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【第24話】男の後悔と、魔王の宣戦布告
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遠くで誰かが話しをしている。女の声だ。
消灯時間を過ぎても私語をしているということは、新入りだろうか。寝言にしては会話がはっきりしている。
早く寝静まるか、看守勤務員に見つかれと願いながら、蛭田は廊下に背を向ける。だが、思いとは裏腹に声は段々と近づいてくる。
「……むぅ、まさか部屋を移動しているとはな。この建物にいるのは確実なのだが」
「誰か起こして喋らせてみましょうかっ?」
「腹でも壊して死んだのではっ?」
「いや、契約の気配は……あぁ、いた。
この部屋だな。やっと見つけたぞ。
紅葉、牡丹、どちらでもいい。叩き起こせ」
「「はい、ご主人様!喜んでっ!」」
「ぐへっ!?」
後頭部を蹴り飛ばされ、蛭田は壁に身体を打ち付ける。
頭を抑えながら四つん這いになって起き上がると、二人の女子高生が畳の上にローファーで上がり込んでいた。
いや、女子高生というよりもギャルだ。
蹴り飛ばした体勢のまま上も下も下着が丸見えになっている黒ギャルと、全く同じ体勢の白ギャルがいた。
ここは蛭田一人が入れられている部屋のはず。そもそも、こんな時間に女子高校生がいるはずもない。
道端に転がる汚物を見るような目で蔑まれ困惑しながら、蛭田は起床する。
「ううっ……どうして、こんなところに黒ギャルと白ギャルが……」
「おい、さっさと立て愚図がっ」
「ご主人様のお手を煩わせるなっ」
痛みと混乱は、二人の奥で小首を傾げるマトンによって霧散した。
彼女の仕業だとわかった途端、蛭田の中では全て合点がいく。
女子高生などどうでもよくなり、布団の上に正座して背筋をのばした。機嫌を損ねてまた腕を切られては敵わない。
女子高生は蛭田の精一杯の敬意に満足そうだったが、マトンは手で口を抑えていた。
蛭田はまだ呂律が回らない舌で挨拶をする。
「あの、ご無沙汰しています」
「ぷっ、くくく……」
「ど、どうかされましたか?」
「あははっ!お前、お前っ!?
髪がないじゃないか!この短期間で禿げたか!?
ぎゃははっ、それともオシャレのつもりか!?似合っていないぞ!」
「いや、ここだと夏でも風呂に入れない日が多いので……」
マトンは蛭田の角刈りを見て笑い出す。
留置場では五日に一回ほどしか風呂に入ることができない。
髪が長いと何かと不便なので蛭田は自ら頭を刈り上げたのだが、マトンは初めて見る坊主頭がツボに入った。
蛭田の頭の形がはっきりとわかるのが、よほど面白いらしい。
「ひっひっひっ、滑稽だな。罪を犯してまでこんな髪型になりたかったのか?
なぁ、お前たち?哀れな姿だと思わないか?」
「「はい!ウチらもそう思いますっ!」」
「えぇ……?」
頭の軽そうな女子高生まで同調して笑い出す。三人の美少女に囲まれて嘲笑される蛭田。
何を言われても言い返すことのできない最悪の状況だが、やっと目が覚めた。
前回と同じく、いくら騒いでも騒がれても、看守がやってくる気配はない。
蛭田は現在とある事情で部屋を移動しており、二十四時間監視体制に置かれている。
夜間の巡回も回数が増えているはずだ。
しかし、本来は部屋の外にいるはずの看守は、手洗いに行ったきり帰ってこない。
「どうしたって、逃げ隠れはできないってわけだ……例の事件もあんたの仕業だろ?」
数日前、虻蜂連合会が関連する大規模な抗争があった。
半年に一度の定例会を狙った襲撃はそれまでの小競り合いとは違う、明らかに計画的な襲撃だった。
そのせいで連合会は壊滅状態にある。
拠点にしていた廃工場は全損、鉤先アミューズセンターが入っていた商業施設や、第二海浜倉庫でも建物の一部が損壊している。
蛭田は、その計画に携わったのではないかと疑われていた。その時間は留置場にいたためアリバイはあるが、タイミングが良すぎる。組織に見捨てられたという動機もある。
そして、いつの間にか再生していた両腕という謎も残っている。
「俺の順番が回ってきたというわけか。
けど、どういう風の吹き回しなんだ?
あんたの話しぶりじゃあ、当初は……ぶっ!?」
「ゴミカスめ、誰がお前に発言を許したっ?」
「軽々しく話しかけるな、口を開くなっ」
「あ、え……?」
紅葉が蛭田の顔を蹴り飛ばす。暴力を振るうことに一切の躊躇がない。
畳に頬を打ち付けられた蛭田は、生温かい血の触感で、ようやく自分が蹴られたことを自覚した。
衝撃で口内が切れたようだ。
しかし、痛みよりも自分より年下の女の子に二度も蹴られたことの方がショックは大きかった。
一撃でどちらの立場が上か、明確になる。
よろよろと身体を起こそうとして、続けて牡丹に頭を踏みつけられる。
蛭田はここが畳の部屋で、それも使い古された柔らかい畳で良かったと思う。罵倒はまだ終わらない。
「謝罪しろっ」
「心を込めて謝れっ」
「す、すみませんでした……!」
「次は舌を引っこ抜く」
「その次は歯だ、奥歯から順番に引っこ抜く」
「ひっ……!」
警察を悩ませたのは、抗争の大きさだけではない。
彼らにとっては、既に起きてしまった事件よりも、これだけの騒ぎにもかかわらず襲撃犯が野放しであることの方が大問題だった。
強盗団の実行犯を捉えた手柄は、その容疑者が取調べ中に不審死したことで帳消しになった。
さらに虻蜂連合会よりも厄介な集団の足取りすら掴めていないとなれば、警察の面目丸潰れである。
ところが、鉤先アミューズセンターでも第二海浜倉庫でも防犯カメラには襲撃犯の姿は映っていなかった。
ただ被害者が見えない何かに襲われ、一人で血を流し叫んでいるように映っていたのだ。
そして、被害者も目撃者も口を揃えたように詳細を語ろうとしない。
「もういいぞ、お前たち」
「「かしこまりましたっ」」
「蛭田、お前の話にあった虻蜂連合会を変えた男についてだがな」
「は、はい」
「双子に拷問をさせてみたが、ほとんどが「知らない」「わからない」「助けて」と喚くばかりで使い物にならなかった。他にも新しい情報は収穫できなかった……そうだな?」
「「力が及ばず申し訳ありませんっ!」」
「お前たちのせいではない。本当に知らなかったのだろう。何も知らない奴らが悪い」
座り直した背筋がのびる。どんな拷問をしたのか、聞きたくもなかった。
彼らに倫理観や道徳観は期待できない。警察の取調べの方が百倍ましなのは間違いないだろう。
廃工場で蛭田が受けたのも拷問のようなものだが、知らないものを喋れと言われて拷問されるのは、それより遥かに苦しく辛いだろう。
「ただ、確かにそのような男が訪れたことがあるという証言が複数人から得られた。
定例会の日時も情報通りだ。お前の情報は正しかった」
「あ、ありがとうございます」
「だから、これはその働きに対する褒美だ。受け取れ」
「褒美?うわっ、とっ、と……」
マトンが放り投げたものを、蛭田は咄嗟に胸で受け取る。
腕に収まる大きさ、日焼けした橙色の布生地の、リュックサックだった。褒美というにはあまりに汚れていて、薄っすら湿っており、泥や葉が残っていて土の匂いまでする。
蛭田のものではないことは、すぐにわかった。
だが、彼はずっと昔にその鞄を目にしたことがある。それも毎日のように見ていた。
「俺は、俺は前にもこの鞄を見たことがある……?」
「嵐山に感謝するといい。奴はそれをわざと警察に渡さなかった。
お前は、一生それを見ることも触れることもできないからと」
「あぁ、そんな……まさか」
リュックサックの肩ひもは千切れている。
ファスナーは閉まったまま、背面が強大な力で引き裂かれたように開いている。
蛭田は祈るようにして中を探るが、何も残っていなかった。唯一閉じられていた背面のポケットのファスナーを開くが、こちらも中身は空だ。
だが、ファスナーの取っ手には内向きにキーホルダーがついていた。
その先を辿ると、半透明のプラスチックが顔を覗かせる。
プラスチックに描かれた絵を目にした瞬間、蛭田の身体が震えだす。見間違えるはずがない。
これは、自分自身が幼いころに描いたものだ。
十五年前に蛭田がつけた組紐は千切れていたが、後付けされた丸カンと金属のチェーンが辛うじてその場に引き留めていた。
誰かが後から付けたのだとしたら、そんなことをするのは、一人しかいない。
「母さん……母さんの、ものだ……」
失踪したあの日、母が息子の代わりに持っていったものだ。
忘れようとしていた記憶、薄れていた感情が色鮮やかに蘇っていく。
蛭田の母親は、服も鞄も多くは持っていなかった。
保育園や学童の送り迎えも、休日に公園に遊びに行くときも、彼女はいつもこの鞄を背負っていた。
「遺体は……骨は、残っていなかったのか?」
「ちっ、この愚か者は頭蓋骨に脳が入っていないのかっ?」
「あれだけ言って、また魔王様に対してそのような口をっ」
「構わん、お前たちはもう下がっていろ」
「しかし、下等種族ごときがっ」
「ご主人様にモノを尋ねるなどっ」
「その私が許可している」
「「……承知しました」」
「質問の答えだが、骨と服はあるにはあるが」
「じゃ、じゃあ!それがあれば、どうして母さんが死んだのかも……!」
「ただ、どれが誰のものかまではわからなかった。
嵐山が警察に引き渡してはみたものの、あまり期待できる状態ではないらしい。
お前に渡したそれも、たまたま地中深くにあったから風化せずに済んだだけだ。
嵐山が掘り返さなければ、それも気づかなかった」
「な、なぁ……さっきから、どうして嵐山の名前が出て来るんだ……?」
「ただの賭けだ。私は、嵐山がお前に協力をしない方に賭けたんだがな。
土饅頭というらしいぞ。奴が猟師の息子で良かったな」
熊は食べきれなかった食糧を地中に埋めて保存しておく習性がある。
土饅頭は熊にとって天然の貯蔵庫であり、マトンが見たのは土饅頭から飛び出た死体だった。
だが、土饅頭は近くに獲物を埋めた熊がいることも意味する。
嵐山は土饅頭を遠目に見つけるや否や怯えだしたが、今回に限っていえば、その心配はいらない。
隣にはその人食い熊を素手で駆除した張本人がいたのだから。
「十五年前、お前の母親は山で熊に襲われ食われて死んだ。
どうだ?死因がわかったところで、お前が命を差し出す価値はあったか?」
「……そうか、そうだったのか、良かった」
「良かった?」
「あぁ、本当に良かった。母さんは……息子を、俺を捨てたわけじゃなかったんだ」
鞄を握りしめる蛭田の手に涙が落ちる。
それは十五年分の、失踪した母親への悲しみ、怒り、憎しみ、真実を知ることができた喜びによる涙だった。
蛭田薊の心に巣くっていたものが涙と共に流れていく。
その背中を撫でる人間はここにはいない。泣いたところで取り返せるものはない。
だから声を押し殺して泣く蛭田の姿を見て、マトンはそういう泣き方もあるのだなと思う。
質問をせずとも、比較実験をするには十分だった。
代わりに、後ろの壁まで下がって黙り込む双子に元の世界の共通語で尋ねる。
『牡丹、紅葉』
『『はい』』
『この男が泣いている姿を見てどう思う?どう感じた?』
『可虐心をくすぐられました。もっと虐めてみたいです』
『人間らしく惨めで可愛いらしいなと思いました』
『そうか、我々の価値観では普通の反応だな。
だが禅が泣いているのを見た時、私はどういうわけか不安を感じた。
自分の生命を脅かされているような危機感を覚えた』
双子の笑顔が凍り付く。彼らの価値観に則って考えれば、それは異常な感覚だ。
『魔王様、それは……まさかとは思いますが』
『人間に対して、特別な感情を抱いているということですか?』
『特別?さぁ、わからないな。
わかることと言えば、禅には我々のような力はないということくらいだ』
『魔王様、それはそうでしょう』
『人間は人間、魔族は魔族です』
『そうだ。禅は奴と同じように亡くなった人間を思って涙を流す、普通の人間だ』
『魔王様?それが、そんな当たり前のことが、どうかされましたか?』
遺品の惨状を見れば、蛭田の母親の身に起きた出来事も想像がつく。
同じ立場ならば、禅や白桃だって帰らぬ人となってもおかしくはない。
彼らは懸命に生きているように見えて、その実、ただ運よく死んでいないだけだ。
人間社会においても、自然界においても。
「……何か話しているところが悪いが、質問をしてもいいか?」
「なに、大した話じゃない。許可する」
「俺は、これから殺されるのか?」
「あぁ、そうだったな。
協力するならお前を殺すのは最後にしてやると、確かにそう言ったな」
「どうせ死ぬなら、あまり苦しまずに死にたいものだ」
それが贅沢な願いであるとわかっていながら、乾いた喉で口にする。
主人との話しを遮られた双子は蛭田を睨みつけていたが、その主人の手前、手出しはしてこなかった。
もしも彼女たちに殺されるとしたら、楽には死なせてもらえないだろう。
もうこの世に未練はないはずなのに、蛭田は命が惜しくてたまらない。
「安心しろ、私はお前を殺すつもりはない」
「えっ、本当か……?本当に、俺のことを殺す気はないのか?」
「あぁ、嘘ではない。契約は有効だが、私が主体的にお前を殺すことはない」
「はははっ、そうか、そうか……俺は……俺は本当に運がいいな」
助かった。勝った、賭けに勝った。次は勝てる気はしないが、ひとまず大切なものも命も返ってきた。
寿命がのびたことで体温も戻ったのか、全身の震えが止まった。
放心状態でしばらく呆けていた蛭田に構わず、マトンは話し続ける。
「嵐山が言っていた。善意で動く人間が増えれば、世界はより良くなると。
私が知り得る中で最も清い心を持つ禅は、お前を殺すことに反対した。
私はそれに従って、危険因子であっても人間を皆殺しにするのはやめた」
「従ったって、あんたが善意に従ったってことか……?」
「そうだ。だから、虻蜂連合会の構成員も生かしておいた」
「それも警察から聞いた。だが、善意というのはいささか冗談きついぜ」
「冗談?何のことだ?」
「……え?」
「私がいつ冗談を言った?」
だが、彼らにとっての善意は蛭田が当たり前に持っているものとは異なる。
虻蜂連合会の構成員三百四十一名。
その全員が何らかの怪我を負わされ、半数以上は警察署ではなく病院に送られた。
重傷者は集中治療室行き、後遺症も残るだろう。拷問を受けたのなら、ヤスデのように、精神にも影響を受けているはずだ。
善意に従ったというには、あまりに惨い結果だ。
「私は本気だ。いずれ近いうちに、この世界を変えてみせる」
「……この世界?ちょっと待ってくれ。あんた、何の話をしているんだ?」
目の前に立つ怪物は、覚悟を決めた捕食者の顔をしている。
蛭田は、自分の腕が吹き飛んだ夜のことを思い出す。
あの日の、腹が満たされた猫が通りすがりの鼠を痛めつけて遊ぶ表情とは違う。
腹を空かせた獣が、獲物を定めて狩ると決心したときに浮かべる顔だ。
人間から奪うことに何ら疑問を抱かない存在が、人間に干渉すると決めた。気づけば指先が痙攣し出していた。
「私が望むのは、あの家で我々が穏やかに過ごせる世界だ。
その時に、禅とおばあちゃんに、白桃やタロウ、タマ、子猫たちが同じ食卓を囲んでいればそれ以上は何も望まない。
邪魔する者は誰であろうと排除する。協力する者には慈悲を与える。それだけだ」
「だから、もう終わったんだろう?あとは警察や裁判所に任せればいいじゃねぇか」
「それでは足りない。禅もお前も警察もただの人間だ。
私の平穏は、禅や人間たちから与えられるものではなく、私自身で獲得しなければならない」
「それじゃあ、それってつまり」
「「ご主人様……!それはつまり」」
不安要素というだけで地方組織を一つ壊滅させる彼女の先ほどの発言は、自分たち以外の全てをひっくり返すという意味になる。とても身勝手で強欲で、正気とは思えない。
それがどんなに長く険しい道なのか、本人ですら想像がつかない。
双子は両手を合わせて顔を輝かせていた。
だがそれでこそ魔族、それこそが魔王なのだ。
「この世界を、私の支配下に置く」
あの家を襲わなければ、あの家さえ無事なら、それ以外はどうでもよかったのだ。
怪物の平穏を乱したのは、蛭田自身だ。
「俺は、俺はなんてことをしてしまったんだ……!」
強盗殺人は、無期懲役か死刑を言い渡される可能性が高い。
蛭田にどちらの判決が下っても、このことは外部には漏れない。
いや、話せば契約違反として自ら命を絶つことになるのだろう。
蛭間が足先で小突いた石は飛んで火口に落ち、巨大な活火山が噴火するきっかけとなっていた。
「ではな、用があればまた来ることもあるだろう。
そうでなければ、二度と会うことはないだろうが」
「はい……」
「それと、禅は覚えていなかったが。
おばあちゃんは、お前の母親を覚えていたぞ」
「はい……は?えっ?今、なんて……」
「お前の母親は、道に迷ってあの家に来たことがあるらしい。
そのとき、息子のために筍を取りたいとかなんとか、そんなことを言っていたらしい」
「そう、ですか……じゃあ、母さんは俺のために山に入って……」
『この先は山道で行き止まりです。迷われたんですか?』
禅という少年が、蛭間にかけた言葉を思い出す。
十五年以上前にも、蛭間の母親はあの家の住人に同じように迎えられたのだろう。
もしそこで留まっていたら、蛭田の心に善意が残っていたら、この恐怖とも不自由とも無縁な生活を送れていただろうか。
母のような思いやりのある人間になれていれば、こんなことにはならなかっただろうか。蛭田は深く項垂れる。
「俺は、本当に何てことを……」
「せいぜい、残りの人生で罪を償うといい。どうせ人間の寿命は長くない」
マトンは悠々と外界へ出ていく。
眷属たちは膝をつき頭を垂れ、主人を待ちわびていた。その中には首切り馬の姿もある。
彼らも魔王の宣戦布告を聞き、双子と同じように胸を高鳴らせていた。
「帰るぞ、せっかくだから夜景でも楽しもうじゃないか」
「承知しました。乗り物はいかがいたしましょうか。
車で?バスで?それともバイクで?」
「いや、それはもういい」
「と、申されますと」
「いつもの、最も速く最も気高い乗り物で頼む」
「ふふふ、いつものでございますね。承知しました」
「あぁ、もうこの世界の乗り物はいらない」
「『千変万来(ランタナポッド)』」
警察署の屋上、首切り馬は人の姿を捨て、遠い大地まで最速まで向かうため姿を変える。
直線で向かうなら空からがいいだろう。
そのためには、建築物や稜線を越えて高高度を飛べる巨大な翼と大きな胸筋が必要だ。
流線形の嘴と長い首に軽くて丈夫な骨も外せない。長距離を飛行する体力と筋力、飛行中に方向を変えるための尾も生やす。
褐色の鱗に緑眼のドラゴンが警察署に現れる。太古の人食い鮫と同じ長さの牙を打ち鳴らしながら、変化した首切り馬は翼を起こす。翼を一度上下するだけで風が吹き荒れる。
木々が揺れて葉の間で眠りについていた小鳥たちがざわめき出す。反対に求愛の鳴き声を上げていた虫や蛙が静まり返る。
二度三度続けて翼を動かすと、駐車場に止まっていた自転車は倒れ、車が左右に揺れ出す。
さらに続けて翼を羽ばたかせて上昇すると、巨大な身体が徐々に宙に浮いていく。
台風の最中のような暴風の中、やがて後ろ足が浮く。
その瞬間を掴んで屋上が飛び下りる。
上昇気流に身体を乗せて、一匹のドラゴンと魔王軍が空へ飛び立った。
ps.ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます!
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消灯時間を過ぎても私語をしているということは、新入りだろうか。寝言にしては会話がはっきりしている。
早く寝静まるか、看守勤務員に見つかれと願いながら、蛭田は廊下に背を向ける。だが、思いとは裏腹に声は段々と近づいてくる。
「……むぅ、まさか部屋を移動しているとはな。この建物にいるのは確実なのだが」
「誰か起こして喋らせてみましょうかっ?」
「腹でも壊して死んだのではっ?」
「いや、契約の気配は……あぁ、いた。
この部屋だな。やっと見つけたぞ。
紅葉、牡丹、どちらでもいい。叩き起こせ」
「「はい、ご主人様!喜んでっ!」」
「ぐへっ!?」
後頭部を蹴り飛ばされ、蛭田は壁に身体を打ち付ける。
頭を抑えながら四つん這いになって起き上がると、二人の女子高生が畳の上にローファーで上がり込んでいた。
いや、女子高生というよりもギャルだ。
蹴り飛ばした体勢のまま上も下も下着が丸見えになっている黒ギャルと、全く同じ体勢の白ギャルがいた。
ここは蛭田一人が入れられている部屋のはず。そもそも、こんな時間に女子高校生がいるはずもない。
道端に転がる汚物を見るような目で蔑まれ困惑しながら、蛭田は起床する。
「ううっ……どうして、こんなところに黒ギャルと白ギャルが……」
「おい、さっさと立て愚図がっ」
「ご主人様のお手を煩わせるなっ」
痛みと混乱は、二人の奥で小首を傾げるマトンによって霧散した。
彼女の仕業だとわかった途端、蛭田の中では全て合点がいく。
女子高生などどうでもよくなり、布団の上に正座して背筋をのばした。機嫌を損ねてまた腕を切られては敵わない。
女子高生は蛭田の精一杯の敬意に満足そうだったが、マトンは手で口を抑えていた。
蛭田はまだ呂律が回らない舌で挨拶をする。
「あの、ご無沙汰しています」
「ぷっ、くくく……」
「ど、どうかされましたか?」
「あははっ!お前、お前っ!?
髪がないじゃないか!この短期間で禿げたか!?
ぎゃははっ、それともオシャレのつもりか!?似合っていないぞ!」
「いや、ここだと夏でも風呂に入れない日が多いので……」
マトンは蛭田の角刈りを見て笑い出す。
留置場では五日に一回ほどしか風呂に入ることができない。
髪が長いと何かと不便なので蛭田は自ら頭を刈り上げたのだが、マトンは初めて見る坊主頭がツボに入った。
蛭田の頭の形がはっきりとわかるのが、よほど面白いらしい。
「ひっひっひっ、滑稽だな。罪を犯してまでこんな髪型になりたかったのか?
なぁ、お前たち?哀れな姿だと思わないか?」
「「はい!ウチらもそう思いますっ!」」
「えぇ……?」
頭の軽そうな女子高生まで同調して笑い出す。三人の美少女に囲まれて嘲笑される蛭田。
何を言われても言い返すことのできない最悪の状況だが、やっと目が覚めた。
前回と同じく、いくら騒いでも騒がれても、看守がやってくる気配はない。
蛭田は現在とある事情で部屋を移動しており、二十四時間監視体制に置かれている。
夜間の巡回も回数が増えているはずだ。
しかし、本来は部屋の外にいるはずの看守は、手洗いに行ったきり帰ってこない。
「どうしたって、逃げ隠れはできないってわけだ……例の事件もあんたの仕業だろ?」
数日前、虻蜂連合会が関連する大規模な抗争があった。
半年に一度の定例会を狙った襲撃はそれまでの小競り合いとは違う、明らかに計画的な襲撃だった。
そのせいで連合会は壊滅状態にある。
拠点にしていた廃工場は全損、鉤先アミューズセンターが入っていた商業施設や、第二海浜倉庫でも建物の一部が損壊している。
蛭田は、その計画に携わったのではないかと疑われていた。その時間は留置場にいたためアリバイはあるが、タイミングが良すぎる。組織に見捨てられたという動機もある。
そして、いつの間にか再生していた両腕という謎も残っている。
「俺の順番が回ってきたというわけか。
けど、どういう風の吹き回しなんだ?
あんたの話しぶりじゃあ、当初は……ぶっ!?」
「ゴミカスめ、誰がお前に発言を許したっ?」
「軽々しく話しかけるな、口を開くなっ」
「あ、え……?」
紅葉が蛭田の顔を蹴り飛ばす。暴力を振るうことに一切の躊躇がない。
畳に頬を打ち付けられた蛭田は、生温かい血の触感で、ようやく自分が蹴られたことを自覚した。
衝撃で口内が切れたようだ。
しかし、痛みよりも自分より年下の女の子に二度も蹴られたことの方がショックは大きかった。
一撃でどちらの立場が上か、明確になる。
よろよろと身体を起こそうとして、続けて牡丹に頭を踏みつけられる。
蛭田はここが畳の部屋で、それも使い古された柔らかい畳で良かったと思う。罵倒はまだ終わらない。
「謝罪しろっ」
「心を込めて謝れっ」
「す、すみませんでした……!」
「次は舌を引っこ抜く」
「その次は歯だ、奥歯から順番に引っこ抜く」
「ひっ……!」
警察を悩ませたのは、抗争の大きさだけではない。
彼らにとっては、既に起きてしまった事件よりも、これだけの騒ぎにもかかわらず襲撃犯が野放しであることの方が大問題だった。
強盗団の実行犯を捉えた手柄は、その容疑者が取調べ中に不審死したことで帳消しになった。
さらに虻蜂連合会よりも厄介な集団の足取りすら掴めていないとなれば、警察の面目丸潰れである。
ところが、鉤先アミューズセンターでも第二海浜倉庫でも防犯カメラには襲撃犯の姿は映っていなかった。
ただ被害者が見えない何かに襲われ、一人で血を流し叫んでいるように映っていたのだ。
そして、被害者も目撃者も口を揃えたように詳細を語ろうとしない。
「もういいぞ、お前たち」
「「かしこまりましたっ」」
「蛭田、お前の話にあった虻蜂連合会を変えた男についてだがな」
「は、はい」
「双子に拷問をさせてみたが、ほとんどが「知らない」「わからない」「助けて」と喚くばかりで使い物にならなかった。他にも新しい情報は収穫できなかった……そうだな?」
「「力が及ばず申し訳ありませんっ!」」
「お前たちのせいではない。本当に知らなかったのだろう。何も知らない奴らが悪い」
座り直した背筋がのびる。どんな拷問をしたのか、聞きたくもなかった。
彼らに倫理観や道徳観は期待できない。警察の取調べの方が百倍ましなのは間違いないだろう。
廃工場で蛭田が受けたのも拷問のようなものだが、知らないものを喋れと言われて拷問されるのは、それより遥かに苦しく辛いだろう。
「ただ、確かにそのような男が訪れたことがあるという証言が複数人から得られた。
定例会の日時も情報通りだ。お前の情報は正しかった」
「あ、ありがとうございます」
「だから、これはその働きに対する褒美だ。受け取れ」
「褒美?うわっ、とっ、と……」
マトンが放り投げたものを、蛭田は咄嗟に胸で受け取る。
腕に収まる大きさ、日焼けした橙色の布生地の、リュックサックだった。褒美というにはあまりに汚れていて、薄っすら湿っており、泥や葉が残っていて土の匂いまでする。
蛭田のものではないことは、すぐにわかった。
だが、彼はずっと昔にその鞄を目にしたことがある。それも毎日のように見ていた。
「俺は、俺は前にもこの鞄を見たことがある……?」
「嵐山に感謝するといい。奴はそれをわざと警察に渡さなかった。
お前は、一生それを見ることも触れることもできないからと」
「あぁ、そんな……まさか」
リュックサックの肩ひもは千切れている。
ファスナーは閉まったまま、背面が強大な力で引き裂かれたように開いている。
蛭田は祈るようにして中を探るが、何も残っていなかった。唯一閉じられていた背面のポケットのファスナーを開くが、こちらも中身は空だ。
だが、ファスナーの取っ手には内向きにキーホルダーがついていた。
その先を辿ると、半透明のプラスチックが顔を覗かせる。
プラスチックに描かれた絵を目にした瞬間、蛭田の身体が震えだす。見間違えるはずがない。
これは、自分自身が幼いころに描いたものだ。
十五年前に蛭田がつけた組紐は千切れていたが、後付けされた丸カンと金属のチェーンが辛うじてその場に引き留めていた。
誰かが後から付けたのだとしたら、そんなことをするのは、一人しかいない。
「母さん……母さんの、ものだ……」
失踪したあの日、母が息子の代わりに持っていったものだ。
忘れようとしていた記憶、薄れていた感情が色鮮やかに蘇っていく。
蛭田の母親は、服も鞄も多くは持っていなかった。
保育園や学童の送り迎えも、休日に公園に遊びに行くときも、彼女はいつもこの鞄を背負っていた。
「遺体は……骨は、残っていなかったのか?」
「ちっ、この愚か者は頭蓋骨に脳が入っていないのかっ?」
「あれだけ言って、また魔王様に対してそのような口をっ」
「構わん、お前たちはもう下がっていろ」
「しかし、下等種族ごときがっ」
「ご主人様にモノを尋ねるなどっ」
「その私が許可している」
「「……承知しました」」
「質問の答えだが、骨と服はあるにはあるが」
「じゃ、じゃあ!それがあれば、どうして母さんが死んだのかも……!」
「ただ、どれが誰のものかまではわからなかった。
嵐山が警察に引き渡してはみたものの、あまり期待できる状態ではないらしい。
お前に渡したそれも、たまたま地中深くにあったから風化せずに済んだだけだ。
嵐山が掘り返さなければ、それも気づかなかった」
「な、なぁ……さっきから、どうして嵐山の名前が出て来るんだ……?」
「ただの賭けだ。私は、嵐山がお前に協力をしない方に賭けたんだがな。
土饅頭というらしいぞ。奴が猟師の息子で良かったな」
熊は食べきれなかった食糧を地中に埋めて保存しておく習性がある。
土饅頭は熊にとって天然の貯蔵庫であり、マトンが見たのは土饅頭から飛び出た死体だった。
だが、土饅頭は近くに獲物を埋めた熊がいることも意味する。
嵐山は土饅頭を遠目に見つけるや否や怯えだしたが、今回に限っていえば、その心配はいらない。
隣にはその人食い熊を素手で駆除した張本人がいたのだから。
「十五年前、お前の母親は山で熊に襲われ食われて死んだ。
どうだ?死因がわかったところで、お前が命を差し出す価値はあったか?」
「……そうか、そうだったのか、良かった」
「良かった?」
「あぁ、本当に良かった。母さんは……息子を、俺を捨てたわけじゃなかったんだ」
鞄を握りしめる蛭田の手に涙が落ちる。
それは十五年分の、失踪した母親への悲しみ、怒り、憎しみ、真実を知ることができた喜びによる涙だった。
蛭田薊の心に巣くっていたものが涙と共に流れていく。
その背中を撫でる人間はここにはいない。泣いたところで取り返せるものはない。
だから声を押し殺して泣く蛭田の姿を見て、マトンはそういう泣き方もあるのだなと思う。
質問をせずとも、比較実験をするには十分だった。
代わりに、後ろの壁まで下がって黙り込む双子に元の世界の共通語で尋ねる。
『牡丹、紅葉』
『『はい』』
『この男が泣いている姿を見てどう思う?どう感じた?』
『可虐心をくすぐられました。もっと虐めてみたいです』
『人間らしく惨めで可愛いらしいなと思いました』
『そうか、我々の価値観では普通の反応だな。
だが禅が泣いているのを見た時、私はどういうわけか不安を感じた。
自分の生命を脅かされているような危機感を覚えた』
双子の笑顔が凍り付く。彼らの価値観に則って考えれば、それは異常な感覚だ。
『魔王様、それは……まさかとは思いますが』
『人間に対して、特別な感情を抱いているということですか?』
『特別?さぁ、わからないな。
わかることと言えば、禅には我々のような力はないということくらいだ』
『魔王様、それはそうでしょう』
『人間は人間、魔族は魔族です』
『そうだ。禅は奴と同じように亡くなった人間を思って涙を流す、普通の人間だ』
『魔王様?それが、そんな当たり前のことが、どうかされましたか?』
遺品の惨状を見れば、蛭田の母親の身に起きた出来事も想像がつく。
同じ立場ならば、禅や白桃だって帰らぬ人となってもおかしくはない。
彼らは懸命に生きているように見えて、その実、ただ運よく死んでいないだけだ。
人間社会においても、自然界においても。
「……何か話しているところが悪いが、質問をしてもいいか?」
「なに、大した話じゃない。許可する」
「俺は、これから殺されるのか?」
「あぁ、そうだったな。
協力するならお前を殺すのは最後にしてやると、確かにそう言ったな」
「どうせ死ぬなら、あまり苦しまずに死にたいものだ」
それが贅沢な願いであるとわかっていながら、乾いた喉で口にする。
主人との話しを遮られた双子は蛭田を睨みつけていたが、その主人の手前、手出しはしてこなかった。
もしも彼女たちに殺されるとしたら、楽には死なせてもらえないだろう。
もうこの世に未練はないはずなのに、蛭田は命が惜しくてたまらない。
「安心しろ、私はお前を殺すつもりはない」
「えっ、本当か……?本当に、俺のことを殺す気はないのか?」
「あぁ、嘘ではない。契約は有効だが、私が主体的にお前を殺すことはない」
「はははっ、そうか、そうか……俺は……俺は本当に運がいいな」
助かった。勝った、賭けに勝った。次は勝てる気はしないが、ひとまず大切なものも命も返ってきた。
寿命がのびたことで体温も戻ったのか、全身の震えが止まった。
放心状態でしばらく呆けていた蛭田に構わず、マトンは話し続ける。
「嵐山が言っていた。善意で動く人間が増えれば、世界はより良くなると。
私が知り得る中で最も清い心を持つ禅は、お前を殺すことに反対した。
私はそれに従って、危険因子であっても人間を皆殺しにするのはやめた」
「従ったって、あんたが善意に従ったってことか……?」
「そうだ。だから、虻蜂連合会の構成員も生かしておいた」
「それも警察から聞いた。だが、善意というのはいささか冗談きついぜ」
「冗談?何のことだ?」
「……え?」
「私がいつ冗談を言った?」
だが、彼らにとっての善意は蛭田が当たり前に持っているものとは異なる。
虻蜂連合会の構成員三百四十一名。
その全員が何らかの怪我を負わされ、半数以上は警察署ではなく病院に送られた。
重傷者は集中治療室行き、後遺症も残るだろう。拷問を受けたのなら、ヤスデのように、精神にも影響を受けているはずだ。
善意に従ったというには、あまりに惨い結果だ。
「私は本気だ。いずれ近いうちに、この世界を変えてみせる」
「……この世界?ちょっと待ってくれ。あんた、何の話をしているんだ?」
目の前に立つ怪物は、覚悟を決めた捕食者の顔をしている。
蛭田は、自分の腕が吹き飛んだ夜のことを思い出す。
あの日の、腹が満たされた猫が通りすがりの鼠を痛めつけて遊ぶ表情とは違う。
腹を空かせた獣が、獲物を定めて狩ると決心したときに浮かべる顔だ。
人間から奪うことに何ら疑問を抱かない存在が、人間に干渉すると決めた。気づけば指先が痙攣し出していた。
「私が望むのは、あの家で我々が穏やかに過ごせる世界だ。
その時に、禅とおばあちゃんに、白桃やタロウ、タマ、子猫たちが同じ食卓を囲んでいればそれ以上は何も望まない。
邪魔する者は誰であろうと排除する。協力する者には慈悲を与える。それだけだ」
「だから、もう終わったんだろう?あとは警察や裁判所に任せればいいじゃねぇか」
「それでは足りない。禅もお前も警察もただの人間だ。
私の平穏は、禅や人間たちから与えられるものではなく、私自身で獲得しなければならない」
「それじゃあ、それってつまり」
「「ご主人様……!それはつまり」」
不安要素というだけで地方組織を一つ壊滅させる彼女の先ほどの発言は、自分たち以外の全てをひっくり返すという意味になる。とても身勝手で強欲で、正気とは思えない。
それがどんなに長く険しい道なのか、本人ですら想像がつかない。
双子は両手を合わせて顔を輝かせていた。
だがそれでこそ魔族、それこそが魔王なのだ。
「この世界を、私の支配下に置く」
あの家を襲わなければ、あの家さえ無事なら、それ以外はどうでもよかったのだ。
怪物の平穏を乱したのは、蛭田自身だ。
「俺は、俺はなんてことをしてしまったんだ……!」
強盗殺人は、無期懲役か死刑を言い渡される可能性が高い。
蛭田にどちらの判決が下っても、このことは外部には漏れない。
いや、話せば契約違反として自ら命を絶つことになるのだろう。
蛭間が足先で小突いた石は飛んで火口に落ち、巨大な活火山が噴火するきっかけとなっていた。
「ではな、用があればまた来ることもあるだろう。
そうでなければ、二度と会うことはないだろうが」
「はい……」
「それと、禅は覚えていなかったが。
おばあちゃんは、お前の母親を覚えていたぞ」
「はい……は?えっ?今、なんて……」
「お前の母親は、道に迷ってあの家に来たことがあるらしい。
そのとき、息子のために筍を取りたいとかなんとか、そんなことを言っていたらしい」
「そう、ですか……じゃあ、母さんは俺のために山に入って……」
『この先は山道で行き止まりです。迷われたんですか?』
禅という少年が、蛭間にかけた言葉を思い出す。
十五年以上前にも、蛭間の母親はあの家の住人に同じように迎えられたのだろう。
もしそこで留まっていたら、蛭田の心に善意が残っていたら、この恐怖とも不自由とも無縁な生活を送れていただろうか。
母のような思いやりのある人間になれていれば、こんなことにはならなかっただろうか。蛭田は深く項垂れる。
「俺は、本当に何てことを……」
「せいぜい、残りの人生で罪を償うといい。どうせ人間の寿命は長くない」
マトンは悠々と外界へ出ていく。
眷属たちは膝をつき頭を垂れ、主人を待ちわびていた。その中には首切り馬の姿もある。
彼らも魔王の宣戦布告を聞き、双子と同じように胸を高鳴らせていた。
「帰るぞ、せっかくだから夜景でも楽しもうじゃないか」
「承知しました。乗り物はいかがいたしましょうか。
車で?バスで?それともバイクで?」
「いや、それはもういい」
「と、申されますと」
「いつもの、最も速く最も気高い乗り物で頼む」
「ふふふ、いつものでございますね。承知しました」
「あぁ、もうこの世界の乗り物はいらない」
「『千変万来(ランタナポッド)』」
警察署の屋上、首切り馬は人の姿を捨て、遠い大地まで最速まで向かうため姿を変える。
直線で向かうなら空からがいいだろう。
そのためには、建築物や稜線を越えて高高度を飛べる巨大な翼と大きな胸筋が必要だ。
流線形の嘴と長い首に軽くて丈夫な骨も外せない。長距離を飛行する体力と筋力、飛行中に方向を変えるための尾も生やす。
褐色の鱗に緑眼のドラゴンが警察署に現れる。太古の人食い鮫と同じ長さの牙を打ち鳴らしながら、変化した首切り馬は翼を起こす。翼を一度上下するだけで風が吹き荒れる。
木々が揺れて葉の間で眠りについていた小鳥たちがざわめき出す。反対に求愛の鳴き声を上げていた虫や蛙が静まり返る。
二度三度続けて翼を動かすと、駐車場に止まっていた自転車は倒れ、車が左右に揺れ出す。
さらに続けて翼を羽ばたかせて上昇すると、巨大な身体が徐々に宙に浮いていく。
台風の最中のような暴風の中、やがて後ろ足が浮く。
その瞬間を掴んで屋上が飛び下りる。
上昇気流に身体を乗せて、一匹のドラゴンと魔王軍が空へ飛び立った。
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