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第1章:灰色の聖域
第5話 成人の試練
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カイが十五歳になった日の朝は、いつもと変わらぬ静寂から始まった。
鐘楼の鐘が七つ鳴り、リラの優しい声が彼を現へと呼び戻す。食堂では、ギデオンの寡黙な存在感と、エリアーデの論理的な小言が彼を迎えた。何も変わらない、灰色の森の日常。
だが、その日の空気は、いつもと決定的に違っていた。朝餉の席についた三人の育ての親たちは、言葉こそ交わさないものの、その佇まいに重々しい覚悟のようなものが滲んでいた。まるで、これから起こる何かを静かに待っているかのように。
「カイ」
食事が終わると、最初に口を開いたのはギデオンだった。彼の鎧の奥から響く声は、いつになく真剣な響きを帯びていた。
「今日はお前に、成人の試練を課す」
成人の試練。カイはその言葉を、物語の中でしか聞いたことがなかった。森の外の世界では、若者が一人前と認められるための儀式があるのだと、リラが歌ってくれたことがある。
エリアーデのページに、静かに文字が浮かぶ。
『これは、君が我々の元で何を学び、どれほどの力を得たかを測るための、最終試験です』
「試練……?」カイはゴクリと喉を鳴らした。「一体、何をすればいいんだ?」
リラが、悲しみを堪えるように目を伏せた。
「聖域の境界に、これまでで最も大きく、そして邪悪な『歪み』が生まれています。……それを、あなた一人で、討伐してほしいのです」
その言葉は、カイの心に衝撃となって突き刺さった。「まだ早い」と、あれほどカイを危険から遠ざけていた彼らが、なぜ。
「どうして……急に」
「お前が、自らの力を示したからだ」
ギデオンは、泉での一件に直接触れることはなかったが、その言葉が何を指しているかは明白だった。
「我々はお前を守ってきた。だが、その力が外に漏れ出した以上、もはや守り続けることだけが最善ではない。お前が自らの力で運命を切り拓けるのか、それを見極めねばならなくなった」
エリアーデが補足する。
『論理的帰結です。君という存在は、もはや我々の結界の中に留めておける規模のパラメーターではありません。君自身の生存確率を最大化するためには、君の戦闘能力と判断力を、実戦下で正確に査定する必要があります』
彼らの言葉は、どこか突き放すように冷たく聞こえた。しかしカイは、その奥にある深い苦悩を感じ取っていた。これは、彼らが悩み抜いた末に出した、苦渋の決断なのだ。カイを信じ、その成長を認めたいという想いと、彼を危険な運命に晒すことへの恐怖。その二つの間で、彼らは揺れている。
「……わかった。やるよ」
カイは、腹の底から声を絞り出した。育ての親たちの想いに応えたい。彼らが授けてくれた全てを、今こそ証明する時だ。
準備は、黙々と進められた。
ギデオンは、カイのために手入れを続けてきた、本物の鋼で作られた片刃の長剣を手渡した。それはカイの背丈に合わせて作られた特注品で、ずしりとした重みが、訓練用の木剣とは全く違う現実感を伝えてくる。
「これは、ただの鉄ではない。お前を守る、俺の意志だと思え」
エリアーデは、防御術式が幾重にも織り込まれた、黒い革の戦装束を差し出した。
『エーテル伝導率、物理的衝撃への耐性、あらゆる数値を最適化してあります。ですが、過信は禁物です。最高の防具は、君自身の危機察知能力です』
そしてリラは、カイの手をそっと握りしめた。彼女の半透明の身体が、これまでになく鮮明に、そして力強く輝いている。
「私の歌を、あなたの心に。……どうか、ご無事で」
彼女の魂の響きが、カイの心に直接流れ込み、恐怖で強張りそうになる精神を内側から支えてくれた。
武装を終えたカイは、三人に背を向け、聖域の境界へと続く丘を一人で登り始めた。背中に感じる三対の視線が、重く、そして温かい。
丘の頂上に立つと、眼下に広がる光景に息を呑んだ。
結界の向こう側、森の一画が、まるで巨大な口が開いたかのように、暗く、深く歪んでいた。これまでの「歪み」とは比較にならないほどの規模だ。空間そのものが病み、腐臭を放っているかのようだった。
その中心に、それはいた。
複数の獣を無理やり一つに繋ぎ合わせたような、冒涜的な姿だった。鋭い牙を剥く貪欲な狼の頭部が、分厚い筋肉と脂肪に覆われた強靭な熊の胴体につながっている。そして、そのアンバランスで凄まじい重量を支えているのは、細くしなやかな鹿の四肢だった。背骨の終わりからは、鱗に覆われた長大な蛇の尾が不気味に蠢いている。その全身からは黒い瘴気が立ち上り、周囲の木々を枯らし、大地を腐らせていた。
「これが……」
ギデオンとの訓練で対峙したどんな仮想敵よりも、エリアーデの書物で読んだどんな魔物よりも、それは圧倒的に邪悪で、強大な気配を放っていた。
カイは長剣を抜き放ち、深く息を吸う。リラの歌が、心の中で守りの旋律を奏でている。ギデオンの教えが、身体に正しい構えを取らせる。エリアーデの知識が、敵の弱点を冷静に分析させる。
自分は、一人じゃない。
カイは大地を蹴り、結界の向こう側――色を取り戻した、しかし「歪み」に汚染された森へと、生まれて初めて足を踏み入れた。
「歪み」の獣は、侵入者を認めると、地を揺るがすほどの咆哮を上げた。それは、ただの威嚇ではない。魂を直接削るような、呪詛に満ちた叫びだった。リラの加護がなければ、カイはそれだけで正気を失っていたかもしれない。
獣の爪が、岩をも砕く勢いで振り下ろされる。カイはそれを剣で受け流すが、腕に痺れるほどの衝撃が走った。力が、違いすぎる。
(正面からの打ち合いは不利だ!)
カイは即座に判断し、距離を取る。獣は巨体に見合わぬ俊敏さで追撃してくる。蛇の尾が鞭のようにしなり、地面を抉った。
逃げ回りながら、カイは必死に活路を探す。
ギデオンは言った。「敵の力を利用しろ」。
エリアーデは言った。「法則を理解し、応用しろ」。
(力と、法則……)
カイは、獣の動きを注意深く観察する。猪突猛進に近い直線的な突進、狼の頭部による噛みつき、そして蛇の尾による奇襲。攻撃は多角的だが、その動きにはある種の「無理」が見て取れた。
(あの脚だ……! 鹿の脚は、森を疾走するためのもの。あの細さで、熊の巨体を支えながら急な方向転換はできないはずだ。直線のスピードは脅威だが、横からの衝撃や、足元への攻撃には間違いなく脆い!)
狙いは定まった。だが、どうやってあの猛攻を掻い潜り、脚に一撃を入れるか。
その時、カイの脳裏に、あの二つの理が再び交錯した。
カイは、獣に向かって真っ直ぐに突進した。自殺行為にも等しい動きに、獣は嘲笑うかのように巨大な顎を開く。
「――《粘性付与》!」
カイが短く詠唱すると、獣の足元の地面が、一瞬だけ沼のように粘性を帯びた。ほんの初歩的な土の魔法。獣の動きが1秒鈍る。
だが、カイにとってはその一瞬で十分だった。
彼は、獣の顎が閉じる寸前に、その側面を駆け抜ける。そして、すれ違いざま、粘性にはまった獣の後ろ脚の腱に、長剣を深く突き立てた。
ギャ、と獣の咆哮が、苦痛の響きに変わる。
体勢を崩した獣に、カイは追撃の暇を与えない。
「――《音響集中》!」
今度は風の魔法。詠唱と同時に、カイは剣の柄頭で、近くにあった岩を力任せに殴りつけた。キィン、という甲高い金属音が、魔法によって指向性を与えられ、一本の槍となって獣の耳――狼の急所へと突き刺さる。
獣は完全に平衡感覚を失い、巨体を地面に横たえた。
勝機。
カイは、倒れた獣の首元へと駆け寄る。心臓部は熊の分厚い脂肪と筋肉に守られているが、首ならば。
彼は長剣を両手で握りしめ、全体重を乗せて、それを獣の喉元に突き立てようとした。
その瞬間だった。
動けないと思っていた蛇の尾が、背後からカイの身体に巻き付いてきた。
「しまっ――!?」
尾はカイを締め上げ、宙吊りにする。手から滑り落ちた長剣が、カランと音を立てて地面に転がった。呼吸ができない。骨が軋む音が聞こえる。
(これが、試練……。これが、本当の……)
意識が遠のいていく。灰色の森の光景が、脳裏をよぎる。ギデオンの不器用な優しさ。エリアーデの厳格な教え。リラの悲しい歌声。
(まだ……死ねない……!)
カイは、もがきながら最後の力を振り絞った。エリアーデの警告が頭をよぎる。――《その力は、君を破滅に導く不協和音だ》。
構うものか。今ここで死ぬくらいなら、不協和音でも何でも奏でてやる。
――《斥力》!
カイは詠唱しない。ただ、強く念じた。壊せ、と。
次の瞬間、ありえない現象が起きた。カイの身体と、蛇の尾が接触している全ての点から、一斉に、内側から外側へと向かう斥力の波が爆発した。それは、一点から放たれるロゴス魔術の法則を完全に無視した、「カイ自身」が法則の中心となったかのような、全方位への力の解放だった。
蛇の尾は、内側からの衝撃波によって弾け飛ぶように千切れ、カイの身体は無残に地面に叩きつけられた。激痛に呻きながらも、カイは転がった長剣を掴み、よろめきながら立ち上がる。
目の前では、「歪み」の獣が、最後の力を振り絞ってカイを睨みつけていた。
カイもまた、獣を睨み返す。
そして、彼は静かに、しかしはっきりと告げた。
「僕の家族に、手を出すな」
次の瞬間、カイの姿は掻き消え、獣の首が宙を舞った。
丘の上で、三人の育ての親が、息を詰めてその光景を見守っていた。
カイが勝った。試練は、終わったのだ。
エリアーデの幻影が、誰にも聞こえない声で呟く。その声は、驚愕と、そして畏怖に震えていた。
『……違う。あれは、ロゴスの応用ではない。彼自身が、その場の理を創り変えた……? 詠唱も、作用点も無視して、ただ意志の力だけで……。まさか。あの御伽噺は、真実だったというのか……? 始原の技術者が最後に遺したという、世界を書き換える禁忌の術式。その、不完全な発現だとでも……?』
運命の歯車は、もう誰にも止められない速さで、回り始めていた。
鐘楼の鐘が七つ鳴り、リラの優しい声が彼を現へと呼び戻す。食堂では、ギデオンの寡黙な存在感と、エリアーデの論理的な小言が彼を迎えた。何も変わらない、灰色の森の日常。
だが、その日の空気は、いつもと決定的に違っていた。朝餉の席についた三人の育ての親たちは、言葉こそ交わさないものの、その佇まいに重々しい覚悟のようなものが滲んでいた。まるで、これから起こる何かを静かに待っているかのように。
「カイ」
食事が終わると、最初に口を開いたのはギデオンだった。彼の鎧の奥から響く声は、いつになく真剣な響きを帯びていた。
「今日はお前に、成人の試練を課す」
成人の試練。カイはその言葉を、物語の中でしか聞いたことがなかった。森の外の世界では、若者が一人前と認められるための儀式があるのだと、リラが歌ってくれたことがある。
エリアーデのページに、静かに文字が浮かぶ。
『これは、君が我々の元で何を学び、どれほどの力を得たかを測るための、最終試験です』
「試練……?」カイはゴクリと喉を鳴らした。「一体、何をすればいいんだ?」
リラが、悲しみを堪えるように目を伏せた。
「聖域の境界に、これまでで最も大きく、そして邪悪な『歪み』が生まれています。……それを、あなた一人で、討伐してほしいのです」
その言葉は、カイの心に衝撃となって突き刺さった。「まだ早い」と、あれほどカイを危険から遠ざけていた彼らが、なぜ。
「どうして……急に」
「お前が、自らの力を示したからだ」
ギデオンは、泉での一件に直接触れることはなかったが、その言葉が何を指しているかは明白だった。
「我々はお前を守ってきた。だが、その力が外に漏れ出した以上、もはや守り続けることだけが最善ではない。お前が自らの力で運命を切り拓けるのか、それを見極めねばならなくなった」
エリアーデが補足する。
『論理的帰結です。君という存在は、もはや我々の結界の中に留めておける規模のパラメーターではありません。君自身の生存確率を最大化するためには、君の戦闘能力と判断力を、実戦下で正確に査定する必要があります』
彼らの言葉は、どこか突き放すように冷たく聞こえた。しかしカイは、その奥にある深い苦悩を感じ取っていた。これは、彼らが悩み抜いた末に出した、苦渋の決断なのだ。カイを信じ、その成長を認めたいという想いと、彼を危険な運命に晒すことへの恐怖。その二つの間で、彼らは揺れている。
「……わかった。やるよ」
カイは、腹の底から声を絞り出した。育ての親たちの想いに応えたい。彼らが授けてくれた全てを、今こそ証明する時だ。
準備は、黙々と進められた。
ギデオンは、カイのために手入れを続けてきた、本物の鋼で作られた片刃の長剣を手渡した。それはカイの背丈に合わせて作られた特注品で、ずしりとした重みが、訓練用の木剣とは全く違う現実感を伝えてくる。
「これは、ただの鉄ではない。お前を守る、俺の意志だと思え」
エリアーデは、防御術式が幾重にも織り込まれた、黒い革の戦装束を差し出した。
『エーテル伝導率、物理的衝撃への耐性、あらゆる数値を最適化してあります。ですが、過信は禁物です。最高の防具は、君自身の危機察知能力です』
そしてリラは、カイの手をそっと握りしめた。彼女の半透明の身体が、これまでになく鮮明に、そして力強く輝いている。
「私の歌を、あなたの心に。……どうか、ご無事で」
彼女の魂の響きが、カイの心に直接流れ込み、恐怖で強張りそうになる精神を内側から支えてくれた。
武装を終えたカイは、三人に背を向け、聖域の境界へと続く丘を一人で登り始めた。背中に感じる三対の視線が、重く、そして温かい。
丘の頂上に立つと、眼下に広がる光景に息を呑んだ。
結界の向こう側、森の一画が、まるで巨大な口が開いたかのように、暗く、深く歪んでいた。これまでの「歪み」とは比較にならないほどの規模だ。空間そのものが病み、腐臭を放っているかのようだった。
その中心に、それはいた。
複数の獣を無理やり一つに繋ぎ合わせたような、冒涜的な姿だった。鋭い牙を剥く貪欲な狼の頭部が、分厚い筋肉と脂肪に覆われた強靭な熊の胴体につながっている。そして、そのアンバランスで凄まじい重量を支えているのは、細くしなやかな鹿の四肢だった。背骨の終わりからは、鱗に覆われた長大な蛇の尾が不気味に蠢いている。その全身からは黒い瘴気が立ち上り、周囲の木々を枯らし、大地を腐らせていた。
「これが……」
ギデオンとの訓練で対峙したどんな仮想敵よりも、エリアーデの書物で読んだどんな魔物よりも、それは圧倒的に邪悪で、強大な気配を放っていた。
カイは長剣を抜き放ち、深く息を吸う。リラの歌が、心の中で守りの旋律を奏でている。ギデオンの教えが、身体に正しい構えを取らせる。エリアーデの知識が、敵の弱点を冷静に分析させる。
自分は、一人じゃない。
カイは大地を蹴り、結界の向こう側――色を取り戻した、しかし「歪み」に汚染された森へと、生まれて初めて足を踏み入れた。
「歪み」の獣は、侵入者を認めると、地を揺るがすほどの咆哮を上げた。それは、ただの威嚇ではない。魂を直接削るような、呪詛に満ちた叫びだった。リラの加護がなければ、カイはそれだけで正気を失っていたかもしれない。
獣の爪が、岩をも砕く勢いで振り下ろされる。カイはそれを剣で受け流すが、腕に痺れるほどの衝撃が走った。力が、違いすぎる。
(正面からの打ち合いは不利だ!)
カイは即座に判断し、距離を取る。獣は巨体に見合わぬ俊敏さで追撃してくる。蛇の尾が鞭のようにしなり、地面を抉った。
逃げ回りながら、カイは必死に活路を探す。
ギデオンは言った。「敵の力を利用しろ」。
エリアーデは言った。「法則を理解し、応用しろ」。
(力と、法則……)
カイは、獣の動きを注意深く観察する。猪突猛進に近い直線的な突進、狼の頭部による噛みつき、そして蛇の尾による奇襲。攻撃は多角的だが、その動きにはある種の「無理」が見て取れた。
(あの脚だ……! 鹿の脚は、森を疾走するためのもの。あの細さで、熊の巨体を支えながら急な方向転換はできないはずだ。直線のスピードは脅威だが、横からの衝撃や、足元への攻撃には間違いなく脆い!)
狙いは定まった。だが、どうやってあの猛攻を掻い潜り、脚に一撃を入れるか。
その時、カイの脳裏に、あの二つの理が再び交錯した。
カイは、獣に向かって真っ直ぐに突進した。自殺行為にも等しい動きに、獣は嘲笑うかのように巨大な顎を開く。
「――《粘性付与》!」
カイが短く詠唱すると、獣の足元の地面が、一瞬だけ沼のように粘性を帯びた。ほんの初歩的な土の魔法。獣の動きが1秒鈍る。
だが、カイにとってはその一瞬で十分だった。
彼は、獣の顎が閉じる寸前に、その側面を駆け抜ける。そして、すれ違いざま、粘性にはまった獣の後ろ脚の腱に、長剣を深く突き立てた。
ギャ、と獣の咆哮が、苦痛の響きに変わる。
体勢を崩した獣に、カイは追撃の暇を与えない。
「――《音響集中》!」
今度は風の魔法。詠唱と同時に、カイは剣の柄頭で、近くにあった岩を力任せに殴りつけた。キィン、という甲高い金属音が、魔法によって指向性を与えられ、一本の槍となって獣の耳――狼の急所へと突き刺さる。
獣は完全に平衡感覚を失い、巨体を地面に横たえた。
勝機。
カイは、倒れた獣の首元へと駆け寄る。心臓部は熊の分厚い脂肪と筋肉に守られているが、首ならば。
彼は長剣を両手で握りしめ、全体重を乗せて、それを獣の喉元に突き立てようとした。
その瞬間だった。
動けないと思っていた蛇の尾が、背後からカイの身体に巻き付いてきた。
「しまっ――!?」
尾はカイを締め上げ、宙吊りにする。手から滑り落ちた長剣が、カランと音を立てて地面に転がった。呼吸ができない。骨が軋む音が聞こえる。
(これが、試練……。これが、本当の……)
意識が遠のいていく。灰色の森の光景が、脳裏をよぎる。ギデオンの不器用な優しさ。エリアーデの厳格な教え。リラの悲しい歌声。
(まだ……死ねない……!)
カイは、もがきながら最後の力を振り絞った。エリアーデの警告が頭をよぎる。――《その力は、君を破滅に導く不協和音だ》。
構うものか。今ここで死ぬくらいなら、不協和音でも何でも奏でてやる。
――《斥力》!
カイは詠唱しない。ただ、強く念じた。壊せ、と。
次の瞬間、ありえない現象が起きた。カイの身体と、蛇の尾が接触している全ての点から、一斉に、内側から外側へと向かう斥力の波が爆発した。それは、一点から放たれるロゴス魔術の法則を完全に無視した、「カイ自身」が法則の中心となったかのような、全方位への力の解放だった。
蛇の尾は、内側からの衝撃波によって弾け飛ぶように千切れ、カイの身体は無残に地面に叩きつけられた。激痛に呻きながらも、カイは転がった長剣を掴み、よろめきながら立ち上がる。
目の前では、「歪み」の獣が、最後の力を振り絞ってカイを睨みつけていた。
カイもまた、獣を睨み返す。
そして、彼は静かに、しかしはっきりと告げた。
「僕の家族に、手を出すな」
次の瞬間、カイの姿は掻き消え、獣の首が宙を舞った。
丘の上で、三人の育ての親が、息を詰めてその光景を見守っていた。
カイが勝った。試練は、終わったのだ。
エリアーデの幻影が、誰にも聞こえない声で呟く。その声は、驚愕と、そして畏怖に震えていた。
『……違う。あれは、ロゴスの応用ではない。彼自身が、その場の理を創り変えた……? 詠唱も、作用点も無視して、ただ意志の力だけで……。まさか。あの御伽噺は、真実だったというのか……? 始原の技術者が最後に遺したという、世界を書き換える禁忌の術式。その、不完全な発現だとでも……?』
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