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破れた契約書
終わりの始まり
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「わかった、すぐ行く」
仕事中に優斗からの電話。そんなことは滅多にない…いや、全くない。つまり、佳江さんに何かがあったということだ。
着信の画面を見た時点でわかっていた。だから電話を取りたくなかった…でも取らないことなんて出来るはずがない。
すぐ病院に行って欲しい。俺も今すぐ会社出るから。
…案の定、そういう聞きたくない言葉だった。
大丈夫だよね、持ち直すことだっていくらでもあるんだから。早く会いたい。佳江さん…!
「佳江さん!!」
「未央ちゃん」
息を切らして病室にたどり着き、ベッドに駆け寄るあたしの顔を見て佳江さんが力なくにっこりと笑った。
「今日は外あったかいの?未央ちゃんすごい汗」
会社を出てタクシーに飛び乗ったものの渋滞に巻き込まれてしまった為、途中で降りて約一駅分程の病院までの距離を走ってきた。
無我夢中でここまで来たから佳江さんにそう言われるまで気付かなかったけれど、下ろしている髪がところどころ首に張り付き、額から汗が流れていた。はぁはぁと息を荒らげながらそれを手で拭い佳江さんの言葉に耳を傾ける。
「はぁ、はぁ…優斗は…」
「優斗?まだ来てないみたいね…ごめんね、未央ちゃん忙しいのに」
「何で謝るんですかっ…」
すっかり痩せてしまった佳江さんの、優斗に似た奥二重の優しい目が顔まで痩せてしまっているせいで大きく見える。それでもその瞳は今日も、以前と変わらない優しさに満ち溢れている。
「また皆でご飯食べに行きたかったね」
「行きたかった、じゃなくて行きましょ、お母さんも連れてきますから!」
「うーん…そうね…」
「行きたかったなんて言い方しちゃ嫌です」
「ごめんね。でも…ね、未央ちゃん」
「はい」
「これからは無理して嫌なことしなくていいからね」
「…どういうことですか?」
「もうあたしのことは考えなくていいから、好きなことして生きて、幸せになるのよ」
「何言ってるんですか!!」
「未央ちゃんは優しすぎて無理しちゃう子だからね…だから…」
佳江さんの言葉の続きを逃さないように息を潜めて声を聞き取ろうとしたけれど、佳江さんは何も言わず目を閉じてしまった。
「佳江さん!嘘でしょ?佳江さん!」
取り乱すあたしを看護師さんが落ち着いてください!と宥める。あたしたちの声に気づいた佳江さんが再び目を覚ました。
「未央ちゃんありがとう。大好き」
佳江さんはいつもと同じ優しい笑顔でそう言った後、再び目を閉じた。
小さなライトの光、腕時計を見るお医者さん、共に一礼をする看護師さん。扉が開き、駆け寄る優斗。子供のような泣き声。がらがらと響くストレッチャーの音。
呆然とあたしはただそこにいるだけだった。
…長い夢を見ているかのように、あやふやとした意識の中で全てが終わっていった。順番はわからないけれど、色々なことが起きた。
佳江さんのお友達や親戚、あたしのお母さんが集まり皆が泣いていた。弔辞では優斗が何度も声をつまらせた。葬儀会社の車のホーンが悲しく響き、気付けばあたしは黒い服を身に纏い風呂敷を巻いた小さな壷を手に持っていた。優斗の会社の人や知り合いには上手く接することが出来ていただろうか。
本来はもう佳江さんは赤の他人なのに、妻の立場としてここにいていいのだろうか。亡くなった佳江さんにあまりにも失礼じゃないのか。
けれど周りはあたしと優斗が離婚したことを知らないし、世間体どうこうよりもどうか、ただ隣にいて欲しいと優斗に言われてそうせざるを得なかった。
悲しいのに、涙が出なかった。それ以上に申し訳なさが募りすぎて…
これからは無理して嫌なことしなくていいからね。
佳江さんはあたしたちのことに気付いていた。離婚をしたということまではわからなくても、あたしと優斗の違和感をきっとずっと、感じていたのだ。
何かが今までと違うことを、いつからわかっていたのだろう。
そのことを佳江さんはどんな風に思っていたのだろう。自分の為に無理をしてくれている、申し訳ないなんて思わせてしまっていたのだろうか。もう佳江さんに聞くことが出来ないから、答えがない。
ただでさえ辛い体で生きてきた佳江さんの心まで病ませてしまっていたのかもしれない。
あたしと優斗が嘘を付いて笑顔を作っていたことで佳江さんの神経をすり減らしてしまったのかもしれない。
そんな気苦労をかけなければ、佳江さんはもう少し生きていてくれたかもしれない。
離婚したことをちゃんと伝えて、それでも佳江さんが大好きだから会いに行きたいと話してお見舞いに行っていれば良かった。
罪悪感で体がちぎれそうだ。
優斗は毎日泣いている。
優斗には兄弟がいない。父親ももういない。そして母親までもいなくなった。
優斗が眠りにつくまで、抱きしめて頭を撫でることしか出来ない。言葉もかけられない。
あたしが支えなきゃ…。少しでも、悲しみが和らぐなら。
***
初七日を終えた夜のことだった。
「未央…ちょっといいかな」
げっそりとした表情の優斗が、食事を作っているあたしに声を掛けて後ろから抱きついてきた。
「どうしたの」
「…終わりにしよう、こんなこと」
「終わりって?」
「契約は今日で終了しよう」
仕事中に優斗からの電話。そんなことは滅多にない…いや、全くない。つまり、佳江さんに何かがあったということだ。
着信の画面を見た時点でわかっていた。だから電話を取りたくなかった…でも取らないことなんて出来るはずがない。
すぐ病院に行って欲しい。俺も今すぐ会社出るから。
…案の定、そういう聞きたくない言葉だった。
大丈夫だよね、持ち直すことだっていくらでもあるんだから。早く会いたい。佳江さん…!
「佳江さん!!」
「未央ちゃん」
息を切らして病室にたどり着き、ベッドに駆け寄るあたしの顔を見て佳江さんが力なくにっこりと笑った。
「今日は外あったかいの?未央ちゃんすごい汗」
会社を出てタクシーに飛び乗ったものの渋滞に巻き込まれてしまった為、途中で降りて約一駅分程の病院までの距離を走ってきた。
無我夢中でここまで来たから佳江さんにそう言われるまで気付かなかったけれど、下ろしている髪がところどころ首に張り付き、額から汗が流れていた。はぁはぁと息を荒らげながらそれを手で拭い佳江さんの言葉に耳を傾ける。
「はぁ、はぁ…優斗は…」
「優斗?まだ来てないみたいね…ごめんね、未央ちゃん忙しいのに」
「何で謝るんですかっ…」
すっかり痩せてしまった佳江さんの、優斗に似た奥二重の優しい目が顔まで痩せてしまっているせいで大きく見える。それでもその瞳は今日も、以前と変わらない優しさに満ち溢れている。
「また皆でご飯食べに行きたかったね」
「行きたかった、じゃなくて行きましょ、お母さんも連れてきますから!」
「うーん…そうね…」
「行きたかったなんて言い方しちゃ嫌です」
「ごめんね。でも…ね、未央ちゃん」
「はい」
「これからは無理して嫌なことしなくていいからね」
「…どういうことですか?」
「もうあたしのことは考えなくていいから、好きなことして生きて、幸せになるのよ」
「何言ってるんですか!!」
「未央ちゃんは優しすぎて無理しちゃう子だからね…だから…」
佳江さんの言葉の続きを逃さないように息を潜めて声を聞き取ろうとしたけれど、佳江さんは何も言わず目を閉じてしまった。
「佳江さん!嘘でしょ?佳江さん!」
取り乱すあたしを看護師さんが落ち着いてください!と宥める。あたしたちの声に気づいた佳江さんが再び目を覚ました。
「未央ちゃんありがとう。大好き」
佳江さんはいつもと同じ優しい笑顔でそう言った後、再び目を閉じた。
小さなライトの光、腕時計を見るお医者さん、共に一礼をする看護師さん。扉が開き、駆け寄る優斗。子供のような泣き声。がらがらと響くストレッチャーの音。
呆然とあたしはただそこにいるだけだった。
…長い夢を見ているかのように、あやふやとした意識の中で全てが終わっていった。順番はわからないけれど、色々なことが起きた。
佳江さんのお友達や親戚、あたしのお母さんが集まり皆が泣いていた。弔辞では優斗が何度も声をつまらせた。葬儀会社の車のホーンが悲しく響き、気付けばあたしは黒い服を身に纏い風呂敷を巻いた小さな壷を手に持っていた。優斗の会社の人や知り合いには上手く接することが出来ていただろうか。
本来はもう佳江さんは赤の他人なのに、妻の立場としてここにいていいのだろうか。亡くなった佳江さんにあまりにも失礼じゃないのか。
けれど周りはあたしと優斗が離婚したことを知らないし、世間体どうこうよりもどうか、ただ隣にいて欲しいと優斗に言われてそうせざるを得なかった。
悲しいのに、涙が出なかった。それ以上に申し訳なさが募りすぎて…
これからは無理して嫌なことしなくていいからね。
佳江さんはあたしたちのことに気付いていた。離婚をしたということまではわからなくても、あたしと優斗の違和感をきっとずっと、感じていたのだ。
何かが今までと違うことを、いつからわかっていたのだろう。
そのことを佳江さんはどんな風に思っていたのだろう。自分の為に無理をしてくれている、申し訳ないなんて思わせてしまっていたのだろうか。もう佳江さんに聞くことが出来ないから、答えがない。
ただでさえ辛い体で生きてきた佳江さんの心まで病ませてしまっていたのかもしれない。
あたしと優斗が嘘を付いて笑顔を作っていたことで佳江さんの神経をすり減らしてしまったのかもしれない。
そんな気苦労をかけなければ、佳江さんはもう少し生きていてくれたかもしれない。
離婚したことをちゃんと伝えて、それでも佳江さんが大好きだから会いに行きたいと話してお見舞いに行っていれば良かった。
罪悪感で体がちぎれそうだ。
優斗は毎日泣いている。
優斗には兄弟がいない。父親ももういない。そして母親までもいなくなった。
優斗が眠りにつくまで、抱きしめて頭を撫でることしか出来ない。言葉もかけられない。
あたしが支えなきゃ…。少しでも、悲しみが和らぐなら。
***
初七日を終えた夜のことだった。
「未央…ちょっといいかな」
げっそりとした表情の優斗が、食事を作っているあたしに声を掛けて後ろから抱きついてきた。
「どうしたの」
「…終わりにしよう、こんなこと」
「終わりって?」
「契約は今日で終了しよう」
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