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不協和音
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音には、その人のすべてが現れる、と言った男がいました。
彼の名は、神谷 響。かつては天才的なサウンドデザイナーとして、その名を知られていました。彼は「音で世界を視ている」と、よく口にしていました。彼にとって、世界は音で構成された壮大なオーケストラだったのです。
しかし、そのオーケストラは、ある日突然、彼にとって永遠の静寂に――いや、漆黒の闇に変わりました。
スタジオでの機材落下事故。彼は奇跡的に命を取り留めましたが、光を失いました。
絶望の淵に沈む彼に、さらなる追い打ちをかけたのが、彼の唯一の親友であり、ビジネスパートナーでもあった男、藤巻 湊の裏切りでした。藤巻は、神谷が心血を注いで開発した、画期的な立体音響システムの全データと、そして、神谷の婚約者であった静香を連れて、姿を消したのです。
全てを失い、闇の中に独り残された神谷。
しかし、その閉ざされた世界で、彼の聴覚は、人知を超えた領域へと、静かに覚醒を始めました。
人の声紋や足音ではありません。彼が聞き始めたのは、もっと根源的な、生命そのものが発する「音」でした。
心臓の鼓動が刻む微細なリズムの乱れ。呼吸に含まれる感情の揺らぎ。緊張する筋肉が立てる軋み。彼は、それら全てを合わせた「生体ノイズ」によって、個人を特定できるようになったのです。
そして、彼の耳には、憎き藤巻が奏でる、不快で歪んだ「不協和音」が、どんな雑音の中にいても、はっきりと聴こえていました。
数ヶ月後、神谷は藤巻と静香が、海外へ高飛びするために、今夜、空港へ向かうことを突き止めます。
彼は先回りし、空港へ続く、山を貫く長いトンネルの中で、二人を待ち構えました。
深夜、トンネルのオレンジ色の照明がぼんやりと闇を照らす中、一台の高級車が、吸い込まれるように入ってきます。神谷は、杖もつかずに、その中央に、静かに立ちました。
車のヘッドライトが、彼の姿を捉えます。急ブレーキの甲高い音。運転席の藤巻と、助手席の静香が、闇の中に立つ亡霊のような神谷の姿に、息を呑むのが、神谷には「聴こえ」ました。
「どうして、お前がここに……」
藤巻が、震える声で言います。神谷は、答えません。ただ、じっと、車の「音」を聞いていました。恐怖に速まる二つの心音、浅く乱れる呼吸音、そして、藤巻だけが発する、あの耳障りな不協和音。
藤巻は、恐怖を振り払うように、卑劣な笑みを浮かべました。
「そうか、見えないんだったな、お前は。ここまで追ってきた執念は褒めてやる。だが、無駄だ!」
彼はアクセルを強く踏み込みました。エンジンが唸りを上げ、車は神谷めがけて突進します。
しかし、神谷は、まるで車の動きが「視えて」いるかのように、ひらりと身をかわしました。車は彼の脇を猛スピードで通り過ぎ、トンネルの向こう側へと消えていきます。
置き去りにされた神谷の、静かな声が、トンネルの壁に反響しました。
「お前の音は、覚えたぞ、湊。お前の心臓が奏でる不協和音は、世界のどこにいても、俺には聴こえる」
それから、五年が経ちました。
藤巻は、神谷から盗んだ技術を元手に、海外で大成功を収めていました。しかし、彼の心は、安らぐことがありませんでした。
常に誰かに聴かれているような、見られているような感覚。そして、完全な静寂の中にいるはずなのに、自分の身体の中から、耳障りなノイズが鳴り響いているのです。
その日、藤巻は、自らが設立した会社の、日本支社の役員会議室にいました。その部屋は、彼の偏執的なこだわりによって作られた、完璧な防音室でした。外の音は、一切入ってきません。
静寂の中、藤巻は、自分の心臓が刻む、歪んだリズムに耳を澄ませていました。
ドクン、……ドクン、ドクン……キィン……。
あの忌まわしいノイズが、頭蓋の内側で鳴り響いています。
その時でした。
「久しぶりだな、湊」
声は、すぐ後ろからしました。
藤巻は、心臓が飛び出るほど驚き、振り返りました。
そこに、神谷が立っていたのです。五年前と何も変わらない姿で。
どうやって? この完璧な防音室に? 警備はどうした?
「お前には聴こえないのか? お前の魂が軋む、その醜い音が」
神谷はゆっくりと藤巻に近づきます。彼の顔には、何の感情も浮かんでいませんでした。ただ、その耳は、藤巻だけが奏でる不協和音を、愉しむように聴いているように見えました。
「やめろ……来るな!」
藤巻は後ずさりますが、背後は壁です。
「終わらせてやろう、その不快なノイズを」
神谷はポケットから、小さなリモコンのような装置を取り出しました。
「お前が捨てた、俺の最初の試作品だ。特定の生体ノイズを増幅させ、聴覚神経に直接送り込むことができる」
神谷が、スイッチを押します。
次の瞬間、藤巻の世界は、耐えがたい絶叫のようなノイズだけで満たされました。それは、彼自身の心臓と呼吸と、恐怖そのものが、何千倍にも増幅された音でした。彼は耳を両手で塞ぎ、床を転げ回りましたが、音は彼の内側から鳴り響き、止むことはありません。
やがて、けたたましいノイズは、ブツリ、と途絶えました。
藤巻 湊は、両耳から血を流し、絶命していました。その顔には、この世の物とは思えぬほどの恐怖が、永遠に刻みつけられていました。
事件は、原因不明の急性心不全として処理されました。
神谷の行方は、誰も知りません。
ただ、今でも、都市の喧騒の中、ふと、全ての音が消え失せるような、絶対的な静寂の瞬間を体験した、という人がいます。
それは、新たな不協和音を探して、闇の中でじっと耳を澄ませている、彼の仕業なのかもしれません。
彼の名は、神谷 響。かつては天才的なサウンドデザイナーとして、その名を知られていました。彼は「音で世界を視ている」と、よく口にしていました。彼にとって、世界は音で構成された壮大なオーケストラだったのです。
しかし、そのオーケストラは、ある日突然、彼にとって永遠の静寂に――いや、漆黒の闇に変わりました。
スタジオでの機材落下事故。彼は奇跡的に命を取り留めましたが、光を失いました。
絶望の淵に沈む彼に、さらなる追い打ちをかけたのが、彼の唯一の親友であり、ビジネスパートナーでもあった男、藤巻 湊の裏切りでした。藤巻は、神谷が心血を注いで開発した、画期的な立体音響システムの全データと、そして、神谷の婚約者であった静香を連れて、姿を消したのです。
全てを失い、闇の中に独り残された神谷。
しかし、その閉ざされた世界で、彼の聴覚は、人知を超えた領域へと、静かに覚醒を始めました。
人の声紋や足音ではありません。彼が聞き始めたのは、もっと根源的な、生命そのものが発する「音」でした。
心臓の鼓動が刻む微細なリズムの乱れ。呼吸に含まれる感情の揺らぎ。緊張する筋肉が立てる軋み。彼は、それら全てを合わせた「生体ノイズ」によって、個人を特定できるようになったのです。
そして、彼の耳には、憎き藤巻が奏でる、不快で歪んだ「不協和音」が、どんな雑音の中にいても、はっきりと聴こえていました。
数ヶ月後、神谷は藤巻と静香が、海外へ高飛びするために、今夜、空港へ向かうことを突き止めます。
彼は先回りし、空港へ続く、山を貫く長いトンネルの中で、二人を待ち構えました。
深夜、トンネルのオレンジ色の照明がぼんやりと闇を照らす中、一台の高級車が、吸い込まれるように入ってきます。神谷は、杖もつかずに、その中央に、静かに立ちました。
車のヘッドライトが、彼の姿を捉えます。急ブレーキの甲高い音。運転席の藤巻と、助手席の静香が、闇の中に立つ亡霊のような神谷の姿に、息を呑むのが、神谷には「聴こえ」ました。
「どうして、お前がここに……」
藤巻が、震える声で言います。神谷は、答えません。ただ、じっと、車の「音」を聞いていました。恐怖に速まる二つの心音、浅く乱れる呼吸音、そして、藤巻だけが発する、あの耳障りな不協和音。
藤巻は、恐怖を振り払うように、卑劣な笑みを浮かべました。
「そうか、見えないんだったな、お前は。ここまで追ってきた執念は褒めてやる。だが、無駄だ!」
彼はアクセルを強く踏み込みました。エンジンが唸りを上げ、車は神谷めがけて突進します。
しかし、神谷は、まるで車の動きが「視えて」いるかのように、ひらりと身をかわしました。車は彼の脇を猛スピードで通り過ぎ、トンネルの向こう側へと消えていきます。
置き去りにされた神谷の、静かな声が、トンネルの壁に反響しました。
「お前の音は、覚えたぞ、湊。お前の心臓が奏でる不協和音は、世界のどこにいても、俺には聴こえる」
それから、五年が経ちました。
藤巻は、神谷から盗んだ技術を元手に、海外で大成功を収めていました。しかし、彼の心は、安らぐことがありませんでした。
常に誰かに聴かれているような、見られているような感覚。そして、完全な静寂の中にいるはずなのに、自分の身体の中から、耳障りなノイズが鳴り響いているのです。
その日、藤巻は、自らが設立した会社の、日本支社の役員会議室にいました。その部屋は、彼の偏執的なこだわりによって作られた、完璧な防音室でした。外の音は、一切入ってきません。
静寂の中、藤巻は、自分の心臓が刻む、歪んだリズムに耳を澄ませていました。
ドクン、……ドクン、ドクン……キィン……。
あの忌まわしいノイズが、頭蓋の内側で鳴り響いています。
その時でした。
「久しぶりだな、湊」
声は、すぐ後ろからしました。
藤巻は、心臓が飛び出るほど驚き、振り返りました。
そこに、神谷が立っていたのです。五年前と何も変わらない姿で。
どうやって? この完璧な防音室に? 警備はどうした?
「お前には聴こえないのか? お前の魂が軋む、その醜い音が」
神谷はゆっくりと藤巻に近づきます。彼の顔には、何の感情も浮かんでいませんでした。ただ、その耳は、藤巻だけが奏でる不協和音を、愉しむように聴いているように見えました。
「やめろ……来るな!」
藤巻は後ずさりますが、背後は壁です。
「終わらせてやろう、その不快なノイズを」
神谷はポケットから、小さなリモコンのような装置を取り出しました。
「お前が捨てた、俺の最初の試作品だ。特定の生体ノイズを増幅させ、聴覚神経に直接送り込むことができる」
神谷が、スイッチを押します。
次の瞬間、藤巻の世界は、耐えがたい絶叫のようなノイズだけで満たされました。それは、彼自身の心臓と呼吸と、恐怖そのものが、何千倍にも増幅された音でした。彼は耳を両手で塞ぎ、床を転げ回りましたが、音は彼の内側から鳴り響き、止むことはありません。
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藤巻 湊は、両耳から血を流し、絶命していました。その顔には、この世の物とは思えぬほどの恐怖が、永遠に刻みつけられていました。
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ただ、今でも、都市の喧騒の中、ふと、全ての音が消え失せるような、絶対的な静寂の瞬間を体験した、という人がいます。
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