文字の大きさ
大
中
小
1 / 44
第1章
第一話
蛍が「運命だ」と感じた瞬間は、人生で三度ある。
たった三度というのか、三度もあるというのか。
それでも、その三度があったからこそ、今の自分が形づくられているとさえ思う。
一回目はまだ庭木より背の低かった幼い日。
近所の優しいあの子。
大好きなお兄さん。
夏祭りの綿あめよりも甘くて、母の腕の中よりも安心できる匂いだった。
その匂いに運命と名付けたのはずいぶん後のことだった。
二回目は、初恋の人が教育実習生としてやってきたとき。
高校二年の夏だった。教壇に立った彼を見た瞬間、蛍の心臓は早鐘を打った。
三回目は、好きな人と大学で再会した時――。
もう二度と会うことはないと思っていたからこそ、やはり運命なのではないかと思った。
「来週のゼミ、どんな内容だっけ?」
大学一年の夏。相沢真帆は頬杖を突きながら、声をかけてきた。
一年生の前期は、研究室を回って専攻への理解を深めるという入門講座があった。真帆と蛍は同じグループだったため、自然と行動を共にすることが増えていた。
「マクロ経済」
「あ、面白そうな研究やってるところだよね」
「え、そう? 経済成長とか言われても俺、よくわかんないけど」
「経済学部性がそれ言っちゃだめでしょ」
真帆が大きな口をあけて笑いながら言う。
「その次が、ジェンダー経済学のところか」
思い出したように真帆が言う。
「第二性のことも絡めて研究してる研究室ってまだ珍しいらしいね」
「そうなんだ」
蛍はオメガだ。大きな瞳に、白い肌。
男性にしては華奢なほうで、体のラインの出にくい服を着ていると女性と間違えられることもある。
真帆には早い段階でオメガだということを打ち明けていた。
第二性は公にするものではないが、トラブルを避けるためにも蛍は近しい人間には伝えるようにしていた。
これまでに打ち明けたことのある友人の多くと同じく、真帆は大きな驚きもなくそれを受け入れてくれた。
「あれ、ジェンダー経済学があるからこの大学受けたのかと思ったけれど、違った?」
「うん。特にやりたいこともなくて、経済学だったらつぶしが効くかなと思ったから」
「あらドライ」
「真帆は熱い理由でもあるの?」
「いや、私も似たようなもの。でも、ジェンダー経済学には興味あるよ。まあ、私の場合は第二性というより第一性のほうだけれど」
「ふうん」
「興味なさそう」
「ないことはないけど」
「まあ、私もだけれど、早く興味のあるものを見つけないとだね。来年にはゼミを決めないといけないし」
「ジェンダー経済学じゃないの?」
「うーん、興味はあるけれど……、そこまでではない」
真帆はそう言って、伸びをした。
窓から差し込む夏の日差しが、教室の床に四角い光を落としている。
蛍は窓の外に目をやった。
キャンパスの中庭では、学生たちが思い思いに昼休みを過ごしている。平凡で、穏やかな大学生活。高校を卒業してから、蛍の日常はこんなふうに淡々と過ぎていった。
あっという間に数週間がたち、ジェンダー経済学の研究室へ行く日がやってきた。
教室に入ると、既に数人の学生が席についていた。
「今日のTAはどんな人かな」
真帆が期待を込めて呟く。マクロ経済のTA――ティーチングアシスタントは博士課程の学生だった。
教授が入ってきて、その後ろから一人の青年が続いた。
「今日から二週間、君たちの指導補助をしてもらう、芦原健吾君だ。大学院の修士課程で——」
教授の声が急に遠くなった。
蛍の視界が一瞬、白く染まる。心臓が大きく跳ね、血流が耳の奥で音を立てた。
「芦原です。よろしくお願いします」
健吾が軽く頭を下げる。
その視線が教室をゆっくりと見渡していく。
蛍と目が合った瞬間、健吾の表情がかすかに変わった。
驚き、そして——何か複雑な感情が一瞬だけその瞳をよぎる。
だが次の瞬間には、他の学生たちと同じように、穏やかな笑みを向けるだけだった。
まるで蛍が特別な存在ではないかのように。
「ねえ、見た?」
真帆が小声で騒ぎ始めた。
「TAの人、めっちゃイケメンじゃない?」
「そうかな」
蛍は黙って机の上のノートを見つめた。
「では、早速ですが」
健吾の声が響いて、教室が静まり返った。
「ジェンダー経済学の基礎について、簡単に説明していきます」
健吾は流暢に話し始めた。
第一性、第二性による賃金格差、オメガの社会進出における課題、番制度が経済に与える影響。
その声は落ち着いていて、聞き取りやすい。
蛍は健吾の横顔を見つめながら、高校時代のことを思い出していた。
あの時も、健吾はこんなふうに話をしていた。
たった三度というのか、三度もあるというのか。
それでも、その三度があったからこそ、今の自分が形づくられているとさえ思う。
一回目はまだ庭木より背の低かった幼い日。
近所の優しいあの子。
大好きなお兄さん。
夏祭りの綿あめよりも甘くて、母の腕の中よりも安心できる匂いだった。
その匂いに運命と名付けたのはずいぶん後のことだった。
二回目は、初恋の人が教育実習生としてやってきたとき。
高校二年の夏だった。教壇に立った彼を見た瞬間、蛍の心臓は早鐘を打った。
三回目は、好きな人と大学で再会した時――。
もう二度と会うことはないと思っていたからこそ、やはり運命なのではないかと思った。
「来週のゼミ、どんな内容だっけ?」
大学一年の夏。相沢真帆は頬杖を突きながら、声をかけてきた。
一年生の前期は、研究室を回って専攻への理解を深めるという入門講座があった。真帆と蛍は同じグループだったため、自然と行動を共にすることが増えていた。
「マクロ経済」
「あ、面白そうな研究やってるところだよね」
「え、そう? 経済成長とか言われても俺、よくわかんないけど」
「経済学部性がそれ言っちゃだめでしょ」
真帆が大きな口をあけて笑いながら言う。
「その次が、ジェンダー経済学のところか」
思い出したように真帆が言う。
「第二性のことも絡めて研究してる研究室ってまだ珍しいらしいね」
「そうなんだ」
蛍はオメガだ。大きな瞳に、白い肌。
男性にしては華奢なほうで、体のラインの出にくい服を着ていると女性と間違えられることもある。
真帆には早い段階でオメガだということを打ち明けていた。
第二性は公にするものではないが、トラブルを避けるためにも蛍は近しい人間には伝えるようにしていた。
これまでに打ち明けたことのある友人の多くと同じく、真帆は大きな驚きもなくそれを受け入れてくれた。
「あれ、ジェンダー経済学があるからこの大学受けたのかと思ったけれど、違った?」
「うん。特にやりたいこともなくて、経済学だったらつぶしが効くかなと思ったから」
「あらドライ」
「真帆は熱い理由でもあるの?」
「いや、私も似たようなもの。でも、ジェンダー経済学には興味あるよ。まあ、私の場合は第二性というより第一性のほうだけれど」
「ふうん」
「興味なさそう」
「ないことはないけど」
「まあ、私もだけれど、早く興味のあるものを見つけないとだね。来年にはゼミを決めないといけないし」
「ジェンダー経済学じゃないの?」
「うーん、興味はあるけれど……、そこまでではない」
真帆はそう言って、伸びをした。
窓から差し込む夏の日差しが、教室の床に四角い光を落としている。
蛍は窓の外に目をやった。
キャンパスの中庭では、学生たちが思い思いに昼休みを過ごしている。平凡で、穏やかな大学生活。高校を卒業してから、蛍の日常はこんなふうに淡々と過ぎていった。
あっという間に数週間がたち、ジェンダー経済学の研究室へ行く日がやってきた。
教室に入ると、既に数人の学生が席についていた。
「今日のTAはどんな人かな」
真帆が期待を込めて呟く。マクロ経済のTA――ティーチングアシスタントは博士課程の学生だった。
教授が入ってきて、その後ろから一人の青年が続いた。
「今日から二週間、君たちの指導補助をしてもらう、芦原健吾君だ。大学院の修士課程で——」
教授の声が急に遠くなった。
蛍の視界が一瞬、白く染まる。心臓が大きく跳ね、血流が耳の奥で音を立てた。
「芦原です。よろしくお願いします」
健吾が軽く頭を下げる。
その視線が教室をゆっくりと見渡していく。
蛍と目が合った瞬間、健吾の表情がかすかに変わった。
驚き、そして——何か複雑な感情が一瞬だけその瞳をよぎる。
だが次の瞬間には、他の学生たちと同じように、穏やかな笑みを向けるだけだった。
まるで蛍が特別な存在ではないかのように。
「ねえ、見た?」
真帆が小声で騒ぎ始めた。
「TAの人、めっちゃイケメンじゃない?」
「そうかな」
蛍は黙って机の上のノートを見つめた。
「では、早速ですが」
健吾の声が響いて、教室が静まり返った。
「ジェンダー経済学の基礎について、簡単に説明していきます」
健吾は流暢に話し始めた。
第一性、第二性による賃金格差、オメガの社会進出における課題、番制度が経済に与える影響。
その声は落ち着いていて、聞き取りやすい。
蛍は健吾の横顔を見つめながら、高校時代のことを思い出していた。
あの時も、健吾はこんなふうに話をしていた。
感想 12
あなたにおすすめの小説
僕たちの世界は、こんなにも眩しかったんだね
舞々「お前以外にも番がいるんだ」
Ωである花村蒼汰(はなむらそうた)は、よりにもよって二十歳の誕生日に恋人からそう告げられる。一人になることに強い不安を感じたものの、「αのたった一人の番」になりたいと願う蒼汰は、恋人との別れを決意した。
恋人を失った悲しみから、蒼汰はカーテンを閉め切り、自分の殻へと引き籠ってしまう。そんな彼の前に、ある日突然イケメンのαが押しかけてきた。彼の名前は神木怜音(かみきれお)。
蒼汰と怜音は幼い頃に「お互いが二十歳の誕生日を迎えたら番になろう」と約束をしていたのだった。
そんな怜音に溺愛され、少しずつ失恋から立ち直っていく蒼汰。いつからか、優しくて頼りになる怜音に惹かれていくが、引きこもり生活からはなかなか抜け出せないでいて…。
【運命】に捨てられ捨てたΩ
あまやどり「拓海さん、ごめんなさい」
秀也は白磁の肌を青く染め、瞼に陰影をつけている。
「お前が決めたことだろう、こっちはそれに従うさ」
秀也の安堵する声を聞きたくなく、逃げるように拓海は音を立ててカップを置いた。
【運命】に翻弄された両親を持ち、【運命】なんて言葉を信じなくなった医大生の拓海。大学で入学式が行われた日、「一目惚れしました」と眉目秀麗、頭脳明晰なインテリ眼鏡風な新入生、秀也に突然告白された。
なんと、彼は有名な大病院の院長の一人息子でαだった。
右往左往ありながらも番を前提に恋人となった二人。卒業後、二人の前に、秀也の幼馴染で元婚約者であるαの女が突然現れて……。
前から拓海を狙っていた先輩は傷ついた拓海を慰め、ここぞとばかりに自分と同居することを提案する。
※オメガバース独自解釈です。合わない人は危険です。
縦読みを推奨します。
流れる星、どうかお願い
ハル羽水 結弦(うすい ゆずる)
オメガで高校中退の彼は国内の財閥の一つ、羽水本家の次男、羽水要と番になって約8年
高層マンションに住み、気兼ねなくスーパーで買い物をして好きな料理を食べられる。同じ性の人からすれば恵まれた生活をしている彼
そんな彼が夜、空を眺めて流れ星に祈る願いはただ一つ
”要が幸せになりますように”
オメガバースの世界を舞台にしたアルファ×オメガ
王道な関係の二人が織りなすラブストーリーをお楽しみに!
一応、更新していきますが、修正が入ることは多いので
ちょっと読みづらくなったら申し訳ないですが
お付き合いください!
六年目の恋、もう一度手をつなぐ
高穂もか幼なじみで恋人のつむぎと渉は互いにオメガ・アルファの親公認のカップルだ。
順調な交際も六年目――最近の渉はデートもしないし、手もつながなくなった。
「もう、おればっかりが好きなんやろか?」
馴ればっかりの関係に、寂しさを覚えるつむぎ。
そのうえ、渉は二人の通う高校にやってきた美貌の転校生・沙也にかまってばかりで。他のオメガには、優しく甘く接する恋人にもやもやしてしまう。
嫉妬をしても、「友達なんやから面倒なこというなって」と笑われ、遂にはお泊りまでしたと聞き……
「そっちがその気なら、もういい!」
堪忍袋の緒が切れたつむぎは、別れを切り出す。すると、渉は意外な反応を……?
倦怠期を乗り越えて、もう一度恋をする。幼なじみオメガバースBLです♡
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
【完結】可愛いあの子は番にされて、もうオレの手は届かない
天田れおぽん劣性アルファであるオズワルドは、劣性オメガの幼馴染リアンを伴侶に娶りたいと考えていた。
ある日、仕えている王太子から名前も知らないオメガのうなじを噛んだと告白される。
運命の番と王太子の言う相手が落としていったという髪飾りに、オズワルドは見覚えがあった――――
※他サイトにも掲載中
★⌒*+*⌒★ ☆宣伝☆ ★⌒*+*⌒★
「婚約破棄された不遇令嬢ですが、イケオジ辺境伯と幸せになります!」
が、レジーナブックスさまより発売中です。
どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m
【完結】この契約に愛なんてないはずだった
なの劣勢オメガの翔太は、入院中の母を支えるため、昼夜問わず働き詰めの生活を送っていた。
そんなある日、母親の入院費用が払えず、困っていた翔太を救ったのは、冷静沈着で感情を見せない、大企業副社長・鷹城怜司……優勢アルファだった。
数日後、怜司は翔太に「1年間、仮の番になってほしい」と持ちかける。
身体の関係はなし、報酬あり。感情も、未来もいらない。ただの契約。
生活のために翔太はその条件を受け入れるが、理性的で無表情なはずの怜司が、ふとした瞬間に見せる優しさに、次第に心が揺らいでいく。
これはただの契約のはずだった。
愛なんて、最初からあるわけがなかった。
けれど……二人の距離が近づくたびに、仮であるはずの関係は、静かに熱を帯びていく。
ツンデレなオメガと、理性を装うアルファ。
これは、仮のはずだった番契約から始まる、運命以上の恋の物語。
【完結】期限付きの恋人契約〜あと一年で終わるはずだったのに〜
なの「俺と恋人になってくれ。期限は一年」
男子校に通う高校二年の白石悠真は、地味で真面目なクラスメイト。
ある日、学年一の人気者・神谷蓮に、いきなりそんな宣言をされる。
冗談だと思っていたのに、毎日放課後を一緒に過ごし、弁当を交換し、祭りにも行くうちに――蓮は悠真の中で、ただのクラスメイトじゃなくなっていた。
しかし、期限の日が近づく頃、蓮の笑顔の裏に隠された秘密が明らかになる。
「俺、後悔しないようにしてんだ」
その言葉の意味を知ったとき、悠真は――。
笑い合った日々も、すれ違った夜も、全部まとめて好きだ。
一年だけのはずだった契約は、運命を変える恋になる。
青春BL小説カップにエントリーしてます。応援よろしくお願いします。
本文は完結済みですが、番外編も投稿しますので、よければお読みください。