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喫茶店の少女
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会社の近くに、時代から取り残されたような古い喫茶店がある。名は「純喫茶エトワール」。革張りのソファはところどころ擦り切れ、壁にはいつの時代のものとも知れない映画のポスターが色褪せて貼られている。俺はその店の、窓際の一番奥の席がお気に入りで、仕事に行き詰まるとよくそこで時間を潰していた。
いつからだったか、その店に行くと、いつも同じ席に一人の少女が座っていることに気づいた。歳は小学校の低学年くらいだろうか。おかっぱ頭に赤いリボンの髪飾りをつけ、いつも分厚い本を読んでいる。親の姿は見当たらない。最初は近所の子が時間潰しに来ているのだろうと、特に気にも留めていなかった。
ある雨の日、俺がいつものように店に入ると、少女は俺の定位置である窓際の席に座っていた。仕方なく少し離れたカウンター席に腰を下ろす。しばらくすると、少女がとてとてと俺の隣にやってきて、小さな声で話しかけてきた。
「お兄ちゃん、もうすぐ雨、やむよ。すごく晴れるから、傘いらない」
外は土砂降りの嵐だ。天気予報でも一日中雨だと言っていた。俺が訝しげな顔をしていると、少女はにこりともせずに続けた。
「そのあと、虹が出る。二重のやつ」
馬鹿げている、と思った。だが、それから30分もしないうちに、まるで嘘のように雨が上がり、強い西日が店内に差し込んできた。そして、窓の外には、少女が言った通り、鮮やかな二重の虹がかかっていた。
その日を境に、俺は喫茶店で少女と時々言葉を交わすようになった。彼女の話は、いつもどこか奇妙にずれていた。
「昨日、駅前にできた新しいビルに行ったんだ。展望台からの眺め、すごかったよ」
駅前の再開発計画は知っているが、ビルの完成は早くても3年後のはずだ。
「この漫画、来週の展開、知ってるよ。主人公のお兄さんがね、実は……」
俺が読んでいた週刊誌を覗き込み、まだ誰も知らないはずのネタバレを平然と口にする。最初は子供の空想だと思っていたが、翌週、その漫画は少女の言った通りの展開になった。
恐怖よりも、好奇心が勝っていた。ある日、俺は思い切って尋ねてみた。
「君は、どうして未来のことがわかるの?」
少女は読んでいた本から顔を上げ、きょとんとした顔で俺を見た。
「未来じゃないよ? お兄ちゃんにとっては未来なの? そっか、時間がずれてるんだね」
彼女は、まるで靴紐がほどけているのを指摘するような、ごく当たり前の口調で言った。
「私、たまにずれるんだ。お母さんにも、あんまりずれた場所に行っちゃだめって言われてるんだけど」
背筋がぞくりとした。彼女は、時間軸が違うことを明確に認識しているらしかった。悪意は感じられない。ただ、無邪気に、事実としてそれを語っている。そのことが、かえって不気味だった。
「お兄ちゃん、来週、北海道に行くでしょ。風邪ひくから、一枚多く上着持っていったほうがいいよ」
「なんでそれを……」
「だって、この前言ってたじゃない」
もちろん、俺はそんなこと、彼女に話した覚えはない。
俺は、彼女が何者なのか知りたくなった。名前は? 学校は? どこに住んでいるの? しかし、彼女はそれらの質問には答えず、ただ悲しそうに首を振るだけだった。
「もうすぐ、ここには来られなくなるの。あんまりずれると、『調整』されちゃうから」
『調整』という言葉の響きが、ひどく冷たく感じられた。
その言葉通り、翌日からぱったりと少女は喫茶店に現れなくなった。彼女がいつも座っていた席は、がらんとしていて、まるで空間にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
数日が過ぎた頃、俺はいつものようにその席に座り、ぼんやりとテーブルを眺めていた。すると、表面に小さな傷がつけられていることに気づいた。それは、子供の拙い字で、こう彫られていた。
「またね」
それから10年の歳月が流れた。俺は結婚し、娘が生まれた。あの喫茶店は再開発で取り壊され、少女の記憶も日常の中に埋もれていった。
ある休日、娘と二人で公園で遊んでいた時のことだ。当時7歳になった娘が、不意に俺の顔を見上げて言った。
「パパ、私ね、昔、よく喫茶店でパパに会ったよ。赤いリボンの髪飾り、つけてたんだ」
時間が、止まった。
目の前の娘が、あの喫茶店の少女と重なる。まさか。そんなはずはない。俺が言葉を失っていると、娘は無邪気に続けた。
「あの時、言い忘れたことがあったの。テーブルに『またね』って書いたけど、本当はね」
娘はにこりと笑って、言った。
「『おかえり』って、言いたかったんだ」
いつからだったか、その店に行くと、いつも同じ席に一人の少女が座っていることに気づいた。歳は小学校の低学年くらいだろうか。おかっぱ頭に赤いリボンの髪飾りをつけ、いつも分厚い本を読んでいる。親の姿は見当たらない。最初は近所の子が時間潰しに来ているのだろうと、特に気にも留めていなかった。
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外は土砂降りの嵐だ。天気予報でも一日中雨だと言っていた。俺が訝しげな顔をしていると、少女はにこりともせずに続けた。
「そのあと、虹が出る。二重のやつ」
馬鹿げている、と思った。だが、それから30分もしないうちに、まるで嘘のように雨が上がり、強い西日が店内に差し込んできた。そして、窓の外には、少女が言った通り、鮮やかな二重の虹がかかっていた。
その日を境に、俺は喫茶店で少女と時々言葉を交わすようになった。彼女の話は、いつもどこか奇妙にずれていた。
「昨日、駅前にできた新しいビルに行ったんだ。展望台からの眺め、すごかったよ」
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「この漫画、来週の展開、知ってるよ。主人公のお兄さんがね、実は……」
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「私、たまにずれるんだ。お母さんにも、あんまりずれた場所に行っちゃだめって言われてるんだけど」
背筋がぞくりとした。彼女は、時間軸が違うことを明確に認識しているらしかった。悪意は感じられない。ただ、無邪気に、事実としてそれを語っている。そのことが、かえって不気味だった。
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その言葉通り、翌日からぱったりと少女は喫茶店に現れなくなった。彼女がいつも座っていた席は、がらんとしていて、まるで空間にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
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