよ」
「あの、荷物、どこに置いたら良いですか?」
「そっか。ちょっと待ってね」

 リビングを出て、案内されたのは寝室ベッドルームだった。床には絨毯が敷かれ、ベッドと黒いアップライトピアノが置かれている。彩は仁寿がピアノを弾く姿を想像した。クラシックを弾くのだろうか。ジャズだったら最高だと思ったところで、想像をかき消すように首を横に振る。

「クローゼット好きに使っても良いよ。ここね、防音なんだ。だから安心してね」
「なっ、どう言う意味ですか、それ」
「そのピアノを弾いても大丈夫だよ、って意味。いやらしいなぁ、彩さんは」

 仁寿は彩を冷かして、笑いながらキッチンへ戻って行った。一人残された寝室で彩は荷物を片付ける。
 クローゼットを開けると、スーツが数着と冬用のコートが二着、さっき仁寿が来ていたスプリングコートが掛けられていた。他の衣類は全て引出しの中に収納してあるのだろう。
 彩はすっきりと整理されたクローゼットに、バッグから取り出した衣類と化粧道具を入れたポーチを並べ、最後にトートバッグを部屋の隅に置く。それから、消灯してリビングへと戻った。

「うーん! 美味しいっ!」

 仁寿が作ったのは、ローストビーフと煮魚と温野菜のサラダだった。組み合わせはどうかと思ったが、どれも薄味であっさりと美味しい。それに、色取りが鮮やかで見た目にも食欲をそそる。
 彩はローストビーフを頬張りながら、賛嘆の声を上げた。

「彩さん。僕と結婚したら、いつでも食べれるよ」
「先生って本当に強引。いつもびっくりです」
「そお? 僕の中ではもう六年経ってるから、気持ちがあふれ過ぎちゃって、そろそろ結婚かなって感じなんだよね」
「その恐ろしさ、ほんと脱帽。だけどね、先生。わたしはダメ。遊ぶには良いかもしれないけど、結婚相手にはならないです」
「何で? 僕は彩さん以外を考えられないけど」

 そんなに僕を拒否しなくても、とつぶやく仁寿を笑いながら、彩は料理を口に運ぶ。美味しいと繰り返し満悦して咀嚼する彩を見て、仁寿はとても幸せな気分に浸っていた。
 二人は他愛もない会話を楽しんだ。まるでとても親密な、恋人同士のように。
 途中で少しだけ仕事の愚痴も混ざったけれど、仁寿の話は知識が深くて飽きなかったし、彩の話も話題が多岐に渡っていてとても面白かった。

 時刻が午後八時四十分を過ぎて、二人はキッチンに並んで食器を片付けた。仁寿は几帳面な性格のようで、洗った食器を乾燥機に並べる順番にこだわる。彩はそれに少しうんざりしながら、食器を乾燥機に入れた。

「彩さん。お風呂どうぞ。僕は洗濯物を片付けるから」
「先生って何でもこなすんですね。ほんと、皆が噂してる通りの高性能ハイスペック
「やらなきゃ生きていけないからね。お風呂、お湯も溜めといたから。ごゆっくりどうぞ」

 彩は、寝室に置いた荷物から服を取って洗面所へ向かう。洗面台にも必要最低限の物しか置かれていない。彩は服を脱いで浴室へ入る。湯船に張られた湯から立ち広がった湯気で、浴室は曇っていた。
 仁寿はリビングと続きの部屋で、干していた洗濯物をたたんでいた。三日分をたたむのに、そんなに時間はかからない。たたみ終わると、仁寿はその服をしまうために寝室へ入って照明をつけた。ふと、部屋の隅にトートバッグが置いてあるのに気付く。その横に紙が落ちていた。

 ――何だろう。彩さんのかな。

 持っていた衣類を絨毯の上に置いて、仁寿は紙を拾う。A4サイズの紙が二枚重なって半分に折られている。それを広げてみると、上になっている紙には「4/8(金) 14:45 CT(骨盤腔)」と書かれていた。

 ――明日? 検査の予約?

 次に、下に重なった二枚目を読む。

 Iro Hirosaki
 Mucinous cystic tumor of borderline malignancy.

 ――粘液性嚢胞性腫瘍、境界悪性。これって卵巣の……。

 ――診断がついてるって事は、もう手術したって事?

 廊下を挟んで向かい側の浴室から音がする。仁寿は紙を元通りに折り曲げて、トートバッグの横に戻した。置いた衣類を持ってクローゼットを開ける。引出しに服をしまって下を見ると、彩の荷物が置かれていた。

「待って。僕はさっき、ひどく彩さんを傷付けたんじゃないか?」

 仁寿は手で口元を抑えた。結婚相手にはならないと言った彩を思い出す。その言葉は、てっきり自分を拒否して言ったのだと思っていた。だが、もしかすると病気の事をいて言ったのではないかと、仁寿は推察した。

 ――だとしたら、冗談めかして結婚なんて口にした僕は、とんでもない馬鹿だ。

 仁寿がクローゼットを閉めた時、洗面所のドアが開いて彩が出て来た。彩はリビングの方へ歩いて行く。仁寿は暫く、そこを動けなかった。
しおりを挟む