歴史が苦手な人は学ぶ面白さの本質を知らない

もう1つは、歴史を学ぶと、エビデンスベースで考えられるようになる。近代知的社会の基盤は、すべてエビデンスベースで物事を考えることだと思うのですが、エビデンスをクリアにして、ロジックを積み上げていく。未来を予見するために役に立つかどうかはわからないけれど、時間軸で考えるクセがつき、エビデンスベースで考えるクセがつくだけでも、歴史は役に立つし、おもしろいなと個人的に思います。

尾原:歴史を学ぶことのメリットの2つ目を、エビデンスベースが身につくこととさらっと言えるのって、すごくいいですね。日本だと、歴史というとどうしても記憶することだと思われがちですけど、1つひとつの出来事をとっても、なぜそれがそのとき起こりえたのか、エビデンスをもとにロジックを積み上げて考える。そういう訓練を積んでおけば、偶然の中にも必然を見つけることができるかもしれない。歴史を学ぶのは、次に自分たちはどうすべきかを考えるためでもあるわけです。

日本が仏教を受け入れた理由

出口:学ぶべき歴史が、陰謀論のようなエビデンスに基づかないものであってはまったく役に立たないですよね。この前に受けた取材で、たまたま仏教の話をしていたのですが、仏教が伝来したときに、どこの国でも、仏教を入れようという崇仏派と、そんなのはいらないという排仏派が対立するのですが、ことごとく崇仏派が圧勝しているのです。その理由は簡単で、仏教というのは、当時の最先端の技術体系だからです。

尾原:なるほど。

出口:だって、仏教を広めるためにはお寺を造り、お坊さんは立派な着物を着て、ありがたいお経を読むわけですから、仏教は単なる教えじゃないんです。現代のわれわれでも「仏教の教えの本質は何か」と聞かれると、むずかしくて答えられない。ましてや当時の人々に、仏教のありがたい教えがわかったとはとても思えない。ではなんで仏教を受け入れたのかというと、崇仏派の蘇我氏につけば公共事業が山ほど発注されるからです。

尾原:お寺を建立するゼネコンみたいなものですね。

出口:そのとおりです。排仏派の物部氏についても、仕事は来ません。普通の人がどちらにつくかといえば、仏教のことはよくわからないけれど、仕事があるほうがいいというに決まっているわけです。仏教伝来もこのように教えれば、よくわかるのに、「ほっとけごみやさん(538年、仏教伝来)」という意味不明な年代だけを覚えさせようとするから、おもしろくなくなるのです。なんでそんなことが起こったのか、いろんな状況証拠をベースに考えていくから、歴史はおもしろいのです。

もう1つつけ加えれば、仏教は朝鮮半島の百済(くだら)から入ってきたわけですが、百済はなんで最新の技術体系を教えてくれたのか。普通は、そんなに簡単に教えてくれません。今でもアメリカは、日米安保条約を結んでいても、戦闘機の心臓部分は全部ブラックボックスにして教えてくれません。

尾原:絶対に見せてくれません。秘伝のタレですから。

百済が最新の技術体系を教えてくれた理由

出口:では、百済はなんで教えてくれたのかということを、考えなければいけない。仮に538年という年代が正しければ、この年は、百済はお隣の新羅(しらぎ)に攻められ、都を落とされて、南遷している年なんです。

つまり、国が滅ぶかどうかの瀬戸際で、助っ人をよこしてくれ、その代わりに最新のテクノロジーを教えるから、ということだったのではないかと。仏教伝来というのはおそらく、シェイクスピアの「リチャード3世」が戦場で追い詰められて叫んだ有名なセリフ「馬をくれ! 代わりに王国をくれてやる!」に似た状況だと考えれば、すごく腹落ちするのです。