2 / 24
香の家
しおりを挟む
あれは、私がまだ駆け出しのジャーナリストだった頃の話です。
内戦の泥沼に沈んだ、東南アジアの小さな国でした。私は政府軍の支配も届かぬ山岳地帯に、武装勢力に追い立てられて逃げ込んだ少数民族がいるという情報を掴み、現地の案内人と共に、危険を承知で踏み込んだのです。
何日も密林を彷徨い、心身ともに疲れ果てた頃、私たちは霧の中に浮かぶように存在する、小さな集落に辿り着きました。まるで忘れられた時間の中にあるような、静かな場所でした。
その集落のはずれに、ひときわ古びてはいるものの、どこか品のある一軒の家がありました。戸口に立つと、中から静かに老人と、その妻らしき老婆が現れました。私たちは事情を話し、一夜の宿を乞いました。老人は何も言わず、ただ深く頷くと、私たちを家の中へと招き入れたのです。
家の中は、不思議な香りに満ちていました。伽羅のようでもあり、白檀のようでもある。しかし、今まで嗅いだどんな香りとも違う、甘く、それでいて心が透き通るような清らかな香りでした。
「奥の部屋に、病の床にいる孫娘がおりまして。この香りは、あの子の身体から発するものなのです」
老人はそう、静かに言いました。
私たちは、それ以上何も聞けませんでした。案内された部屋で横になると、疲れていたせいか、すぐに深い眠りに落ちました。
夜半、ふと目を覚ましました。
隣の部屋から、か細く、しかし凛とした歌声が聞こえてくるのです。それはこの国の古い子守唄のようでした。その声に誘われるように、私はそっと部屋を抜け出し、香りの漂ってくる部屋の襖に、わずかな隙間を見つけました。
月明かりが差し込む薄暗い部屋の中、布団の上に、ひとりの少女が横たわっていました。年の頃は十六、七でしょうか。長く艶やかな黒髪が、青白い顔の周りに広がっています。その姿は、病の影を感じさせない、まるで物語に出てくる眠り姫のような、この世のものとは思えぬ美しさでした。
その時です。少女がゆっくりと目を開け、私の方を真っ直ぐに見つめました。そして、ふわりと、花が綻ぶように微笑んだのです。
私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、慌ててその場を離れました。あの微笑みは、いったい何だったのか。背筋を、冷たいものが走り抜けました。
翌朝、私たちは家を発つことにしました。
私は、せめてもの礼にと、持っていた栄養補助食品と日本から持ってきた解熱剤を老人に渡しました。
「気休めにしかなりませんが…」
そう言うと、老人は深々と頭を下げ、お礼にと、小さな絹の匂い袋を私に手渡しました。
「孫が、ずっと枕元に置いていたものです。あの子の香りが、強く残っております。どうか、あなたの旅路をお守りくださいますように」
匂い袋からは、あの家で嗅いだのと同じ、清らかな香りが漂っていました。
それから数日後です。私たちは取材を終え、国境に向かう山道で、ついに武装勢力の襲撃を受けました。銃声が響き渡り、案内人はその場で命を落としました。私も腹部に強い衝撃を受け、その場に倒れ込みます。薄れゆく意識の中、私が見たのは、私を囲むようにして立ち止まり、まるで何かを恐れるかのように後ずさっていく兵士たちの姿でした。
次に目を覚ました時、私は国境近くの野戦病院のベッドの上でした。奇跡的に助かったのだと、医師は言いました。銃弾は、腹のすぐ横を掠めていっただけだった、と。
私を救助した兵士が、不思議なことを言いました。
「あんたが倒れていた場所の周りだけ、まるで聖域みたいに、誰も近づけなかったそうだ。そして、現場には、嗅いだこともないような、甘い花の香りが満ちていた、と…」
私は、はっとしてポケットを探りました。しかし、あの匂い袋はどこにもありません。代わりに指先に触れたのは、まるで黒曜石のように滑らかな、一本の長い髪の毛でした。
帰国してから数年が経ち、私はあの国のことを調べ直す機会がありました。そして、ある古い文献に、あの地方に伝わる伝承を見つけてしまったのです。
『山中には、人の生気を吸って永らえる妖魔が棲む。妖魔は病に伏した美しい娘の姿をとり、旅人を家に誘い込む。そして、気に入った者に、自らの力を分け与えた『印』を渡す。印を授かった者は、あらゆる災厄から守られるが、それは次なる宿主として選ばれた証でもある。妖魔の本体が滅びた時、その印は芽吹き、持ち主の身体を新たな『香の家』へと変えるのだ』
私の身体からは、今でも時折、あの清らかな香りがふわりと薫ることがあります。
それは、あの少女が私の中に残した、置き土産なのでしょうか。
それとも、私の身体が、ゆっくりと「変化」し始めている、その証なのでしょうか。
あの家にいた老人と老婆は、本当に少女の祖父母だったのか。それとも、私と同じように、かつてあの家を訪れた旅人だったのではないか。
答えは、誰にもわかりません。
内戦の泥沼に沈んだ、東南アジアの小さな国でした。私は政府軍の支配も届かぬ山岳地帯に、武装勢力に追い立てられて逃げ込んだ少数民族がいるという情報を掴み、現地の案内人と共に、危険を承知で踏み込んだのです。
何日も密林を彷徨い、心身ともに疲れ果てた頃、私たちは霧の中に浮かぶように存在する、小さな集落に辿り着きました。まるで忘れられた時間の中にあるような、静かな場所でした。
その集落のはずれに、ひときわ古びてはいるものの、どこか品のある一軒の家がありました。戸口に立つと、中から静かに老人と、その妻らしき老婆が現れました。私たちは事情を話し、一夜の宿を乞いました。老人は何も言わず、ただ深く頷くと、私たちを家の中へと招き入れたのです。
家の中は、不思議な香りに満ちていました。伽羅のようでもあり、白檀のようでもある。しかし、今まで嗅いだどんな香りとも違う、甘く、それでいて心が透き通るような清らかな香りでした。
「奥の部屋に、病の床にいる孫娘がおりまして。この香りは、あの子の身体から発するものなのです」
老人はそう、静かに言いました。
私たちは、それ以上何も聞けませんでした。案内された部屋で横になると、疲れていたせいか、すぐに深い眠りに落ちました。
夜半、ふと目を覚ましました。
隣の部屋から、か細く、しかし凛とした歌声が聞こえてくるのです。それはこの国の古い子守唄のようでした。その声に誘われるように、私はそっと部屋を抜け出し、香りの漂ってくる部屋の襖に、わずかな隙間を見つけました。
月明かりが差し込む薄暗い部屋の中、布団の上に、ひとりの少女が横たわっていました。年の頃は十六、七でしょうか。長く艶やかな黒髪が、青白い顔の周りに広がっています。その姿は、病の影を感じさせない、まるで物語に出てくる眠り姫のような、この世のものとは思えぬ美しさでした。
その時です。少女がゆっくりと目を開け、私の方を真っ直ぐに見つめました。そして、ふわりと、花が綻ぶように微笑んだのです。
私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、慌ててその場を離れました。あの微笑みは、いったい何だったのか。背筋を、冷たいものが走り抜けました。
翌朝、私たちは家を発つことにしました。
私は、せめてもの礼にと、持っていた栄養補助食品と日本から持ってきた解熱剤を老人に渡しました。
「気休めにしかなりませんが…」
そう言うと、老人は深々と頭を下げ、お礼にと、小さな絹の匂い袋を私に手渡しました。
「孫が、ずっと枕元に置いていたものです。あの子の香りが、強く残っております。どうか、あなたの旅路をお守りくださいますように」
匂い袋からは、あの家で嗅いだのと同じ、清らかな香りが漂っていました。
それから数日後です。私たちは取材を終え、国境に向かう山道で、ついに武装勢力の襲撃を受けました。銃声が響き渡り、案内人はその場で命を落としました。私も腹部に強い衝撃を受け、その場に倒れ込みます。薄れゆく意識の中、私が見たのは、私を囲むようにして立ち止まり、まるで何かを恐れるかのように後ずさっていく兵士たちの姿でした。
次に目を覚ました時、私は国境近くの野戦病院のベッドの上でした。奇跡的に助かったのだと、医師は言いました。銃弾は、腹のすぐ横を掠めていっただけだった、と。
私を救助した兵士が、不思議なことを言いました。
「あんたが倒れていた場所の周りだけ、まるで聖域みたいに、誰も近づけなかったそうだ。そして、現場には、嗅いだこともないような、甘い花の香りが満ちていた、と…」
私は、はっとしてポケットを探りました。しかし、あの匂い袋はどこにもありません。代わりに指先に触れたのは、まるで黒曜石のように滑らかな、一本の長い髪の毛でした。
帰国してから数年が経ち、私はあの国のことを調べ直す機会がありました。そして、ある古い文献に、あの地方に伝わる伝承を見つけてしまったのです。
『山中には、人の生気を吸って永らえる妖魔が棲む。妖魔は病に伏した美しい娘の姿をとり、旅人を家に誘い込む。そして、気に入った者に、自らの力を分け与えた『印』を渡す。印を授かった者は、あらゆる災厄から守られるが、それは次なる宿主として選ばれた証でもある。妖魔の本体が滅びた時、その印は芽吹き、持ち主の身体を新たな『香の家』へと変えるのだ』
私の身体からは、今でも時折、あの清らかな香りがふわりと薫ることがあります。
それは、あの少女が私の中に残した、置き土産なのでしょうか。
それとも、私の身体が、ゆっくりと「変化」し始めている、その証なのでしょうか。
あの家にいた老人と老婆は、本当に少女の祖父母だったのか。それとも、私と同じように、かつてあの家を訪れた旅人だったのではないか。
答えは、誰にもわかりません。
0
あなたにおすすめの小説
(ほぼ)1分で読める怖い話
涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話!
【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】
1分で読めないのもあるけどね
主人公はそれぞれ別という設定です
フィクションの話やノンフィクションの話も…。
サクサク読めて楽しい!(矛盾してる)
⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません
⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/12/7:『どろのあしあと』の章を追加。2025/12/14の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/6:『とんねるあんこう』の章を追加。2025/12/13の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/5:『ひとのえ』の章を追加。2025/12/12の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/4:『こうしゅうといれ』の章を追加。2025/12/11の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/3:『かがみのむこう』の章を追加。2025/12/10の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/2:『へびくび』の章を追加。2025/12/9の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/1:『はえ』の章を追加。2025/12/8の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
静かに壊れていく日常
井浦
ホラー
──違和感から始まる十二の恐怖──
いつも通りの朝。
いつも通りの夜。
けれど、ほんの少しだけ、何かがおかしい。
鳴るはずのないインターホン。
いつもと違う帰り道。
知らない誰かの声。
そんな「違和感」に気づいたとき、もう“元の日常”には戻れない。
現実と幻想の境界が曖昧になる、全十二話の短編集。
一話完結で読める、静かな恐怖をあなたへ。
※表紙は生成AIで作成しております。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる