暗い夜に怯えたい【怖い話】

シマシマ

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香の家

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あれは、私がまだ駆け出しのジャーナリストだった頃の話です。  
内戦の泥沼に沈んだ、東南アジアの小さな国でした。私は政府軍の支配も届かぬ山岳地帯に、武装勢力に追い立てられて逃げ込んだ少数民族がいるという情報を掴み、現地の案内人と共に、危険を承知で踏み込んだのです。

何日も密林を彷徨い、心身ともに疲れ果てた頃、私たちは霧の中に浮かぶように存在する、小さな集落に辿り着きました。まるで忘れられた時間の中にあるような、静かな場所でした。

その集落のはずれに、ひときわ古びてはいるものの、どこか品のある一軒の家がありました。戸口に立つと、中から静かに老人と、その妻らしき老婆が現れました。私たちは事情を話し、一夜の宿を乞いました。老人は何も言わず、ただ深く頷くと、私たちを家の中へと招き入れたのです。

家の中は、不思議な香りに満ちていました。伽羅のようでもあり、白檀のようでもある。しかし、今まで嗅いだどんな香りとも違う、甘く、それでいて心が透き通るような清らかな香りでした。

「奥の部屋に、病の床にいる孫娘がおりまして。この香りは、あの子の身体から発するものなのです」

老人はそう、静かに言いました。  
私たちは、それ以上何も聞けませんでした。案内された部屋で横になると、疲れていたせいか、すぐに深い眠りに落ちました。

夜半、ふと目を覚ましました。  
隣の部屋から、か細く、しかし凛とした歌声が聞こえてくるのです。それはこの国の古い子守唄のようでした。その声に誘われるように、私はそっと部屋を抜け出し、香りの漂ってくる部屋の襖に、わずかな隙間を見つけました。

月明かりが差し込む薄暗い部屋の中、布団の上に、ひとりの少女が横たわっていました。年の頃は十六、七でしょうか。長く艶やかな黒髪が、青白い顔の周りに広がっています。その姿は、病の影を感じさせない、まるで物語に出てくる眠り姫のような、この世のものとは思えぬ美しさでした。

その時です。少女がゆっくりと目を開け、私の方を真っ直ぐに見つめました。そして、ふわりと、花が綻ぶように微笑んだのです。  
私は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、慌ててその場を離れました。あの微笑みは、いったい何だったのか。背筋を、冷たいものが走り抜けました。

翌朝、私たちは家を発つことにしました。  
私は、せめてもの礼にと、持っていた栄養補助食品と日本から持ってきた解熱剤を老人に渡しました。  
「気休めにしかなりませんが…」  
そう言うと、老人は深々と頭を下げ、お礼にと、小さな絹の匂い袋を私に手渡しました。  
「孫が、ずっと枕元に置いていたものです。あの子の香りが、強く残っております。どうか、あなたの旅路をお守りくださいますように」

匂い袋からは、あの家で嗅いだのと同じ、清らかな香りが漂っていました。

それから数日後です。私たちは取材を終え、国境に向かう山道で、ついに武装勢力の襲撃を受けました。銃声が響き渡り、案内人はその場で命を落としました。私も腹部に強い衝撃を受け、その場に倒れ込みます。薄れゆく意識の中、私が見たのは、私を囲むようにして立ち止まり、まるで何かを恐れるかのように後ずさっていく兵士たちの姿でした。

次に目を覚ました時、私は国境近くの野戦病院のベッドの上でした。奇跡的に助かったのだと、医師は言いました。銃弾は、腹のすぐ横を掠めていっただけだった、と。  
私を救助した兵士が、不思議なことを言いました。  
「あんたが倒れていた場所の周りだけ、まるで聖域みたいに、誰も近づけなかったそうだ。そして、現場には、嗅いだこともないような、甘い花の香りが満ちていた、と…」

私は、はっとしてポケットを探りました。しかし、あの匂い袋はどこにもありません。代わりに指先に触れたのは、まるで黒曜石のように滑らかな、一本の長い髪の毛でした。

帰国してから数年が経ち、私はあの国のことを調べ直す機会がありました。そして、ある古い文献に、あの地方に伝わる伝承を見つけてしまったのです。

『山中には、人の生気を吸って永らえる妖魔が棲む。妖魔は病に伏した美しい娘の姿をとり、旅人を家に誘い込む。そして、気に入った者に、自らの力を分け与えた『印』を渡す。印を授かった者は、あらゆる災厄から守られるが、それは次なる宿主として選ばれた証でもある。妖魔の本体が滅びた時、その印は芽吹き、持ち主の身体を新たな『香の家』へと変えるのだ』

私の身体からは、今でも時折、あの清らかな香りがふわりと薫ることがあります。  
それは、あの少女が私の中に残した、置き土産なのでしょうか。  
それとも、私の身体が、ゆっくりと「変化」し始めている、その証なのでしょうか。

あの家にいた老人と老婆は、本当に少女の祖父母だったのか。それとも、私と同じように、かつてあの家を訪れた旅人だったのではないか。

答えは、誰にもわかりません。
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