「鳥貴族をつくった男」の知られざる悪戦苦闘

鳥貴族創業者の大倉忠司氏(撮影:今井康一)
不振の居酒屋業界において異例の成長を続ける鳥貴族。外食業界を30年以上にわたって取材してきた筆者がその正体に迫る短期集中連載の第2回は、鳥貴族のビジネスモデルを作り上げた創業者、大倉忠司氏の半生を追う。(編集部)
第1回:「鳥貴族」がワタミをついに追い抜いた理由(2017年2月14日配信)

飲食業の面白さに目覚めるきっかけ

鳥貴族創業者の大倉忠司は、1960年に中小企業の街、大阪府東大阪市で生まれた。生家はブリキ玩具の「型」を製造する町工場だった。両親と2歳上の兄の4人家族で、機械の音や油のにおいに囲まれて育った。

高校2年生の16歳のとき、ビアガーデンでアルバイトを始め、2年間通った。社員からまじめな仕事ぶりが認められ、焼き鳥とおでんの部門を任されたのが飲食業の面白さに目覚めるきっかけとなった。高校を卒業後、調理師専門学校で1年間学んだ。1979年に一流ホテルのイタリアンレストランに入社した。

大倉が焼き鳥専門店チェーン「全品280円均一 鳥貴族」を開発した直接のきっかけは、このイタリアンレストランでウエーターを務めていた頃に、地元の東大阪市の「全品230円均一」の炉端焼き屋によく通ったことだ。

大倉は居酒屋が好きだった。その店はお通しなしの明朗会計。低価格の割には高品質だった。大倉は飲料・フードメニューを注文するとき、原価率はどれが高くてどれが安いかと頭の中で考えてオーダーするのが楽しかった。「自分が店をやるときもこういう低価格・均一料金の店をやりたい」と思った。

大倉はホテルのレストラン勤めを3年間で辞めた後、「やきとり大吉」(ダイキチシステム、本社・大阪市)のフランチャイズチェーン(FC)オーナーが大吉から独立し、「焼鳥道場」を開業したときに誘われて、1982年ごろから3年近く焼き鳥屋で修業した。

ダイキチシステムは独立開業を希望する人に「大吉流ノウハウ」を3カ月間研修させた後、加盟金150万円で開業を支援するFC方式だ。焼き鳥専門の単一業態として全国展開する。「自分自身が汗を流して働く生業(なりわい)商売」なので、店は10坪20席の小型店で、家賃は12万円がメド。投資額も少なくて済む。店長が厨房から1人で店を全部見渡せ、最低2~3人で運営できるというのが標準的な店づくりだ。

大倉は元FCオーナーの下で店舗開発・運営、焼き鳥を焼くなど焼き鳥屋経営のすべてを学んだ。「焼鳥道場」で修業したことが、大倉の「鳥貴族創業の原点」である。

第1号店「鳥貴族 俊徳道店」の開業

1985年、大倉は25歳のとき、150円、250円、350円の3本立て均一料金の焼き鳥専門店「鳥貴族 俊徳道店」(約9坪、27席)を個人創業した。立地は近鉄大阪線の乗降客数の非常に少ない、俊徳道駅前商店街で、鳥貴族の第1号店である。

なじみの「全品230円均一」の炉端焼き屋を参考にして、飲料・料理メニューを開発した。総投資額1200万円。自分の貯金200万円と、父親が家を担保に借金して1000万円を用意してくれたのが元手だ。最初は全品250円均一にしようとしたが、ビールの原価率が200円程度もして250円均一では赤字になると判断、350円均一メニューを加えた。もちろんお通しなしの明朗会計だ。

当時の焼き鳥屋といえば赤提灯に縄のれん、炭火で団扇(うちわ)を使って焼き鳥を焼くので店内は煙がモーモーと充満した。店はカウンター中心で、客は中年の男たちばかり。大倉は中年男のたまり場になるような焼き鳥屋ではなく、若い男女が来店できる「明るくオシャレな焼き鳥屋」を目指した。当初ガス焼き台で焼いていたが、電気グリラーに切り替えた。