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空室の足音
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私は、オカルトや心霊現象といったものを一切信じないタイプの人間だ。
幽霊なんて見たこともないし、そもそも、いると思っていない。科学で説明できないことは、観測できていない変数があるだけ。それが私の持論だった。
だから、この話も、別に幽霊譚だとは思っていない。ただ、私の常識では、どうしても説明がつかなかった出来事だ。
都心から少し離れた、家賃の安さに惹かれて引っ越した木造アパートの二階。その部屋で、私のささやかな日常は、静かに軋み始めた。
最初に気づいたのは、「音」だった。
引っ越して一週間ほど経った、平日の昼間。私は在宅でPCに向かっていた。
上の階から、トントン、トントン、と子供が走り回るような、軽い足音が聞こえてくる。
(ああ、上の人、小さい子がいるんだな)
その時は、特に気にしなかった。集合住宅なんて、そんなものだ。
しかし、その足音は、毎日のように、それも不規則な時間に聞こえてくるようになった。深夜二時、朝方の四時。まるで眠らない子供が、飽きもせずに部屋の中を駆け回っているようだった。
さすがに少し気味が悪くなり、週末に挨拶がてら、菓子折りを持って三階の部屋を訪ねてみた。
だが、チャイムを何度鳴らしても、応答はない。ドアポストはテープで塞がれ、電気メーターも動いていなかった。
翌日、管理会社に電話で問い合わせてみた。
「ああ、301号室ですね。あそこは前の住人が退去されてから、もう半年以上、空室ですよ」
受話器の向こうの、事務的な声。私は、全身の血が下がるような感覚を覚えた。じゃあ、毎晩聞こえてくる、あの足音の正体は、一体なんなんだ。
その日から、私は「音」に敏感になった。
壁の向こうから、カリカリと何かを引っ掻くような音。
誰もいないはずの廊下を、誰かが歩く軋み。
そして、一番気味が悪かったのは、私の部屋の中で鳴る音だった。
ある夜、ベッドで本を読んでいると、部屋の隅に置いたままだった段ボール箱が、
──スッ、と。
本当に、1センチだけ、フローリングの上を滑った。
見間違いか? 私は目を凝らした。部屋は静まり返っている。
しかし、10分後。また、スッ、と。今度は数センチほど。
まるで、誰かが、ほんの少しずつ、それを私の方へ近寄らせているように。
恐怖で身体が固まった。
部屋には私一人しかいない。隠れる場所なんてない。
私は、段ボール箱から目を逸らせなかった。
もし、あれが部屋の真ん中まで来たら? もし、箱の中から、何かが顔を出したら?
意味もなく、祖母から昔もらったお守りを、強く握りしめていた。
極めつけは、その翌日だった。
仕事を終え、ヘッドフォンで音楽を聴きながら、夕食の準備をしていた。
大音量のロックが流れる中、曲と曲の、ほんの一瞬の静寂。
その隙間を縫うように、すぐ右の耳元で、はっきりと、女の声が囁いた。
『ねえ』
私は「うわっ!」と叫び、ヘッドフォンを床に叩きつけた。
心臓が、破裂しそうなくらい鳴っている。
振り向いても、もちろん誰もいない。キッチンには、私一人だ。
ヘッドフォンの故障か? 空耳か?
だが、あの声の質感は、あまりに生々しかった。温度さえ、感じるような。
もう限界だった。
私は、荷物をまとめるのもそこそこに、そのアパートを飛び出した。友人の家に転がり込み、すぐに別の物件を探した。
後日、不動産屋に解約を申し出た時、何気なく、あのアパートについて尋ねてみた。
「あの物件、何かあったりします?」
担当者は一瞬、気まずそうに目を伏せたが、やがて諦めたように口を開いた。
「……正直、あまり良い場所ではないんです。昔、あのあたりは沼地でしてね。身寄りのない子供なんかを……まあ、そういう良くない噂がある土地なんです。だから、住む人によっては『何かを感じる』と。前の住人の方も、それで……」
前の住人。301号室の。
私は、訊かずにはいられなかった。
「その人、どうして引っ越したんですか?」
担当者は、さらに声を潜めて言った。
「毎晩、下の階から、男の人のうめき声が聞こえる、と……」
私は、絶句した。
私が聞いていたのは、上の階の足音。
上の階の住人が聞いていたのは、下の階のうめき声。
私は、一度も幽霊なんて見ていない。
でも、確信している。
あのアパートはおかしいと。
幽霊なんて見たこともないし、そもそも、いると思っていない。科学で説明できないことは、観測できていない変数があるだけ。それが私の持論だった。
だから、この話も、別に幽霊譚だとは思っていない。ただ、私の常識では、どうしても説明がつかなかった出来事だ。
都心から少し離れた、家賃の安さに惹かれて引っ越した木造アパートの二階。その部屋で、私のささやかな日常は、静かに軋み始めた。
最初に気づいたのは、「音」だった。
引っ越して一週間ほど経った、平日の昼間。私は在宅でPCに向かっていた。
上の階から、トントン、トントン、と子供が走り回るような、軽い足音が聞こえてくる。
(ああ、上の人、小さい子がいるんだな)
その時は、特に気にしなかった。集合住宅なんて、そんなものだ。
しかし、その足音は、毎日のように、それも不規則な時間に聞こえてくるようになった。深夜二時、朝方の四時。まるで眠らない子供が、飽きもせずに部屋の中を駆け回っているようだった。
さすがに少し気味が悪くなり、週末に挨拶がてら、菓子折りを持って三階の部屋を訪ねてみた。
だが、チャイムを何度鳴らしても、応答はない。ドアポストはテープで塞がれ、電気メーターも動いていなかった。
翌日、管理会社に電話で問い合わせてみた。
「ああ、301号室ですね。あそこは前の住人が退去されてから、もう半年以上、空室ですよ」
受話器の向こうの、事務的な声。私は、全身の血が下がるような感覚を覚えた。じゃあ、毎晩聞こえてくる、あの足音の正体は、一体なんなんだ。
その日から、私は「音」に敏感になった。
壁の向こうから、カリカリと何かを引っ掻くような音。
誰もいないはずの廊下を、誰かが歩く軋み。
そして、一番気味が悪かったのは、私の部屋の中で鳴る音だった。
ある夜、ベッドで本を読んでいると、部屋の隅に置いたままだった段ボール箱が、
──スッ、と。
本当に、1センチだけ、フローリングの上を滑った。
見間違いか? 私は目を凝らした。部屋は静まり返っている。
しかし、10分後。また、スッ、と。今度は数センチほど。
まるで、誰かが、ほんの少しずつ、それを私の方へ近寄らせているように。
恐怖で身体が固まった。
部屋には私一人しかいない。隠れる場所なんてない。
私は、段ボール箱から目を逸らせなかった。
もし、あれが部屋の真ん中まで来たら? もし、箱の中から、何かが顔を出したら?
意味もなく、祖母から昔もらったお守りを、強く握りしめていた。
極めつけは、その翌日だった。
仕事を終え、ヘッドフォンで音楽を聴きながら、夕食の準備をしていた。
大音量のロックが流れる中、曲と曲の、ほんの一瞬の静寂。
その隙間を縫うように、すぐ右の耳元で、はっきりと、女の声が囁いた。
『ねえ』
私は「うわっ!」と叫び、ヘッドフォンを床に叩きつけた。
心臓が、破裂しそうなくらい鳴っている。
振り向いても、もちろん誰もいない。キッチンには、私一人だ。
ヘッドフォンの故障か? 空耳か?
だが、あの声の質感は、あまりに生々しかった。温度さえ、感じるような。
もう限界だった。
私は、荷物をまとめるのもそこそこに、そのアパートを飛び出した。友人の家に転がり込み、すぐに別の物件を探した。
後日、不動産屋に解約を申し出た時、何気なく、あのアパートについて尋ねてみた。
「あの物件、何かあったりします?」
担当者は一瞬、気まずそうに目を伏せたが、やがて諦めたように口を開いた。
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前の住人。301号室の。
私は、訊かずにはいられなかった。
「その人、どうして引っ越したんですか?」
担当者は、さらに声を潜めて言った。
「毎晩、下の階から、男の人のうめき声が聞こえる、と……」
私は、絶句した。
私が聞いていたのは、上の階の足音。
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でも、確信している。
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