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第2章
第五話
夏休みに入って間もなく、蛍は映像研究会の活動で部室を訪れていた。
上映会の片付けを終えた部長の田中が、ふと声をかけてくる。
「そうだ、『ヴィクトリア』って知ってる?」
「いえ、知らないです」
「ドイツ映画なんだけど、全編ワンカットで撮影された作品なんだ。話題作だから、時間があったら見てみて」
調べてみると単館上映で、一日二回のみ。智也を誘ったが、ちょうどバイトとかぶってしまった。
その話をカフェで落ち合った真帆にすると心配そうに眉を寄せた。
「一人で映画館に行くの?」
「うん」
「私も行こうか?」
「大丈夫、一人の方が集中できるから」
上映当日。
小ぶりな映画館は冷房が強めで、ロビーには古いヨーロッパ映画のポスターが所狭しと貼られている。
端が少し丸まったそれらを眺めながら、蛍は開場を待った。
場内に入ると、座席数は五十ほど。
平日の午後ということもあり、観客はまばらだった。
蛍は光が均等に届く中央やや後方の席に腰を下ろす。
やがて照明が落ち、スクリーン前の微細な埃が最後の光をつかまえて舞った。
暗闇が深まる直前、ひとつ席を空けて誰かが座る気配がした。視線を向けると、まさかの健吾だった。
「え、蛍?」
小さく驚きの声が重なる。
「健ちゃん」
「偶然だね。この映画見に来たの?」
「うん。先輩に勧められて」
「俺も映画好きなんだ。まさか知り合いに会うとは思わなかった」
音響が立ち上がり、二人はスクリーンへ視線を戻す。
『ヴィクトリア』はベルリンの一夜を切り取り、息継ぎのない一続きの時間で観客を連れ回す映画だった。
スペイン人女性ヴィクトリアが、ドイツの若者たちと出会い、気づけば事件の中心に呑み込まれていく。
手持ちカメラの揺れと登場人物の呼吸の速さが、そのまま臨場感になって押し寄せる。
百四十分間、蛍は息をするのも忘れるほど画面に集中していた。
上映後、外気に触れると、身体の緊張が少し抜けた。館内が明るくなり、現実感が徐々に蘇ってくる。
「どうだった?」
健吾が感想を促す。
「面白かった。本当にワンカットだなんて信じられない」
「俺も。あの臨場感は他の映画では味わえないよね」
「自分が映画の登場人物の一人になったみたいな感覚だった」
蛍は一拍、勇気を溜めて口を開いた。
「あの、もしよければカフェでも行かない? 映画の感想、もっと聞きたい」
「いいね。ちょうど時間もあるし」
映画館から歩いて数分の小さなカフェに入る。
窓際の丸テーブルに向かい合って座ると、街の喧騒が心地良いBGMになった。
健吾はアイスコーヒー、蛍はアイスティーを注文する。
「ヴィクトリアが最初は楽しそうだったのに、だんだん巻き込まれていく展開がすごくリアルだった」
「うん。映画の時間と実際に流れる時間が一緒だから、最初はダラダラして退屈かなって思ったけど、ほとんど即興っていうのは信じられないくらい面白かったね」
健吾の解釈は的確で、蛍は素直に感心する。
映画について語る健吾の表情は生き生きとしていて、研究室で見せる顔とはまた違った魅力があった。
「健ちゃんって、よく映画見るの?」
「そうだね。研究の息抜きに。特にヨーロッパ系の作品が好きかな」
「俺も最近、映像研究会に入って色々見るようになったんだ」
「そうなんだ。今度、お勧めの映画があったら教えるよ」
氷の溶ける音が小さく響く中、健吾のスマートフォンが振動した。
画面に『尚』という人物からのメッセージ通知が浮かぶのが見える。
一瞬の引っかかりが胸を過ぎるが、蛍はそれを振り払った。
「ごめん、ちょっと確認するね」
健吾が短く画面に目を落としている間、蛍は次の言葉を探す。今がチャンスだ。
「健ちゃん、連絡先、交換しない? 映画のこととか教えてほしい」
心臓が速く打つ。
「うん、もちろん」
スマートフォンを取り出し、連絡先を交換する。
画面に健吾の名前が追加されるだけで、胸の内側が明るくなった。
「今日は楽しかった。また映画の話をしよう」
「こちらこそ、ありがとう」
帰り道、アスファルトに残る日中の熱が夜風に薄まり、足取りが自然と軽くなる。
偶然の出会いから、自然に会話が生まれ、そして念願の連絡先交換――。
その夜、蛍は慎重に言葉を選んでメッセージを送った。
「今日はありがとう。とても楽しかった」
ほどなく返事が届く。
「こちらこそ。また良い映画があったら教えるね」
枕を抱きしめ、蛍は小さく声にならない歓声を漏らした。
夏が、特別な季節に変わりはじめているのを感じた。
上映会の片付けを終えた部長の田中が、ふと声をかけてくる。
「そうだ、『ヴィクトリア』って知ってる?」
「いえ、知らないです」
「ドイツ映画なんだけど、全編ワンカットで撮影された作品なんだ。話題作だから、時間があったら見てみて」
調べてみると単館上映で、一日二回のみ。智也を誘ったが、ちょうどバイトとかぶってしまった。
その話をカフェで落ち合った真帆にすると心配そうに眉を寄せた。
「一人で映画館に行くの?」
「うん」
「私も行こうか?」
「大丈夫、一人の方が集中できるから」
上映当日。
小ぶりな映画館は冷房が強めで、ロビーには古いヨーロッパ映画のポスターが所狭しと貼られている。
端が少し丸まったそれらを眺めながら、蛍は開場を待った。
場内に入ると、座席数は五十ほど。
平日の午後ということもあり、観客はまばらだった。
蛍は光が均等に届く中央やや後方の席に腰を下ろす。
やがて照明が落ち、スクリーン前の微細な埃が最後の光をつかまえて舞った。
暗闇が深まる直前、ひとつ席を空けて誰かが座る気配がした。視線を向けると、まさかの健吾だった。
「え、蛍?」
小さく驚きの声が重なる。
「健ちゃん」
「偶然だね。この映画見に来たの?」
「うん。先輩に勧められて」
「俺も映画好きなんだ。まさか知り合いに会うとは思わなかった」
音響が立ち上がり、二人はスクリーンへ視線を戻す。
『ヴィクトリア』はベルリンの一夜を切り取り、息継ぎのない一続きの時間で観客を連れ回す映画だった。
スペイン人女性ヴィクトリアが、ドイツの若者たちと出会い、気づけば事件の中心に呑み込まれていく。
手持ちカメラの揺れと登場人物の呼吸の速さが、そのまま臨場感になって押し寄せる。
百四十分間、蛍は息をするのも忘れるほど画面に集中していた。
上映後、外気に触れると、身体の緊張が少し抜けた。館内が明るくなり、現実感が徐々に蘇ってくる。
「どうだった?」
健吾が感想を促す。
「面白かった。本当にワンカットだなんて信じられない」
「俺も。あの臨場感は他の映画では味わえないよね」
「自分が映画の登場人物の一人になったみたいな感覚だった」
蛍は一拍、勇気を溜めて口を開いた。
「あの、もしよければカフェでも行かない? 映画の感想、もっと聞きたい」
「いいね。ちょうど時間もあるし」
映画館から歩いて数分の小さなカフェに入る。
窓際の丸テーブルに向かい合って座ると、街の喧騒が心地良いBGMになった。
健吾はアイスコーヒー、蛍はアイスティーを注文する。
「ヴィクトリアが最初は楽しそうだったのに、だんだん巻き込まれていく展開がすごくリアルだった」
「うん。映画の時間と実際に流れる時間が一緒だから、最初はダラダラして退屈かなって思ったけど、ほとんど即興っていうのは信じられないくらい面白かったね」
健吾の解釈は的確で、蛍は素直に感心する。
映画について語る健吾の表情は生き生きとしていて、研究室で見せる顔とはまた違った魅力があった。
「健ちゃんって、よく映画見るの?」
「そうだね。研究の息抜きに。特にヨーロッパ系の作品が好きかな」
「俺も最近、映像研究会に入って色々見るようになったんだ」
「そうなんだ。今度、お勧めの映画があったら教えるよ」
氷の溶ける音が小さく響く中、健吾のスマートフォンが振動した。
画面に『尚』という人物からのメッセージ通知が浮かぶのが見える。
一瞬の引っかかりが胸を過ぎるが、蛍はそれを振り払った。
「ごめん、ちょっと確認するね」
健吾が短く画面に目を落としている間、蛍は次の言葉を探す。今がチャンスだ。
「健ちゃん、連絡先、交換しない? 映画のこととか教えてほしい」
心臓が速く打つ。
「うん、もちろん」
スマートフォンを取り出し、連絡先を交換する。
画面に健吾の名前が追加されるだけで、胸の内側が明るくなった。
「今日は楽しかった。また映画の話をしよう」
「こちらこそ、ありがとう」
帰り道、アスファルトに残る日中の熱が夜風に薄まり、足取りが自然と軽くなる。
偶然の出会いから、自然に会話が生まれ、そして念願の連絡先交換――。
その夜、蛍は慎重に言葉を選んでメッセージを送った。
「今日はありがとう。とても楽しかった」
ほどなく返事が届く。
「こちらこそ。また良い映画があったら教えるね」
枕を抱きしめ、蛍は小さく声にならない歓声を漏らした。
夏が、特別な季節に変わりはじめているのを感じた。
感想 12
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