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episode 06. 旋律

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 彩は昨日と同じように、先に寝室に荷物を置いてリビングへ向かった。仁寿も帰宅してからそう時間が経っていないようで、買い物袋と脱いだ上着がソファーの上に無造作に置かれている。

「ごめんね。電話しといて、まだ何も準備できてない」

 キッチンで手を洗いながら仁寿が言った。病院に勤めていると、見えない物に神経質になる。彩も仁寿の隣に並んで手を隅々まできれいに洗浄した。

「そう言えば先生、車はどうしたんですか?」
「病院に置いて来たよ。彩さんが停めるから」
「実は、ここからわたしの家まで徒歩で行けるんです」
「そうなの?! 知らなかった」

 正直に驚く仁寿に、彩が「ストーカー失格」とつぶやく。「でも彩さんが停めてよ」と言いながら、仁寿はテーブルの上に買って来た品物を並べた。
 その中に、彩のためのシングルモルトウイスキーと炭酸水、ライムまで揃っている。彩は目を輝かせた。
 リビングに、湯張りが終わった事を知らせる音声が流れる。ボタンを押せば、勝手に定量のお湯が湯船に溜まるなんて便利な時代になった。

「彩さん、お風呂入ったら? 僕ここ片付けて用意しとくから」

 二人は交代で風呂を済ませてキッチンに並んだ。仁寿は冷蔵庫から冷えたグラスを取りだして、切ったライムを絞る。男の力強い指の間から果汁が染み出してグラスの中に滴ると、それが絶妙なエロティシズムを伴って、彩は思いがけず息を呑んだ。仁寿が手をすすいで、果汁の上からそっと氷を入れる。

「彩さんの好みの分量は?」
「え……あ、一対二でお願いします」
「了解。でも、僕がやる事なんていい加減だからね」

 彩がじっと見ている前で、仁寿がウイスキーを入れてマドラーでかき混ぜる。そして、炭酸水を注いで最後に一回だけ縦にマドラーを動かした。

「凄い。よく分かってますね!」
「まあね」

 プレートの上にハイボールと赤ワインを乗せて「さあ、行こう」と仁寿がキッチンを出た。そのままリビングを通って照明を落とす。彼が向かった先はリビングのテーブルではなく寝室だった。

 時刻は既に十時を過ぎている。

「今日も服、洗濯しないんだね」
「恥ずかしいです。だってほら……」
「今さらじゃない?」

 寝室に入ると、仁寿はプレートをベッド横のナイトテーブルに置いて、ピアノ椅子に腰かけた。

「彩さん、ベッドに座ったら」

 彩は少し遠慮しながら、仁寿が作ってくれたハイボールを持ってベッドに座る。

「今日の学習会はどうでしたか? やっぱり講師って緊張するものなんですか?」
「大盛況だった、と自分で評価してる。緊張はしないけど、どうやって皆を話に惹き付けようか悩んだよ。面白くないと記憶に残らないからね。わざわざ業務外に時間を割く訳だし」
「確かに、時間外ですもんね」
「うん。本心では、あんな勉強会は勤務時間内にやってくれよ、と思ってる。看護師さんたちは時間になったら交代できるけど、医者ぼくらはそうじゃない。週の勤務時間八十時間を軽く越えてるんだから。帰れる時は帰りたいよ。あ、この愚痴は内緒だよ?」

 仁寿が茶目っ気たっぷりに舌を出すと、彩もつられて笑いが出てしまう。これは彼の魅力だと思う。特異なほど、彼は陽気に満ち溢れていてとにかく明るい。

「それじゃ、仕事の話はお終い。彩さんの好きな曲を弾こうかな。リクエストは? 最近ピアノに触ってないから、自信はないけど」
「何でも良いんですか?」
「弾けない曲だったら、弾けないって言うよ」
「うーん。そうだなぁ」

 彩はグラスを回しながら真剣に考える。そして、何となくあのサラリーマンの姿を思い出した。あの曲を、仁寿はどんなふうに弾くのだろうかと気になった。

「カノン、お願いします。卒業式とかで流れる曲です。あ、誰か芸人も使ってましたね」
「ヨハン・パッヘルベルね」

 その芸人誰だったっけ、と笑って仁寿の演奏が始まる。
 彩はあのバーで客が弾くピアノをよく聞いていた。仕事を終えた男女が奏でるメロディーは、クラシックやジャズ、歌謡曲だったりと多種多様だった。そのどれもが上手下手を抜きにして、一様に深みがある。それを彩は、ストレスがなせる業だと思い込んでいる。酒も一緒で、ストレス過多の方が味が良くなる気がするからだ。

 鼓膜に響く仁寿のカノンは、いつも飄々とている彼からは想像がつかないほど感情的だった。自信はないと言いながら、とても上手い。彩の意識は瞬く間にその旋律に飲み込まれた。

「どうでしたか? 僕の演奏は」

 およそ六分の演奏を終えて、仁寿がにこやかに振り返る。彩は感動のあまり、大好きなハイボールを忘れて聞き入っていた事に気付く。

「音の力学って凄いな、と感動しました」
「ははっ。恐縮するね、その感想。彩さんが満足したなら何よりだよ」

 仁寿は照れたように笑って、ナイトテーブルの上のグラスを取った。そして、アロマティックな香りのする赤ワインを堪能した。

「あの。先生は、わたしが遅くまで友達と一緒だったりするの嫌ですか?」
「……いや、彩さんは今まで通りでいいんだよ。僕は束縛って得意じゃない。ただ今日は、鍵を返されてちょっと焦ってたんだ。ごめんね、楽しんでるところに電話して。気を悪くしなかった?」

 いえいえ、と彩が首を横に振る。耳の下で丸まった毛先がふわりと空気を含んで柔らかに膨らむ。
 彩はグラスに口を付けてハイボールを呑んだ。最適の分量にライムが爽やかさを添えて、文句無しに美味しい。鼻を抜けるその強過ぎない香りがクセになる。

 仁寿はピアノを閉めて立ち上がり、彩からグラスを取り上げてナイトテーブルの上に置いた。大好きなハイボールを奪われて、ノーメイクの彼女が口を尖らせて抗議したが、仁寿はそれを笑顔で無視して彩の隣に座った。ベッドが沈む。

「だけど、彩さんが他の男とセックスするのを許容できるほど、僕はリベラルじゃないからね」
「……へぇ」
「こら、そこはちょっとはにかみながら、分かったって即答するとこでしょ!」

 彩がおどけてごまかすと、仁寿はわざと頬を膨らませて不満をあらわにした。そして、すぐにいつもの柔らかい顔に戻る。


「好きだよ、彩さん」


「先生、それ洗脳?」
「あれ? 効果なしか。……やっぱり言葉より、セックスの技術向上に取り組むべきだな」
「は?」

「よし、彩さん!」
「ちょっと、ちょっと! きゃーっ」

 ベッドに押し倒されてキスをされる。深く長いキスの後、仁寿が片方の口角を上げてニヤリと笑った。

「今日は声、聞かせてよ」

 柄にもなく彩が顔を赤くすると、仁寿はまたキスをした。唇を割って入った舌が彩を捕まえる。
 彼のキスは強引なのに、優しくて気持ちが良い。絡めた舌ごと吸われて、二人の間に熱い吹き溜まりが出来た。ワインの香りが口腔いっぱいに侵入して、ハイボールの香りが犯されていく。
 こう言う時、必ず男の香りが勝るのはなぜだろう。子孫を残す上で重要なのだろうか、と馬鹿げた考えに耽っていると、服の中に忍び込んだ男の手が彩の乳房をまさぐり始めた。
 下着の上から揉まれただけで、その中心が敏感に反応してしまう。

「……ふっ、んっ」

 上着を脱がされて、下着に収まった胸の谷間が灯りに照らされた。

「ねぇ、彩さん」

 甘えた声で仁寿が呼ぶ。照明が彩のなめらかな稜線に影を加えて、より立体的に女の曲線を強く描き出している。彼が見る彼女の体は、細部に至るまでとても美しかった。この体を知る男が他にもいるのかと思うと、いつも温厚な仁寿の心に醜い嫉妬が苛立ちを伴って湧き立ち始める。
 しかし、彼は彩に対してはとても寛大だった。決して彩を軽い女だとは思っていないし、その行いを責めもしない。

「彩さんのきれいな体、僕の好きにしても良い?」

「先生、サディストなんですか?」
「すごい事言うね。僕は加虐的な嗜好なんて持ってないよ。でもほら、優しい藤崎先生ばかりじゃつまらないでしょ? ね、良い?」

 きっと彼が、誰とでも寝る軽い女だと思ってそう言ってるのだろうと、彩は軽く「良いですよ」と答える。
 すると、すぐさま全てを取り除かれて、一人だけ全裸と言う恥ずかしい姿になってしまった。今日はメガネをかけたままで、仁寿の表情がよく見えた。それが余計に女の羞恥を煽る。

「うつ伏せになって、お尻上げて」
「もう……、恥ず、かしい……」

 いいから、と仁寿が微笑む。彩が言われた通りの姿勢になると、ヌルヌルとした液体まみれの手に、後ろから乳房をなでられた。ローションの冷たさに彩の口から小さな声が漏れた。
 恥ずかしい姿勢のまま、全身に液体を塗りつけられる。胸と局部の隆起した中心を同時に攻められて、彩は必死に声をこらえた。
 仁寿は笑いながら彩の背中のくぼみを舐め、全身を隈なくをなで回す。下腹部からじわじわと波が押し寄せて来る。

「あっ、……だめ……っ!」

 割れ目を擦られながら蕾をねられて、彩はシーツを握りしめながら達した。絶頂の余韻に悶える彩を、仁寿はもう一度攻めた。ローションが汗と融和して、独特のとろりとした感覚に卑猥さが加わる。
 中をかき混ぜる二本の指に、彩は背を反らしてすぐにイってしまった。太腿を、生暖かい体液が流れる。
 息つく間もなく、達したばかりの体を後ろから一気に貫かれた。
 敏感になった中の、奥深くを突かれて、彩が男を締め付ける。摩擦係数の小ささと膣壁のうねりに、仁寿は眉根を寄せて甘く息を上げた。

「彩さんの中っ、すごくいい」
「……んんっ」

 中で仁寿が脈打って、長い体が彩の隣になだれ込む。荒い呼吸のまま、仁寿が彩の頬をなでた。愛おしくてたまらないと訴えて来る眼差しが、彩を包み込むように絡まる。
 
「スッキリしましたか?」
「ちょっと彩さん、それどう言う意味なの?」

 思いがけない言葉に仁寿は面食らった。彩は何も答えずに背を向けて目を閉じる。それはまるで、男の性的な欲望を満たしてやっただけだと言っているように聞こえた。

 ――男は皆同じ。気持ち良くなりたいだけ。

 ――そして先生も、わたしとのセックスに飽きたらすぐに他を見つける。

「僕は彩さんが好きだよ。だから、そんな悲しくなるような事を言わないでよ」

 後ろから腹部に腕が巻き付いて、汗でひんやりとした体が背中に触れる。彩がそれを拒否するように体を丸めると、強い力で抱きしめられた。

 男と女の間にセックスがある。それは頻繁に愛だと訳されるが、彩はそれを否定して生きている。
 初めて好きになった男に初めてを捧げ、散々弄ばれた挙句につまらないと捨てられた。友人からは男を見る目がないと笑われたが、少女期から脱する直前の純粋な心と体は酷く傷付いてしまった。

 それから彩にとって、セックスはただの遊戯あそびになった。

 以降も、何人かの男に好きだと言われて付き合ってみたが、男に深入りする事なくすぐに別れと言う区切りが訪れた。思春期の傷は、彩の心を異常なまでに超現実主義シュールリアリズムに仕上げ、恋情など生み出さなくなっていたのだ。

 その点、行きずりの男たちは後腐れがなくて良い。二度目はないと思うと、無心で存分に自分を解放できてセックスを愉しめる。どんなに恥ずかしく嫌らしい事も、時には痛みすら、全てが快楽に繋がるのだ。
 そうしているうちに病気が分かり、漠然と女としての価値を失ったような気になって、セックスと恋愛がますますかけ離れて行った。
 そして、定期的にやって来る眠れない夜に、彩はどっぷりと快楽に体を酷使して良眠を獲得している。

 ――こんなわたしを、誰が受け止めてくれるって言うのよ。

「先生とセックスしなきゃ良かった」
「僕ってそんなに下手くそ? それとも、いろんな男とセックスしたいの?」

「怖くなるから。いつか飽きられるって。だから同じ相手とは、セックスを楽しめないんです」

 こんな事を男に話したのは初めてだった。彩は鼓動の高鳴りを感じてますます身を小さく丸めた。隙間なく背中に張り付いた男の肌から、動的なリズムが伝わって来る。しっとりとした自分の肌を、こんなに情けなく感じたことはない。

「そう言う意味か。そうだなぁ、未来の事を立証するなんて難しいから、彩さんが楽しめないのならセックスしない。それでどう?」

「そう来ます? でも、それじゃ禁欲生活になっちゃいますよね、わたしが」
「僕も禁欲生活になっちゃいます」

 どちらからともなく笑い始める。段々と笑い声が大きくなって、二人は仰向けになって大笑いした。

「僕は彩さんの病気の事も、本当は知りたい。もっともっと彩さんを好きになりたいって思ってるよ。ほら、僕ってこんな感じだから、そんなに身構えないでよ」
「……え、ええ」
「それから、先生って呼ばないのと敬語については努力するんじゃなかったの?」
「う……」

「僕の名前、呼んでよ」

 ペースを崩さない年下に降参して、彩は顔を真っ赤にして布団に潜り込んだ。メガネを外して、布団の外に投げる。
 確か、明日は当直のはずだ。それを思い出して少しだけホッとすると、彩は目を閉じた。すぐそばに、彼の体温を感じる。それが何だかとても嬉しい。
 隠れてしまった彼女を、仁寿は可愛いと笑った。まあ良いか、と放り投げられたメガネを枕元に置き直して、仁寿も布団に潜る。真っ暗な中に、六年も思い続けた女が眠っている。

「寝付きが良過ぎだよ」

 仁寿は彩にぴたりとくっ付いて目を閉じた。明日は当直か、と眠りの狭間でつぶやくと横から平和な寝息が聞こえた。
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