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三年前の春
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流れるプールで白瀬さんとはしゃいだ後、僕は一人パラソルの下で休憩していた。スマホで時間を潰していると、不意に隣に人の気配がした。
「お疲れ様」
顔を上げると、水野さんが座っていた。プールから上がったばかりなのか、髪から雫が滴り落ちている。彼女はタオルで首筋を拭きながら、どこか楽しそうな表情で僕を見ていた。
「白瀬さんは?」
「トイレ。すぐ戻ってくるはず」
「ふうん」
水野さんは僕の答えに満足したのか、軽く頷いた。それから少しの沈黙。プールではしゃぐ声が遠くで響いている。
「ねえ、蓮くん」
「ん?」
「白瀬さんのこと、好きだもんね」
心臓が一瞬止まった。
「……ま、まあ」
「フフッ」
水野さんがクスリと笑う。僕は慌ててタオルで顔を隠した。暑さのせいだ、プールのせいだ、と言い訳を脳内で列挙するが、どれも採用できそうにない。
「まあ、分かりやすいよね。蓮くんって」
水野さんの声が、いつもより少しだけ柔らかい気がした。
「……それで? わざわざそれを言いに来たの?」
「違うよ」
水野さんは視線を空に向けた。
「私もね、昔は蓮くんのこと好きだったんだ」
今度は心臓が跳ねた。違う種類の驚きだ。
「へ?」
「三年前。覚えてる?」
三年前――中学一年の春休み。
その言葉だけで、封印していた記憶の蓋が勝手に開いた。
※
中学一年の春休み。『ヒーリング』の新刊発売日。
僕は小走りで本屋に向かっていた。早く手に入れたい。続きが気になって仕方ない。そんな浮かれた気分のまま角を曲がると、一人の女子が地面を見つめてしゃがみ込んでいた。
「どうしたの?」
声をかけると、彼女は顔を上げた。目を細めて、僕の輪郭を必死に捉えようとしている。
「あ、ごめんなさい! 眼鏡落として……見えなくて」
なるほど。だから睨んでいるように見えたのか。
「手伝うよ」
「ありがとう!」
二人で探すこと数分。眼鏡は近くの公園のベンチに、忘れ物みたいにポツンと置かれていた。
「……なんでこんなところに?」
「えっと、さっき、ちょっと黄昏れてて」
「黄昏れてた?」
「うん」
理由になってない気がするが、深く追求しなかった。変わった子だな、とは思ったけれど。
「ありがとう。有馬くんだよね」
「え、なんで知ってるの」
「同じクラスだよ? 有馬蓮。いい名前なのに、覚えてる人少ないよね」
水野さんは不思議そうに首を傾げた。確かに、クラスで僕の名前をフルネームで言える人間は片手で数えられる。
「また学校でね」
彼女が歩き出した瞬間、前方からガラの悪い男が現れた。水野さんは眼鏡をかけ忘れていたのか、気づかずに正面からぶつかった。
「おい」
男の低い声。
その瞬間、体が勝手に動いていた。水野さんの前に割り込んで、男と向き合う。足が震えている。心臓が早鐘を打っている。でも、ここで逃げたら一生後悔する気がした。
「……お前、有馬の弟か」
「え?」
「姉ちゃんには世話になってる。悪かったな」
男はそれだけ言うと、ポケットに手を突っ込んで去っていった。拍子抜けするほどあっさりと。
僕は安堵のため息をついて振り返った。水野さんは呆然と立ち尽くしている。
「なんで」
「え?」
「なんで、庇ったの」
水野さんの声が、少しだけ震えていた。
「……分かんない。何も考えてなかった」
本当にそうだった。気づいたら体が動いていた。
水野さんは黙って眼鏡をかけた。そして、レンズ越しに僕をじっと見つめる。
「……ねえ、有馬くん」
「ん?」
「眼鏡かけた方が、ちゃんと見えるね」
彼女は小さく笑った。それが、とても綺麗だったことを覚えている。
※
「――あの時からかな」
水野さんの声で現実に引き戻された。
「蓮くんのこと、意識し始めたの」
彼女は相変わらず空を見上げている。横顔が、夏の日差しに照らされて眩しい。
「私ね、蓮くんのこと高く評価してるんだ」
水野さんが視線を戻した。僕と目が合う。
「だから――もし、白瀬さんと上手くいかなかったら」
そこで彼女は僕の手を取った。柔らかい。温かい。
「私を頼ってね」
その笑顔は、優しくて、少しだけ切なかった。まるで最初から負けを認めているような、そんな笑顔。
「……水野さん」
「ん?」
「ありがとう」
それしか言えなかった。彼女の気持ちが嬉しい。でも、僕の答えはもう決まっている。
水野さんは手を離して立ち上がった。
「じゃあね。白瀬さん、待たせちゃダメだよ」
「うん」
彼女は軽く手を振って、プールサイドへと消えていった。
僕は空を見上げた。夏の空は、どこまでも青く高い。
――白瀬さんが好きだ。それは変わらない。
でも、手のひらにはまだ、水野さんの温もりが残っていた。この感覚が何なのか、僕にはまだ分からない。分からないけれど、忘れたくないとも思った。
矛盾している。自分でも分かっている。
でも、それが今の僕の、正直な気持ちだった。
「お疲れ様」
顔を上げると、水野さんが座っていた。プールから上がったばかりなのか、髪から雫が滴り落ちている。彼女はタオルで首筋を拭きながら、どこか楽しそうな表情で僕を見ていた。
「白瀬さんは?」
「トイレ。すぐ戻ってくるはず」
「ふうん」
水野さんは僕の答えに満足したのか、軽く頷いた。それから少しの沈黙。プールではしゃぐ声が遠くで響いている。
「ねえ、蓮くん」
「ん?」
「白瀬さんのこと、好きだもんね」
心臓が一瞬止まった。
「……ま、まあ」
「フフッ」
水野さんがクスリと笑う。僕は慌ててタオルで顔を隠した。暑さのせいだ、プールのせいだ、と言い訳を脳内で列挙するが、どれも採用できそうにない。
「まあ、分かりやすいよね。蓮くんって」
水野さんの声が、いつもより少しだけ柔らかい気がした。
「……それで? わざわざそれを言いに来たの?」
「違うよ」
水野さんは視線を空に向けた。
「私もね、昔は蓮くんのこと好きだったんだ」
今度は心臓が跳ねた。違う種類の驚きだ。
「へ?」
「三年前。覚えてる?」
三年前――中学一年の春休み。
その言葉だけで、封印していた記憶の蓋が勝手に開いた。
※
中学一年の春休み。『ヒーリング』の新刊発売日。
僕は小走りで本屋に向かっていた。早く手に入れたい。続きが気になって仕方ない。そんな浮かれた気分のまま角を曲がると、一人の女子が地面を見つめてしゃがみ込んでいた。
「どうしたの?」
声をかけると、彼女は顔を上げた。目を細めて、僕の輪郭を必死に捉えようとしている。
「あ、ごめんなさい! 眼鏡落として……見えなくて」
なるほど。だから睨んでいるように見えたのか。
「手伝うよ」
「ありがとう!」
二人で探すこと数分。眼鏡は近くの公園のベンチに、忘れ物みたいにポツンと置かれていた。
「……なんでこんなところに?」
「えっと、さっき、ちょっと黄昏れてて」
「黄昏れてた?」
「うん」
理由になってない気がするが、深く追求しなかった。変わった子だな、とは思ったけれど。
「ありがとう。有馬くんだよね」
「え、なんで知ってるの」
「同じクラスだよ? 有馬蓮。いい名前なのに、覚えてる人少ないよね」
水野さんは不思議そうに首を傾げた。確かに、クラスで僕の名前をフルネームで言える人間は片手で数えられる。
「また学校でね」
彼女が歩き出した瞬間、前方からガラの悪い男が現れた。水野さんは眼鏡をかけ忘れていたのか、気づかずに正面からぶつかった。
「おい」
男の低い声。
その瞬間、体が勝手に動いていた。水野さんの前に割り込んで、男と向き合う。足が震えている。心臓が早鐘を打っている。でも、ここで逃げたら一生後悔する気がした。
「……お前、有馬の弟か」
「え?」
「姉ちゃんには世話になってる。悪かったな」
男はそれだけ言うと、ポケットに手を突っ込んで去っていった。拍子抜けするほどあっさりと。
僕は安堵のため息をついて振り返った。水野さんは呆然と立ち尽くしている。
「なんで」
「え?」
「なんで、庇ったの」
水野さんの声が、少しだけ震えていた。
「……分かんない。何も考えてなかった」
本当にそうだった。気づいたら体が動いていた。
水野さんは黙って眼鏡をかけた。そして、レンズ越しに僕をじっと見つめる。
「……ねえ、有馬くん」
「ん?」
「眼鏡かけた方が、ちゃんと見えるね」
彼女は小さく笑った。それが、とても綺麗だったことを覚えている。
※
「――あの時からかな」
水野さんの声で現実に引き戻された。
「蓮くんのこと、意識し始めたの」
彼女は相変わらず空を見上げている。横顔が、夏の日差しに照らされて眩しい。
「私ね、蓮くんのこと高く評価してるんだ」
水野さんが視線を戻した。僕と目が合う。
「だから――もし、白瀬さんと上手くいかなかったら」
そこで彼女は僕の手を取った。柔らかい。温かい。
「私を頼ってね」
その笑顔は、優しくて、少しだけ切なかった。まるで最初から負けを認めているような、そんな笑顔。
「……水野さん」
「ん?」
「ありがとう」
それしか言えなかった。彼女の気持ちが嬉しい。でも、僕の答えはもう決まっている。
水野さんは手を離して立ち上がった。
「じゃあね。白瀬さん、待たせちゃダメだよ」
「うん」
彼女は軽く手を振って、プールサイドへと消えていった。
僕は空を見上げた。夏の空は、どこまでも青く高い。
――白瀬さんが好きだ。それは変わらない。
でも、手のひらにはまだ、水野さんの温もりが残っていた。この感覚が何なのか、僕にはまだ分からない。分からないけれど、忘れたくないとも思った。
矛盾している。自分でも分かっている。
でも、それが今の僕の、正直な気持ちだった。
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