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episode 06. 幼馴染み 川北由香

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 翌朝、彩は隣でぐっすり眠っている仁寿を起こさないように気遣いながら、手探りでメガネを探してそっとベッドを出た。
絨毯の上に落ちた服を順番に身に着ける。そして、バッグから吸入薬を取り出して静かにリビングへ向かった。
 まだ五時半だった。リビングのカーテンを開けると、暗い空の下辺に朝焼けが見える。彩は吸入の後、リビングの床に腰を下ろして、ストレッチを始めた。

「おはよう、彩さん。早いね」
「おはようございます」

 六時過ぎに、寝癖で総逆立ちしている頭を掻きながら仁寿が起きて来た。彩は職場で交わす挨拶のように返す。
 仁寿はそのままソファーに寝転がって、かれこれ十分ほどまどろんでいる。どうやら朝が弱いようだ。

「コーヒー飲みますか?」
「……、うん」

 反応も遅い。彩がキッチンでコーヒーを沸かし始めて暫くすると、仁寿が起き上がってそばに来た。その表情はまだ、寝起きのままだ。
 仁寿は背伸びをして首を回す。

「当直の時もそうなんですか?」
「いや、当直の時は大丈夫。僕は当直室のベッドには寝ないんだ。いつも医局のソファーで座って仮眠取ってる。横になると熟睡しちゃうからさ」
「大変ですね」
「まぁ、それも仕事だからね。そんな事より、彩さんはちゃんと寝れたの?」

 仁寿が手際よくトースターにパンを並べながら彩に尋ねる。何となく恥ずかしくなって、彩は俯いた。

「……はい」
「良かった。吸入は?」
「しましたよ」
「よし」

 コーヒーメーカーからサーバーを取り外して、仁寿がコーヒーをカップに注ぐ。

「僕、朝食は軽くで済ませるんだけど、彩さんはしっかり食べたい人?」
「わたしはご飯とみそ汁食べたい人です。けど、今日は先生と一緒が良いです」

 先生と一緒で良いと言ったつもりが、一緒が良いになってしまった。案の定、仁寿がにんまりと喜んでいる。

「僕と一緒が良いなんて、素敵だね」

 トーストを皿に乗せて、二人はリビングのテーブルで隣に並んで朝食を摂る。

「今日は九時過ぎには帰れると思うから、ここでゆっくり呑もうよ。昨日は素面しらふで僕に付き合ってもらったし」
「え? わたし今夜もここに?」
「うん。僕たちは六年の時差を解消しなきゃいけないからね。なるべく一緒にいるべきだと思うんだ」

「わたしの、やば過ぎ……」

 彩は大げさに顔をしかめて、隣の童顔をまじまじと見る。それにしても見事な寝癖だ。

「ははっ。もう、僕のペースに乗っちゃいなよ。その方が楽しいって。あ、僕はカンファレンスがあるから先に行くよ。鍵はあそこに置いてあるから」

 仁寿はキッチンカウンターを指差しながらそう言って、さっさと準備に取り掛かった。リビングに残された彩は、呆然とコーヒーを飲む。
 一時して、彩がキッチンで食器を洗っていると、きれいに身なりを整えた仁寿が戻って来た。無精ひげは無くなり、寝癖も消えている。いつもの優しく爽やかな藤崎先生がそこにいた。

「洗ってくれたの? ありがとう」
「気にしないでください」

「良いね、こう言うの。毎日続けば良いのに」
「え?」
「じゃ、僕は行くね。また医局で」
「はい」

 彩は蛇口のレバーを押して水を止める。

「彩さん」

 仁寿が彩を抱きしめた。昨夜と同じ、洗い立ての香りがする。彩が仁寿を見上げると、軽くキスをされた。

「好きだよ」

 そう言って抱擁を解くと、仁寿は出掛けて行った。
 すっかり彼のペースに乗っている。しかし、不思議と嫌な気はしない。一人になったキッチンで、彩は顔を赤くした。

 急いでシャワーを浴びて化粧と髪をセットする。時計を見ると七時五十分を少し過ぎたところだった。
 昨日、彩の車に乗り込んだ仁寿は、自分の車を病院に置いたままだ。バスで行ったのだろうか、と彩はふと仁寿を気にかける。そろそろカンファレンスが始まる時間だ。彩は仁寿の部屋を出て病院へと向かった。

 八時半。今日もまた煩雑な仕事が始まる。毎日の仕事量も多いが、他部署からの要望、質問それらの処理がこれまた手間取る。今日は午前中勤務のため、いつにも増して手際よく仕事を片付けなければならない。

「廣崎さん、勉強会の準備できてる?」
「はい。できてます」

 早速、朝のカンファレンスを終えた仁寿が声を掛けて来た。
 今日は夕方六時半から三十分程度、看護部の勉強会がある。それは、院内の看護師のスキルアップを目的として定期的に行われているもので、今回の講師に任命されたのは、看護師に絶大な人気を誇る研修医、藤崎先生だ。
 勉強会は毎年、二月、五月、八月、十一月の年四回行われている。仁寿の院外研修が来月から始まるため、五月の予定を繰り上げて今日行われることになった。
 彩は、看護師に配布する資料とスライドの準備を頼まれていた。今回は看護師だけではなく、放射線科と検査科の技師や事務職員、薬剤師、その他に同じ系列のクリニックからも参加希望があり、延べ百八十人分の資料を用意しなければならなかった。
 仁寿は、机の上に重ねられた資料を一部手に取って軽くめくる。今回のテーマはトリアージだ。災害時のトリアージと院内トリアージについて、仁寿が分かりやすく丁寧に講義する予定である。

「さすが」
「どういたしまして」

 彩はいつもと何ら変わりない態度で仁寿に接している。誰一人、彼らの関係に変化があったことに気付かない。

 そこへ、消化器内科医の川北由香が医局に戻って来た。由香と彩は小学校からの同級生で、心を許し合う親友である。
 二人は高校までを一緒に過ごした。県下有数の進学校でとりわけ出来の良かった由香は、特進クラスから医学部へ進学した。そして、彩が入職して三年目を迎える四月に由香が入局して来た。
 その頃、病院の医師不足は至って深刻だった。二年間研修医を獲得できなかった上に、前期臨床研修を終えて、やっと業務の独り立ちを目前にした医師二名が退職を表明していたのだ。
 由香は、病院の宝だとまで言われている。今では立派に独り立ちし前線で業務をこなしていた。

「お疲れ様」
「疲れた」

 彩がにこやかに声を掛けると、由香は白衣のポケットに手を入れて、わざと項垂うなだれて見せる。

「どうしたの。由香が疲れたなんて、珍しいね」
「いろいろあってさ。今日の夜、ちょっと一緒に呑まない? お互いずっと忙しかったし、ね!」

 楽しく弾む親友同士の会話を内心で羨ましく思いながら、昨夜やっと彩の彼氏に昇格した男がすぐそばで聞き耳を立てている。

「分かった。由香が終わったら連絡して。すぐに行くから」
「了解!」

 彩が快諾すると、由香は満面の笑みで医局を出て行った。仁寿がちらりと彩を見る。だが、それに気付かずに、彩は席について仕事に取り掛かった。メガネを指で押し上げて、キーボードを打っている。
 仁寿は小さくため息を吐いて、医局を出て病棟へ上がった。そのまま午前が過ぎ、彩は誰にも見つからないように、封筒に入れたマンションの鍵を仁寿の机に置いてタイムカードを押した。

 一度自宅に戻り、昨日の荷物を片付けてお茶を飲む。これから検査があるため、昼食は摂れない。
 彩は部屋の掃除と洗濯を済ませて病院へ向かった。受付をして婦人科の前で待っていると、すぐにCTに案内された。検査は十分も掛からずに済み、それから診察まで三十分ほど待たされる。

「廣崎彩さん。十三番へお入りください」

 アナウンスが流れ、彩は診察室に入った。主治医に挨拶をして椅子に座る。彩の主治医は五十前後の男性で、とても物腰の柔らかい優しい先生だ。

「変わりはないですか? 気になる症状とか」
「はい、特に何もないです」

 主治医はパソコンの画面から彩に体を向ける。それから、不安そうな顔をしている彩に微笑んだ。

「今日のCTね、大丈夫でしたよ。それから、腫瘍マーカーも陰性のままでした」
「……良かった!」
「前回も言ったけど、普通に生活しても大丈夫だからね。左の卵巣はきちんと仕事をしているから、将来的にお子さんを希望されても良いと思いますよ」
「本当ですか?」
「ええ。それから、手術からもうすぐ一年経ちますので、受診の間隔をもう少し空けていきましょう。次は半年後、腫瘍マーカーの採血と診察です」
「分かりました」
「この後、採血して帰ってね」

 彩は主治医に礼を言って診察室を出る。看護師に案内されて、採血をして会計で呼ばれるのを待った。病院を出て、再び自宅に戻り軽く食事をする。
 由香から連絡が来たのは、午後六時前だった。二人は彩の行きつけのバーで待ち合わせをした。彩がバーに着くと、由香がカウンター席で待っていた。

「早かったね」
「うん。今日は彩と呑むぞって張り切って定時で出たよ」
「定時なんてあったの、医者に」
「あるある。年に二回くらいね」

 由香はピンク・レディを、彩は定番のハイボールを頼む。それを待つ間、由香はちょっとだけ愚痴らせてと言って、一方的に愚痴を吐いた。
 彼女はいつもこうだ。溜まった愚痴を吐き出してすっきりした後は、二度とネガティブな話をしない。
 二人の前にグラスが置かれる。

「お疲れ様!」

 二人は軽くグラスを合わせて呑み始める。大好きなハイボールに、彩の気分も高まった。そして、彩は由香に仁寿の家に泊まった事を明かした。由香は仁寿と彩の歴史を知っている唯一の人物だ。それに、彩が時々、セックスをするだけの相手を探す事も知っている。

「うっそ。藤崎先生の家に泊まったの?!」

 彩は目で辺りをうかがって、声が大きいよと口に人差し指を当てて、驚く由香をたしなめる。ハイボールに浸かった丸氷が、カランと音を立てた。
 マスターがピアノに触れて、軽快なジャズが店内に流れ始める。しわしわの指が強弱を巧みに操って、古いナンバーを奏でている。

「どうしちゃったの。面倒だから近場には手を出さないって言ってたのに」
「そう、なんだけど……。押しに負けちゃったと言うか。藤崎先生ってすごく強引なのよ。あれは規格外」
「まぁ、確かに彼、我が道を行くタイプだもんね」

 そう言って笑いながら、由香がカクテルのグラスに口を付ける。長い巻き髪がとても似合う女らしい由香に、チェリーが浮かんだピンクのカクテルがよくマッチしている。

「で? ちゃんと付き合うの?」
「うーん。うんって言っちゃったけど、正直戸惑ってる。わたしなんかより良い人たくさんいるのに、もったいないよね」
「出た、彩のわたしなんか論」

 早くも彩は二杯目を注文した。染み渡るハイボールに、体が喜んでいる。

「彩さ、いつも我慢するじゃない? 去年なんて、病気の事でいっぱい泣いたし悩んだでしょ? それを知ってるからこそ、彩には笑って生きて欲しいよ」
「ありがとう。でもさ、生きるためとは言え片方の卵巣を失くした訳で。恋愛とか結婚に積極的になれないのよね。これからずっと、再発に怯えて生きていかなきゃいけないんだもん。今はまだ、前向きに明るく! ってなれない」

 そっか、と由香がグラスのふちを指でなぞる。

「それ、藤崎先生に言った?」
「ううん。昨日、検査の事がばれちゃったんだけど、病気については何も話してない。特に聞かれなかったし」
「話して、みたら?」
「えーっ。話すまでもなく、すぐわたしに飽きると思うよ」

 彩はバッグからチョコレートを取り出して、一かけ口に入れる。はい、と差し出すと、由香も同じように指先でそれを割って口に入れた。

「彼、きっと彩の全てを受け止めるんじゃない?」
「そんな男いないよ」

 ジャズを弾き続けていたマスターが、客の一人と交代する。四十代らしきそのサラリーマンは、カッターシャツの袖をまくって鍵盤に指を乗せた。そして、一度大きく深呼吸をすると、体を揺らしながらピアノを弾き始める。ヨハン・パッヘルベルのカノンだ。

「うわ、すごく上手い。泣けるわ」

 彩は思わずピアノの方を見た。サラリーマンは自分の世界に入り込んでいるようで、一心不乱にメロディーを奏でている。ありゃ相当ストレス溜まってるな、と勝手に分析する。
 テーブルに置かれた彩のスマートフォンの画面が点灯する。

「彩、電話」

 それに気付いた由香が、彩の肩を叩いた。彩がスマートフォンに目を向けると「藤崎先生」と表示されている。出るのをためらっていると、隣から由香が顔を覗き込んで来た。

「先生の所に行ってあげなよ」

 由香にそう言われて、彩は電話に出た。

「はい、廣崎です」
『彩さん、今どこ? 僕、これから病院を出るんだけど』
「川北先生とバーにいます」
『そっか。気を付けて帰って来てね』
「……は、い」

 その短い電話が終わると、帰るか、と由香がスプリングコートを羽織った。
 店内に流れるカノンは佳境に入り、音色がますます感動を誘う。彩は黙ってピアノを聴きながら、残りのハイボールを少しずつ呑んだ。
 店の隅に掛けられた時計は、午後八時三十分を指していた。
 彩のグラスが空になると、二人は会計を済ませて店を出た。春先の夜風が、上気した頬に気持ちが良い。由香が手を上げてタクシーを止める。

「彼氏に宜しくね」
「もう、冷かさないでよ。また明日ね」

 由香が乗ったタクシーを見送って、彩は夜道を歩き始めた。バーから自分のアパートまで徒歩十五分。彩は仁寿のマンションに向かわずに、自宅へと戻る。玄関に鍵を刺したところで、また着信があった。

「はい」
『さっき聞き忘れたけど、好きなお酒は何ですか?』
「ハイボールです。覚えて下さいね、わたし承知のストーカーさん」
『ははっ。了解』

 彩は荷物を揃えて、徒歩で仁寿のマンションへ向かう。商店街はほとんどが閉店していて、人通りもまばらだった。犬を散歩させている人を見かけて、もっと早い時間にしてあげなよ、と心の中でアドバイスしながら、彩は通りに出た。そして、通りの向かいにあるマンションを見上げて立ち止る。
 よし、と意味なく気合を入れて通りを横断して駐車場を通ると、昨日車を停めた所は空車だった。まだ彼が帰っていないのではないかと思いながら、彩はエントランスのインターホンを押す。

『はーい』

 応答があって、自動ドアが開いた。彩はエレベーターで八階にあがり、仁寿の部屋の前に立った。そして、インターホンを押す前に、中から仁寿が出て来た。

「彩さん、お帰り」
「た、ただいま」

 仁寿の笑顔に一瞬、ひるむ。年下童顔男の眩しい笑顔が、彩の心に沈んだ乙女心をくすぐった。しかし、彩はその事に気付かない。
 お気に入りの青いパンプスを玄関に揃えて、彩は仁寿の後から部屋に上がった。
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