願わないと決めた

蛇ノ目るじん

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3 払暁の不退

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※本編はここまで!次からは番外を更新していきます!








 覚醒は速やかだった。夢という名の記憶を、時に鮮明に時に駆け足に追想した意識は冴え渡ったまま、現実へと舞い戻る。



 香が仄かに残る室内は、眠りに落ちる前よりうっすらと明るい。あの追憶の密度にしては眠りが短いと思いながら寝台を下りた。
 露台へと通じる窓を開けば、夜明け前の冷えた風が吹きこむ。何も履いていない素足に当たる滑らかな石の感触を感じながら、手すりへと近付く。
 僅かに明るくなり始めている空際、次第に消えていく星を眺めて茫としていたら、微かな気配を背後に感じた。

「少々、独り言を言っても構いませんか?」
「聞かれる事を想定していないからこその独り言なのですよ」
 遠回しな言葉は、いつ頃からか汲み取れるようになった判りにくい優しさで。口元が小さく綻ぶのを感じる。
「それは失礼しました。では、言葉を変えましょう。これは愚痴ですので、好きなだけ言わせてください」
 刻一刻と白んでいく空の起点に視線を当てたまま、少し冷えるなと思い始めていた風が不意にゆるんだ。眼下に見える木の葉の揺れは、先ほどから全く変わっていない。

 嗚呼、やはり優しい。と後ろの相手を評しながら、気付いていない風を装って口火を切る。下手に気を回すと機嫌を損ねるのだ。
「久しぶりに、昔の事を夢に見ました。本当に、変われば変わるものです。俺も、皆も」
 永遠に変わらないものなどあり得ない。受け入れるにはあまりに急激に変転したが、かといって激流に揉まれるわけにはいかなかった。
 嘆くことはいつでも出来た。しかし、長兄がその手の及ぶ限り守ろうとした国を繋ぎ止めることは、あの瞬間にしか出来なかった。

 嘆きを遠くに放り投げ、我武者羅に奔り続けてきた。
 そうして得たものはきっと、多いのだろうけれど。
 しかし、「お前は思うままに生きているのが似合う」と告げられた素直さは死んだ。
 相手を出し抜き、陥れ、裏をかく権謀術数に、次第に何も思わなくなった。誰かを切り捨てても、表情一つ動かなくなった。
 優しく視線を合わされ、頬を包まれた記憶は未だ鮮やかに息づいているというのに、実際の自分は変わり果てた。
「……俺は変わりました。全てが全て悪い変化ではありませんが、自分で自分を許せないものもあるのです」

 幼い頃からの憧憬の対象であり、どこか自分の昔に似ていると愚図る手を引いて、後宮の一角しか知らなかった自分の世界を広げてくれた存在。
 あれの乳兄弟が管理を許されていた後宮の図書室が、最初だったと懐かしく思い出される。次兄と、もう一人。今は嫁いだ姉の一人と親交を深めたのは、その場だった。
 あの時間が間違いなく、世界を大きく広げる端緒だった。祖先が書き残した書簡や日誌を読み漁り、一族のあれこれに触れ、自制の在り様の基本要素を学び、童話から始めて機微を学び、専門書を紐解いては長兄達に教えを請うた、あの時間。彼らが話し込んでいた事の内容は、当時はよく分からなかったが、今にして思えば参考になる部分が多かったし、何より彼らが楽しそうなのが嬉しかった。次兄が管理者に対し、ずいぶん意気込んで接点を持とうとしていた様は、今にしては微笑ましく、ほろ苦い。そういう、柔らかさが際限なく許容された時間だった。少なくとも、自分にとっては。……今はもう、帰らない麗しい日々。

 世界が広がるにつれて、そっちの方が恵まれていると喚いても、少し困ったような顔を嫌いにはなれなくて。
 劣等感で他の感情全てを凌駕して憎めれば楽だったのに、辛うじて貴族籍にあったがほぼ平民に近い母の出生を蔑む存在や、あれの度を過ぎた寵愛で、過重な気苦労や誹謗中傷、暗殺未遂に翻弄される姿を見て見ぬふりは出来なかった。

 ――最初は、本当に助けたいだけだったのだ。それなのに。

「どうして、家族としての情の範囲に留められなかったのでしょう。どうして、あれと同じく道を外れてしまったのでしょう。どうして」
 そこまで言って、初めて彼を抱いた直後の事を思い出す。いよいよ赤らんできた地平が、散々泣いた後の目許にも見えた。



 寝台へと場所を移し、日暮れ近くまでそれしか能がないように交わり続けて、その果てにとうとう意識を飛ばして赤子のように眠り込んだ長兄を覗き込んだときだった。
 その時点では、彼との交わりはこの一回と決めていた。この一回で、満足しようと思っていた。
 だから、一度だけ。尊敬する長兄としてではなく、信頼する相談役としてでもなく。ただの一人の人間としてその名前を呼んで、それで終わりにしようと思った。
 先に浴室で体を拭い、床へ放り投げたために少し皺の寄っている服に袖を通し、寝室へと戻れば、彼は浴室へ向かったときと変わらぬ姿で寝息を立てていた。
 敷布に散らばった髪を整え、まだ小さい頃に引っ張って叱られたときと変わりない感触に微笑み、寝台の惨状が嘘のように安らかな寝顔へと顔を寄せる。普段は精悍に引き締められた印象が勝るので見落としがちだが、よく見れば整った、つくりの一つ一つが優しい線で描かれた容貌をしている。
 場違いなほど穏やかなその時間に、罪に濡らした手も忘れて、今だけと浸った。……きっと、罰が当たったのだろう。

 そっと重ねた唇からは精の味がしたが、全く気にならなかった。
 肉厚の唇を記憶にきつけるように辿り、薄く開いた歯列を舌でなぞって。それ以上は自制する。一回と決めたのが、揺らいでしまいそうだった。
「クレス……クレスレイド……」
 像を結ばないほどに近い距離で囁くと、目の前の相手がふと身じろいだ。起きたかと顔を引き、黙って見守るが瞼は開かれることはなく。そのまま、全体の輪郭が夢見る子供のように微笑んだ。
 思わず見とれた自分の目の前で、その唇が小さく震える。
 そこから発せられた一言に、自分の中で何かが音を立てて砕け散った。


 ――――どうやって部屋を飛び出したのか、自分でも全く記憶にない。
 気付けば廊下を抜け、階段を無様に転がり落ちていた。
 咄嗟に頭は庇っていたが、それ以外を強かに打ちつけて、擦りつけて。しばらく動けなかった。
 唸りが口から先駆けて、視界が歪んだ。
 そのまま、体の痛みを拙い言い訳に、声も剥き出しで泣いた。今、自分の背後でその言葉を聞いてくれている存在が迎えに来るまで、ずっと。

 解っていた! 判っていた! 分かっていなかった!
 自分では彼にはなれない! 慈しむように名を呼ばれることはあっても、あんなに愛おしげに、狂おしげに呼ばれることは、決して無い!

 たった一言で、改めて突きつけられた想いの在り処。
 あれの狂気が衆目に露見する一月ほど前に、隠れるように扉の隙間から視た情景。

 離れて対峙する二人。切なる色を浮かべて向けられる煉の瞳に、紺碧の瞳が優雅な笑みに、歪む。
「荷を纏めて、疾く帰るが良い。君に、この国の狂気と心中する権利も義務もない。寧ろ、邪魔だ」
 王族としての尊厳を傲然と纏いながら、汚物でも見たように手を払う。震えも揺らぎもない、見間違え、聞き違えの余地などない明瞭なそれは残酷なまでに優しい、訣別。
 彼の意図を汲み取れないほどその青年は鈍くはなく、また、それに応じた対応が出来るほど成熟もしておらず。
 あっと思ったときには、恐らく長兄が取っていた距離は詰められていた。
 追いかけた掌に拳に握りこんだ手を捉えて、恭しく捧げられた口付け。払いのけるのを全身で以って抑えこみ、互いに呼吸が上がるほどの攻防の中でも煉は乞い、紺碧は跳ね除けた。
 青年はひどく諦めが悪かった。普段の澄ました姿勢が嘘のように食らい付き、筋力的に明らかに劣るのに引き下がらず、とうとう一度はもぎ放された手を掴み、たたらを踏んだ相手の耳元で何かを囁いた。
 その言葉に動きを止め、乱れた装いもそのままに躊躇いつつ手を握り返した姿を、それ以上は見ていられなかった。
 扉の隙間から音を立てないように手を離し、立ち去った。その後にあの二人がどうしたかなど、知りはしないし、知りたくもない。


 あの時と変わらず、その想いはあの異国の青年に在る。あの男が、持って行ってしまった。この上ない宝物を呼ぶように紡がれた愛称が、そんな内心を、どんな言葉よりも明確に謳い上げていた。

 ……頭で理解して、心で納得して。
 その上で芽生えたものも、あるいは、狂気と呼ぶのだろう。



「どうして、俺は、こんな感情に育ててしまったのでしょうか」
 手をついた石造りの手すりの冷たさも、妄執にも似た激情を静めるには及ばない。腕にはめた支配の腕輪が抗議をするように小さく鳴った。
「………………やるのなら誰かのせいにするな。下した決断一つ一つを背負い往け」
 普段は愚痴の途中は滅多に口を挟んで来ない相手が諳んじた言葉に、苦笑が漏れた。
「そうですね。彼らのせいにはしません。芽吹く切欠が彼らであったとしても、育てたのは俺なのですから」
 そう。だから、彼を抱く中で明らかになっていった内の歪みも、自分のものだ。さも良心ぶった提案を塗付た欲望を押し付け、呑ませ、ふとした折に垣間見える苦悩に後悔を、そして歓喜した。その苦悩が在る限りは、彼が自ら離れることはあるまいと。
 ――気付かない方が、幸せだったとは思う。気付かなければ、己に失望せずに生きられただろう。しかし、それではいけなかった。自身を完全に把握できないようでは、統治者としては失格だ。


「母が、疎むわけです。あのひとは聡かったから、俺が夫との子ではなく、あれの種であると察していたのでしょう」
 母と、その初めの夫であった男は、政略結婚ではあったが互いに敬意と愛情を深めていく理想的な夫婦であったという。
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 兄を恨み、あれを憎みながら、母は夫の死後一年足らずで自分を生み落とした。
 生まれた時点の自分は髪から目から全て母に似ていて、どちらが父であるか傍目には判別が付かなかった。結果として俺は王家とも血縁のある母の生まれに順じて王子となり、継承位の一番下に置かれることとなった。
 母は、自分が生まれたとき、一目見て顔を背けたという。亡き夫の子であればという願いが、彼女に堕胎の選択肢を取らせず、また受付けなかったのだろう。しかしその願いは届かなかった。
 何も知らない自分が近付いても、優しい言葉一つ、温かな抱擁一つ与えないまま、自分が五歳になる前に死んだ。

 決して自分を愛さなかった母だが、もう永遠に会えないことが無性に悲しくて、葬儀の後、長兄の腕に抱かれて長く泣いた。
 長兄への傾倒が顕著になったのは、それ以降のことだ。それでも、その頃はまだ、こんなにどうしようもない感情を抱え込むとは思わなかった。その頃はまだ、長じて瓜二つと称されるほどあれに似て、有力な継承候補に担ぎ出されるとは思わなかった。


 腕の飾りをかざして、溢れ出した日差しに透かす。精緻に装飾された術式が光を弾いて、目に沁みた。
「いつか、これを取らなければならない時が来るかもしれません。そのとき、それがどれほど国の益になるとしても、外すのを是と出来るか、自分が分からないのです。敬愛で留まっていたのなら、長兄上あにうえの新たな門出を心から喜べましたのに」
 狂奔する心情と、冴え返る理性と。水と油の二つが両立し得る事実を、最近になってようやく知った。
「……天秤が、あるんです。『私』としてと、『俺』としての。『私』は、己の責任を全うしようとするでしょう。しかし『俺』は、放したくないと駄々を捏ねているんです」
 後者へと完全に傾いたとき、自分は恐らく手放す道を選べない。その結果に導かれる結末が、どれほど愚かだと理解していても。
 長兄のように、突き放そうとする優しさは持てない。褥の中であれを弑逆し、鮮血と白濁に濡れたままそれに口付けて振り向いたときの、凪いだような穏やかさからも程遠い。
 不吉に光を弾く赤い切っ先を己が首に向けた手を弾き飛ばしたように、彼自身が奪うのも、由としないのだろう。

 とうとう昇ってきた日に目を細めながら、ふっと哂った。旭日の色、それと同色に染まった空の色。この国を建国した初代国王の髪と、同じ色。
 そして、自分の髪の色。自分が流してきた、これからも流すのであろう命の色。
「長兄上は、願ったから手放した。願ったから裏切られた。なら、俺は願いません。ただ在るがまま、自らの意思で切り分けましょう」
 その結果がどうであろうと、結局、自分は歓喜も後悔もするのだろう。心情と理性が両立する事実を知ったとき、真実一つになる日が訪れないこともまた理解した。
 国を導くに足ると、飾りの君主にはすまいと折られた膝。
 自分よりよほど真摯にこの国と向き合ってきた者達の熱意の一端に触れたとき、ともすれば感情のまま赴こうとする自身に制止がかかった。

 ずっと夢想していた。長兄の治世に尽力することを。
 それを願うほどに長兄を敬愛していたし、国も嫌いではなかった。王都で、視察に赴いた地方で、身分を隠して紛れこんだ人々の営みを、壊したいとは思わなかった。
 だから、王の責務を負って立つことを決めた。この国を愛おしんだ長兄の願いを無にしたら、この敬愛も嘘だと思った。

 心情のままに暴走しかねない危うさを、だから理性で蓋をした。
 蓋にした理性で重石として積み上げた責務で、心情の息の根を止めようと思った。それでも時々堰を切ったように溢れ出す感情で傷つけて、傷ついて、悲しませて、悦んで。
 ――そうして、結局は心情を殺せない事実に絶望して、愉悦した。
 ばらまかれたそれらを拾い上げて、平等に天秤に乗せて。ゆらゆらと揺れる天秤の傾きを否定せず、生きると決めた。


「あなた方の薫陶を、無駄にはしません。この国の王は、私。私の赴く後にこそ、道を敷いてみせよう」
 日に背を向けて、後ろでずっと佇んでいた相手に向き直る。それは、愚痴が終わった合図。

 いつもはいやに色が青い、不健康な顔。眩さにか、僅かに顰められた顔色がいつもより鮮やかに見えるのは旭日の所為だろう。
「私が誤りそうだったら、止めていただけると有り難い。サディ兄上――いいや、アナズィトン学院・魔法学部院生にして次代大賢人候補殿」
 彼の公的な立場と内々に目されている立場をさも同等の如く連ねれば、その顔が明らかに顰められた。
「私の寿命を縮めるつもりですか?」
「元よりさして生に執着はしていないかと思ったが。それに、ずっと監視しろとは言わない。最後の一線で切り取って貰えれば良い」
 魔法師は明らかなため息を吐いて、吐息混じりに短い単語を呟いた。和らいでいた風の吹きつけが、途端に元へ戻る。
「兄上がお気の毒だ。こんな弟に執着されて」
 弟として、兄として紡がれた言葉に、苦笑が漏れた。
「そうだな。私もそう思う。それでも、長兄上かれがあいつに向ける特別が欲しかった。……特別は手に入れた。でもそれは必ずしも私である必要は無い。本当に欲しかったものは手に入らないから、これからもずっと、私は毀れて行くのだろう」
 近付いてきた痩身に、私としての口調で俺として吐露する。手を伸ばすには二、三歩ほど足りない距離で止まった次兄は、静かな表情をしていた。微笑んでいるとも悲しんでいるともつかない、怒っているようでまた無表情にも見える、奇妙な表情。
「お前に同情はしない。同情するには自業自得が過ぎるから。でも、想いを寄せる相手を間違ったね。それだけは、お前を哀れむよ」
 彼はそうして少し目を伏せ、折り目正しい所作で礼をした。
「では、御前を失礼します」
「あぁ。ご苦労だった」
 礼をしたまま、見る見るその姿は薄れて消える。私も部屋に戻ろうと、一歩を踏み出して、ふと振り返った。

 先ほどまでは赤かった夜明けの日は、既に日中の白へとその色を変じている。
 目が痛くなるような白に、堪らず瞼を伏せた。透けて差し込んでくる光に、普段は意識しないのに時々、特に褥の中で向けられる長兄の眼差しの持つ力を思う。

 私はいつもあの瞳に魅入られて我を忘れる。自分が知る何よりも美しく、そしてこの上なく忌々しい紺碧。何故だかおかしくなった。
 嗚呼、願って手に入るというなら、それはどんなに幸運なことだろう。願うだけで手に入れた者は、その幸運に気付きすらしないに違いない。
 ひとしきり笑って、視線を戻す。背中に突き刺さる強さは糾弾に似ている。
 構わず窓を閉め、幕を引けば、もう届かない。

 寝台に潜り直す気にはなれず、窓辺に整えられた椅子に身を預けて目を閉じる。手の甲を当てた瞼がやけに熱かった。
「あなたは、私が本当に欲しいものは決してくれない」
 頬を何かが滑り落ちたような気がするのはきっと、ただの錯覚。
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