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【第4話】桃農家の少女と、見知らぬ美少女
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「わ、わっ……えっ、綺麗な顔……」
背後に面識がない人物がいることに驚き、次にその人間の顔に驚いて目を見張った。
まじまじと見ても陶器のように均一な肌に小さな顔、猫のようなアーモンドアイと鼻筋の通った整った顔立ち。東京でも滅多に見ない、こんな田舎ではまずいない美人がいた。
情熱的な臙脂色の瞳としばらく見つめ合っていると、禅が山菜を持ってリビングに入る。
どういうわけか、幼馴染と居候が数センチの至近距離で見つめ合っていた。
「二人とも、何してるの?」
「あの、私は、えっと」
「良い匂いがする」
「良い匂い?白桃の家のシャンプーの匂いじゃない?
我が家とは別のものを使っているんだよ、多分」
「モモ?そうか、桃だ!桃の匂いがする!」
「それは、あの、私の家は桃農家で……
あっ!それより、濡れてない!?味噌汁が……」
振り返った拍子に、手に持っていた味噌汁が遠心力で零れたはずだ。
視線を落として床を確認する。だが、足元には具材どころか水滴一つ落ちていなかった。不思議に思って器をよく見れば、少女が自分と同じように手を当てている。
「あれ?」
「この器、私のだ。どこに持っていく気だ?」
「ご、ごめんなさい!私、もう一人いるとは知らなくて。
……ねぇ、禅!友達が来てるなら言ってよ」
「なぜ、禅が私のことをお前にいう必要がある?」
「お、お前?なぜ……って」
「それに、私と禅は友達じゃない」
「友達じゃない?じゃあ何なのよ……まさか」
「ほら、ご飯食べるよぉ!ほれ、みんな座って座って」
「あ、うん……」
「今日は大人数だなぁ」
「禅、これも魚か?」
「うん、そうだよ。これはアジの竜田揚げかな。
それじゃあ、みなさんお手を合わせて」
「「いただきます」」
食事が始まっても、白桃だけは彼女が気になって仕方ない。
見れば見るほど美人で、腰までのびた艶がかった黒髪なんて同性でも見惚れるほどだ。箸を持つ所作も洗練されていて、いいところのお嬢様だろうか何て考えたりもする。
そして彼女の「友達ではない」という言葉が引っかかっていた。禅も祖母も彼女の存在を当たり前のように受け入れているが、こんな美人は学校でも街中でも見たことが無い。
つまり自分だけが彼女のことを全く知らない、いわば部外者だった。
いつ切り出そうか迷っていると、手が止まったままの孫を祖母が気に掛ける。
「モモちゃん、腹減ってないのかぁ?ご飯、口に合わなかったかぁ?」
「いや、そんなことはないよ。おばあちゃんのご飯はいつも美味しいもん。
ただ、あのさ……その方?は一体」
「ん、そう言えば話してなかったっけ?」
「聞いてない、と思う。この辺の人じゃないよね?見たことないし」
「私はお前を見たことがあるぞ!」
「え?」
「名前は白い桃で白桃だろう?白桃は禅のいとこだな?」
「な、なんで私のこと知ってるの?それに、禅のいとこってことまで」
「禅のいとこ、というのは家系図で知った。違うのか?禅」
「合っているよ、よく覚えてたね。白桃は僕のお父さんの妹の、娘だよ。
近くで桃農家をしていて、この間食べた桃は雨宮果樹園のなんだよ」
「ちょっと待って……ごめんなさい、私たちどこかで会ってる?私、全く覚えてなくて」
「二週間前、この家にいるのを見た」
「二週間前?」
二週間前、それは確かに白桃が祈生家を訪れた日だ。
妖艶な彼女は、それをどこからか見ていたのだろうか。この家は山間部の村の中でも入り組んだ場所にあって、道は一本しかない。その道も人や車の往来がほとんどない。白桃は自宅を出てから帰宅するまで、禅以外の人間に会ってもいないし、見られてもいない。
もし他にいるとしたら、それは人間以外の生物だ。
犬のタロウと猫のタマ、そして禅が持ち帰ってきた奇妙な生物。タロウは子供のときからの付き合いで、タマは去年の冬に禅が拾ってきた。残るは、不気味な真黒の生物だけだ。
けれど、あの生物はあの時、酷い怪我をして気絶をしていたはずだ。
「あのときの?いやでも、嘘……嘘だ、嘘だよね?」
「本当だ、この二週間でかなり回復してこの姿になった」
「だって、種族も見た目も全然違うじゃない……え?違ったよね?禅」
「うーん、僕もそう思うんだけど。気づいたらこの姿になっていて」
「そんなことって、あるの……?」
禅や白桃より背は低いが、子熊や子犬と見間違えるはずがない。
あれは禅の腕の中に納まるサイズで、だからこそ彼が抱えて運ぶことができたはずだ。それに同じ生物だというなら、あの思わず目を背けたくなるようなおぞましさ、粟立つような恐怖を感じないのはどういうことなのか。
けれど、ありえないと言い切れるほどよく見ていたわけではない。
白桃の追求に禅は困ったように眉を寄せ、事情を知らない祖母は孫たちの顔を交互に見つめる。三人の視線が張本人に向けられると、ようやく返ってきた答えは。
「そうか、そんなに驚くことなのか。じゃあ、私と白桃は初対面だ」
「……はぁ?」
「私たちは今日初めて会った」
「いやっ、いやいや、そんなの見え透いた噓じゃない……!」
「知らない知らない、白桃のことは見たことも聞いたことも匂いを嗅いだこともない」
「えぇ?はぁ?ちょっと禅、この子何なの?」
「さぁ?僕もよくわかんないけど、居候だよ」
「居候?ってことは……はぁ!?まさか一緒に住んでるの!?」
「一緒、っていうよりは蔵の方かな」
「蔵?あのかび臭くて本しかないとこ?」
「うん、家が無いんだってさ。
あの蔵は父さんが死んでからしばらく使っていなかったし、丁度いいと思って」
「あのねぇ……そういう意味じゃなくて」
「ぶっきらぼうだけど、悪いやつじゃないよ」
「だからって、いや、そもそも何で禅が家を提供しなきゃいけないわけ?」
「でもさ、お腹の傷だってまだ治っていないし」
「傷?こんなに元気そうなのに?」
おかわりの白米まで平らげて、食欲は十分にあるようだ。髪や肌もまるで不調があるように見えず、咄嗟に味噌汁を支えられるほどに動きも俊敏。これのどこが怪我人なのかと疑いの目を向ける白桃に、禅がそろそろ話題を変えようかと、箸を持ち上げたときだった。
「何だ、傷が見たいのか?」
「そ、そういうわけじゃないわよ……えっ、ちょっと、ひっ」
少女は箸を咥えて持つと、白桃の制止を無視して自らシャツを捲り上げた。
瞬時に禅は目を瞑るが、隣に座っていた白桃は否応なくその下の素肌を見せつけられる。
顔と同じで染み一つない陶器のような肌が続いている。
ところが、へそのあたりにある数十センチ大の傷痕を見て白桃は言葉を失う。
表層が抉られ肉まで裂かれた傷は、腐食して折れた幹のように生々しく開いている。
周辺は鬱血しており、血管は蚯蚓が這いまわったように赤く隆起して波打っていた。
これではまるで、誰かに毒を塗った鋭利なナイフで刺されたようだ。これだけの傷を与えられて、どうして平然としていられるのか、どうして平然と語ることができるのか。
「こ、これ、どうしたの?病院には……せめて包帯とか……」
「この世界の医学では、どうしようもないらしい。だから放っておいている」
「でも、このままじゃ傷が残っちゃう。せっかく綺麗な肌なのに……」
「大丈夫だ、腹いっぱい食べて休めばこの程度の傷はすぐに塞がる」
「そんなこと……と、とにかく!わかったから!もうわかったから……!」
傷を冷やさないようにシャツを下ろさせる。禅が目を閉じたまま続けた。
「それに、家族がいないんだって。だから、ね?」
「……それ、本当なの?」
「本当だ、私の親は既に死んでいる。兄弟もいない。家は追い出された」
「そんな酷いことが……ごめんなさい、私、余計なことを聞いちゃって」
白桃はそれ以上聞かなかった。人が良い祖母と禅を利用しているのではないかと疑ってはいたが、禅が彼女に情けをかける理由がわかった。
祖母に至っては、最近耳も目も遠くなった上にボケ始めているので、人が増えようが動物が増えようが構わないのかもしれない。おまけに禅のお人よしは祖母譲りのものだった。
だから、そこに恋心はない……はずだ。わかってはいるが、お昼のニュースを眺める彼女の芸術的なフェイスラインを前にすると細波立つ。
『次のニュースです。
昨夜、××市の住宅で高齢の女性が倒れているのが発見されました。室内には物色された跡があり、警察は強盗殺人事件として捜査対策本部を設置しました』
「……テレビ、つけているんだ。珍しいね」
「あぁ、そうだね。僕もおばあちゃんも、あんまり見ないから」
「じゃあ、彼女のために点けてるんだ」
「うん?嫌だった?」
「いや、別に」
『ニュースの後は、××さんと行くぶらりバスの旅です。舞台は東京都練馬区の……』
既に侵食は始まっている。彼女が涼しい顔をして着ている禅のお下がりは今でこそ身の丈に合っていないが、すぐに彼女の背丈に合った彼女の服に代わるだろう。
そのくせデザートの東京バナナまでしっかり平らげる図々しさに、白桃は顔を曇らせる。
「そうだ、白桃。東京旅行はどうだった?」
「あ、うん……楽しかったよ」
「東京?本州にある大都市のことか?」
「そりゃそうでしょ、他にどこがあるのよ……ねぇ、私臭いの?」
「違う、良い匂いだ。それより、東京へはどうやって行ったんだ?」
皿洗いをする白桃と洗った皿を拭く禅の会話に、彼女が食いついた。手伝う気はなさそうだが、相変わらず白桃の匂いが気になるのか、後ろにピッタリくっ付いて匂いを嗅いでくる。距離感がおかしいことをやんわり指摘するが、一向に離れる様子がない。
「そんなの飛行機に決まってるじゃない。何?フェリーだとでも思った?」
「電車かと思った」
「電車って、電車で海は越えられないじゃない」
「そうなのか。じゃあ、飛行機はどのくらい速いんだ?」
「スピードまでは知らないわよ。少なくとも電車よりは速いでしょうけど」
「じゃあ、東京までは一時間くらいか」
「はぁ?あんたねぇ、最低でも二時間は乗ってたわよ。本当に何も知らないの?」
「知らない、無機物の乗り物には乗ったことが無い」
「え?車とかバスとか乗ったことあるでしょ?」
「ない、乗りたい」
「なら、乗ればいいじゃない。
おばあちゃんが毎週車で出かけているんだから、ついて行ってバスで帰ってみたら?」
「そうか、そうすれば良かったのか。車があるのに、なぜバスがあるんだ?」
「あんた、何かズレてるわねぇ……バスは公共の乗り物で、車は私物でしょうが」
「ちょっと白桃、そんな言い方しなくてもいいだろう?」
「な、何よ。私はただ教えてあげているだけで」
「ごめんね、いとこの口が悪くて。白桃は誤解されやすいんだけど」
「気にしてない、白桃の言葉に悪気がないことはわかっている」
「そ、そう?それならいいんだけど」
白桃の口調は方言のせいもあって棘がある。そのせいで冷たい性格だと誤解されることもあるが、少女は白桃とのお喋りを楽しんでいるようだった。
表情の乏しい動物との生活に慣れ親しんだ禅の目には、羊肉を食べているとき以来の笑顔が浮かんでいるように見える。白桃の髪に頭を擦るのは、タマの影響だろうか。
「なぁなぁ、桃農家は桃が食べ放題なのか?」
「うちは食べ放題なんてやってないわよ。桃一個作るのだって大変なんだから。
食べ放題は苺とかブルーベリーでしょ」
「白桃のおすそ分けは美味しかった。桃のお世話は大変か?」
「お世話って……犬や猫じゃないのよ。でも、大変なのはそうね。
摘蕾をして摘花をして摘果をして袋掛けをして、一年中働かないといけないんだから」
「桃がなるには、一年もかかるのか?」
「木が成長していればね。
桃栗三年、柿八年とは言うけど、種から育てたら桃だって八年はかかるもの。
確かに食べ放題なら選定はいらないし、中間業者も通さないから、値段次第では利益が取れるでしょうけど。こんな田舎に観光客なんて来ないわよ」
「ここは田舎なのか?」
「田舎も田舎よ。人はいないし子供は生まれないし、物を買う店もないじゃない」
「ふぅん、白桃は田舎が嫌いなのだな」
「そっ、そんなこと!」
振り返った拍子に、洗い場の水が跳ねた。皿を片付けていた禅が驚いて固まる。
数秒の沈黙の後、頭が冷えた白桃は黙って蛇口の水を止めた。ハンカチを取り出すと、跳ね返った水を浴びた居候の服を拭いた。
「そんなこと、ないわよ。あんた、桃に興味があるの?」
「桃は美味しい。桃を育てたら食べ放題になるかと思った」
「え?食べ放題ってそういう意味だったの?」
「そういう意味とは?」
「うちの桃が美味しかったから、自分も育てていっぱい食べようと思ったの?」
「そうだ、他に何があるんだ?」
「ふふふ、何それ。そんなに桃が好きなら、明日うちの桃を持ってこようか?」
「本当か!?」
「わわっ、ちょっと、近いわよっ!」
「やったやったやった!」
ぱっと花が開いたような笑顔が接近し、白桃が一歩後ずさる。
能面のように無表情だった顔が嘘のように生き生きと動き、全身から興奮が伝わってくる。ぴょんぴょんと飛び跳ねる子供っぽい姿に、白桃の口角は自然と上がっていた。
この辺りは農業が盛んだ。農家同士、慣習的に作物を交換したり売買したりしていたが、自分の家が作った食べ物でこんなに喜ぶ人は見たことが無い。白桃が桃農家に生まれて初めて見る喜びようだ。
そして、それは作り手にとって最も嬉しいことだった。
背後に面識がない人物がいることに驚き、次にその人間の顔に驚いて目を見張った。
まじまじと見ても陶器のように均一な肌に小さな顔、猫のようなアーモンドアイと鼻筋の通った整った顔立ち。東京でも滅多に見ない、こんな田舎ではまずいない美人がいた。
情熱的な臙脂色の瞳としばらく見つめ合っていると、禅が山菜を持ってリビングに入る。
どういうわけか、幼馴染と居候が数センチの至近距離で見つめ合っていた。
「二人とも、何してるの?」
「あの、私は、えっと」
「良い匂いがする」
「良い匂い?白桃の家のシャンプーの匂いじゃない?
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「モモ?そうか、桃だ!桃の匂いがする!」
「それは、あの、私の家は桃農家で……
あっ!それより、濡れてない!?味噌汁が……」
振り返った拍子に、手に持っていた味噌汁が遠心力で零れたはずだ。
視線を落として床を確認する。だが、足元には具材どころか水滴一つ落ちていなかった。不思議に思って器をよく見れば、少女が自分と同じように手を当てている。
「あれ?」
「この器、私のだ。どこに持っていく気だ?」
「ご、ごめんなさい!私、もう一人いるとは知らなくて。
……ねぇ、禅!友達が来てるなら言ってよ」
「なぜ、禅が私のことをお前にいう必要がある?」
「お、お前?なぜ……って」
「それに、私と禅は友達じゃない」
「友達じゃない?じゃあ何なのよ……まさか」
「ほら、ご飯食べるよぉ!ほれ、みんな座って座って」
「あ、うん……」
「今日は大人数だなぁ」
「禅、これも魚か?」
「うん、そうだよ。これはアジの竜田揚げかな。
それじゃあ、みなさんお手を合わせて」
「「いただきます」」
食事が始まっても、白桃だけは彼女が気になって仕方ない。
見れば見るほど美人で、腰までのびた艶がかった黒髪なんて同性でも見惚れるほどだ。箸を持つ所作も洗練されていて、いいところのお嬢様だろうか何て考えたりもする。
そして彼女の「友達ではない」という言葉が引っかかっていた。禅も祖母も彼女の存在を当たり前のように受け入れているが、こんな美人は学校でも街中でも見たことが無い。
つまり自分だけが彼女のことを全く知らない、いわば部外者だった。
いつ切り出そうか迷っていると、手が止まったままの孫を祖母が気に掛ける。
「モモちゃん、腹減ってないのかぁ?ご飯、口に合わなかったかぁ?」
「いや、そんなことはないよ。おばあちゃんのご飯はいつも美味しいもん。
ただ、あのさ……その方?は一体」
「ん、そう言えば話してなかったっけ?」
「聞いてない、と思う。この辺の人じゃないよね?見たことないし」
「私はお前を見たことがあるぞ!」
「え?」
「名前は白い桃で白桃だろう?白桃は禅のいとこだな?」
「な、なんで私のこと知ってるの?それに、禅のいとこってことまで」
「禅のいとこ、というのは家系図で知った。違うのか?禅」
「合っているよ、よく覚えてたね。白桃は僕のお父さんの妹の、娘だよ。
近くで桃農家をしていて、この間食べた桃は雨宮果樹園のなんだよ」
「ちょっと待って……ごめんなさい、私たちどこかで会ってる?私、全く覚えてなくて」
「二週間前、この家にいるのを見た」
「二週間前?」
二週間前、それは確かに白桃が祈生家を訪れた日だ。
妖艶な彼女は、それをどこからか見ていたのだろうか。この家は山間部の村の中でも入り組んだ場所にあって、道は一本しかない。その道も人や車の往来がほとんどない。白桃は自宅を出てから帰宅するまで、禅以外の人間に会ってもいないし、見られてもいない。
もし他にいるとしたら、それは人間以外の生物だ。
犬のタロウと猫のタマ、そして禅が持ち帰ってきた奇妙な生物。タロウは子供のときからの付き合いで、タマは去年の冬に禅が拾ってきた。残るは、不気味な真黒の生物だけだ。
けれど、あの生物はあの時、酷い怪我をして気絶をしていたはずだ。
「あのときの?いやでも、嘘……嘘だ、嘘だよね?」
「本当だ、この二週間でかなり回復してこの姿になった」
「だって、種族も見た目も全然違うじゃない……え?違ったよね?禅」
「うーん、僕もそう思うんだけど。気づいたらこの姿になっていて」
「そんなことって、あるの……?」
禅や白桃より背は低いが、子熊や子犬と見間違えるはずがない。
あれは禅の腕の中に納まるサイズで、だからこそ彼が抱えて運ぶことができたはずだ。それに同じ生物だというなら、あの思わず目を背けたくなるようなおぞましさ、粟立つような恐怖を感じないのはどういうことなのか。
けれど、ありえないと言い切れるほどよく見ていたわけではない。
白桃の追求に禅は困ったように眉を寄せ、事情を知らない祖母は孫たちの顔を交互に見つめる。三人の視線が張本人に向けられると、ようやく返ってきた答えは。
「そうか、そんなに驚くことなのか。じゃあ、私と白桃は初対面だ」
「……はぁ?」
「私たちは今日初めて会った」
「いやっ、いやいや、そんなの見え透いた噓じゃない……!」
「知らない知らない、白桃のことは見たことも聞いたことも匂いを嗅いだこともない」
「えぇ?はぁ?ちょっと禅、この子何なの?」
「さぁ?僕もよくわかんないけど、居候だよ」
「居候?ってことは……はぁ!?まさか一緒に住んでるの!?」
「一緒、っていうよりは蔵の方かな」
「蔵?あのかび臭くて本しかないとこ?」
「うん、家が無いんだってさ。
あの蔵は父さんが死んでからしばらく使っていなかったし、丁度いいと思って」
「あのねぇ……そういう意味じゃなくて」
「ぶっきらぼうだけど、悪いやつじゃないよ」
「だからって、いや、そもそも何で禅が家を提供しなきゃいけないわけ?」
「でもさ、お腹の傷だってまだ治っていないし」
「傷?こんなに元気そうなのに?」
おかわりの白米まで平らげて、食欲は十分にあるようだ。髪や肌もまるで不調があるように見えず、咄嗟に味噌汁を支えられるほどに動きも俊敏。これのどこが怪我人なのかと疑いの目を向ける白桃に、禅がそろそろ話題を変えようかと、箸を持ち上げたときだった。
「何だ、傷が見たいのか?」
「そ、そういうわけじゃないわよ……えっ、ちょっと、ひっ」
少女は箸を咥えて持つと、白桃の制止を無視して自らシャツを捲り上げた。
瞬時に禅は目を瞑るが、隣に座っていた白桃は否応なくその下の素肌を見せつけられる。
顔と同じで染み一つない陶器のような肌が続いている。
ところが、へそのあたりにある数十センチ大の傷痕を見て白桃は言葉を失う。
表層が抉られ肉まで裂かれた傷は、腐食して折れた幹のように生々しく開いている。
周辺は鬱血しており、血管は蚯蚓が這いまわったように赤く隆起して波打っていた。
これではまるで、誰かに毒を塗った鋭利なナイフで刺されたようだ。これだけの傷を与えられて、どうして平然としていられるのか、どうして平然と語ることができるのか。
「こ、これ、どうしたの?病院には……せめて包帯とか……」
「この世界の医学では、どうしようもないらしい。だから放っておいている」
「でも、このままじゃ傷が残っちゃう。せっかく綺麗な肌なのに……」
「大丈夫だ、腹いっぱい食べて休めばこの程度の傷はすぐに塞がる」
「そんなこと……と、とにかく!わかったから!もうわかったから……!」
傷を冷やさないようにシャツを下ろさせる。禅が目を閉じたまま続けた。
「それに、家族がいないんだって。だから、ね?」
「……それ、本当なの?」
「本当だ、私の親は既に死んでいる。兄弟もいない。家は追い出された」
「そんな酷いことが……ごめんなさい、私、余計なことを聞いちゃって」
白桃はそれ以上聞かなかった。人が良い祖母と禅を利用しているのではないかと疑ってはいたが、禅が彼女に情けをかける理由がわかった。
祖母に至っては、最近耳も目も遠くなった上にボケ始めているので、人が増えようが動物が増えようが構わないのかもしれない。おまけに禅のお人よしは祖母譲りのものだった。
だから、そこに恋心はない……はずだ。わかってはいるが、お昼のニュースを眺める彼女の芸術的なフェイスラインを前にすると細波立つ。
『次のニュースです。
昨夜、××市の住宅で高齢の女性が倒れているのが発見されました。室内には物色された跡があり、警察は強盗殺人事件として捜査対策本部を設置しました』
「……テレビ、つけているんだ。珍しいね」
「あぁ、そうだね。僕もおばあちゃんも、あんまり見ないから」
「じゃあ、彼女のために点けてるんだ」
「うん?嫌だった?」
「いや、別に」
『ニュースの後は、××さんと行くぶらりバスの旅です。舞台は東京都練馬区の……』
既に侵食は始まっている。彼女が涼しい顔をして着ている禅のお下がりは今でこそ身の丈に合っていないが、すぐに彼女の背丈に合った彼女の服に代わるだろう。
そのくせデザートの東京バナナまでしっかり平らげる図々しさに、白桃は顔を曇らせる。
「そうだ、白桃。東京旅行はどうだった?」
「あ、うん……楽しかったよ」
「東京?本州にある大都市のことか?」
「そりゃそうでしょ、他にどこがあるのよ……ねぇ、私臭いの?」
「違う、良い匂いだ。それより、東京へはどうやって行ったんだ?」
皿洗いをする白桃と洗った皿を拭く禅の会話に、彼女が食いついた。手伝う気はなさそうだが、相変わらず白桃の匂いが気になるのか、後ろにピッタリくっ付いて匂いを嗅いでくる。距離感がおかしいことをやんわり指摘するが、一向に離れる様子がない。
「そんなの飛行機に決まってるじゃない。何?フェリーだとでも思った?」
「電車かと思った」
「電車って、電車で海は越えられないじゃない」
「そうなのか。じゃあ、飛行機はどのくらい速いんだ?」
「スピードまでは知らないわよ。少なくとも電車よりは速いでしょうけど」
「じゃあ、東京までは一時間くらいか」
「はぁ?あんたねぇ、最低でも二時間は乗ってたわよ。本当に何も知らないの?」
「知らない、無機物の乗り物には乗ったことが無い」
「え?車とかバスとか乗ったことあるでしょ?」
「ない、乗りたい」
「なら、乗ればいいじゃない。
おばあちゃんが毎週車で出かけているんだから、ついて行ってバスで帰ってみたら?」
「そうか、そうすれば良かったのか。車があるのに、なぜバスがあるんだ?」
「あんた、何かズレてるわねぇ……バスは公共の乗り物で、車は私物でしょうが」
「ちょっと白桃、そんな言い方しなくてもいいだろう?」
「な、何よ。私はただ教えてあげているだけで」
「ごめんね、いとこの口が悪くて。白桃は誤解されやすいんだけど」
「気にしてない、白桃の言葉に悪気がないことはわかっている」
「そ、そう?それならいいんだけど」
白桃の口調は方言のせいもあって棘がある。そのせいで冷たい性格だと誤解されることもあるが、少女は白桃とのお喋りを楽しんでいるようだった。
表情の乏しい動物との生活に慣れ親しんだ禅の目には、羊肉を食べているとき以来の笑顔が浮かんでいるように見える。白桃の髪に頭を擦るのは、タマの影響だろうか。
「なぁなぁ、桃農家は桃が食べ放題なのか?」
「うちは食べ放題なんてやってないわよ。桃一個作るのだって大変なんだから。
食べ放題は苺とかブルーベリーでしょ」
「白桃のおすそ分けは美味しかった。桃のお世話は大変か?」
「お世話って……犬や猫じゃないのよ。でも、大変なのはそうね。
摘蕾をして摘花をして摘果をして袋掛けをして、一年中働かないといけないんだから」
「桃がなるには、一年もかかるのか?」
「木が成長していればね。
桃栗三年、柿八年とは言うけど、種から育てたら桃だって八年はかかるもの。
確かに食べ放題なら選定はいらないし、中間業者も通さないから、値段次第では利益が取れるでしょうけど。こんな田舎に観光客なんて来ないわよ」
「ここは田舎なのか?」
「田舎も田舎よ。人はいないし子供は生まれないし、物を買う店もないじゃない」
「ふぅん、白桃は田舎が嫌いなのだな」
「そっ、そんなこと!」
振り返った拍子に、洗い場の水が跳ねた。皿を片付けていた禅が驚いて固まる。
数秒の沈黙の後、頭が冷えた白桃は黙って蛇口の水を止めた。ハンカチを取り出すと、跳ね返った水を浴びた居候の服を拭いた。
「そんなこと、ないわよ。あんた、桃に興味があるの?」
「桃は美味しい。桃を育てたら食べ放題になるかと思った」
「え?食べ放題ってそういう意味だったの?」
「そういう意味とは?」
「うちの桃が美味しかったから、自分も育てていっぱい食べようと思ったの?」
「そうだ、他に何があるんだ?」
「ふふふ、何それ。そんなに桃が好きなら、明日うちの桃を持ってこようか?」
「本当か!?」
「わわっ、ちょっと、近いわよっ!」
「やったやったやった!」
ぱっと花が開いたような笑顔が接近し、白桃が一歩後ずさる。
能面のように無表情だった顔が嘘のように生き生きと動き、全身から興奮が伝わってくる。ぴょんぴょんと飛び跳ねる子供っぽい姿に、白桃の口角は自然と上がっていた。
この辺りは農業が盛んだ。農家同士、慣習的に作物を交換したり売買したりしていたが、自分の家が作った食べ物でこんなに喜ぶ人は見たことが無い。白桃が桃農家に生まれて初めて見る喜びようだ。
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……でも、もう復讐には興味がない。 俺が欲しかったのは、名誉でも地位でもなく、信じてくれる人だった。
これは、ざまぁの果てに静かな勝利を選んだ、元英雄の物語。
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でも、並行世界で人々を救うつもりだった俺が転生した先は、近所に住む新婚の伊藤さんだった。
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
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勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
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ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
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