暗い夜に怯えたい【怖い話】

シマシマ

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不可侵領域

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私の寺は、いわゆる「霊感」や「祟り」といったものを、一切認めません。  
それらは、科学的根拠のない迷信。人の弱さや不安が生み出す、脳の誤作動に過ぎない。先代である父も、私も、その信条の下、徹底した合理主義で寺を運営してきました。  
檀家管理はクラウド化し、法要はオンラインでも受け付ける。私は寺という場を、人々の心の平穏を保つための、論理的で静かな「システム」だと考えているのです。

ある初夏の午後でした。  
寺に、場違いなほど仕立ての良い、黒いスーツを着た男が一人でやって来ました。歳の頃は四十ほどでしょうか。しかし、その顔には奇妙なほど生活感がなく、まるで年代物の蝋人形のような、つるりとした印象を受けました。

男は、古びた桐の箱を、恭しく私の前に差し出しました。  
「これを、お宅の納骨堂で、永代預かっていただけないでしょうか」

私の寺の納骨堂は、最新のセキュリティシステムを導入しており、温度や湿度も個別に管理できるのが自慢でした。男はそれを聞きつけてきたようでした。

「お預かりいたしましょう。手続きはこちらのタブレットで…」  
私がそう言いかけた時、男は静かにそれを遮りました。  
「いくつか、条件がございます」

男が提示した条件は、三つ。  
どれも、常軌を逸したものでした。

一つ、この箱を収める区画の監視カメラは、必ず停止させること。  
二つ、この箱を、いかなる機材でもスキャン、分析しないこと。  
そして三つ、これが最も重要ですが、この箱に向かって、決して、決して、読経をしてはならない。

私は眉をひそめました。一体何を預けるつもりなのか。しかし、男が提示した永代供養料は、寺の屋根を全て葺き替えられるほどの、破格の金額でした。

私は、箱の中身を「法に触れる何か」か、あるいは「極めてプライベートな遺品」なのだろうと、あくまで合理的に解釈しました。そして、これはあくまで特殊な「契約」なのだと自分に言い聞かせ、その奇妙な依頼を引き受けたのです。

問題が起きたのは、それから一月ほど経った、蒸し暑い夜のことでした。

寺には、私以外に、良円という若い僧が一人おりました。彼は真面目で、信心深いのですが、それ故に、私の合理主義的なやり方に、どこか納得がいかない様子でした。  
良円は、供養もされず、誰にも見られることなく静置されているその桐箱を、ひどく不憫に思っていたのです。

「住職、あのお箱の中の方こそ、我々が手を差し伸べるべきでは……」  
「良円君、契約だ。我々は、依頼主の定めたルールに従うだけだ。そこに我々の感情を挟む余地はない」

しかし、私の言葉は、彼には届いていませんでした。

その夜、私は寺のサーバーメンテナンスのため、本堂の奥にある自室で作業をしていました。  
午前二時を回った頃です。  
突如、寺中の照明が一斉に消え、私のモニターも、サーバーも、全ての電源が、ぷつりと落ちたのです。  
自家発電に切り替わるはずが、それすら作動しない。完全なブラックアウトでした。

胸騒ぎを覚え、懐中電灯を片手に本堂へ向かうと、そこには、信じがたい光景が広がっていました。  
ご本尊として安置している、古びた木彫りの観音像。その、固く閉じられているはずの慈悲の目から、まるで涙のように、どす黒い、血のような液体が、二筋、流れ落ちていたのです。

私は、動揺を押し殺し、納骨堂へと走りました。  
納骨堂の重い扉を開けると、そこには、良円が倒れていました。  
彼の傍らには、あの桐箱。そして、彼の口は、何かお経を唱えるかのように、かすかに動いていました。

私は、停電の直前まで作動していた監視システムの、最後の録画データを、翌朝、必死で復旧させました。  
そこに映っていたのは、予想通りの光景と、そして、断じて有り得ない光景でした。

良円が、あの桐箱の前に座り込み、静かに手を合わせ、読経を始める。  
その瞬間。  
映像に、激しいノイズが走ります。そして、コマ送りのようになった映像の中で、良円の背後に、……何かが、現れるのです。  
それは、人の形をしているようで、人ではない。黒いインクを水に落としたように、輪郭が滲み、蠢き、増殖していく、無数の「影」。その影が、まるで慈しむかのように、ゆっくりと、良円の身体を、包み込んでいく……。

映像は、そこで途切れていました。

私は、依頼主の男に震える手で電話をかけました。  
「契約を、破ってしまった者がおります」  
電話の向こうで、男は何も言いません。ただ、ごぼ、ごぼ、と、水が湧くような、気味の悪い音が聞こえるだけでした。やがて、男は、ただ一言、こう呟きました。  
「……ああ、開いてしまったか」

電話が切れ、私が恐る恐る納骨堂へ向かうと、桐箱は、跡形もなく消えていました。

良円は、一命は取り留めましたが、言葉を発することは二度とありませんでした。彼は今も、病室のベッドの上で、虚空の何か一点を見つめ、時折、嬉しそうに微笑むだけです。

私は、あの日見たものを、システムのバグと、樹液の染み出しと、過労による幻覚だと、今も自分に言い聞かせています。  
ですが、分かっているのです。  
私たちが破ったのは、単なる契約書の上でのルールではなかった。  
あれは、この世の理の外側にある、決して触れてはならない「領域」との、境界線だったのだ、と。  
そして、その向こう側を、私たちは、ほんの少しだけ、覗いてしまったのです。
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