
しかし、そう簡単にこのような受け止め方をするのに抵抗を感じることもあると思います。そこで、その気持ちを和らげられる教えがあります。それは「闇があるから照らすということがある」(『仏教聖典』)という仏教の言葉です。
人にはさまざまな闇の部分があります。「妬み」「そねみ」「恨み」など、誰しも他人には話すことも、見せることもできない姿があると思います。
これは「煩悩(ぼんのう)」というものですが、自分の闇の部分に目を向けるということは、決して気持ちのよいものではないでしょう。むしろ目を背けたくなるものだと思います。
しかし、闇を闇として把握できているということは、それを照らすことができる自分もいるということです。これが「悟り」の道へつながるというのが、この仏教の言葉の意味です。
自分の闇と向き合い、それを認めるというのは、辛いことかもしれません。ついどうにもならないことを考えてしまうのは、どこかで自分の思い通りにしたいという「不満足の心」がはたらいているからだと思います。
正直なところ、何にも満足できない自分の姿を認めることは、本当に勇気のいることだと思います
しかし、その辛さや恐怖を乗り越えて、自分の闇を受け止めることができれば、それがそのまま光となり、自分にとってかけがえのない大切な教えとなります。これが闇を照らすということだと思います。
日常生活において、このように自分と真剣に向き合う時間を持つことは難しいでしょう。そんな場合は、お寺をはじめとする宗教施設を利用したり、何か特別なことが必要だと思う方もおられるかもしれません。
しかし、必ずしもそうではありません。実はすぐ身近なところで、この貴重な時間を持つこともできるのです。その代表例として「どうしようもないことを考えてしまう時間」があるのではないでしょうか。
この考え癖は今後も続くことでしょう。テコ入れをしなければ、ただの悪い癖に変わりはありません。
しかし、この時間を有効的に活用するように心掛ければ、嫌な時間と思っていたことを、よい習慣(自分と真剣に向き合う時間)に変えることができるのではないでしょうか。
何もしなければ、何も変わらないということを忘れずに、今後は過ごしてみて下さい。
次回に続く