勇者から逃亡した魔王は、北海道の片田舎から人生をやり直す

栗金団(くりきんとん)

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【第2話】お人好しの少年と、手負いの魔王

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超高度からの落下の衝撃により、休耕畑の乾いた地面に亀裂が入る。
根を張っていた植物は飛び散り、粉塵が舞い、空気が震えて爆音が響く。
周囲の動物たちは、空から降ってきた異世界の生物に対し、足早に立ち去っていく。
だが、反対に自らの足で近づいて来た者もいた。日に焼けた髪、半そで半ズボンから浅黒い肌がのびる少年があぜ道を走る。その先を柴犬のタロウが走って先導する。
「何か落ちて来た!?行こうタロウ!」
「ばうっ!ワンワン!」
「けほっ、けほっ、よく見えない……え?」
空には何も浮かんでいない。隕石か、あるいは未確認飛行物体か。
畑の中心に2m近く引く窪んだ穴があった。少年が中心を覗き込むと、土煙の中に真黒な何かが見えた。無機物とは異なる質感は動物の毛皮特有の柔らかさがあり、山間部生まれの少年には嗅ぎなれた匂いがする。顔が歪むような、鼻腔を刺激する異臭だ。
「酷い獣臭……大きさからして猫じゃないよな、子熊?それとも野犬?
タロウが反応していたのはこのせいか」
「グルルルル」
「だめだよ、タロウ。かわいそうに、落下物に当たってしまったんだ。
後でちゃんと埋葬してあげよう」
両手を合わせて目を閉じ、少年は静かに黙とうを捧げる。
「あれ?動いて……?いや、違う!まだ生きてる!」
だが、目を開いた瞬間迷わず穴に飛び込んだ。
熊だか犬だかわからないその動物が、僅かに動いた。
獣臭い黒毛の生き物は血に塗れ傷だらけで、とても清潔な状態ではない。まして野生動物ならどんな病原菌を持っているかもわからない。
だが少年はその生き物を両手で抱き寄せると、身体を密着して抱え上げた。
「あっつ!?
酷い怪我をしているけどまだ温かい。心臓も動いている。生きてる!」
這いずりながら穴を出て、少年は再び駆け出した。すぐに愛犬が後を追う。
「大丈夫、絶対に助けるからね」
抱えた動物は四足歩行の動物特有の骨格と三角形の耳を持ち、なされるがままぐったりとしていた。
その動物の瞳が烈火のごとく赤く、額からは二本の角が生え、臀部からは虎のように長く太い尾が垂れ下がっていることには、タロウ以外誰も気づきはしなかった。
少年は負傷した謎の生物を腕に、民家に駆け込んだ。

勇者との闘いから逃走した魔王は、不思議な香りで目を覚ました。
すんすん、と何度か鼻を鳴らして発信源と周囲の情報を探る。
ここは雨風の当たらない屋根の下、地面から離れた場所。身体は、柔らかく肌触りが良い布にくるまれている。
その布切れにも家の中にも知らない人間の匂いが充満している。他に大型の獣や魔族の匂いはしない。傷は痛むが、牢獄の中ではないようだ。
「う、ウゥゥ―――」
「あ、起きた。ご飯だよ、傷の具合はどう?」
「アウウゥ―――」
「ごめんね、ちょっと触らせてね」
匂いと足音が近づいてくる。怪しげな他者に向かって魔王は威嚇の唸り声を上げる。
そのうち一人の人間は、必ず一日のうち何度かやって来ては声をかけてくる。そして魔王の身体を清潔な布で洗い清め、包帯を巻きなおし、飲み水を替えて食事の介助をする。
口に流し込まれる流動食を飲み込みながら、魔王は相手の顔を見据えて睨みつける。
一体なぜこんなことを、それも人間してくるのかがわからない。未だ治らない傷の痛みと動かない身体、そしてその違和感だけが不快感だった。
スプーンを差し出す手を振り払い噛みつく。しかし、負傷した身体では力が入らない。
無様に食事を流し込まれ、嚥下するしかなかった。
「美味しい?噛み癖、なかなか直らないなぁ」
「ググゥゥ―――」
「わかったわかった、触られるのは嫌だね。ごめんね」
「ウルルルrr……んみゃんみゃんみゃ」
「でも、食欲があるのは良いことだ」
ただし、食事は美味かった。
でき立ての食事はいつも温かく、栄養があり、口にしたことのない食材と調味料による複雑な味がして美味かった。牙を剥きだしにして唸りながら舌で舐めとって嚥下すると、人間は嬉しそうに高い声で何かを喋りかけてくるのだった。
「美味しいねぇ。一時はどうなるかと思ったけど、傷が良くなって嬉しいよ」
「ガルルルル……」
「血液と同じ赤い瞳……アルビノなのかな?角は山羊みたいだけど」
口の周りを拭われて、再び小さな箱のようなものの中に入れられる。
初めは檻かと思ったが、身体を動かすのに十分なスペースがあり、素材は鉄よりも脆く、扉には鍵すらつけられていない。いつでも脱走ができるので、箱だろうと予想していた。
その箱に入れられる理由は、恐らくこの部屋の中を歩き回る小型の獣と直接接触しないためだろう。
そう、この家には人間以外の生物もいる。
「あ、こら。タマはもうご飯食べたでしょ」
「みゃぁ」
「おーい、禅!ご飯できたよぉー!」
「はーい!おばあちゃん、今行くよ」
「みゃあ!」
「タマ?タマは人間のご飯は食べられないよ」
魔王にとって人間とは脆弱で卑怯で愚かな不快害虫。元いた世界の人間は例外なく魔族を敵視して攻撃をしてきた。にもかかわらず、この禅という人間の雄からは全くといっていいほど敵意や害意を感じない。
禅だけではない。タマと名付けられた小型の獣も、頻繁に檻の外側をウロウロと回ってこちらの様子を窺ってくる。初めは縄張りの中に馴染みがない獣がいるのだから当たり前だろうと思ったが、タマは一度も魔王に威嚇やマーキングをしてこなかった。少しでも魔力のある獣ならば、魔王の覇気に怖気づきその場を去るはずだというのに。
「行こう、タマ。眠りを邪魔しちゃ悪いよ」
「にゃにゃっ、にゃんっ」
この不快感も、魔王の腹の傷が癒えて動けるようになれば解決する。
住人は二人。それもほとんど魔力がない少年と老婆だ。勇者との戦闘で受けた傷は日に日に良くなっている。あと数日あれば、病み上がりの身体でも住人を虐殺して家を乗っ取ることができる。来たる日を前に、魔王の瞳は爛々と輝いていた。
そして、ついにその日がやってくる。
「ご飯だよ、今日は特別な食事を用意して……あ!動けるようになったんだね」
「ガルルルル」
「すぐにご飯にするから」
身体の大きさを戻したり、変化したり、魔法を使ったりする余力はないが、身体を起こして物理攻撃をすることは可能だ。嗅いだことのない香りの食事と共に、例の人間がぬけぬけとやってくる。傷の治りに合わせて食事は流動食から固形物へと変わっていた。
最近では毎日のように新しい食べ物を口にしている。食事は魔王にとって数少ない楽しみの一つではあるが、動機がわからない人間といる不快感はそれを上回る。
当たり前のように箱から出されて膝に乗せられる。魔王に対してこの距離感の近さを強要してくるのも、気に入らない点の一つだった。差し出された手を睨みつける。
こうして何度無理矢理口を開かれて食事をさせられたことか。それも今日で終わりだ。
「ばくんっ」
「わっ!?どどど、どうしたの?いててっ」
舌で獲物の感触を確かめた。旨い。このまま噛み千切ってやれば、久方ぶりに大好物の肉にありつける。旨い。人間は獣人のような毛皮もドラゴンのような鋼鉄の鱗もない。歯を当てるだけで皮膚が裂けて出血するような脆弱な種族だ。
……旨い?
人間の手の上に極上の肉が乗っていた。芳醇な血の香りが肺を充満する。たった今仕留めたばかりのような、新鮮で低脂肪ながら高タンパク質でスジの少ない赤身だ。
邪魔な人間の手を吐き出して咀嚼をする。魔王が食べたことのない美食がそこにあった。
「あみゃみゃみゃー!」
「気に入ってくれた?猟友会の嵐山さんが分けてくれたお肉だよ」
「みゃぐみゃぐみゃぐ」
「いたた、そろそろ僕の手とご飯の違いがわかってくれると嬉しいんだけど……。
あ、血が出てる。今日は一段と力が強かったなぁ」
「がっ、ぐわっ、がっ」
「そんなに警戒しなくても、誰も取ったりしないよ」
噛むごとに、この旨みは新鮮なだけではないことがわかる。これは食べたことのない動物の、知らない部位の肉だ。いくら飲み込んで胃に収めても食い足りない。
気づけば魔王は四つん這いになって食事をしていた。その間に身体を清められ包帯が変えられてもまるで抵抗せず、最後の一切れを頬張っている間に、犬用のケージに戻される。
「すごい食いつきだ、気に入ってくれて良かった」
「むしゃむしゃ……むぅ?」
「もうないよ、今日の分は終わり」
「ムゥ!?ウゥ―――!」
「触ってごめんね。それじゃあ、また」
「……」
 魔族は、食物連鎖の頂点に君臨する力と知性と魔力を持っている。人間のように寿命や睡眠、性欲に縛られることもない。本来であれば食事も数か月に一度あれば十分だ。
だからこそ、魔族は娯楽に強く飢えていた。
 魔族にとって、食事は飢えを二重で満たす楽しみだ。口の周りに付着した血液と肉を舌で舐めとる。合間に舌と牙の形状が変化した。歩き去ろうとする人間の背中を睨みつけ、声帯を震わせて発声をする。
「nィン、ニンゲン、マて、モッとだ。ご飯ダ」
「へ?え、喋っ……喋った?」
その飢えを満たすためなら、異世界の言語を話すことなど容易い。
禅は振り返って声の主を探す。鬼灯の実と同じ色、強く意志を持った瞳と目が合った。
聞こえてきたのは、犬や猫が人間の声を真似したものとは違う、明確に言語を理解して発した言葉だ。それも鳥類が模倣するよりも高いレベルのものだった。
禅が踵を返して戻ってきたのを見て、魔王はよしよしとほくそ笑む。畳に膝をついた禅がそのまま魔王に恐れおののいて跪き、先ほどの肉を献上すれば、全て思い通りだった。
「今……今の、僕に喋ったの?」
「そうダ、肉ダ。肉を出セ」
「き、傷の様子はどう?まだ痛い?苦しいとこはない?」
「傷、すぐに治ル。痛い、なイ、苦しイ、なぁ……やめロ、触らっ、バウッ!」
だが禅は手をのばすと、魔王の頬に触れて撫でまわし始めた。
「凄い、凄い凄い凄い!ちゃんと僕の言葉を理解してる!なんで?なんで!?」
「んみゃ、おいやめロっ、んあっ、あっ、うワンっ!」
「夢みたい!僕、動物と喋ってる!ねぇ!?喋ってたよね!?」
「あ!?うわぁっ、うわぁっ!わん!」
「鳥みたいに鳴管があるの?それとも舌が発達しているとか!?」
禅は魔王の顎を開いて舌の形を確認し、頬袋を動かして手触りを楽しむ。
何を思ってそんなことをしているのか、なぜこんなことをしてくるのか、魔王はまるで理解できない。
痛くはないが、侮辱されているような気もする。しかし悪意は感じない。
禅は、純粋な好奇心で魔王を弄んでいた。ようやく手を放すころには、魔王の高貴な黒毛はあちこちに跳ねて曲がり、顔は呆けていて酷い有様だった。
「あ、ごめんね!それで何だっけ!?おかわりだっけ?」
「……ニク、ニク、ニク」
「すごい、本当に会話ができている……!
じゃなくて、いいよ!すぐに持ってくるね!」
「は……はやク」
バタバタと走りながらキッチンに向かう人間の後姿を送り出して、ようやく一息つく。
ケージから上半身を出して毛並みを整えながら、魔王は散々弄ばれた頭のあたりを整える。手元の毛を舐めて頭に擦りながら、人間たちの住居を観察する。
ホコリ臭いクッションに古びた箪笥、木製の時計から、質素な生活を送っていることがわかる。
いや、猫が爪とぎをした傷や落書きが残る柱、破けた障子を見れば、質素を通り越して貧乏くさい。
とても魔王がいるのには相応しくない。
この家で唯一真新しいものといえば、人間の背丈ほどの大きさがある、クルミ材でできた木製の箱くらいだ。室内に不相応な暗色の箱は真ん中に穴が開いていて、人間たちが毎日のように水や食事、時々は花を置いたり替えたりするのを、ケージの中から見ていた。
そのうちにバタバタと足音が近づいてくる。
魔王は指先に格納していた爪を出す。数センチ大のカギ爪は、人間の肌なら簡単に切り裂けるほどに先端が鋭く尖っている。
先ほどの不敬を考え、いっそ殺してしまおうかと考える。
「お待たせ!夕飯の分にしようと思っていたけど、食べられるだけ食べてね!」
「あみゃみゃみゃ!」
「美味しい?また貰ってくるからね……あれ?君、こんなに脚が長かった?」
だが、まずは食事が先だ。
山のように盛られた肉に飛びついて、魔王は歓喜の言葉を上げる。まるで腹をすかせた野良猫だ。
禅は喋る子猫のような生き物を、嬉しそうに眺めていた。
しかし、その身体が数分前と比べて変化していることに気づく。後ろ足は前足よりも長く、骨盤が立ち上がっている。その姿かたちは四足歩行の犬や猫よりも、霊長類に近い。
「くちゃくちゃ……貰って、くル?」
「このお肉は猟師の嵐山さんから貰ったんだ。
牧場にいた羊のお肉なんだけど、僕らには珍しい肉だろうし折角だからおすそ分けって」
「おすそ分ケ?」
「おすそ分けっていうのは、例えば……鹿を丸々一頭仕留めても一人では食べきれないでしょう?そういうときに、家族や近所の人にお肉を分けたり交換をしたりすることだよ」
「アラシヤマ、カゾク?」
「いやいや!嵐山さんはただのご近所さんだよ。
僕もうちの畑で取れた野菜を時々おすそ分けしていたから、厳密には物々交換のお互い様かな。
同じ地域で暮らしているから、こうやって協力し合っているんだよ」
「肉、次、いツ?」
「うーん、ちょっとわからないなぁ。
でもお願いしてみるね。また美味しい肉が入ったら届けてもらえるように」
「うム」
「本当に言葉がわかるんだ……頭が良いんだね」
美味しい肉、という言葉に魔王が舌なめずりをする。
少し前まで肉を調達できるなら己の手でと考えていたが、今は違う。
猟師というのが狩猟を生業にする人間であり、肉の解体や保存の知識がある人間だということがわかった。知らない土地で魔王直々に肉を調達するよりも、このままこの家で待つ方がずっと効率的だ。
飢えが満たされた魔王は上機嫌だった。指先に沁みついた肉汁を舐めとりながら、人間の質問にも寛容に答える。
「お昼は美味しかった?お腹いっぱいになった?」
「美味しい、もう肉はないのカ」
「うん、今のが最後の一切れだよ。いっぱい食べたね」
「さ、最後……そうだったのカ……」
魔王の言葉尻が弱くなり耳が垂れ下がっていく。余程肉を気に入ったらしい。
落ち込んだ姿を見て、禅は心が締め付けられたようだ。何とかしてあげたいと頭を捻る。
「……君さ、うちの田んぼに倒れていたんだよ。家族が心配しているんじゃない?
おうちはどこなの?帰る場所があるなら、送っていくよ」
「家族はいなイ、家もない」
「そう……君も一人なんだね」
家族がいるどころか、兄弟や親を自分自身の手で殺したとまでは言わなかった。
それは魔族にとってはごく普通の、話すような特別なことでもない。家族がいないことも、テリトリーを追われて故郷がなくなることも、元の世界ではよくあることだ。
人間が俯いて部屋の隅に視線を動かす。魔王も視線の先を見るが、その方向には例の真新しい木箱しかない。よくわからない、ときに人間がやっていた仕草を真似て魔王は首を傾げる。それを見て禅はくすりと笑う。
「じゃあさ、怪我が治るまで我が家にいる?」
「我が家ニ?」
「うん。この家にいれば今の時期でも涼しいし、三食ご飯もついているよ。
ちなみに今夜の晩御飯は、キノコと鮭のホイル焼きにお漬物、あとお浸しと、お味噌汁には茄子を入れて。
デザートには……あれ?」
魔王の口元から涎があふれ出している。すぐに舌でペロリと舐めとられるが、黒毛の尾が左右に揺れている。
知らない名前の料理、未知の食材に興奮が抑えられない。
タロウが好物を前にしたときと同じ反応に、少年は目線を合わせて問いかける。
「どうかな?」
「食べル、食べたイ、ここにいル!」
「わかった。じゃあ、準備するからそれまで待っててね」
「なゼ、ご飯、分けル?お前、何ダ」
「僕?僕の名前は祈生禅。わからないことがあったら何でも聞いてね」
「ゼン?禅はなぜ、助けタ?」
「うーん、何で助けたと言われても……困っているときはお互い様っていうでしょ?
僕はただ、傷ついている君のことを放っておけなかっただけだよ」
「……放って、なイ?」
今度は禅が首を傾げる。上手く答えようにも、これ以上言語化できない。
「そうだ!言葉が話せるなら文字はわかる?つまりその、本に興味はある?」
「本?あるのカ!?」
「うん、良かったら読んでみない?」
勇者一向の侵攻が始まってからは、読書をする暇も無くなってしまった。
強者との戦闘も暇つぶしとしては面白かったが、戦争が激化すると本や歌、美食といった娯楽は衰退していった。魔王城の書庫に残してきた本も今頃は風化しているか、燃やされているだろう。
「読ム!……わあぁっ!」
開け放たれた観音開きの扉の入り口で魔王は歓喜の声を上げる。
禅に抱き上げて運ばれた場所は、漆喰仕上げの土壁の蔵だった。庭に置かれた蔵の中は本棚で敷き詰められ、本棚には隙間なく本が詰まっていた。
およそ数百から千冊弱の本を前に、魔王は知識欲を刺激される。
元の世界では、一冊の本を作るために動物の皮を剥ぐところから行っていたため、本とは数が少なく非常に貴重なものだった。人間の腕の中で、魔王は子供の様に身体を跳ねさせる。
「ホン、本っ!禅っ!これ全部本なのカ!?」
「父さん……家族が本好きで残していたんだ。
最近の本は少ないけど、ミステリー小説から時代小説、論語に医学書、歴史書、古地図なんかもあるよ。好きなだけ読んでね」
「うム!読ム!全てダ!」
「あはは、全部読むつもり?一体どれだけかかるやら……あれ?」
蔵の中央にある畳に下ろすと、さっそく魔王が本を手に取る。
その手に鋭い爪や肉球はなく人間と同じ五指がある。
無邪気に本を読みふける顔は、禅から見て人間の五歳児のものに見えた。
出会ったときとは明らかに違う容貌になっている。
だが禅が不審に思う前に、大きな吠え声が考えを打ち消す。
「バウッバウッ!」
「うわっ、タロウ。どうしたの?」
「むぅ……うるさイ」
「ごめんね、タロウは番犬だから警戒心が強いんだ。
お陰で最近は、山から下りてくる鹿とか熊が少なくなったんだけども」
本から目を離さずに注意をする部外者の魔王に、蔵の主であるはずの人間が謝る。
タロウは玄関先の杭にリードを繋がれながら、執拗に蔵の中に吠え続けた。主人が宥めても、まるで野生動物か何かを相手しているように威嚇をし続ける。
「ワンワンッ!」
「扉、閉めテ」
「扉?でも、蔵の中が何も見えなくなっちゃうよ」
「見えル」
「それに、扉は重いから僕がいないと開けられないし」
「開けられル」
「そ、そうかな?でも」
「……」
「バウッバ……キャウンッ!」
魔王の注意がタロウに向けられる。タロウは異様な雰囲気に気圧されて子犬のような声を上げた。人間の表情を読み取る能力に長けた犬でなくても、何をしようとしているのか察することができる。
魔王は騒音の原因に対処するべく本を閉じようとして、禅の声に手を止めた。
「じゃあ、ちょっとだけ開けておくからね。夕飯ができたら呼びに来るね」
「うム」
「ほら、タロウおいで」
読書を再開する魔王に、禅は心配そうに蔵の扉を少しだけ開けておく。
母屋に連れていかれたタロウは何度も蔵を振り返り、しばらく主人の近くを離れなかった
魔王は夢中になって本を読み漁っていた。村の歴史書や家系図をはじめとした古文書から、最近出版されたエンタメ小説まで、多種多様な本を片っ端から読んでいく。
祈生家の人間が代々集めて保存してきた書物は膨大にあり、本来なら一生をかけても読み切れるかどうかわからない。
だが、魔王には人間よりも優れた動体視力とそれを処理する脳と忍耐力があった。そして、すぐにこの世界が異世界であるという真実にも辿り着く。
「……面白イ。そうか、ここは私のいた世界とは違う世界なのカ」
魔王の記憶力は人間とは比べ物にならない。この世界にあって向こうの世界にはない概念や知識、地名などを覚えていく。さらには人間世界の法律やルール、感情の機微や動機までを学ぶ。
魔王がこの世界の全てを理解する日は、そう遠い未来ではなかった。
数時間後、蔵の扉が再び開かれた。禅が顔だけ入れて声をかける。
「おーい、夕飯できたよー」
「あぁ、今行く」
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