6 / 24
残響
しおりを挟む
私のオカルトの師匠は、家賃九千円の、今にも崩れそうなアパートに住んでいました。その六畳一間は、彼の果てしない趣味と探求心のカオスであり、訪れるたびに、その様相を変えていました。
ある時は壁一面が昆虫標本で埋め尽くされ、またある時は、異国の呪具らしきものが、所狭しと並べられている。
その日、私が目にしたのは、大量の古いレコードでした。床から天井まで積み上げられた黒い円盤の壁。それはまるで、音のない墓標のようでした。
「また、妙なものを集め始めましたね」
呆れて言う私に、師匠は埃まみれの眼鏡の奥で、楽しそうに目を細めました。
「趣味だよ。古い音の蒐集さ」
彼の言う「音」が、単なる音楽でないことは、すぐに分かりました。師匠が興味を示していたのは、曲そのものではなく、曲と曲の間、そして、レコードの最終トラックが終わった後に続く、針がただ溝をなぞるだけの「無音」の部分でした。ランアウト・グルーヴ、と呼ばれる箇所です。
師匠は、特殊な機材でその無音部分の音を極端に増幅し、ヘッドフォンで、何時間も、何時間も聴き続けていました。
「師匠、何を聴いてるんです? ただのノイズじゃないですか」
「君にはまだ聴こえないか」
師匠はヘッドフォンを外し、私に言いました。
「いいかい。音というのは、空気の振動だ。そして、レコードというのは、その振動を物理的な『溝』として刻み込んだものだ。だが、強い感情…特に、死を前にした人間の恐怖や絶望といった情念は、空気だけでなく、その場の物質そのものを『震わせる』ことがある。それは、録音機材のマイクが拾う音ではない。記録されるはずのない、魂の『残響』だよ」
彼はそう言うと、数あるレコードの中から、一枚のLPを抜き出しました。それは、五十年代に活躍した、ある無名の女性ジャズシンガーの、たった一枚のアルバムでした。
「彼女は、このレコードの録音を終えた直後、スタジオから姿を消した。今も行方不明のままだ。…さあ、彼女の最後の『歌』を聴こうじゃないか」
師匠は、そのレコードをターンテーブルに乗せ、最後の曲が終わるのを待ちました。やがて、スピーカーから聴こえてくるのは、チリチリ、プツプツという、ただのノイズだけ。
しかし、師匠は満足そうに頷くと、アンプのゲインを、ゆっくりと、上げていきます。
ジジ……、というノイズが、次第に大きくなる。
部屋の空気が、まるで鉛のように重くなっていくのを感じました。
その時です。
ノイズの向こう側に、何か、別の音が混じり始めました。
……ひ……ぃ……。
耳を澄ますと、それは、か細い、女性の息遣いのように聴こえました。
恐怖に金縛りになる私の横で、師匠はさらにゲインを上げます。
……や……め……て……。
間違いありません。それは、ノイズの中から滲み出てきた、誰かの声でした。懇願するような、掠れた囁き声。
……こ……ないで……あ……ぁ……。
その声が、苦痛に満ちた短い悲鳴に変わった瞬間。
パンッ! と乾いた音がして、スピーカーから煙が上がりました。そして、部屋は、完全な静寂に包まれました。
私は、心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死でこらえていました。
あれは、何だったのか。録音されるはずのない、あのシンガーの最後の瞬間が、本当にあの溝には、刻まれていたというのか。
師匠は、静かにレコードの針を上げると、私の方を見て、薄く笑いました。
その笑顔は、人の心を弄ぶような、不遜さに満ちていました。
「面白いだろう? 人は花を飾り、そこに『物語』が生まれることで、存在しない死者を作り出すことができる。ならば、逆もまた然りだ。もともと存在した人間の、忘れられた最後の瞬間を、こうして『音』として掘り起こすこともできる」
彼は、部屋中に積み上げられた、無数の黒い円盤を、ぐるりと見渡しました。
「僕の趣味は、こうした声なき『残響』のコレクションなのさ」
その言葉に、私は、全身の血が凍るのを感じました。
この、墓標のように積み上げられた、何百、何千というレコード。
その一枚一枚に、もし、記録されることのなかった、誰かの最後の声が、絶望が、恐怖が、染み付いているとしたら……。
この部屋は、スタジオなどではない。
ここは、無数の声なき死者たちの声で満たされた、巨大な霊廟そのものだったのです。
ある時は壁一面が昆虫標本で埋め尽くされ、またある時は、異国の呪具らしきものが、所狭しと並べられている。
その日、私が目にしたのは、大量の古いレコードでした。床から天井まで積み上げられた黒い円盤の壁。それはまるで、音のない墓標のようでした。
「また、妙なものを集め始めましたね」
呆れて言う私に、師匠は埃まみれの眼鏡の奥で、楽しそうに目を細めました。
「趣味だよ。古い音の蒐集さ」
彼の言う「音」が、単なる音楽でないことは、すぐに分かりました。師匠が興味を示していたのは、曲そのものではなく、曲と曲の間、そして、レコードの最終トラックが終わった後に続く、針がただ溝をなぞるだけの「無音」の部分でした。ランアウト・グルーヴ、と呼ばれる箇所です。
師匠は、特殊な機材でその無音部分の音を極端に増幅し、ヘッドフォンで、何時間も、何時間も聴き続けていました。
「師匠、何を聴いてるんです? ただのノイズじゃないですか」
「君にはまだ聴こえないか」
師匠はヘッドフォンを外し、私に言いました。
「いいかい。音というのは、空気の振動だ。そして、レコードというのは、その振動を物理的な『溝』として刻み込んだものだ。だが、強い感情…特に、死を前にした人間の恐怖や絶望といった情念は、空気だけでなく、その場の物質そのものを『震わせる』ことがある。それは、録音機材のマイクが拾う音ではない。記録されるはずのない、魂の『残響』だよ」
彼はそう言うと、数あるレコードの中から、一枚のLPを抜き出しました。それは、五十年代に活躍した、ある無名の女性ジャズシンガーの、たった一枚のアルバムでした。
「彼女は、このレコードの録音を終えた直後、スタジオから姿を消した。今も行方不明のままだ。…さあ、彼女の最後の『歌』を聴こうじゃないか」
師匠は、そのレコードをターンテーブルに乗せ、最後の曲が終わるのを待ちました。やがて、スピーカーから聴こえてくるのは、チリチリ、プツプツという、ただのノイズだけ。
しかし、師匠は満足そうに頷くと、アンプのゲインを、ゆっくりと、上げていきます。
ジジ……、というノイズが、次第に大きくなる。
部屋の空気が、まるで鉛のように重くなっていくのを感じました。
その時です。
ノイズの向こう側に、何か、別の音が混じり始めました。
……ひ……ぃ……。
耳を澄ますと、それは、か細い、女性の息遣いのように聴こえました。
恐怖に金縛りになる私の横で、師匠はさらにゲインを上げます。
……や……め……て……。
間違いありません。それは、ノイズの中から滲み出てきた、誰かの声でした。懇願するような、掠れた囁き声。
……こ……ないで……あ……ぁ……。
その声が、苦痛に満ちた短い悲鳴に変わった瞬間。
パンッ! と乾いた音がして、スピーカーから煙が上がりました。そして、部屋は、完全な静寂に包まれました。
私は、心臓が口から飛び出しそうになるのを、必死でこらえていました。
あれは、何だったのか。録音されるはずのない、あのシンガーの最後の瞬間が、本当にあの溝には、刻まれていたというのか。
師匠は、静かにレコードの針を上げると、私の方を見て、薄く笑いました。
その笑顔は、人の心を弄ぶような、不遜さに満ちていました。
「面白いだろう? 人は花を飾り、そこに『物語』が生まれることで、存在しない死者を作り出すことができる。ならば、逆もまた然りだ。もともと存在した人間の、忘れられた最後の瞬間を、こうして『音』として掘り起こすこともできる」
彼は、部屋中に積み上げられた、無数の黒い円盤を、ぐるりと見渡しました。
「僕の趣味は、こうした声なき『残響』のコレクションなのさ」
その言葉に、私は、全身の血が凍るのを感じました。
この、墓標のように積み上げられた、何百、何千というレコード。
その一枚一枚に、もし、記録されることのなかった、誰かの最後の声が、絶望が、恐怖が、染み付いているとしたら……。
この部屋は、スタジオなどではない。
ここは、無数の声なき死者たちの声で満たされた、巨大な霊廟そのものだったのです。
0
あなたにおすすめの小説
(ほぼ)1分で読める怖い話
涼宮さん
ホラー
ほぼ1分で読める怖い話!
【ホラー・ミステリーでTOP10入りありがとうございます!】
1分で読めないのもあるけどね
主人公はそれぞれ別という設定です
フィクションの話やノンフィクションの話も…。
サクサク読めて楽しい!(矛盾してる)
⚠︎この物語で出てくる場所は実在する場所とは全く関係御座いません
⚠︎他の人の作品と酷似している場合はお知らせください
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/12/7:『どろのあしあと』の章を追加。2025/12/14の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/6:『とんねるあんこう』の章を追加。2025/12/13の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/5:『ひとのえ』の章を追加。2025/12/12の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/4:『こうしゅうといれ』の章を追加。2025/12/11の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/3:『かがみのむこう』の章を追加。2025/12/10の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/2:『へびくび』の章を追加。2025/12/9の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/1:『はえ』の章を追加。2025/12/8の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
静かに壊れていく日常
井浦
ホラー
──違和感から始まる十二の恐怖──
いつも通りの朝。
いつも通りの夜。
けれど、ほんの少しだけ、何かがおかしい。
鳴るはずのないインターホン。
いつもと違う帰り道。
知らない誰かの声。
そんな「違和感」に気づいたとき、もう“元の日常”には戻れない。
現実と幻想の境界が曖昧になる、全十二話の短編集。
一話完結で読める、静かな恐怖をあなたへ。
※表紙は生成AIで作成しております。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる