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六面体
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その夜、私は終電を逃した。
よくある話だ。上司の長い武勇伝に付き合わされ、気づけば午前一時。タクシー代も馬鹿にならない。私はスマートフォンの画面をなぞり、一番近くにあったカプセルホテルに滑り込んだ。
無人チェックインを済ませ、指定された番号のポッドへ向かう。ずらりと並んだカプセルの群れは、まるで巨大な蜂の巣のようだった。
私の寝床は、二段目の「308号室」。
ロールスクリーンを上げ、中に身体を滑り込ませる。幅一メートル、奥行き二メートル、高さ一メートルほど。まさに、大人一人が横になるためだけの、完璧な六面体の箱だった。
スクリーンを下ろすと、外の光も音も遮断され、完全な静寂と暗闇が訪れる。窮屈ではあるが、奇妙な安心感があった。
疲労はピークだった。仕事用の鞄を枕元に置き、コントロールパネルで照明を落とす。あっという間に意識が沈んでいくのを感じた。
──どのくらい時間が経っただろうか。
ふと、息苦しさで目が覚めた。
空気が、重い。まるで、水の中にいるような圧迫感。そして、寒い。薄いブランケット一枚では耐えられないような、芯から凍える冷気が、この狭い箱の中に満ちていた。
寝ぼけた頭で、空調が故障したのか、と考える。
コントロールパネルの液晶画面に触れ、温度設定を確認する。24度。快適なはずの温度だ。
気のせいか、ともう一度目を閉じようとした、その時だった。
カサ、と。
枕元で、小さな音がした。
ビニールが擦れるような、乾いた音。
私は、身動き一つできなかった。
心臓が、嫌な音を立てて脈打つのを、耳の奥で聞いている。
音のした方へ、ゆっくりと視線を動かす。
そこにあるのは、私が置いた仕事用の鞄だけだ。他に、音を立てるようなものはない。
見間違いか。聞き間違いか。
疲れているんだ。そう自分に言い聞かせ、寝返りを打とうと、身体を少しだけ動かした。
その瞬間。
私の背中と、カプセルの壁との、ほんの数センチの隙間を、
──何かが、スッ、と通り抜けていった。
冷たく、滑らかな、肌のような感触。
それは間違いなく、私の背中に触れていた。
声にならない悲鳴が、喉の奥で凍りつく。
パニックに陥った私は、ガバッと勢いよく起き上がった。
狭いカプセルの中で、壁に頭をぶつける。
コントロールパネルの照明を、最大光量で点けた。
白々とした光が、六面体の箱を照らし出す。
そこには、誰もいない。
私と、私の鞄と、シーツが乱れたベッドだけだ。
当たり前だ。こんな狭い空間に、私以外の誰かが隠れる場所など、あるはずがないのだから。
バスルームもない。クローゼットもない。ベッドの下にも、潜れるような隙間はない。
入口のロールスクリーンは、下まで完全に閉まっている。
じゃあ、なんだ?
今、私の背中を撫でていった、あの感触は。
この、肌にまとわりつくような寒気と、息苦しさは。
どこにいる?
どこにいるんだ?
私は、まるで檻の中の獣のように、ぐるぐるとカプセルの中を見回した。
壁、床、天井。隅から隅まで。
どこにも、誰もいない。隠れる場所なんて、どこにも。
その時、ふと、天井の隅に取り付けられた、小さな換気口のカバーが目に入った。
光沢のある、黒いプラスチック製だ。
その表面に、ぼんやりと、カプセルの中の光景が映り込んでいる。
怯えきった顔で、天井を見上げる、私の姿が。
──そして、その私の背後に、
ぴったりと張り付くようにして、いる、黒い人影が。
私は、ゆっくりと、自分の背後を振り返った。
もちろん、そこには、冷たい壁があるだけだ。
もう一度、天井の換気口に視線を戻す。
黒い影は、まだ、そこにいる。
私の、すぐ後ろに。
それは、私が振り返っても、決して見ることができない。
なぜなら、それは、私の身体と壁との間の、「隙間」そのものに、なって存在しているからだ。
どこにいるの、じゃない。
それは、最初から、ずっとここにいたのだ。
この完璧な閉鎖空間で、私という障害物の、影の中に。
私はもう、叫ぶことも、動くこともできなかった。
ただ、換気口の黒いプラスチックに映る、自分のすぐ後ろに立つ「それ」が、
ゆっくりと、私の肩に、手を伸ばしてくるのを、
見ていることしか、できなかった。
よくある話だ。上司の長い武勇伝に付き合わされ、気づけば午前一時。タクシー代も馬鹿にならない。私はスマートフォンの画面をなぞり、一番近くにあったカプセルホテルに滑り込んだ。
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私の寝床は、二段目の「308号室」。
ロールスクリーンを上げ、中に身体を滑り込ませる。幅一メートル、奥行き二メートル、高さ一メートルほど。まさに、大人一人が横になるためだけの、完璧な六面体の箱だった。
スクリーンを下ろすと、外の光も音も遮断され、完全な静寂と暗闇が訪れる。窮屈ではあるが、奇妙な安心感があった。
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寝ぼけた頭で、空調が故障したのか、と考える。
コントロールパネルの液晶画面に触れ、温度設定を確認する。24度。快適なはずの温度だ。
気のせいか、ともう一度目を閉じようとした、その時だった。
カサ、と。
枕元で、小さな音がした。
ビニールが擦れるような、乾いた音。
私は、身動き一つできなかった。
心臓が、嫌な音を立てて脈打つのを、耳の奥で聞いている。
音のした方へ、ゆっくりと視線を動かす。
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見間違いか。聞き間違いか。
疲れているんだ。そう自分に言い聞かせ、寝返りを打とうと、身体を少しだけ動かした。
その瞬間。
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──何かが、スッ、と通り抜けていった。
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それは間違いなく、私の背中に触れていた。
声にならない悲鳴が、喉の奥で凍りつく。
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狭いカプセルの中で、壁に頭をぶつける。
コントロールパネルの照明を、最大光量で点けた。
白々とした光が、六面体の箱を照らし出す。
そこには、誰もいない。
私と、私の鞄と、シーツが乱れたベッドだけだ。
当たり前だ。こんな狭い空間に、私以外の誰かが隠れる場所など、あるはずがないのだから。
バスルームもない。クローゼットもない。ベッドの下にも、潜れるような隙間はない。
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じゃあ、なんだ?
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どこにいる?
どこにいるんだ?
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どこにも、誰もいない。隠れる場所なんて、どこにも。
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──そして、その私の背後に、
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もう一度、天井の換気口に視線を戻す。
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それは、私が振り返っても、決して見ることができない。
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