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第2章
第一話
およそ一年半後。蛍は地元の大学の経済学部に進学した。経済学で名の知れた大学だ。
そして――運命の三度目。ジェンダー経済学の最初の講義で、蛍は健吾と再会した。
関西の大学にいると聞いていた彼が、なぜここに。
修士課程の学生として紹介される健吾。
拍子抜けするほどいつもの口調で、TAとして紹介されただけなのに、鼓動は勝手に速くなる。
忘れようとしてきた一年半のあいだに、完全には消えていなかったものが、あっけなく目を覚ました。
まるで、眠っていた炎に風が吹き込まれたように。
「蛍、大丈夫?」
教室を出て少し歩いたところで、真帆が覗きこむ。
「え、なにが?」
「ひどい顔。急にどうしたの?」
「……大丈夫だよ」
「全然大丈夫に見えない。真っ青」
鏡を見なくても分かる。心の準備なんて、何ひとつできていなかった。まさか、またここで出会うなんて。
「あ、もしかして」
真帆の目が細くなる。
「TAの人?」
「……うん。昔の知り合い」
「高校の先輩とか?」
言いよどむ蛍の腕を、真帆が軽く引いた。
「まあいいや、とりあえずカフェでも行こう。ゆっくり話聞くから」
学食のカフェコーナー。
二人がけのテーブルに向かい合い、真帆はアイスコーヒー、蛍はホットミルクを頼む。
氷が薄く鳴り、カップの湯気が目の前でほどけた。
「で、どうしたの。さっきから様子おかしいよ」
「あのTA、俺の知ってる人で」
「それは分かった。で?」
「……昔、好きだった人」
「えっ」
真帆の声が跳ね、周囲の視線が一瞬だけ集まる。彼女は慌てて声量を落とした。
「マジで? 元カレ?」
「違う。片思い」
「いつ?」
「高校のとき」
蛍は、教育実習で来ていたこと、告白して振られたこと、相手に番がいたことをかいつまんで話す。
真帆は時々「うんうん」と相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。
「それで、まさかの再会」
「うん」
「すごい偶然。――運命?」
その言葉は、いつも健吾の周りで点灯する。
「分からない」
「今の気持ちは? まだ好き?」
「分からない」
見た瞬間に蘇った熱。
胸の奥で暴れる鼓動。
それが恋なのか、懐かしさの残光なのか判然としない。
時が止まったような感覚と、一気に巻き戻されるような混乱。
「でも、番がいるって言われたんだよね。もう結婚してるかも」
「かもね」
「でもさ、番がいるから絶対に諦めろって話でもないと思う」
「え?」
「だって、番になる前に別れるカップルもいるじゃん。それに、最近は番制度自体に疑問を持つ人も多いし」
「まあね」
「番だって破棄できるんでしょ?」
「うん、一応ね。ただ、やる人は少ないって聞くよ」
「でも、いないわけじゃない」
真帆の言葉は現実的だった。
確かに、番になることを誓い合って付き合っていても、正式に番になる前に別れるケースも、番となっても番を解消するケースもある。
いずれも可能性としては低い話ではあるものの、ゼロではない。
「私はベータだから番のことはよく分からないけど、蛍も変わったでしょ?」
「そうかな」
「そう。高校のときより大人になってる。向こうだって」
言われてみれば、確かに健吾も変わって見えた。以前よりもさらに落ち着いて、自信に満ちているようだった。
「で、どうするの」
「どうって……」
「普通に接してみれば? 向こうも覚えてるんでしょ」
「たぶん」
「じゃあ、昔の知り合いとして話す。まずはそれで、相手の状況も分かる」
「うーん」
「あら、意外と乗ってこない」
「……俺、けっこう慎重派なんだよ」
「意外」
真帆が苦笑する。
「慎重すぎると、チャンス逃すよ。人生、一度きりでしょ?」
「分かってるけど……」
傷つくのが怖い。また拒絶されるのが。それに、番がいるという事実は変わらない。
そのとき、蛍のスマホが震えた。
「あ、智也から。映像研究会、今日集まりがあるって」
「映研? 蛍、入ってたっけ」
「まだ。入ろうと思って見学に行くつもり。真帆も来る?」
「私も?」
「今日は上映会らしい。見学でも大丈夫」
少し迷って、真帆はうなずいた。
「うん。気分転換しよ」
文系校舎の地下にある部室へ向かい、指定された扉を開けると、ひんやりした空気とプロジェクターの低い唸りが迎える。
「おー、蛍!」
小野智也が手を振る。智也とは学科が違うが、同じ経済学部だった。高校時代からの友人で、彼の存在が心の支えになっている。
「お疲れ。こっちは友達の真帆」
「相沢真帆です。よろしく」
「小野智也。お噂はかねがね」
部屋は思ったより広く、スクリーンとスピーカーがきれいに組まれている。十人ほどの学生が既に集まっていた。
「今日は何の映画?」
蛍が智也に聞いた。
「フランス映画。恋愛もの」
「へえ」
「分かってないだろ」
「うん。まあ、おしゃれな感じはする」
智也と蛍の会話を聞いていた真帆が笑う。
「あれ、新入生? 小野君の友達?」
蛍と真帆に気が付いた上級生らしき男子生徒が声をかけてくる。
「はい、見学に来ました」
蛍が答えると、上級生は笑顔で手を振った。
「ようこそ! 俺、三年の田中です。部長やってます」
「白石蛍です」
「相沢真帆です」
「映像研究会は基本的にゆるい感じなので、気軽に参加してください。今日は『アメリ』を上映します」
「アメリ?」
「パリが舞台。ちょっと変わった女の子の恋と、ささやかな優しさの連鎖を描いた映画。運命的な出会いとか、偶然の重なりとか、そういうのが好きな人にはおすすめ」
運命的な出会い――その言葉が、胸に刺さる。
照明が落ち、音が立ち上がる。プロジェクターの光が塵をつかまえ、スクリーンに柔らかな色がひろがった。
パリのモンマルトル、奇譚めいた親切と、運命の糸の手繰り寄せ。アメリが自分から一歩を踏み出すたび、蛍の胸の奥で何かがかすかに動く。
(偶然の再会と、今日の自分、か)
主人公が恋に向かって歩き出す姿に、いつの間にか蛍は自分を重ねていた。
上映後に「どう?」と真帆が囁く。
「面白かった」
「主人公、勇気出したよね」
「……うん」
受け身のままでは、何も始まらない。
スクリーンが教えてくれる。偶然を運命に変えるのは、結局のところ自分の行動なのだと。
「お疲れさま」
挨拶をすると、田中がにっこり笑った。
「どう、映研。興味ある?」
「はい。入会したいです」
蛍が言うと、真帆が少し驚いた顔をした。
「私は……もう少し考えます」
部室を出て、三人でキャンパスを歩く。夕暮れが建物の輪郭をやわらかくなぞる。
「俺、今日、健ちゃんに会った」
「え」
智也が足を止める。
「教育実習で来てた、あの先生?」
「そう。芦原先生」
「え、でも、関西の大学じゃなかった?」
「そう聞いてたけど」
「大丈夫か?」
「びっくりはしたけど、大丈夫」
真帆は心配そうにやりとりを見守っていたが、「蛍が追いかけたんじゃなくて、本当に偶然?」と声を上げた。
「うん、本当に」
その言葉に少し苦笑いが浮かぶ。
「でもさ、芦原先生って情報の先生だったよな。なんで経済のTA?」
「うちの大学も経済学部の学生は情報の教免をとれるから、芦原さんの大学もそうだったのかも。研究分野も幅広いし」
真帆の言葉に、智也は納得したようだった。
「なるほど」
智也が頷く。
「それにしても、すごい偶然だな」
「ほんと」
運命、という言葉が、また頭をよぎる。三度目の出会い。これが最後なのか、それとも新しい始まりなのか。
「今度、ちゃんと話してみたら」
智也が言う。
「高校のときはタイミング悪かっただけかもしれない。番の話も本当か分からないし」
「そうかな」
「私も賛成」
真帆が続ける。
「今は立場も対等だし、前より話しやすいはずだよ。それに、映画を観て思った。行動しないと何も始まらない」
三人は中庭のベンチに腰を下ろした。空はゆっくりとオレンジに溶け、風が肌を撫でる。
「映画も面白かったし、今日はいい日だったね」
真帆が満足そうに言った。
「そうだね」
蛍は空を見上げる。予想外の再会。映像研究会への入会。そして友人たちの後押し。
高校のときとは違う。
立場も年齢も、経験も。
少しだけ前へ進んだ自分がいる。もしかしたら、何かが変わるかもしれない。
夕暮れの風が、頬を撫でていく。新しい可能性の匂いを、わずかに含ませながら。
そして――運命の三度目。ジェンダー経済学の最初の講義で、蛍は健吾と再会した。
関西の大学にいると聞いていた彼が、なぜここに。
修士課程の学生として紹介される健吾。
拍子抜けするほどいつもの口調で、TAとして紹介されただけなのに、鼓動は勝手に速くなる。
忘れようとしてきた一年半のあいだに、完全には消えていなかったものが、あっけなく目を覚ました。
まるで、眠っていた炎に風が吹き込まれたように。
「蛍、大丈夫?」
教室を出て少し歩いたところで、真帆が覗きこむ。
「え、なにが?」
「ひどい顔。急にどうしたの?」
「……大丈夫だよ」
「全然大丈夫に見えない。真っ青」
鏡を見なくても分かる。心の準備なんて、何ひとつできていなかった。まさか、またここで出会うなんて。
「あ、もしかして」
真帆の目が細くなる。
「TAの人?」
「……うん。昔の知り合い」
「高校の先輩とか?」
言いよどむ蛍の腕を、真帆が軽く引いた。
「まあいいや、とりあえずカフェでも行こう。ゆっくり話聞くから」
学食のカフェコーナー。
二人がけのテーブルに向かい合い、真帆はアイスコーヒー、蛍はホットミルクを頼む。
氷が薄く鳴り、カップの湯気が目の前でほどけた。
「で、どうしたの。さっきから様子おかしいよ」
「あのTA、俺の知ってる人で」
「それは分かった。で?」
「……昔、好きだった人」
「えっ」
真帆の声が跳ね、周囲の視線が一瞬だけ集まる。彼女は慌てて声量を落とした。
「マジで? 元カレ?」
「違う。片思い」
「いつ?」
「高校のとき」
蛍は、教育実習で来ていたこと、告白して振られたこと、相手に番がいたことをかいつまんで話す。
真帆は時々「うんうん」と相槌を打ちながら、最後まで聞いてくれた。
「それで、まさかの再会」
「うん」
「すごい偶然。――運命?」
その言葉は、いつも健吾の周りで点灯する。
「分からない」
「今の気持ちは? まだ好き?」
「分からない」
見た瞬間に蘇った熱。
胸の奥で暴れる鼓動。
それが恋なのか、懐かしさの残光なのか判然としない。
時が止まったような感覚と、一気に巻き戻されるような混乱。
「でも、番がいるって言われたんだよね。もう結婚してるかも」
「かもね」
「でもさ、番がいるから絶対に諦めろって話でもないと思う」
「え?」
「だって、番になる前に別れるカップルもいるじゃん。それに、最近は番制度自体に疑問を持つ人も多いし」
「まあね」
「番だって破棄できるんでしょ?」
「うん、一応ね。ただ、やる人は少ないって聞くよ」
「でも、いないわけじゃない」
真帆の言葉は現実的だった。
確かに、番になることを誓い合って付き合っていても、正式に番になる前に別れるケースも、番となっても番を解消するケースもある。
いずれも可能性としては低い話ではあるものの、ゼロではない。
「私はベータだから番のことはよく分からないけど、蛍も変わったでしょ?」
「そうかな」
「そう。高校のときより大人になってる。向こうだって」
言われてみれば、確かに健吾も変わって見えた。以前よりもさらに落ち着いて、自信に満ちているようだった。
「で、どうするの」
「どうって……」
「普通に接してみれば? 向こうも覚えてるんでしょ」
「たぶん」
「じゃあ、昔の知り合いとして話す。まずはそれで、相手の状況も分かる」
「うーん」
「あら、意外と乗ってこない」
「……俺、けっこう慎重派なんだよ」
「意外」
真帆が苦笑する。
「慎重すぎると、チャンス逃すよ。人生、一度きりでしょ?」
「分かってるけど……」
傷つくのが怖い。また拒絶されるのが。それに、番がいるという事実は変わらない。
そのとき、蛍のスマホが震えた。
「あ、智也から。映像研究会、今日集まりがあるって」
「映研? 蛍、入ってたっけ」
「まだ。入ろうと思って見学に行くつもり。真帆も来る?」
「私も?」
「今日は上映会らしい。見学でも大丈夫」
少し迷って、真帆はうなずいた。
「うん。気分転換しよ」
文系校舎の地下にある部室へ向かい、指定された扉を開けると、ひんやりした空気とプロジェクターの低い唸りが迎える。
「おー、蛍!」
小野智也が手を振る。智也とは学科が違うが、同じ経済学部だった。高校時代からの友人で、彼の存在が心の支えになっている。
「お疲れ。こっちは友達の真帆」
「相沢真帆です。よろしく」
「小野智也。お噂はかねがね」
部屋は思ったより広く、スクリーンとスピーカーがきれいに組まれている。十人ほどの学生が既に集まっていた。
「今日は何の映画?」
蛍が智也に聞いた。
「フランス映画。恋愛もの」
「へえ」
「分かってないだろ」
「うん。まあ、おしゃれな感じはする」
智也と蛍の会話を聞いていた真帆が笑う。
「あれ、新入生? 小野君の友達?」
蛍と真帆に気が付いた上級生らしき男子生徒が声をかけてくる。
「はい、見学に来ました」
蛍が答えると、上級生は笑顔で手を振った。
「ようこそ! 俺、三年の田中です。部長やってます」
「白石蛍です」
「相沢真帆です」
「映像研究会は基本的にゆるい感じなので、気軽に参加してください。今日は『アメリ』を上映します」
「アメリ?」
「パリが舞台。ちょっと変わった女の子の恋と、ささやかな優しさの連鎖を描いた映画。運命的な出会いとか、偶然の重なりとか、そういうのが好きな人にはおすすめ」
運命的な出会い――その言葉が、胸に刺さる。
照明が落ち、音が立ち上がる。プロジェクターの光が塵をつかまえ、スクリーンに柔らかな色がひろがった。
パリのモンマルトル、奇譚めいた親切と、運命の糸の手繰り寄せ。アメリが自分から一歩を踏み出すたび、蛍の胸の奥で何かがかすかに動く。
(偶然の再会と、今日の自分、か)
主人公が恋に向かって歩き出す姿に、いつの間にか蛍は自分を重ねていた。
上映後に「どう?」と真帆が囁く。
「面白かった」
「主人公、勇気出したよね」
「……うん」
受け身のままでは、何も始まらない。
スクリーンが教えてくれる。偶然を運命に変えるのは、結局のところ自分の行動なのだと。
「お疲れさま」
挨拶をすると、田中がにっこり笑った。
「どう、映研。興味ある?」
「はい。入会したいです」
蛍が言うと、真帆が少し驚いた顔をした。
「私は……もう少し考えます」
部室を出て、三人でキャンパスを歩く。夕暮れが建物の輪郭をやわらかくなぞる。
「俺、今日、健ちゃんに会った」
「え」
智也が足を止める。
「教育実習で来てた、あの先生?」
「そう。芦原先生」
「え、でも、関西の大学じゃなかった?」
「そう聞いてたけど」
「大丈夫か?」
「びっくりはしたけど、大丈夫」
真帆は心配そうにやりとりを見守っていたが、「蛍が追いかけたんじゃなくて、本当に偶然?」と声を上げた。
「うん、本当に」
その言葉に少し苦笑いが浮かぶ。
「でもさ、芦原先生って情報の先生だったよな。なんで経済のTA?」
「うちの大学も経済学部の学生は情報の教免をとれるから、芦原さんの大学もそうだったのかも。研究分野も幅広いし」
真帆の言葉に、智也は納得したようだった。
「なるほど」
智也が頷く。
「それにしても、すごい偶然だな」
「ほんと」
運命、という言葉が、また頭をよぎる。三度目の出会い。これが最後なのか、それとも新しい始まりなのか。
「今度、ちゃんと話してみたら」
智也が言う。
「高校のときはタイミング悪かっただけかもしれない。番の話も本当か分からないし」
「そうかな」
「私も賛成」
真帆が続ける。
「今は立場も対等だし、前より話しやすいはずだよ。それに、映画を観て思った。行動しないと何も始まらない」
三人は中庭のベンチに腰を下ろした。空はゆっくりとオレンジに溶け、風が肌を撫でる。
「映画も面白かったし、今日はいい日だったね」
真帆が満足そうに言った。
「そうだね」
蛍は空を見上げる。予想外の再会。映像研究会への入会。そして友人たちの後押し。
高校のときとは違う。
立場も年齢も、経験も。
少しだけ前へ進んだ自分がいる。もしかしたら、何かが変わるかもしれない。
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