暗い夜に怯えたい【怖い話】

シマシマ

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残響

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私のオカルトの師匠は、家賃九千円の、今にも崩れそうなアパートに住んでいました。その六畳一間は、彼の果てしない趣味と探求心のカオスであり、訪れるたびに、その様相を変えていました。
ある時は壁一面が昆虫標本で埋め尽くされ、またある時は、異国の呪具らしきものが、所狭しと並べられている。

その日、私が目にしたのは、大量の古いレコードでした。床から天井まで積み上げられた黒い円盤の壁。それはまるで、音のない墓標のようでした。

「また、妙なものを集め始めましたね」
呆れて言う私に、師匠は埃まみれの眼鏡の奥で、楽しそうに目を細めました。
「趣味だよ。古い音の蒐集さ」

彼の言う「音」が、単なる音楽でないことは、すぐに分かりました。師匠が興味を示していたのは、曲そのものではなく、曲と曲の間、そして、レコードの最終トラックが終わった後に続く、針がただ溝をなぞるだけの「無音」の部分でした。ランアウト・グルーヴ、と呼ばれる箇所です。

師匠は、特殊な機材でその無音部分の音を極端に増幅し、ヘッドフォンで、何時間も、何時間も聴き続けていました。
「師匠、何を聴いてるんです? ただのノイズじゃないですか」
「君にはまだ聴こえないか」
師匠はヘッドフォンを外し、私に言いました。
「いいかい。音というのは、空気の振動だ。そして、レコードというのは、その振動を物理的な『溝』として刻み込んだものだ。だが、強い感情…特に、死を前にした人間の恐怖や絶望といった情念は、空気だけでなく、その場の物質そのものを『震わせる』ことがある。それは、録音機材のマイクが拾う音ではない。記録されるはずのない、魂の『残響』だよ」

彼はそう言うと、数あるレコードの中から、一枚のLPを抜き出しました。それは、五十年代に活躍した、ある無名の女性ジャズシンガーの、たった一枚のアルバムでした。
「彼女は、このレコードの録音を終えた直後、スタジオから姿を消した。今も行方不明のままだ。…さあ、彼女の最後の『歌』を聴こうじゃないか」

師匠は、そのレコードをターンテーブルに乗せ、最後の曲が終わるのを待ちました。やがて、スピーカーから聴こえてくるのは、チリチリ、プツプツという、ただのノイズだけ。
しかし、師匠は満足そうに頷くと、アンプのゲインを、ゆっくりと、上げていきます。

ジジ……、というノイズが、次第に大きくなる。
部屋の空気が、まるで鉛のように重くなっていくのを感じました。

その時です。
ノイズの向こう側に、何か、別の音が混じり始めました。

……ひ……ぃ……。

耳を澄ますと、それは、か細い、女性の息遣いのように聴こえました。
恐怖に金縛りになる私の横で、師匠はさらにゲインを上げます。

……や……め……て……。

間違いありません。それは、ノイズの中から滲み出てきた、誰かの声でした。懇願するような、掠れた囁き声。

……こ……ないで……あ……ぁ……。

その声が、苦痛に満ちた短い悲鳴に変わった瞬間。
パンッ! と乾いた音がして、スピーカーから煙が上がりました。そして、部屋は、完全な静寂に包まれました。

私は、心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死でこらえていました。
あれは、何だったのか。録音されるはずのない、あのシンガーの最後の瞬間が、本当にあの溝には、刻まれていたというのか。

師匠は、静かにレコードの針を上げると、私の方を見て、薄く笑いました。
その笑顔は、人の心を弄ぶような、不遜さに満ちていました。

「面白いだろう? 人は花を飾り、そこに『物語』が生まれることで、存在しない死者を作り出すことができる。ならば、逆もまた然りだ。もともと存在した人間の、忘れられた最後の瞬間を、こうして『音』として掘り起こすこともできる」

彼は、部屋中に積み上げられた、無数の黒い円盤を、ぐるりと見渡しました。

「僕の趣味は、こうした声なき『残響』のコレクションなのさ」

その言葉に、私は、全身の血が凍るのを感じました。
この、墓標のように積み上げられた、何百、何千というレコード。
その一枚一枚に、もし、記録されることのなかった、誰かの最後の声が、絶望が、恐怖が、染み付いているとしたら……。

この部屋は、スタジオなどではない。
ここは、無数の声なき死者たちの声で満たされた、巨大な霊廟そのものだったのです。
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