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鱗の呼び声
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あれは、私がフリーのライターとして、ネットのオカルト記事でどうにか食いつないでいた頃の話です。
その世界ではちょっとした有名人がいました。「巳崎」と名乗る男です。
彼は単なる爬虫類マニアではありませんでした。蛇の生態、歴史、そして日本各地に残る蛇にまつわる伝承や呪術にまで精通し、その知識は研究者の域を超えていました。彼のブログには、時折、科学では説明のつかない体験談が、妙に生々しい筆致で綴られていました。
ある夏の日、その巳崎さんから直接連絡があったのです。
「面白い取材になると思う。ついてきますか?」
彼の誘いに乗り、私が連れて行かれたのは、都心から電車とバスを乗り継いだ先にある、山間の集落でした。その集落の最も奥、まるで開発の波から忘れ去られたかのような場所に、その家はありました。鬱蒼と茂る木々に囲まれた、大きな旧家です。
依頼主は、その家に一人で暮らす老婆でした。
「蔵です」
老婆は、震える指で、母屋の隣に立つ、白壁の土蔵を指差しました。
「あの蔵の二階に……何かがいるんです。何十年も開かずの間だったんですが、近頃、夜になると、中から……衣擦れのような、奇妙な音が聞こえるようになりまして」
巳崎さんは、静かに蔵を観察していました。壁には無数の蔦が絡みつき、重々しい扉は固く閉ざされています。
「お婆さん、この家系には、蛇に纏わる言い伝えはありませんか?」
巳崎さんの問いに、老婆は顔を青くして、かぶりを振るだけでした。
その夜、私たちは母屋の一室に泊めてもらうことになりました。
真夜中を過ぎた頃です。
……しゃあ……しゃあ……。
微かに、しかしはっきりと、あの蔵の方から音が聞こえてきます。それは、上質な絹の衣が擦れ合うような、なまめかしい音でした。
隣の布団で寝ていたはずの巳崎さんの姿がありません。
私は胸騒ぎを覚え、そっと縁側に出ました。
月明かりの下、巳崎さんが蔵の前に立っていました。あれほど固く閉ざされていたはずの蔵の扉が、わずかに開いています。彼は、まるで何かに導かれるように、その闇の中へと、すうっと吸い込まれていきました。
待っていても、彼は出てきません。蔵から聞こえていた衣擦れの音も、いつの間にか止んでいました。
不安が恐怖に変わり、私は懐中電灯を片手に、蔵へと近づきました。
開かれた扉の隙間から中を覗くと、そこには、信じがたい光景が広がっていました。
蔵の床一面が、蛇、蛇、蛇。
おびただしい数の蛇が、まるで川の流れのように、とぐろを巻き、蠢いているのです。
そして、その蛇の川の中心に、巳崎さんが立っていました。
彼は、恍惚とした、夢見るような表情で、蔵の二階を見上げていました。
彼の視線の先、階段の上には、一人の女が立っていました。
月明かりが、その女の姿をぼんやりと照らし出しています。長く艶やかな黒髪、りんごのように赤い唇、そして、見る者を射抜くような、強く、美しい瞳。その肌は、まるで上質な白磁のように滑らかに見えました。
「……美しい」
巳崎さんの口から、ため息のような声が漏れました。
その声に呼応するように、女はゆっくりと微笑みました。
次の瞬間、女の身体が、まるで陽炎のように揺らぎ、すうっと巳崎さんの足元にいる蛇の群れの中へと溶けていくのが見えました。
それと同時に、巳崎さんの身体が、ゆっくりと床に沈み込んでいきます。足元の蛇たちが、彼の身体に絡みつき、まるで自分たちの同胞を迎え入れるかのように、闇の中へと引きずり込んでいくのです。彼の姿は、あっという間に蛇の波に飲み込まれ、見えなくなりました。
私は声にならない悲鳴を上げ、その場から逃げ出しました。
翌日、警察が呼ばれ、大掛かりな捜索が行われました。しかし、蔵の中には、一匹の蛇すら残っておらず、巳崎さんの痕跡は、一晩で掻き消えたかのように、何も見つかりませんでした。依頼主の老婆も、いつの間にか姿を消していました。
ただ一つ、奇妙なことがありました。
蔵の二階から、一枚の、非常に古い蛇の抜け殻が見つかったのです。それは、大人が一人、すっぽりと入れてしまうほどの、巨大なものでした。
後日、私は巳崎さんが失踪直前に更新したブログの、非公開にされていた下書きを見つけました。
そこには、こう書かれていました。
『彼らは時折、人の姿をとる。最も美しい人の姿を。その声に呼ばれたのなら、抗ってはいけない。それは呪いではない。至上の愛なのだから。私はようやく、還るべき場所を見つけた』
今でも、雨がしとしとと降る静かな夜になると、私は耳の奥で、あの衣擦れの音を聞くことがあります。
そして、鏡に映る自分の瞳が、時折、金色に鈍く光っているような気がするのです。
あれは、あの蔵に棲むものが、私にも送った……鱗の呼び声、なのでしょうか。
それとも、いずれ私も……。
その世界ではちょっとした有名人がいました。「巳崎」と名乗る男です。
彼は単なる爬虫類マニアではありませんでした。蛇の生態、歴史、そして日本各地に残る蛇にまつわる伝承や呪術にまで精通し、その知識は研究者の域を超えていました。彼のブログには、時折、科学では説明のつかない体験談が、妙に生々しい筆致で綴られていました。
ある夏の日、その巳崎さんから直接連絡があったのです。
「面白い取材になると思う。ついてきますか?」
彼の誘いに乗り、私が連れて行かれたのは、都心から電車とバスを乗り継いだ先にある、山間の集落でした。その集落の最も奥、まるで開発の波から忘れ去られたかのような場所に、その家はありました。鬱蒼と茂る木々に囲まれた、大きな旧家です。
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「蔵です」
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その夜、私たちは母屋の一室に泊めてもらうことになりました。
真夜中を過ぎた頃です。
……しゃあ……しゃあ……。
微かに、しかしはっきりと、あの蔵の方から音が聞こえてきます。それは、上質な絹の衣が擦れ合うような、なまめかしい音でした。
隣の布団で寝ていたはずの巳崎さんの姿がありません。
私は胸騒ぎを覚え、そっと縁側に出ました。
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待っていても、彼は出てきません。蔵から聞こえていた衣擦れの音も、いつの間にか止んでいました。
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月明かりが、その女の姿をぼんやりと照らし出しています。長く艶やかな黒髪、りんごのように赤い唇、そして、見る者を射抜くような、強く、美しい瞳。その肌は、まるで上質な白磁のように滑らかに見えました。
「……美しい」
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それと同時に、巳崎さんの身体が、ゆっくりと床に沈み込んでいきます。足元の蛇たちが、彼の身体に絡みつき、まるで自分たちの同胞を迎え入れるかのように、闇の中へと引きずり込んでいくのです。彼の姿は、あっという間に蛇の波に飲み込まれ、見えなくなりました。
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