トップ>小説>翼 アフェアーズ

翼 アフェアーズ

文字の大きさ
30 / 40
第3章 最初の一日

第6話 カツ丼に感動

しおりを挟む
 本当に翼は大変ここのカツ丼が気に入った様だった。カツ丼を食べてる最中から、しきりに美味しい、また食べたいと口にしていた。そして、カツ丼を食べ終えるなり翼は突然席を立ち調理場の方へとすたすた歩き始めた。僕がお茶でも取りに行くのかと思って呼び止めると翼はとんでもない事を口にしたのだ。

「ここのシェフにレシピを教えてもらいに行くんだ。
 それでうちの板さんにそれを教えて家でも作ってもらうんだよ。
 そうだ、そしたら君にも連絡するから僕の家で一緒に食べよう」

「待て待て、翼。
 たぶん、君の家の板さんに一言カツ丼作ってとだけ言った方が、
 ここのレシピを聞くより美味しいカツ丼が出来ると思うよ」

 僕は苦笑いを浮かべながらそう言って、今にも食堂の調理場に乗り込みそうな勢いの翼を何とか引き留めた。でも心の中では、本当に翼の家でカツ丼、いやカツ丼でなくとも食事を一緒に出来たなら素敵だな、なんてことを思っていた。いや、食事じゃなくても翼となら、お茶とおやつだって僕には十分過ぎるくらいだ。この前、メイドの小倉さんにもらった焼き菓子はすっごく美味しかったしね。その時はぜひ翼のお部屋で二人っきりが良いなってちょっと思って僕は赤面してしまった。幸い、翼に、僕が変な事を考えて赤面したことは気が付かれなかったようだ。

「だって、僕は家でカツ丼なんて出されたこと無いんだよ、兼光」

 翼は、そう言って引き留められたことに少し不満げな表情を浮かべた。そんな翼に、僕は分かりやすく説明してあげた。

「それは君の様なお坊ちゃまにカツ丼なんて物を出す事は、
 あんな立派なお屋敷の板さんなら、
 自身のプライドが絶対に許さないだけだと思うよ。
 君が『美味しいカツ丼が食べたいから作って欲しい』と頼めば、
 それこそ、他では絶対に食べられない様な
 素晴らしいカツ丼を作ってくれるはずだよ」

「君がそう言うならそうなのかな?
 じゃあ今度、板さんに直接会ってカツ丼作ってもらう様に頼んでみよう」

 それでもまだ完全には納得がゆかない顔つきながら翼はそう言って席に戻ってくれた。しかし、こういう会話をすると、やっぱり翼は浮世離れしたご大家のご令嬢……いや、違った……ご子息なんだなぁと僕は改めて思った。


 席に戻った翼と僕は、いよいよ待望のデザートプリンを食べる事にした。一緒に買ったデザートプリンは小さめのプリンに、色とりどりの果物と真っ白なホイップクリームがあしらわれていた。この食堂では少しお高いけど見た目がすごく可愛いデザートだった。ちなみに、女子生徒には絶大な人気を誇っているメニューなのだが、僕ら男子が食べる事は滅多にない。そりゃ、これ一個できつねうどん一杯買えるんだから育ち盛りの男の子なら、きつねうどんを選ぶに決まってる。

「これにはやっぱり紅茶かコーヒーだね。
 食券の自販機にはなかったようだけれども、
 どこに行けば買えるのかな?」

 翼はまたあの素敵な笑みを浮かべて小首を傾げた。

「ここには自販機の物しかないけど良いかな?
 たぶん、君からしたら美味しくないと思うよ」

 当然、翼はハンドドリップで淹れたコーヒーとかティーポットで淹れた紅茶を考えてると思ったので、僕は一応こう尋ねてみた。

「それは気にしないでくれたまえ。
 自動販売機のコーヒーや紅茶って飲んだことがないんだ。
 それはそれで僕は楽しみだよ、兼光」

 僕の心配をよそに翼はそう言った。翼は人混みが苦手ですごく人見知りをする癖に、好奇心は人並み以上に旺盛の様だ。

「じゃあ、食事とプリンを奢ってもらったから、
 食後の飲み物は僕が出すよ。
 心配しないで自販機のは一杯百円だから」

 僕は、また翼が変な金銭感覚で遠慮するのを先回りしてそう言った。

「そうかい、君がそう言ってくれるなら甘えてみようかな」

 僕がそう言うと翼はにっこりと笑った。うん、この笑顔に二百円なら破格のバーゲン価格だ。

「僕が買ってくるから君はここで待ってて。
 それで君は何が良い?」

「出来るならカフェオレの砂糖無しが良いんだけどあるかな?」

「味さえ期待しないでくれれば大丈夫、あるよ」

「じゃあ、それでお願いするよ、兼光」

 僕は翼の素敵な笑顔に見送られて食堂の隅っこに並ぶ自販機の方へ歩き始めた。その時、僕は翼を一人残しておく事に一抹の不安を感じないでもなかった。しかし、自販機でコーヒーを買ってくる時間程度なら気にすることもなかろうと思った。


 食堂の自販機は缶物が買える物、紙製の四角いパックに入った牛乳系飲み物が買える物、それに一応ドリップを謳う紙コップで提供される物がそれぞれ一台ずつ計三台あった。ちなみにこの三高では、飲み物の自販機自体は食堂以外にもグラウンドに面した体育系の壁際や、昼時に有名ベーカリーの出張販売のある売店付近にもある。

 僕は迷わず紙コップで提供されるタイプの自販機の前に向かった。確かに有名大手飲料会社の缶コーヒー製品が並ぶ自販機は安心感があるけれど、個人的には何か鉄の匂いと言うか味が微妙にして好きになれないのだ。かと言って紙パック入りのは甘すぎてなんだか子供っぽい味がするようで論外だった。なので翼に届けるにはこの自販機のコーヒーが最適だと僕は思ったのだ。それでも所詮自販機のコーヒーだから、ご大家のお坊ちゃまであらせられる翼にとってはどれをとっても大同小異で不味い物なんだろな、とも思って僕は自虐的な笑みを口元に浮かべた。

 ここで午後の授業開始までおしゃべりを楽しむ女子の御用達であるこの自販機は、いつもなら結構長い列が出来る。でも幸いまだ時間が少し早くて僕の前には数人の女の子しか並んでいなかった。

 少し待って自分の順番が来ると僕はまず自分用に、いつもはミルクと砂糖たっぷりのを頼むくせに、今日は翼の手前格好つけてブラックコーヒーを買った。そして翼には頼まれた通り砂糖無しのカフェオレを買った。カフェオレが紙コップに注がれるのを見ながら、これは僕は翼のイメージにぴったりだなと僕は思った。もし翼が本当の女の子なら紅茶で決まりなんだろうけど、なぜか綺麗な男の娘ってなるとミルクたっぷりなカフェオレが僕の脳裏に浮かんだのだ。

 そして僕は紙コップを両手に持ち、中身をこぼさない様に足元と紙コップを交互に凝視しながら、翼の待つあの見晴らしの良い席へ向かってゆっくり帰って行った。
しおりを挟む