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空白の器
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意識が浮上したとき、最初に感じたのは消毒液の匂いと、腕に刺さる点滴の鈍い痛みだった。ぼんやりとした視界に、心配そうにこちらを覗き込む両親の顔が映る。
「目が覚めたか、健一」
父の声は安堵に震えていた。状況が飲み込めず、俺は掠れた声で尋ねた。
「……何があったの?」
母が涙声で言う。「覚えていないの? あなた、3ヶ月も行方がわからなくなっていたのよ。駅のホームで倒れているところを発見されたの」
3ヶ月。その言葉が、頭の中で全く像を結ばなかった。俺の最後の記憶は、会社のデスクで残業をしていた、蒸し暑い夏の夜だ。カレンダーを確認すると、季節はすっかり秋に移ろいでいた。俺の人生から、丸々3ヶ月という時間が、綺麗に抜け落ちていた。
警察の事情聴取や病院での検査でも、記憶喪失の原因はわからなかった。幸い身体に別状はなく、俺は退院し、一人暮らしのアパートに戻った。ドアを開けた瞬間、強烈な違和感に襲われた。自分の部屋のはずなのに、知らない匂いがする。甘ったるく、安っぽい香水の匂いだ。
部屋の中は、俺の記憶にある状態とは似ても似つかないものに変わっていた。
本棚には、俺が決して読まないであろうオカルト雑誌や、過激な思想書が乱雑に詰め込まれている。クローゼットには、趣味の悪い原色系のシャツや、蛇柄のパンツ。俺が持っていたはずの地味なスーツやシャツは、数着を残してどこにも見当たらない。まるで、知らない誰かがこの部屋に住んでいたかのようだった。
決定的な恐怖は、シャワーを浴びようと鏡の前に立った時に訪れた。
鏡に映る自分の背中。そこには、俺が生まれてから一度も見たことのないものが刻まれていた。
左の肩甲骨から腰にかけて、巨大な「眼」のタトゥーが、不気味な存在感を放っていた。瞳孔の部分は深く黒く、虹彩は幾何学的な模様で緻密に描かれ、まるで生きているかのように、こちらを見つめ返してくる。俺は悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。これは俺の身体じゃない。
会社に復帰すると、同僚たちの態度はどこかよそよそしかった。親しい後輩がおずおずと話しかけてくる。
「あの、高橋さん……。記憶がないって本当ですか?」
「ああ」
「よかったです。正直、この3ヶ月の高橋さん、ちょっと怖かったんで……。人が変わったみたいで、目つきも鋭くて、誰とも口を利かずに、でも仕事だけは異常にできて……。毎晩、終業と同時にどこかへ消えていきましたし」
俺の知らない「俺」は、一体何をしていたのか。
手がかりを探して、自室のパソコンを立ち上げた。そこには、俺の知らないブックマークや閲覧履歴が大量に残されていた。その中に、見慣れないSNSのアカウントがあった。プロフィール名は「ウォッチャー」。投稿は、ほとんどが意味不明な数字の羅列と、夜の街を撮影した写真だった。しかし、いくつかの投稿に、俺の知らない人間たちからのコメントがついていた。
「例の件、進捗は?」
「『器』にはもう慣れたか?」
「早く『鍵』を見つけろ」
『器』。その言葉が、背中の「眼」に突き刺さるようだった。
部屋を隅々まで探すうち、ベッドのマットレスの下から、一冊のノートが見つかった。俺の筆跡だが、中身は全く記憶にない。それは、俺の身体を乗っ取っていた「何か」の日記だった。
「この身体は使いやすい。平凡で、誰の注意も引かない。警戒されずに『内側』に入れる」
「『鍵』を持つ人間は、まだ見つからない。連中の妨害が激しい」
「この身体の記憶領域が邪魔だ。時々、元の持ち主の意識が浮上しようとする。面倒だが、抑え込むしかない」
ページをめくる手が震える。それは、俺の身体という乗り物を操縦するパイロットの航海日誌のようだった。そして、最後のページには、こう記されていた。
「時間切れだ。目的は果たせなかったが、この身体に『眼』を刻みつけた。これは座標であり、呪いだ。いずれ、俺か、あるいは別の誰かが、この座標を目印に再びここに戻ってくるだろう。それまで、しばしの休息だ」
その日付は、俺が駅のホームで発見された日の前日だった。
日常は戻ってきた。しかし、それは完全なものではない。背中の「眼」は、消えない染みのように俺の身体に残り続けている。そして時々、ふとした瞬間に、世界が違って見えることがある。雑踏の中にいる人々の顔が、のっぺりとしたマネキンに見えたり、夜空に浮かぶ月が、巨大な「眼」に見えたりする。
あれは、まだ俺の中にいる。俺の意識の底で、じっと息を潜めている。いつか、あの「ウォッチャー」が、背中の眼を目印に、この身体という「器」に帰ってくる日を、ただ待っている。俺は、自分であって自分でないのかもしれないという恐怖を、一生抱えて生きていくのだ。
「目が覚めたか、健一」
父の声は安堵に震えていた。状況が飲み込めず、俺は掠れた声で尋ねた。
「……何があったの?」
母が涙声で言う。「覚えていないの? あなた、3ヶ月も行方がわからなくなっていたのよ。駅のホームで倒れているところを発見されたの」
3ヶ月。その言葉が、頭の中で全く像を結ばなかった。俺の最後の記憶は、会社のデスクで残業をしていた、蒸し暑い夏の夜だ。カレンダーを確認すると、季節はすっかり秋に移ろいでいた。俺の人生から、丸々3ヶ月という時間が、綺麗に抜け落ちていた。
警察の事情聴取や病院での検査でも、記憶喪失の原因はわからなかった。幸い身体に別状はなく、俺は退院し、一人暮らしのアパートに戻った。ドアを開けた瞬間、強烈な違和感に襲われた。自分の部屋のはずなのに、知らない匂いがする。甘ったるく、安っぽい香水の匂いだ。
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決定的な恐怖は、シャワーを浴びようと鏡の前に立った時に訪れた。
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左の肩甲骨から腰にかけて、巨大な「眼」のタトゥーが、不気味な存在感を放っていた。瞳孔の部分は深く黒く、虹彩は幾何学的な模様で緻密に描かれ、まるで生きているかのように、こちらを見つめ返してくる。俺は悲鳴を上げ、その場にへたり込んだ。これは俺の身体じゃない。
会社に復帰すると、同僚たちの態度はどこかよそよそしかった。親しい後輩がおずおずと話しかけてくる。
「あの、高橋さん……。記憶がないって本当ですか?」
「ああ」
「よかったです。正直、この3ヶ月の高橋さん、ちょっと怖かったんで……。人が変わったみたいで、目つきも鋭くて、誰とも口を利かずに、でも仕事だけは異常にできて……。毎晩、終業と同時にどこかへ消えていきましたし」
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