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第6話 救恤院
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次に目を覚ましたとき、視界を覆っていたのは真っ白な漆喰の天井だった。
背中には柔らかな寝台の感触。
鼻をくすぐるのは、ツンとした消毒液の匂いと、甘苦い薬草を煮詰める温かい香りだ。
どこか遠くで、修道女の賛美歌が小さく聞こえる。
「気がつかれましたか」
穏やかな声にはっとして顔を向けると、白いヴェールを被った修道女がベッドの脇に立っていた。
目尻に優しい皺を刻んだ、シスター・エルネだった。
「ここは……」
「救恤院の施療所です。市場の裏で倒れていたあなたを、荷運びの男たちが運んできてくれました」
救恤院。
暁光教会が運営する、貧民や孤児の救済施設だ。
エリシアが身を起こそうとすると、シスター・エルネはそっと肩に手を置いて制した。
「まだ無理をしてはいけません。身重の体なのですから」
その言葉に、エリシアの肩がビクッと跳ねる。
隠さなければならない秘密を知られた恐怖が、一瞬にして全身を駆け巡った。
「安心なさい。子は罪を負いません。教会は、母子の命を等しくお守りします」
シスター・エルネの静かな言葉には、揺るぎない芯の強さがあった。
それでも、エリシアは毛布を強く握りしめた。
「施しは……受けられません。私は、自分の力で生きていかなければならないんです」
一度でも他人の善意に甘えれば、そこから絡め取られ、また誰かの都合で人生を奪われる気がした。
そのとき、病室の木扉が静かにノックされた。
「お話し中、よろしいですか」
落ち着いた足音と共に現れたのは、質素だが仕立ての良い外套を着た青年だった。
柔らかい茶色の髪に、知的な灰色の瞳。
「救恤院監督官のリュシアンです。あなたが市場で繕ったという上着を見せてもらいました」
リュシアンは寝台から十分な距離を取り、決して踏み込もうとはしなかった。
「あれほど見事な腕前を持つ職人に、無償の施しをするつもりはありません。あなたの仕事を、無償の善意にしない」
エリシアはハッと息を呑む。
彼は「施し」ではなく「仕事」だと言った。
「まもなく厳しい冬が来ます。救恤院で使う寝具や包帯の修繕、そして新しい毛布の仕立てが急務です。……まずは、毛布二十枚。お願いできますか」
それは、同情でも哀れみでもない、完全な「取引」の提示だった。
エリシアの胸の奥で、凍りついていた何かが、小さな音を立てて溶け始めた。
♦︎♦︎♦︎
背中には柔らかな寝台の感触。
鼻をくすぐるのは、ツンとした消毒液の匂いと、甘苦い薬草を煮詰める温かい香りだ。
どこか遠くで、修道女の賛美歌が小さく聞こえる。
「気がつかれましたか」
穏やかな声にはっとして顔を向けると、白いヴェールを被った修道女がベッドの脇に立っていた。
目尻に優しい皺を刻んだ、シスター・エルネだった。
「ここは……」
「救恤院の施療所です。市場の裏で倒れていたあなたを、荷運びの男たちが運んできてくれました」
救恤院。
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エリシアが身を起こそうとすると、シスター・エルネはそっと肩に手を置いて制した。
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「安心なさい。子は罪を負いません。教会は、母子の命を等しくお守りします」
シスター・エルネの静かな言葉には、揺るぎない芯の強さがあった。
それでも、エリシアは毛布を強く握りしめた。
「施しは……受けられません。私は、自分の力で生きていかなければならないんです」
一度でも他人の善意に甘えれば、そこから絡め取られ、また誰かの都合で人生を奪われる気がした。
そのとき、病室の木扉が静かにノックされた。
「お話し中、よろしいですか」
落ち着いた足音と共に現れたのは、質素だが仕立ての良い外套を着た青年だった。
柔らかい茶色の髪に、知的な灰色の瞳。
「救恤院監督官のリュシアンです。あなたが市場で繕ったという上着を見せてもらいました」
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「あれほど見事な腕前を持つ職人に、無償の施しをするつもりはありません。あなたの仕事を、無償の善意にしない」
エリシアはハッと息を呑む。
彼は「施し」ではなく「仕事」だと言った。
「まもなく厳しい冬が来ます。救恤院で使う寝具や包帯の修繕、そして新しい毛布の仕立てが急務です。……まずは、毛布二十枚。お願いできますか」
それは、同情でも哀れみでもない、完全な「取引」の提示だった。
エリシアの胸の奥で、凍りついていた何かが、小さな音を立てて溶け始めた。
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