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34、夜風に解ける記憶
夜の風は、昼間よりも柔らかく、冷たい。
王城の石造りの廊下を抜けて、バルコニーに出たエリオットは、静かに吐息を漏らした。
身に纏った薄衣が夜気にふわりと揺れ、肌を撫でていく。
(……穏やかな夜。なのに、どうして、胸の奥がざわつくんだろう)
手すりに触れる指先が、かすかに震えていた。
目を閉じる。風が髪を撫でる。
それでも消えない、名残のような何か。
忘れたはずの感触。遠い、記憶の残滓。
「……眠れないのか?」
低く、馴染んだ声が背後から届いた。
振り返ると、そこにいたのはノルドだった。
変わらぬ黒衣、変わらぬ冷たいグレイの眼差し。
けれどその瞳には、どこかもう、刃のような棘はなかった。
「……あなたこそ、どうしてここに」
「君に、礼を言いに来たんだ。最後になるかもしれないからな」
ノルドは笑わなかった。けれど、確かに優しい声音だった。
「礼……?」
「君が俺を、“使ってくれた”ことに、だ」
エリオットはしばらく何も言えなかった。
けれど、口を開く前に、ノルドが静かに一歩、近づく。
「……最後に、一度だけ。君を、抱きしめてもいいか」
その声は、あまりに静かで、あまりに切実だった。
エリオットは、ふと視線を落とした。
拒む理由があるはずだった。
けれど、心の奥が小さく、疼くように疼いた。
(ああ……この人に触れられた記憶は、まだ――)
一瞬の躊躇い。
そして、エリオットは小さく頷いた。
ノルドは、まるで壊れ物を扱うように、ゆっくりとエリオットをその腕に抱き寄せた。
堅く、冷たかったはずの身体が、今は、こんなにも暖かい。
その瞬間だった。
――脳裏を、光が走った。
目を閉じる。
胸の奥に眠っていた扉が、音を立てて開く。
薄暗い部屋の中、冷えた床、震える身体。
遠い昔、夜の奥で、誰かに手を引かれた感覚。
名前を呼ばれた。
何度も。
「痛い」と呟き続けた自分の声。
黙って傍にいてくれた人。
あの夜、あの部屋、血の匂いと、涙と、温もり。
――それは、間違いなくノルドだった。
「あ……」
エリオットの指が、ノルドの胸元を掴む。
細い声が喉の奥から零れた。
「……ああ、全部……僕は……」
ノルドは黙っていた。
ただ、その背にそっと手を回し、彼を受け止めた。
「俺は……本当に、お前を助けたかったのかどうか……ずっと、わからなかった」
「……いえ……僕も辛いばかりだと、勝手に思い込んでいました」
エリオットの頬に、涙がひとすじ、落ちた。
悔しさでも、哀しさでもない。
あの夜に、きちんと別れを告げられる涙だった。
「……ありがとう、ノルド。あのとき……ひとりにしなかったこと。僕を、ちゃんと“見てくれていた”こと。……それがなかったら、今の僕はここにいない。なのに、僕は……」
ノルドは目を伏せ、小さく首を振った。
「違う。君は自分の力でここまで来た。俺の手は……君を止めてばかりだった」
「それでも、あなたがいたから進めた道もあった。僕一人の力では、ない」
二人の間に、静かな夜が流れた。
やがて、ノルドは腕をほどく。
「……行け。君の番が、待ってる」
「……ええ」
「ひとつだけ。もう一度だけ、言わせてくれ」
「……はい」
ノルドの視線が、優しく射抜くように重なる。
「俺は、君を愛していた。今でも……想うだけ、ならば君の番も許してくれるだろう?」
最期は少し、冗談めいた声に聞こえた。けれど、きっと冗談ではない。
しかしそれは、永遠の未練でも、未消化の感情でもなかった。
静かに終わっていくものへの、ささやかな別れの言葉。
エリオットは微笑む。
「……ありがとう。あなたがいてくれて、よかった。今も、あの時も」
ノルドは何も言わず、風のように夜に溶けていった。
※
夜風が静かに吹き抜け、廊下に残された足音だけが虚空に消えていった。
ノルドは、誰もいない庭の縁に立ち、そっと空を見上げる。
(……触れられる最後の夜だった。やはり奪うべきだったか?……いや、繰り返すだけだろう……)
目を閉じる。 胸の奥に、温もりがまだ微かに残っている。
かつての夜。
この手の中で震えていた小さな身体。
気まぐれだったはずの関心が、気づけば執着に変わり、
そして——壊してしまった。
「……あのとき、渡したのは俺だ。番にできなかった俺が……命を繋げなかった俺が……」
唇が、何も言わずに歪む。
(だとしても。あの夜、君が“外の世界に行きたい”と願った瞬間。俺は、止められなかった)
——その手を引いたのは、シグルドだった。
あの男になら、託してもいいと、心のどこかで思っていた。 だから、手放した。 だから、今日こうして、彼に触れて、もう二度と抱きしめないと決められた。
ノルドは、薄く笑った。
「……もう充分だろう。俺の愛は、もうあいつを縛らない。出来れば、あの時に喪った……“あの子”を違う形で見せてくれ……」
彼はゆっくりと踵を返し、闇に溶けていく石段を、音もなく降りていく。
——それが、自分なりの祝福だった。
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📅 毎日2回(7:30&22:30頃)更新予定!
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王城の石造りの廊下を抜けて、バルコニーに出たエリオットは、静かに吐息を漏らした。
身に纏った薄衣が夜気にふわりと揺れ、肌を撫でていく。
(……穏やかな夜。なのに、どうして、胸の奥がざわつくんだろう)
手すりに触れる指先が、かすかに震えていた。
目を閉じる。風が髪を撫でる。
それでも消えない、名残のような何か。
忘れたはずの感触。遠い、記憶の残滓。
「……眠れないのか?」
低く、馴染んだ声が背後から届いた。
振り返ると、そこにいたのはノルドだった。
変わらぬ黒衣、変わらぬ冷たいグレイの眼差し。
けれどその瞳には、どこかもう、刃のような棘はなかった。
「……あなたこそ、どうしてここに」
「君に、礼を言いに来たんだ。最後になるかもしれないからな」
ノルドは笑わなかった。けれど、確かに優しい声音だった。
「礼……?」
「君が俺を、“使ってくれた”ことに、だ」
エリオットはしばらく何も言えなかった。
けれど、口を開く前に、ノルドが静かに一歩、近づく。
「……最後に、一度だけ。君を、抱きしめてもいいか」
その声は、あまりに静かで、あまりに切実だった。
エリオットは、ふと視線を落とした。
拒む理由があるはずだった。
けれど、心の奥が小さく、疼くように疼いた。
(ああ……この人に触れられた記憶は、まだ――)
一瞬の躊躇い。
そして、エリオットは小さく頷いた。
ノルドは、まるで壊れ物を扱うように、ゆっくりとエリオットをその腕に抱き寄せた。
堅く、冷たかったはずの身体が、今は、こんなにも暖かい。
その瞬間だった。
――脳裏を、光が走った。
目を閉じる。
胸の奥に眠っていた扉が、音を立てて開く。
薄暗い部屋の中、冷えた床、震える身体。
遠い昔、夜の奥で、誰かに手を引かれた感覚。
名前を呼ばれた。
何度も。
「痛い」と呟き続けた自分の声。
黙って傍にいてくれた人。
あの夜、あの部屋、血の匂いと、涙と、温もり。
――それは、間違いなくノルドだった。
「あ……」
エリオットの指が、ノルドの胸元を掴む。
細い声が喉の奥から零れた。
「……ああ、全部……僕は……」
ノルドは黙っていた。
ただ、その背にそっと手を回し、彼を受け止めた。
「俺は……本当に、お前を助けたかったのかどうか……ずっと、わからなかった」
「……いえ……僕も辛いばかりだと、勝手に思い込んでいました」
エリオットの頬に、涙がひとすじ、落ちた。
悔しさでも、哀しさでもない。
あの夜に、きちんと別れを告げられる涙だった。
「……ありがとう、ノルド。あのとき……ひとりにしなかったこと。僕を、ちゃんと“見てくれていた”こと。……それがなかったら、今の僕はここにいない。なのに、僕は……」
ノルドは目を伏せ、小さく首を振った。
「違う。君は自分の力でここまで来た。俺の手は……君を止めてばかりだった」
「それでも、あなたがいたから進めた道もあった。僕一人の力では、ない」
二人の間に、静かな夜が流れた。
やがて、ノルドは腕をほどく。
「……行け。君の番が、待ってる」
「……ええ」
「ひとつだけ。もう一度だけ、言わせてくれ」
「……はい」
ノルドの視線が、優しく射抜くように重なる。
「俺は、君を愛していた。今でも……想うだけ、ならば君の番も許してくれるだろう?」
最期は少し、冗談めいた声に聞こえた。けれど、きっと冗談ではない。
しかしそれは、永遠の未練でも、未消化の感情でもなかった。
静かに終わっていくものへの、ささやかな別れの言葉。
エリオットは微笑む。
「……ありがとう。あなたがいてくれて、よかった。今も、あの時も」
ノルドは何も言わず、風のように夜に溶けていった。
※
夜風が静かに吹き抜け、廊下に残された足音だけが虚空に消えていった。
ノルドは、誰もいない庭の縁に立ち、そっと空を見上げる。
(……触れられる最後の夜だった。やはり奪うべきだったか?……いや、繰り返すだけだろう……)
目を閉じる。 胸の奥に、温もりがまだ微かに残っている。
かつての夜。
この手の中で震えていた小さな身体。
気まぐれだったはずの関心が、気づけば執着に変わり、
そして——壊してしまった。
「……あのとき、渡したのは俺だ。番にできなかった俺が……命を繋げなかった俺が……」
唇が、何も言わずに歪む。
(だとしても。あの夜、君が“外の世界に行きたい”と願った瞬間。俺は、止められなかった)
——その手を引いたのは、シグルドだった。
あの男になら、託してもいいと、心のどこかで思っていた。 だから、手放した。 だから、今日こうして、彼に触れて、もう二度と抱きしめないと決められた。
ノルドは、薄く笑った。
「……もう充分だろう。俺の愛は、もうあいつを縛らない。出来れば、あの時に喪った……“あの子”を違う形で見せてくれ……」
彼はゆっくりと踵を返し、闇に溶けていく石段を、音もなく降りていく。
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感想 1
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