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番外3、或いは明転 天秤は傾いだ 上
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※兄である元王太子の話。
ここからが、今回よりの書き下ろしです(これまでは数年前に投稿済のものです)
これは番外であり、これまでの話の補足であり、集大成であり、もう一つの本編でもあります。ここからの話は、これまで以上に色々詰まってます。
今回、攻め二人以外との直接的な性描写が含まれています。
母の最期は、蝋燭が静かに燃え尽きるように儚いものだった。
彼女は、三度孕んだのだという。一度目は私。二度目は、長く苦しんで果てに産まれた弟は、息をしていなかったと。そうして、三度めが。母自身の命取りになった。
その身に宿していた弟か妹か、どちらかもまだ定かで無かった小さな命を事故――後に、不穏な噂が付き纏う状況であった事を知った。さらに先の未来で、真実も察した――で流した後、年端も行かなかった当時の自分の目から見ても明らかなほど急速に弱っていった母と共に王宮を出て、城下に住まうとある医師の診療所のほど近くに一時の――母にとっては終の――居を求めたのは、父王の采配によるものだった。
居を移してからの母は、少なくとも心境は穏やかであったのではないかと思う。こちらに向ける表情の一つ一つから、無駄な力は抜けていたように見えた。数日に一度は往診に来ていた医師や、忍んで何回か来ていた父王とその乳兄弟の魔法師に対しても、同様だったように感じられた。あるいは、その穏やかな凪が、却って弱っていく身体から抵抗する力を奪っていったのかも知れないが。
今の貴方を残していく事だけが心残りだと震えながら伸ばされた、病み衰えて細くなった手を握っている事しか私には出来なかった。その手から力が失われて、なおも握り続けた私を母から引き離した父王の乳兄弟で、あるいはもう一人の父といえるだろう存在の胸をやたらめったらに叩き続けた事を詫びる機会は、結局ついぞ無かった。立場上、大っぴらにとはいかなかったがそれ以外にも抱えきれないほど、惜しみなく愛してくれていた事への満足な感謝も伝えられないまま、彼は喪われた。
程なくして、顔を青ざめさせて駆けつけた父王に私を託した時の彼の表情も、私は永遠に知る由は無い。小刻みに震えていた事を全身で感じていた父王の面持ちも、知る機会は最早無い。
最後に触れた母の手は、すっかり冷たくなり、よそよそしいほどに強張っていた。
その喪失感が、一つの切っ掛けであったなど、始まりに過ぎなかったなど、当時の私には、知る由も無かったのだ――。
* * *
「若様」
静かな呼びかけに、千々に散っていた意識をかき集める。少しばかり苦労しながら瞼を押し上げれば、半分ほど中身が残された茶器が視界に入る。
「また何か盛ったな」
「お疲れのようでしたから」
形ばかりの咎める言葉には、全く悪びれない答えが返ってくる。しかも、若様は何か入っている可能性を知りながら、それでも構えずに飲んで下さるので助かります。というおまけつきで。金を持っているならば王族であろうと遠慮会釈なく相場より多く請求し、且つ足を出さない度胸が垣間見えるとも言える。この一連の会話も隠密によって把握されており、事と次第によっては命を奪われる可能性を知っていてなお、この医師の態度は一貫していた。
新しく供された器に彼曰く「構えず」口を付け、爽やかな柑橘の酸味と蜂蜜で付けられた甘味に瞑目する。馴染んだ味だった。病床の母に薬湯後の口直し兼栄養補給の一助として、ついでのように私の分も用意されて寄越されていた頃から、多少は洗練されたかもしれないが、本質的には変わらない味だった。
意識して呼吸を深く一つ。普通の人間よりは鍛錬を積んでいる耳が、足早にこちらへと向かってくる足音を一人分と少し拾い上げる。いつもより少しだけ早く器を空にして、卓に戻す。ほぼ同時に、家屋の扉をしきりに叩く音が夜の帳の切れ目から流れてきた。そちらへと明らかに意識が向いた彼に、頷く。
「片付けはこちらでしておく。恐らく急患だろう? 私はこのままお暇しよう」
「……では」
一礼してかくしゃくとした足取りで彼が出ていく。あの背中はあんなにも小さかっただろうか、と取り留めなく考えながら椅子の背に軽くもたれ、瞼を下した。傍らに降り立った気配が器を持って行くのを感じるともなしに感じながら、まだ若いであろう女性の、子供の熱が下がらない、といった切実な感情の滲む声に耳を傾ける。
魔法も用いての医療は、使用する媒体に高価なものが含まれる場合が多く、得てして高額だ。この国で一般的な生活を営む民達の所得では、一時的なものはまだしも、継続させる事はほとんど無理に近い。故に、民の多くが頼るのは、魔法の心得を持たないか、あるいはほぼ使わない、医薬品を用いての医療を行う者達である。こちらも決して安価ばかりというわけでは無いが、まだ手が届きやすい。
この国、オモルフォは通した魔力を増幅して放出する性質を持った鉱石――魔鉱石の大きな鉱脈筋を複数有している事、副産物として他の鉱石、鉱物も潤沢な事。そして、明確に存在する四季の中、雪融けと共に山から平地へ押し寄せてくる濁流がもたらす肥沃な土による耕作により、大陸でも指折りで裕福な国家だ。
そして、裕福である事実は、そこで停滞する事を是とはしない。少なくとも私は、そう考えている。例えば、万民が最低限の医療を享受できる環境や、患者と医師双方への支援の整備。あるいは、勉学の機会の提供。俗に言う、持てる者と持たざる者の格差は国としての裕福さゆえに却って大きく、持てる者はよほどの悪手を犯さない限りは持てるまま、持たざる者は得てして持てる者に搾取され持たざるままだ。
それを打破する手段は第一に、際立って死亡率の高い乳幼児期の生存率を上げること。並行して、妊娠・出産前中後で疲弊し、傷ついている女性達の援助。母体に多大に負担を掛ける堕胎を少しでも減らすための助成、あるいはより効率的な避妊の手立ての模索。次いで、新しい世代を筆頭に教育を普及させること。無論、雇用を拡大する政策も欠かせない。
といっても現時点では、毎年のように春先氾濫する河川の流れがある程度緩やかになるよう、川の幅や深さを広げたり水門を建築させたり、鉱山を掘る以上は必然となる伐採に対してのこまめな植林及び定期的な手入れという、土木関連の提供が精々ではあるのだが。
制度をある程度本格的に運用出来る基盤を整え、走らせ始めてからまだ数年。しかも、一度途切れさせてしまった。成果が目に見えてくるのが何年先になるかも、机上の計算の段階だ。
しかしそれでも、現状、世襲が大多数を占める政治の場に彼らの席が相応に確立すれば、ひとまずの目標は達成という事になるだろう。
民が富まない国は、先細りしていくことが常だ。あるいは、その民の意向によって王権に否が突きつけられる日も来るかもしれない。口に上らせた事は無いが、それが時代の流れであるのなら、それはそれで良いと思っている。
眉間に、知らず籠っていた力を指で揉みほぐす。良くない思考の流れだ。停滞は望ましくないという思考の傍らで、過去に滞留している。
それではいけないと思ったからこそ、長らえた先で異母弟の国づくりを手伝うことに肯いたというのに。
傍らに立ち戻ってきた気配に気付かない振りで深く息を漏らし束の間、背凭れに身を埋めた。
「……我が君」
「あぁ、大丈夫だ。有難う」
少しだけ、躊躇うような呼びかけだった。服を掻き寄せる。疲労もあって、先ほどまでは意識して認識の外へ追いやれていた内側の疼きに奥歯を噛みしめ、蹴るように床へ立つ。
「行こうか、リデル」
「はい、我が君」
一礼した男――王家の抱える隠密集団の首領に先導されるように、ひっそりと待つ馬車へと戻った。
馬車の座席に身を沈め、きつく目を閉じる。ともすれば自ら服を暴いて慰めたくなる衝動を、手のひらに爪を立てて堪える。性具で一時は誤魔化せても、熱く猛るもので空を埋めて欲しいという欲求に逸る己の身の浅ましさが、恨めしくてならなかった。
父王に、母のものだった部屋で昼夜問わず乱され続けた一ヶ月余り。二十年近く、在りし日のままに整えられてきた場所を打ち崩しながらの、最後の日々。
それ以前がまるで児戯だったとでも言うかのように、拓かれ、馴らされ、躾けられ、仕込まれた。さすがに寄る年波には抗えなかったと見え、一度の交わりで父王が達するのは一度か二度。代わりに行為自体は執拗に、長く、果てたかと思えば再び昂らされ、かと思えば引き延ばされ、狂わされた。どうにか少しでも早く終わらせようとした奉仕を嘲笑うように返され、こちらは五度以上達せられるのが常で、最後は精魂尽き果てて半ば意識を飛ばす事が多かった。
そして、父王に抱かれる間と、排泄の時以外はほぼずっと後孔に埋められていた、魔力を吸い上げて、仕込まれた香油を滲ませながら内で蠢き、震え、抉り、擦り上げ、気の休まる時を与えなかった性具の数々。父王が部屋を出ている間に抜いた事が知られれば、苦痛さえ感じるほど長く、生殺しの悦楽を施された。
それまでは知らなかった、中で達する快楽を覚え込まされ、乱された感覚の御し方を掴むまで、散々振り回された。否、どうにか誤魔化し方を覚えた。――そう、たかが一ヶ月。しかしその間の日常だった有様は、私の中の何かを狂わせるには十分すぎた。そしてそれは、今も戻らない。
数ヶ月は、目も回るような忙しさであったから気付かない振りが出来た。それが一通り落ち着いて、自覚した飢え。しばらくは自分で宥めすかしてきたが、限界だった。自慰では足りない。奥に熱が、欲しい。
『クレス、クレスレイド。クー』
ひどく切羽詰まった表情で、それでも必死に慈しむよう触れてきた彼が脳裏に閃く。光を透かせば金色が混じって見えた亜麻色の髪をかき分け触れた肌の、北方の民特有の、青みさえ感じるほどに透き通った白さとは裏腹の熱。平時は涼しげな雪のようなそこが、身を合わせていると次第に上気して、華やかに色づいていく様も愛おしかった。乱れた髪の合間から覗いていた、時に劫火のように、時に熾火のように、あるいは氷の中に閉じられた焔のような、あの毅い眼差し。
あぁ、我が身のなんと正直な事か。いとも容易く彼と過ごした、決して多くは無い閨事の記憶をなぞって戦慄き、悶える。誰でも、で良いわけではない。彼が良い、と心は喚いて止まないのに、この身の疼きを止めてくれるのならば誰でも良い、と肉欲に狂い果てた獣性が吼えている。
その獣の性を持て余し結果、今夜よりの娼館通いに舵を切らせた事実を、我が事ながらいっそ嗤ってしまいたかった。
手放したのは自分だ。それが彼にとって一番安全に近い事を認識して、彼の祖国、あるいは祖国だった国の上層部がそうなればと願っていた事も解っていて、手を離した。
その選択に、後悔は無い。特に当時は、父王を弑して自らも自害するつもりでさえあったから。根底にあるのがただの我が儘と知っていても、彼の死に顔なぞ想像したくも無かった。
結果的にのうのうと生き延びて現在があるものの、あの選択が誤りだったとは思っていない。事実彼は、帰国して僅か一年たらずでこちらの耳目にも届くほど、かつての祖国で辣腕を振るっている。些か早急に思える領土拡張である事だけは、少しばかり気がかりではあるのだが。
本能を捻じ曲げ、思考の矛先をすり替える。一度湧いてしまった情欲は時間の経過では消せないが、堰を切った先の淫らさは、誰よりも自分自身が知っていた。不本意とはいえ長い付き合いになりそうな存在だ。生理現象の範囲内であれば宥め方や誤魔化し方は、それなりに身に着けていた。
ひどく熱を帯びている息を務めて意識しないよう気を払いながら呼吸を深くし、いつの間にか肘掛にもたれかかっていた上半身をどうにか起こす。
そうする中、少しづつではあるが確実に速度が落ちていき、そこまで大きな揺れもなく馬車は止まった。御者台から降りてくる気配二つ、と、こちらに向かって歩いてくる気配一つ。ややして、出入り口が開け放たれる。
顔を覗かせたのはノールディン。彼には通常の任務の傍ら、私が赴く娼館の選定と交渉も頼んであった。私の顔、あるいは姿を見て、あー、と呻く。どれほど見苦しい様を晒しているのかと、口許が引きつる。
ノールディンは頭を掻き回し、少し思案する様子の後、羽織っていたマントを脱いだ。
「俺の普段使いで失礼しますけどー」
背中を丸めて入ってきた彼がマントを私に着せかけ、フードを被らせる。肩の辺りで合わせ、金具で布を刺して留めた。普段使いとの言い分の割には体臭などは染み込んではおらず、香りの良い草を乾燥させたような匂いが、過敏になった神経を宥めるように鼻をくすぐる。
「話はー、ついてます。ただぁ、顔合せだけはお願いします。最悪、フードは取らなくても良いです。最低でも一角の上客として、扱う為に必要な手順らしいんでー」
「そういうものか」
「そーゆーもんらしーです」
口調の割には几帳面な手つきでマントの合わせなどを調整しつつ一通り確認して、ノールディンは一つ肯いた。
「んじゃー、行きましょうか。手ぇは要ります?」
「……いや。歩く分にはどうにかなるだろう。これを降りる時は貸してくれ。階段はあるか?」
「顔合わせまでは、精々建物の入り口で数段あるくらいですねぇ。その後はー、確信はありませんけど建物の構造的に、あっても不思議じゃないかなぁ。客を迎える階層は二階で、これから行くとこは一階と二階の狭間らしーんで」
「そうか」
マントから漂ってくる爽やかさのためか、会話をしているためか、少しだけ身体の疼きは楽だ。立ち上がって移動するにはやや手狭な馬車の空間をするりと抜いて、昇降台に片足をかけたノールディンが片手をこちらに差し伸べてくる。そこへ特に考えずに自分の手を乗せて――滑った。遅まきに気付く。汗でじっとりと全身が湿っていた。
「帰りに合わせて、着替えが必要ですねー」
無意識の内に逃げを打っていた私の手を掴んで引き留め、握りこむ。その掌がやけに熱く感じられるのは、私の末端の体温が下がっているせいだろう。今は少し楽といえ、疼きは今も変わらず内側で、燃え上がるのを焦れながら待ちかねている。
奥歯を噛みしめ、私は手を引かれるまま馬車を降りた。
降りると同時に流れるように、私の手を握りこんでいた掌が離れていく。そんな僅かな間で気付くほど、その館の存在は圧倒的だった。夜闇の中でも一つの光の塊の如く煌々と存在を謳う、視界を覆い尽くしてくる絢爛さ。規模は王宮とは比較にもならない。しかし、その煌びやかさに感じたのは、紛れもない矜持だった。自らに恥じる所は無いと胸を張る誇り高さは、あるいは王宮には無いものであるかもしれない。
ノールディンが腰に佩いていた剣を預け、馬車の番と警戒のため場に残った二人――リデルと、どうも先ほどの医師の所で入れ替わったらしいもう一人は、ノールディンのかつての両腕の片割れ。今は彼の元から離れ王都で一隊を率いているが、こちらが何か言う前に、好きでしているので気にしないで欲しい、といった旨を言われてしまった。サダルスードはどれほどの人間に対して、認識阻害が緩むようにしているのか。――に見送られ、普段の倍ほどの時間をかけて辿り着いた、暗地の木材で落ち着いた意匠の扉の前に敷かれた階段下で、男が一人待っていた。
「お待ちしておりました」
よく張られた弓弦を震わせるような、しなやかな印象の声だった。年のころは声と同じような肌の張りもあって不明瞭だが、四十には届いているだろう。
仕立ての良い黒衣の上からでも分かる鍛えられた体躯で折り目正しく一礼し、きびきびとした動作で階段を上がる。階段の脇に掲げられた篝火を反射して、男の一方の肩だけに取りつけられた肩当から美しく弧を描いて吊り下がる二連の銀鎖が夜闇に煌めく。ノールディンの二の腕を掴んで、私もどうにか階段を上がりきった。
私達が階段の一番上まで辿り着くまで待っていた男が、白い手袋で覆われた右手の中指にはめられた指輪を扉の前で何やらひらめかせる。かちり、と扉から小さく音がした。
そのまま扉を開けた男に促されて、敷居を跨ぐ。外観とは裏腹に、屋内は抑えた照明が等間隔に点々としていた。
勝手知ったるとばかりにゆるりと先導し、歩き出したノールディンの後を踏みしめながら追う。背後で扉を閉める気配と共に、また、かちり、と音がした。
三人分の足音、そして衣擦れの音がいやに耳につく。宥めてもまたすぐに鎌首をもたげてくる神経に、音を立てないよう注意を払いながら嘆息した。
廊下を歩いている時間は、そこまででも無かったが、息が少し上がっている。感覚的に、やや坂な造りになっているようだった。
つき当りの一際大きな扉の前でノールディンが足を止め、私達の横を後ろから控えて着いてきていた男が、気配も薄く通り抜けていく。ゆっくりと三回、扉が叩かれる。併せて、きららかな鈴のような音も三度響いた。
ややして、内から扉が開く。厳格そうな雰囲気を漂わせた年かさの女性が、こちらを見て一礼した。
行儀正しくこちらに下げられたまとめ髪は一筋の乱れもなく、再びこちらに向けられた顔は年を上手く重ねた者の趣を、丹念な化粧で彩っている。滲ませたインクのようにやや淡い黒を基調にまとめた装いの中で、胸元に飾られている銀台に緑色の石をあしらった飾りが鮮烈な印象であった。身体の前で品よく組まれている手の左親指にはまった、一般的な体格の女性が身に着けるにしては大振りな指輪に僅か目を止めたところで、主人が待ちかねておりました、と少しだけ掠れているが水のようにさらりと通ってくる声が告げる。脇に避けられて、招き入れられた。
室内は、ランタンの精緻な透かし彫りの向こうから零れる光で、どこか幻想的に調度を浮かび上がらせていた。浮かび上がる最たるものが、一人の男だった。
まとめる必要もないほど短い、ゆるく波打った黒い髪。丁寧に煮詰めた飴のような肌。絶世の美貌、という風情では無かったが、猛禽を思わせる目許の下で柔らかく弧を描く口許を基調とした面立ちは、不均衡さを感じさせず、むしろそれさえ魅力としているようだった。首元をゆるりと取り巻く襟のある白い短衣と揃いの履き物の上から、仄かに黄色を帯びた柔らかな色合いの青い薄布を、帯も使わず巻きつけ体格をやんわりと覆う様式は、はて、どこの地域のものだったか。
こちらにゆっくりと向き直った男が、静かに一礼する。飾りを幾つか通したその手が金属のすれ合う音と共にゆるやかにひらめくと、背後で静かに扉の閉じるのが感ぜられた。
「ルクレンティスへようこそお出で下さいました」
やや高い声は、それでいてどこか凄みを伴っている。年のころは、自分と同じくらいか、少し上か。その年ごろで一つの集団の頂点に上り詰めた者の、一種の気迫であった。
男が、少しだけ目を細める。緑色のその瞳に、ふと玉座に就いた異母弟(おとうと)の眼差しがよぎる。鮮やかな冴えで煌めくあの瞳とは呼び方は同じ緑色でもまるで違う、とろりとした風合いであったが、そこに宿る光は少しだけ似ていた。
何か切り出そうとしたノールディンを制し、前に出る。少しだけ躊躇ってから、フードを一思いに脱いだ。
「世話になる」
思っていたよりは平静な声が出た。表情はさておき。この男に対しては生半可な言動では通じないと感じたからこそ、それなりに素を晒す気になった。
目の前の男はゆっくりと二度三度瞬きをして、また頭を下げる。その礼は、先ほどよりも明らかに深かった。
無意識の内に、首の輪を弄っていた。魔術に精通しているわけではないが、自らに常に纏わりつく力の気配には澱みはない。術は、恙なく機能している。サダルスードがこの男に対して、認識阻害を緩めているとも思えない。ならば。
横に佇むノールディンも、僅かに気を張り詰めたのが分かる。それに気付いていないわけでもないであろうに、男の態度は変わらなかった。
「ご来訪は不定期だと伺っております。となりますと、ご希望の娼妓を常に、という訳にはまいりませんので、その点はご容赦くださいますようお願いいたします」
「あぁ」
「本日は僭越ながら、こちらで相手を吟味させて頂きました。合わないようであればまたお教えください。ただ、同性を抱く手際を心得ている娼妓は限られておりますので、そこから選んでいただく事になりますが」
「分かった。……今宵の相手は、既に部屋で待っているのか?」
「いえ。自室にて控えさせております」
「では、今日は先に体を洗っておきたい。可能か?」
「湯殿の用意がございます個室を準備させて頂いております。ご自由にお使いください」
「そうか。なら、そうさな、私が入室してから半時ほど後に寄越してくれ」
「畏まりました」
不躾にならない程度に室内を一瞥して一つの扉を確認し、高さの目算を立てる。傍らのノールディンを眺めやった。
「ここで良い。お前はいったん下がれ」
「……はい」
一瞬もの言いたげな顔はしたが、行儀よく答えた彼が退室していくのを視界の端で見とめながら、私は再びフードを被る。
「では、案内を頼む」
「はい」
そうして先に立った男が、卓の上から眼鏡を取り上げてかける。華奢な銀色の蔓に支えられたやや幅広の楕円形のガラスは灰色に煙っており、その表情をどこか曖昧なものにした。
「失礼。少し、目が弱いものですから」
「そうか」
正直な話。少しだけ安堵した。目の色として緑は決して珍しい色合いでは無いが、アストロードとどこか趣の似ているその眼差しで見据えられるのは、なんとなし気まずかった。
先ほど目をつけた扉を男が示し、手ずから開ける。今いる部屋より少し明るい照明が灯されている其処に鎮座する七、八段ほどの階段に、分かってはいたが、とマントの下で下腹部を抑えた。宥めるように撫でる。
「こちらで目を慣らされていくとよろしいでしょう。この先はまた明るくなりますので」
「そうしよう」
せいぜい勿体ぶって見えるよう、ことさらゆっくりと階段を上がる。踏みしめる階段に敷かれた絨毯は、多少乱暴に歩いても音を吸い込みそうなほどに柔らかく、それでいて足が埋まりすぎない程度には弾力があった。知らぬ顔をして、自分の少し先で合わせてゆっくりと階段を上っていく背中の、その自然さに内心で舌を巻く。相手をよく認識している。前身は恐らく、彼も娼妓だろう、さぞ人気であっただろうとちらりと考え、下世話な話だとそっと思考をそこで押し止めた。
前後して階段を上りきり、扉を見上げる。艶やかに磨き上げられた木地に、大輪の花々へ集う蝶の浮彫り。自分は花か、蝶か。はたまたそれ以外か。愚にもつかないことを刹那考える。
扉の向こうからは、男女問わない数多の声が漏れ聞こえてきていた。
「開けてもよろしいでしょうか?」
「構わない」
私が答えると、男は腕にはめた飾りの中の一つを外し、その彫刻の隙間から鍵の形を引き出す。そしてそれを、鍵穴に無造作に押し込む。かちり、と音がした。
扉のほど近くで、はっ、と息を呑む気配が感じられ、それが扉の向こうの空間にさざ波のように広がっていくのが分かる。上客としての扱いの意味を、それでどうとなく察した。
鍵を元に戻し、何食わぬ顔で飾りを腕に通した男の前で、扉が音らしい音もなく開いていく。途端に燦然と差し込んでくる光に、フードの下で思わず目を細めた。
「こちらへ」
招かれて、広間へと踏み出す。男女入り乱れる人波が、割れるように引いていった。扉を開けたと思しき黒衣の男が二人、護衛のように付き従ってくる。
「入室されましたら、扉には鍵を。それで室外からの音は原則遮断されます。外に居る者にも適用されます」
彼は広間を横切りながら、一定の距離を保っていた先ほどまでが嘘のように私の横に立ち、歩きながらそっと耳打ちした。
「原則か」
「娼妓を守るための最低限の例外でございますよ」
同じように声を潜めて答えた私に、彼が小さく笑う。
「……口が軽いのではないか」
「貴方様方、ですから。やむを得ない困窮でこのような場所に売り飛ばされ、流れ着く子供の数が減ってきている事を、手前は本当に喜ばしく思っているのです」
疑念が確信に変わる。そんな私のマントを軽く引いて足を止めさせる。
「あの方は、知らぬ存ぜぬ振りを通せと申しておられました。……それを知って破ったのは、手前の一存です。処分を下されますなら、どうか我が身のみで」
そうして一歩二歩と後ずさって、男はまた一礼した。覚悟を定めた者の、迷いの無さだった。
「では、ごゆるりとお過ごしくださいますよう」
打って変わり朗と声を上げたと思えば、男は黒衣の一方を引き連れて元の扉へ戻っていく。残ったもう一方が、周囲の目線から私を隠すように立ち、いつの間にか開かれていた部屋を寡黙に示した。私が入室すると、静かに扉が閉められる。忘れない内に鍵をかけ、扉にもたれかかりながら私は深く息を漏らす。広間からの喧噪は、確かに鍵をかけた時点で聞こえなくなっていた。
気を取り直し、扉の脇に設置されていた靴箱を開け、数足用意されている大輪の花の刺繍が美しい、ゆったりとした布製の室内履きを見下ろす。それには手を付けないまま、わざと靴をそのまま脱ぎ散らして上がる。
湯殿に併設された厠で用を足してから、自らの肌から剥ぎ取るように服を脱ぎ捨て立ち入った浴室は、滑らかな乳白色の石が隙間なく畳まれ、面積はそこまででもなかったが、室内が上に広がる開放的な印象の空間だった。
中央にゆるやかに数段下って埋められるように設けられた、一般的な体格ならば二人は楽に浸かれるであろう石造りの浴槽。そんな空間を、筒から浴槽へ止め処なく溢れだす湯から立ち上る湯気の白が染め上げていた。流れ込む湯の勢いの割に周囲の床が濡れていないのは、浴槽に穴でも開けられて湯が排出されているのだろう。贅沢な限りだった。
部屋の隅に誂えられていた台に歩み寄れば、容器に収められた石鹸と口の狭い壷、立てかけるように木製の湯桶が置かれていた。壷の中身を確認してみれば、とろりとした質感。香油らしい。蠱惑的な香りをかいだ瞬間、湯気が充満して寒気など無いはずなのに、ぞわりと背筋を這い上がる悪寒を覚えた。
壷を鼻先から引き離す。心の臓が、嫌な音を立てて脈打っているのが分かる。
魔鉱石の算出するフォティアヴィエオ山脈。そこでのみ自生するリソルサという名の、角度を変えると微妙に色合いを変えていく紫色をした花。それから取られた香油の匂いが混じっている。……父王によって体を拓かれていた日々には、リソルサの香油が常に着いて回っていた。その希少さゆえに魔鉱石ほど厳格では無いがこの百年ほどは流通に規制がかかり、生のまま用いることは王族にしか許されなくなっている、天然の強壮薬たる花の――近年は専ら、催淫の方向だが。
アストロードの下で国政に携わる事に頷いて以降は、自らに課した、宰相であるヴァルテールと遠縁な地方貴族の四男坊で元聖職者、という「素性」に見合った装いになり、リソルサも縁遠いものとなっていた。置いた距離と時間が、却って忌避感を強めたのかもしれない。
かといって、解さないわけにもいかないだろう。石鹸だけでも用は足りるが、香油も用いた方が経験上、挿入は楽になる。今夜の相手にとっては解して慣らすことなど些事かもしれないが、これはどちらかと言えば自分の側の問題だった。
壷を取り落さないよう握り直し、もう一方の手で桶の中に石鹸を容器ごと入れて取っ手を掴む。浴槽に歩み寄り――段差は跨ぐのと大差ない緩やかさだった――、腰を下ろす。石鹸と壷を縁に置いてから湯をくみ上げ、頭から被った。続けて二度、三度。濡れそぼった髪をぞんざいに絞り、色が落ちていない事を確かめる。この際、浴槽に湯が流れ込むことはなく、滑らかに背後へと流れていった。知覚できない程度の傾斜でもあるらしい。目に見えないところにまで計算の行き届いた、やはり贅沢な造りだと改めて認識する。
また湯をくんで、石鹸に手を伸ばした。
たっぷりと濡らした手で石鹸を泡立て、指の間にまで泡を纏わせる。そして菊座に、小指から埋めていく。中の具合を確かめながら一本一本指を増やし、泡を指の届く範囲にある程度広げる。本腰を入れた下準備は出立前に済ませていたから、ここは適当だ。抜いた手指を桶の中で洗い、中身を捨てる。また湯船から桶にくみ、香油の壷を掴んだ。
内側をざっとすすいでから、手のひらに香油を垂らす。敢えて何も考えないように務めながらやや冷たかった香油を温める。立ち上ってくる香りに眩暈を起こしそうになりながら一度足し、たっぷりと濡れた指を今度は人差し指、次は中指と挿し入れる。快感を拾う必要はないと意図して事務的に動かしても、ともすれば揺れそうになる腰を堪え、解す。
やがて大方馴染んだと判断して引き抜いた手を先ほどより執拗に洗って、湯を捨てる。なみなみと湯を汲んだ桶の中、もう一度手を泳がせてから、慣らしている間に足の間に飛び散った香油を落とす。あらかた流れたところで止め、全身も大まかに洗ってしまう。最後にまた頭から湯を被ってから、壷と石鹸と桶を元の位置に戻した。
浴室を出て脱衣所に上がり、初めから用意されていた布で体を拭き、同じように並べるように置かれていたローブ状の白い寝着に袖を通す。同色の帯を結んで備えつけの鏡を覗き、ありふれた焦げ茶色に染めた髪と眉に違和感が無いことを確認し、ようやく湯殿を後にして一息ついたところで、まるで図っていたかのように鈴の音が響く。
また無意識の内に首の飾りを触りつつ、音のした方を眺めやってみれば、先ほど入ってきた扉である。少し目を凝らしてみれば、上部の方に金色の鈴が二つほど、突き出した棒の先に吊り下がっているのが見て取れた。先ほど閉めた時は開閉以外音は無かったので、何らかの仕掛けが施されているのだろう。
そっと足を出す。素肌を晒した足裏に、絨毯の毛先が触れて少しくすぐったい。適当に選んだ室内履きを足に引っ掛けている間に、鈴がまた鳴った。
鍵を開け、少しだけ扉を開いて自分は数歩後ろに下がる。やや間をおいて、向こうからまた広げられた隙間から、男が一人、滑りこむように入ってきた。
「お前が、今夜の私の相手かい?」
口にした後で、口調の変え方が甘かったことに気付く。全体に穏やかすぎる。もう少し、物言いも声の調子も居丈高にする予定だったのだ。一線を引くつもりで。わざと靴を雑に脱いだ意味が、これでは無い。……相手が入ってくるのをわざわざ待っている時点で、片手落ちなことも分かってはいるのだが。一度そうしてしまった以上、それで通すことに決める。
「はい、旦那さま」
言葉少なに答えた相手は、雪を固めたような肌をしていた。青白くさえ見えるその面は、それでいて不健康な印象は無く、内から自ずと溢れ返るような生気で輝いてすらいるようだった。
肌の印象が似ているな、と動揺した思考を、北方の民の特徴だ、と捻じ伏せる。
手繰りかけた面影を沈め、身を翻す。
「言葉遊びをする気分ではない。おいで」
「はい」
寝台へと向かいながら、鍵が再び掛かる音。靴を脱いで上がってくる気配を背中で聞いた。
赤い生地の薄布が垂れ下がる天蓋付きの寝台に腰掛け、怠惰な指使いで男娼に天蓋を下すよう告げる。従順に従う彼を尻目に、枕元でちろちろと揺らめくランプの明かりを吹き消した。
天井から吊り下がるランタンの灯りが、布を透かして辛うじて射してくる薄暗がりの中、躊躇いがちに様子を窺ってくるその、青灰色の瞳がやけにはっきりと見える。
「早く」
苛ついて見えるようやや強めに掛布を叩けば、その姿は存外すんなりとした動きで寝台へ上がってきて、傍らに控えた。
「お召し物を、解いて構いませんか」
「良い。ただ、首はあまり触るなよ」
「それでは」
男がまず、自らの装いに手を掛ける。薄暗がりの中でも分かる、大輪の花が鮮やかに惜しげもなく縫い取られた帯を解き、帯の華やかさとは対照的な、禁欲的に肌を隠す裾も袖も長い黒衣をはだけさせる。そこから現れた胸板は、何らかの武芸を修めているのか、程よく鍛えられて健康的に締まっていた。
「失礼いたします」
伸びた指先が、私が纏った寝着の帯を解く。そのまま撫でるように開いていく手際は、いっそ優雅なほどだ。
小さく感嘆の吐息が聞こえる。
「よく鍛えておられますね」
「それなりにな」
うっすらと混じった羨望は、本音だと思った。体を鍛えるようになった切っ掛けは決して好ましい心情からでは無かったが、腕を引いて導き、共に琢磨し、最終的には大幅に抜かれた相手がきっと、互いに良い影響を及ぼし、それが今に至っている。肖像画一つ残っていない母の面影は今や、完全に思い出す事は出来ず。それと同様に、あるいは、自らの顔である程度補完が利く母よりもっと早く、思い出せなくなる可能性がある彼が遺したよすがも、慈しんでいたかった。
添えられた手の動きに抗わず寝台に身を沈める。首筋でまとめられていた相手の髪が肩に半ば引っ掛かりながら落ちかかってきて、視界を煙らせる。淡い金色が、薄布越しのカンテラのおぼつかない光を弾き、少しばかり色を濃くして見える。少しばかり長いが、まるで亜麻色の……。
未練がましい。目を伏せた。
「始めます」
「あぁ」
一旦上から退く気配があって、磁器のすれ合う音が高く小さく聞こえる。そこに粘性のある音が混じり、取って代わる。そこまでは平静であったと思う。ある匂いが鼻を衝くまでは。
浴室でも嗅いだ、リソルサの匂い。思わず見開いた目に映る、こちらに圧し掛かっている黒みがかった影。顔が、見えない。急速に干あがり、縮み上がった口内。その奥から、制御できない引きつった悲鳴じみた呼気が押し出される。
「旦那さま?」
異変に気付いた相手が覗き込んでくる。こちらを気遣っているだけだと冷静な何処かは呟くのに、身体はいよいよ強張っていく。
手が伸ばされてくる。怖い。強張っていたはずの手が翻って、差し出されていた腕を弾き飛ばしていた。途端、冷水を浴びせられたように理性が戻ってくる。弾き飛ばした時の手付きが、短剣を握った時のそれだと気付いて、堪らず掌に爪を立てる。父王から母へ送られたという護身用の、刀身にまで細工を施された華奢な懐剣。形見の一つとしてあの部屋に、手入れも欠かされず二十年安置されていたもの。――父王の命を絶ち、今は共にひっそりと葬られているもの。
呼吸が、中々定まらない。夜着をかきよせ、男娼から顔を逸らす。
「……見苦しい姿を見せた。すまない、下がって良い。その腕、じき腫れてくるぞ」
期待した後ろの孔は既に雄を欲して疼いてやまなかったが、それへの対応を彼に強いる気にはとてもなれなかった。先ほどの件の非は完全に自分にあったし、力加減など出来なかった以上、相手が鍛えているといっても間違いなく打ったその場所は腫れてくる。ならばせめて、すぐに処置が出来るように図った方が良いという判断だった。
「承りました」
どれほどの時間であったのか。ややして静かな声が沈黙を破り、天蓋の幕が開かれる。直接射しこんでくる灯りで、寝台の上がやや明るくなった。
装束を整える気配の後、そっと離れていく足音。少し遠く、鈴の音を聞いた。
静まり返った室内。鍵をかけ直すのも億劫だった。腕を伸ばし、掛布をめくり上げる。生じた隙間から潜り込んで、欲情を煽るような赤い生地の割には清潔な感触の布団の中で身を丸める。指を下半身に滑らせ、菊座をぐるりとなぞってから埋める。香油が残る内部で、先ほどとは打って変わって指を時に激しく、時に執拗にじりじりと動かす。内部を一通り撫でまわして体の調子がある程度「上がって」きたと自認したところで、探し当てるまでもなく場所を知っているしこりをなぞる。押し込む。撫でまわす。
早めに一度達してから誤魔化すための性具を探すことにして、勃ち上がり始めている自身に手を伸ばしかけたところで、鈴が鳴った。ノールディンだろうか。
唇を噛んで漏れ始めていた嬌声を殺し、意識して全身を弛緩させる。深い呼吸を数度繰り返し、声の調子を確認する。
「開いている」
声の調子自体は通常に近いものだったが、大きさが少し小さかったかもしれない。危惧したが、扉が開く音に杞憂だったと息を漏らす。さすがに他者が入ってきて続ける気にはならず、かといって起き上がる気にもなれず寝返りを打って、目を疑った。
こちらに近付いてくるのは、先ほど出ていったはずの男娼であった。
「代金か? いや、手付けか? それなら心配せずとも」
「いいえ」
遮るように上がった声は、変わらず静かだった。
「お一人にしておくのが、手前勝手ながら躊躇われましたので」
片袖をまくり上げ、包帯らしいものが巻かれた腕を見せる。
「処置はしてもらいました。それにこの娼館は、売りものに対して決して冷酷では無い。どんな娼妓でも、ある程度傷が癒えるまでは、あるいは都合がつかない場合は、きちんと休養が取れるのですから」
こちらを見ている青灰色の瞳は、穏やかに凪いでいる。それなりに肥えている見る目が、そこや彼の帯びる空気に怒りやそれに類した感情を拾い上げることは無かった。少なくとも、表面には全く出ていなかった。これがそっくり芝居であるというのなら、大した演者だ。
軽く奥歯を噛みながら菊門に埋めていた指を抜く。上気しているであろう肌はどうしようも無いが、誠意を感じさせる態度で向かい合ってくる相手に対して、自分も可能な限り誠実であろうと思ったのだ。
「非礼を承知でお尋ねしますが、御身が疼いて鎮まらないのでは?」
「そうだな」
だから此処へ来たのだと、吐息混じりに応じる。
「性欲はまだしも身が疼くのは、閨にてそうあるよう求められたから。しかし旦那さま。貴方様は、その中で何らかの恐怖を覚えたのではありませんか? 先ほど手前を拒まれた時に」
あれだけ顕著な反応をすればいかに鈍い者でも気付くであろうし、察しの良い者ならある程度類推も利くだろう。
「上にかかってくる影。後は、そこの香油だな。正しくは、配合されているものの中の一つ二つ」
「……本当は、暗い中で上からのしかかってくる、表情のよく分からない相手が恐ろしいのではありませんか?」
「目敏いな」
苦笑する。一人で暗い室内にいる分にはどうともないのだが、他の誰かと光りが無い、乏しい室内に居ると身構える、身が強張る症状が、「あの時期」を境にして出るようになっていった。天幕でランタンの灯りを遮るのは、本当は悪手であった。しかし、それとはまた別の羞恥がそうさせたのだ。結局は、自らの認識が甘かったとしか言えないが。
寝具の中から少し苦労して、後孔をほぐしていなかった方の腕を引き出す。よく見せるように横たえた。神経質なほどに剃毛された肌を。
「髪と眉以外の毛をな、剃るよう強要されていた。……解放されてもう随分になるのに、未だに抜けない」
これは嘘だった。髪と眉はどうとでもなるが、他の部位――特に陰毛部などは他の部位より肌が弱い事もあって、染めるには難があった。ほぼ確実に見られるであろう場所が、明らかに毛色が違えば疑念に通じかねない。ならば、完全に剃ってしまい、理由として適当な前提を匂わせようという、有り体に言ってしまえばそういう事だった。
果たして彼は、頷いた。
「確かに、剃られた部分をまじまじと眺められるのは、あまり良い気持ちはしませんね」
しみじみと実感の滲んだ口調だった。多少後ろめたい思いはあるが、恥ずかしいのは事実である。無言で肯定を返した。
「それでは、天幕は開いたままで。体位はいかがされますか?」
「……後ろから、だろうな」
獣のような体勢ではあるが、その方が却って気が楽なように思われた。
「承りました。布団の中へ入っても?」
「構わない」
持ち上げられた掛布の隙間から入り込んできた空気の冷たさに身を震わせるより早く、寄り添う柔らかさで触れてきた感覚に思わず強張った体の上を、布越しにゆっくりとさすられる。その穏やかさに、緊張が次第に解けていく。
やがて、見計らっていたように寝着の合わせ目から差し入れられた手が、穏やかさはそのまま、肌に触れた。
汗でじめついた肌の上を這う手のひらが、腹筋を撫で下ろして、股間に辿り着く。睾丸を柔く揉みこみながら陰茎を扱く手つきは、ああ、ひどく手馴れている。
「ッ、ぅ……ふっ」
「声を出しすぎるのは決して良くはありませんが、かといって殺しすぎるのも喉を痛めますよ」
冷静な声のまま、性器に施される愛撫が強くなった。隠されたまま施されているので正確には判断は難しかったが、手全体で可能な限り包み込まれながら、尿道口を中心に撫でられるように責められているように思われた。
「……っは、う、あ、あ、あァ、ん、」
一度堰を切ってしまえば、とめどなくこぼれ落ちていく己の声の浅ましさに耳を塞いでしまいたいのに、半端に絡まった寝着と震えて力の入らない四肢に動きは妨げられ、その場で寝具を辛うじて握りしめるのが精々といった体たらく。情けなさと与えられる刺激で、視界が滲んだ。
元々自慰の途中であった事もあって、容易く追い上げられていく。
「ひ……ぃ、あ、や、あ、ああぁ」
そうして、呆気なく達した。
じっとりと空気さえも纏わりついてくる布団の中、放心していたのは、あるいはいられたのは、ほんの一時だった。掛布の中で、肌に張りつくほどに湿った衣をたくし上げられる。臀部に触れ、自らの意思で窄めている後孔の周辺を彼の指がなぞった。
「……なるほど」
解していたのが知れたのだと、直感で察した。外気に触れて僅かに冷まされていた肌が、羞恥でまた熱を帯びていくのが分かる。そのつもりで解していたのは自分だろうに、と唇だけで自嘲を刻む。
「腰を、少し上げて頂けますか?」
言われた通り腰を浮かせば、その隙間に寝台の上で所在なさげであった枕が二つ差し込まれる。
「中を、検めさせて頂きたく」
あくまで平静な声に、意地を張り続けることも馬鹿らしく。締めていた力を緩めた。
確認するように挿し入れられた指が、先ほどの自慰で大方流れたが僅かに残っていた香油をかき混ぜて音を立てる。
一通り確かめてから、指が抜かれた。
「少し足します」
衣擦れの音を背景に何かの蓋をねじって開ける小さな音が響き、そして孔に再び指が埋められた。粘膜に擦りつけられ、何か溶けていくのが分かる。軟膏の類だろうか。一本、二本と増えた指がばらばらと動いて、中が拡げられていく。
動きの一つ一つに腰が跳ね、ねだるように物欲しげな声と呼吸が入り混じる。
もう良いと、早く挿れてくれと頼んでも愚直なほどにその指は慣らし、解し尽くして。そうして、焦らしに焦らされた末に灼熱を打ち込まれた後のことは、あまりはっきりとは覚えていない。
*
意識が明瞭に戻ってきた時、まず感じたのは清潔に乾いた手触りの寝具だった。肌の感覚もさらりとしていて、意識が朦朧としていた間に可能な限りの始末もつけられていたのだと分かる。髪にだけは布が添えられ、それが湿っているのは分かったが、汗や他の体液による不快な湿り気では無かった。そっと身を起こし、まだ少し水気の残る髪の毛先を摘まんで確かめていると、寝台の傍らに近づく気配があった。
「随分と至れり尽くせりだな」
「この部屋……ピアニィの間と申しますが、ここに初見で通された方は、当館に於いて、最上級の旦那さまですから。――お水になさいますか? お酒にされますか?」
「水を」
「はい」
枕元に用意されていた二つの水差しの内の一つを取り上げ、少し注いだ中身を飲んで見せてから、口を付けた部分を中心に縁全体を布で拭われ、改めてなみなみと注がれて差し出された盃を受け取る。毒見役か、と内心得心しながら口許に寄せ、匂いを嗅ぐ。特に妙な所は無い。一口含み、口の中で転がすように確かめる。少なくとも、即効で効いてくる毒や薬の類は入っていない。よく冷えている一方で口当たりはまろやかな、ただの水だった。
「良い水だ」
「ありがとうございます」
一礼した彼は完全に身繕いを終えていて、髪の一筋にさえ乱れは見受けられない。
「脱衣の間の方に、新しいお召し物のご用意があります。……支度をお手伝いいたしましょうか?」
「いや、良い」
窓の方を見やる。遠目にも分かる薄さで仕立てられた紗幕の向こうは、まだ明らかに暗かった。無意識の内に、安堵の息が漏れる。
ゆっくりと水を干してからもう一杯を促し、盃を戻す。代金は店側に払うが、手付けは確か本人に直接渡すのだった、と思い出し、裾を整えながら寝台から降りる。下半身に鈍く違和感はあるが、動くには支障のない程度だと判断を下す。
「少し待て」
「はい」
揃えて置かれていた室内履きに足を通す気にはなれず、そのまま浴室へと向かった。
脱衣所に入れば、すぐに分かるよう出されていた藤籠の中に、先ほど脱ぎ捨てた物と大差ない着衣が一揃い入っている。
一番上に置かれていた袋を手に取り、封をしている結び目が隠密達が用いる物の内の一つである事を見とめてから、解く。中に入っていたのは、指先で摘まめる程度の輝石が三つ。深い青、青緑、青紫のサファイア。ほぼ原石ではあるが、どれも見たところ最高位の品質だ。手のひらに出し、はてどうしたものか。少なすぎるのは論外だが、かといって多すぎるのも逆に良くないだろう。
そもそも、娼館における手付けや代金の相場は幾らなのか。思い返してみれば、あれよあれよとお膳立てされ今の状態に至っているので、そういった事は無知も同然だった。「坎の塔」に幽閉されている事になっている「自分」と施設の維持に割かれた予算と、「秘書官としての自分」の給金から天引きして予算は捻出するという話ではあったが、ルクレンティスは確か、この国では随一と謳われる娼館であったはずだ。そして今日自分に宛がわれた男娼は、明らかにその中でも高位の存在であろう。……足りるのだろうか。否、足りるように自らが務めれば良いのか。
嘆息と共に意識を切り替えて輝石を袋に戻し、適当に結ぶ。そうして、用意されていた着衣を手に取った。
身支度を済ませ、一晩買った男娼に結局は袋をそのまま渡して部屋を出れば、その先の広間は、入る前よりだいぶ光源は絞られていたが、それでも周囲を楽に見渡せる程度には明るい。人気はほとんど無くひっそりとした中、巡回をしていたらしい黒衣の男が一人、心得たように近付いてきて、促されるままについて行く。
先ほどとは異なる、見るからに正規のものだろうと一見で知れる、端と端に一つづつ設けられた天井近くまで高さのある絢爛な扉の一方に誘われ、見送られる。開け放たれている扉の先には、リデルが待っていた。
石段を下り、寄せられていた馬車へと近づけば中からノールディンが顔を出す。伸ばされた手に、心配性なことだ、と苦笑してから手を重ね、中へと上がった。それぞれに向かい合って席に落ち着けば、ややして馬車は夜の暗がりを走り始める。
道を走る車輪の僅かな振動の他は静まり返った車内の沈黙を破ったのは、ノールディンの方だった。
「如何でしたかねぇ?」
「良かったぞ。だが、高いのだろうな」
「まぁそりゃ。けど、ある程度こちら側が営業面で目こぼししてる所もあったりするんでぇ、正規よりも大分安くはなってますよー」
釘を刺された、と解った。料金の事は気にするな、と。無論、言っている事自体は真実だろう。しかし、それだけでは無いのだと。これはヴァルテールが相当動いているな、と政治の方面で長らく自らの片腕だった男の仏頂面を思い浮かべる。国政に関する事では妥協は許さないが、私事に関する方面ではどうにも甘い部分のある男である。
「……国政には影響を出さないようにお願いします」
「言っときまーす」
王の秘書官として、ため息混じりに妥協を遠回しに告げれば、いっそ無邪気なほどに悪びれの無い答え。それこそがこの男のたちの悪い部分であることは、とうに知っていた。
「着いたら起こせ」
「はーい」
本当の意味で眠れはしないだろうが、少しでも休めておかねばならないと目を閉ざす。
政に対して浮ついた思いで対せないのは、自らも同じだった。結果としては逃げて、本来ならば玉座からは遠く、生きていけるはずだった弟に全て押しつけた負い目も重ねて。殊更に。
いやに重たく感じられた“鎖”を一撫でして、意識して呼吸を深くする。
この国に、この国を負って立つ者に不要と断じられるまで。あるいは断じられても、自分は、この国を見捨てられはしない。
これは郷愁では無い。贖罪でもない。妄執だ。何の事は無い。感情の向かう先が異なるだけで、父王と同じなのだ。自分は。自分も。
その事実に罪悪や嫌悪を抱く時期は過ぎて久しい。それなのに。
何故、痛むのか。
閉ざした瞼に籠った力を御しかねて、指先で強引に揉みほぐす。
ちりちりと瞬く面影を、そして、今度こそ振り落とした。
いつものように。
ここからが、今回よりの書き下ろしです(これまでは数年前に投稿済のものです)
これは番外であり、これまでの話の補足であり、集大成であり、もう一つの本編でもあります。ここからの話は、これまで以上に色々詰まってます。
今回、攻め二人以外との直接的な性描写が含まれています。
母の最期は、蝋燭が静かに燃え尽きるように儚いものだった。
彼女は、三度孕んだのだという。一度目は私。二度目は、長く苦しんで果てに産まれた弟は、息をしていなかったと。そうして、三度めが。母自身の命取りになった。
その身に宿していた弟か妹か、どちらかもまだ定かで無かった小さな命を事故――後に、不穏な噂が付き纏う状況であった事を知った。さらに先の未来で、真実も察した――で流した後、年端も行かなかった当時の自分の目から見ても明らかなほど急速に弱っていった母と共に王宮を出て、城下に住まうとある医師の診療所のほど近くに一時の――母にとっては終の――居を求めたのは、父王の采配によるものだった。
居を移してからの母は、少なくとも心境は穏やかであったのではないかと思う。こちらに向ける表情の一つ一つから、無駄な力は抜けていたように見えた。数日に一度は往診に来ていた医師や、忍んで何回か来ていた父王とその乳兄弟の魔法師に対しても、同様だったように感じられた。あるいは、その穏やかな凪が、却って弱っていく身体から抵抗する力を奪っていったのかも知れないが。
今の貴方を残していく事だけが心残りだと震えながら伸ばされた、病み衰えて細くなった手を握っている事しか私には出来なかった。その手から力が失われて、なおも握り続けた私を母から引き離した父王の乳兄弟で、あるいはもう一人の父といえるだろう存在の胸をやたらめったらに叩き続けた事を詫びる機会は、結局ついぞ無かった。立場上、大っぴらにとはいかなかったがそれ以外にも抱えきれないほど、惜しみなく愛してくれていた事への満足な感謝も伝えられないまま、彼は喪われた。
程なくして、顔を青ざめさせて駆けつけた父王に私を託した時の彼の表情も、私は永遠に知る由は無い。小刻みに震えていた事を全身で感じていた父王の面持ちも、知る機会は最早無い。
最後に触れた母の手は、すっかり冷たくなり、よそよそしいほどに強張っていた。
その喪失感が、一つの切っ掛けであったなど、始まりに過ぎなかったなど、当時の私には、知る由も無かったのだ――。
* * *
「若様」
静かな呼びかけに、千々に散っていた意識をかき集める。少しばかり苦労しながら瞼を押し上げれば、半分ほど中身が残された茶器が視界に入る。
「また何か盛ったな」
「お疲れのようでしたから」
形ばかりの咎める言葉には、全く悪びれない答えが返ってくる。しかも、若様は何か入っている可能性を知りながら、それでも構えずに飲んで下さるので助かります。というおまけつきで。金を持っているならば王族であろうと遠慮会釈なく相場より多く請求し、且つ足を出さない度胸が垣間見えるとも言える。この一連の会話も隠密によって把握されており、事と次第によっては命を奪われる可能性を知っていてなお、この医師の態度は一貫していた。
新しく供された器に彼曰く「構えず」口を付け、爽やかな柑橘の酸味と蜂蜜で付けられた甘味に瞑目する。馴染んだ味だった。病床の母に薬湯後の口直し兼栄養補給の一助として、ついでのように私の分も用意されて寄越されていた頃から、多少は洗練されたかもしれないが、本質的には変わらない味だった。
意識して呼吸を深く一つ。普通の人間よりは鍛錬を積んでいる耳が、足早にこちらへと向かってくる足音を一人分と少し拾い上げる。いつもより少しだけ早く器を空にして、卓に戻す。ほぼ同時に、家屋の扉をしきりに叩く音が夜の帳の切れ目から流れてきた。そちらへと明らかに意識が向いた彼に、頷く。
「片付けはこちらでしておく。恐らく急患だろう? 私はこのままお暇しよう」
「……では」
一礼してかくしゃくとした足取りで彼が出ていく。あの背中はあんなにも小さかっただろうか、と取り留めなく考えながら椅子の背に軽くもたれ、瞼を下した。傍らに降り立った気配が器を持って行くのを感じるともなしに感じながら、まだ若いであろう女性の、子供の熱が下がらない、といった切実な感情の滲む声に耳を傾ける。
魔法も用いての医療は、使用する媒体に高価なものが含まれる場合が多く、得てして高額だ。この国で一般的な生活を営む民達の所得では、一時的なものはまだしも、継続させる事はほとんど無理に近い。故に、民の多くが頼るのは、魔法の心得を持たないか、あるいはほぼ使わない、医薬品を用いての医療を行う者達である。こちらも決して安価ばかりというわけでは無いが、まだ手が届きやすい。
この国、オモルフォは通した魔力を増幅して放出する性質を持った鉱石――魔鉱石の大きな鉱脈筋を複数有している事、副産物として他の鉱石、鉱物も潤沢な事。そして、明確に存在する四季の中、雪融けと共に山から平地へ押し寄せてくる濁流がもたらす肥沃な土による耕作により、大陸でも指折りで裕福な国家だ。
そして、裕福である事実は、そこで停滞する事を是とはしない。少なくとも私は、そう考えている。例えば、万民が最低限の医療を享受できる環境や、患者と医師双方への支援の整備。あるいは、勉学の機会の提供。俗に言う、持てる者と持たざる者の格差は国としての裕福さゆえに却って大きく、持てる者はよほどの悪手を犯さない限りは持てるまま、持たざる者は得てして持てる者に搾取され持たざるままだ。
それを打破する手段は第一に、際立って死亡率の高い乳幼児期の生存率を上げること。並行して、妊娠・出産前中後で疲弊し、傷ついている女性達の援助。母体に多大に負担を掛ける堕胎を少しでも減らすための助成、あるいはより効率的な避妊の手立ての模索。次いで、新しい世代を筆頭に教育を普及させること。無論、雇用を拡大する政策も欠かせない。
といっても現時点では、毎年のように春先氾濫する河川の流れがある程度緩やかになるよう、川の幅や深さを広げたり水門を建築させたり、鉱山を掘る以上は必然となる伐採に対してのこまめな植林及び定期的な手入れという、土木関連の提供が精々ではあるのだが。
制度をある程度本格的に運用出来る基盤を整え、走らせ始めてからまだ数年。しかも、一度途切れさせてしまった。成果が目に見えてくるのが何年先になるかも、机上の計算の段階だ。
しかしそれでも、現状、世襲が大多数を占める政治の場に彼らの席が相応に確立すれば、ひとまずの目標は達成という事になるだろう。
民が富まない国は、先細りしていくことが常だ。あるいは、その民の意向によって王権に否が突きつけられる日も来るかもしれない。口に上らせた事は無いが、それが時代の流れであるのなら、それはそれで良いと思っている。
眉間に、知らず籠っていた力を指で揉みほぐす。良くない思考の流れだ。停滞は望ましくないという思考の傍らで、過去に滞留している。
それではいけないと思ったからこそ、長らえた先で異母弟の国づくりを手伝うことに肯いたというのに。
傍らに立ち戻ってきた気配に気付かない振りで深く息を漏らし束の間、背凭れに身を埋めた。
「……我が君」
「あぁ、大丈夫だ。有難う」
少しだけ、躊躇うような呼びかけだった。服を掻き寄せる。疲労もあって、先ほどまでは意識して認識の外へ追いやれていた内側の疼きに奥歯を噛みしめ、蹴るように床へ立つ。
「行こうか、リデル」
「はい、我が君」
一礼した男――王家の抱える隠密集団の首領に先導されるように、ひっそりと待つ馬車へと戻った。
馬車の座席に身を沈め、きつく目を閉じる。ともすれば自ら服を暴いて慰めたくなる衝動を、手のひらに爪を立てて堪える。性具で一時は誤魔化せても、熱く猛るもので空を埋めて欲しいという欲求に逸る己の身の浅ましさが、恨めしくてならなかった。
父王に、母のものだった部屋で昼夜問わず乱され続けた一ヶ月余り。二十年近く、在りし日のままに整えられてきた場所を打ち崩しながらの、最後の日々。
それ以前がまるで児戯だったとでも言うかのように、拓かれ、馴らされ、躾けられ、仕込まれた。さすがに寄る年波には抗えなかったと見え、一度の交わりで父王が達するのは一度か二度。代わりに行為自体は執拗に、長く、果てたかと思えば再び昂らされ、かと思えば引き延ばされ、狂わされた。どうにか少しでも早く終わらせようとした奉仕を嘲笑うように返され、こちらは五度以上達せられるのが常で、最後は精魂尽き果てて半ば意識を飛ばす事が多かった。
そして、父王に抱かれる間と、排泄の時以外はほぼずっと後孔に埋められていた、魔力を吸い上げて、仕込まれた香油を滲ませながら内で蠢き、震え、抉り、擦り上げ、気の休まる時を与えなかった性具の数々。父王が部屋を出ている間に抜いた事が知られれば、苦痛さえ感じるほど長く、生殺しの悦楽を施された。
それまでは知らなかった、中で達する快楽を覚え込まされ、乱された感覚の御し方を掴むまで、散々振り回された。否、どうにか誤魔化し方を覚えた。――そう、たかが一ヶ月。しかしその間の日常だった有様は、私の中の何かを狂わせるには十分すぎた。そしてそれは、今も戻らない。
数ヶ月は、目も回るような忙しさであったから気付かない振りが出来た。それが一通り落ち着いて、自覚した飢え。しばらくは自分で宥めすかしてきたが、限界だった。自慰では足りない。奥に熱が、欲しい。
『クレス、クレスレイド。クー』
ひどく切羽詰まった表情で、それでも必死に慈しむよう触れてきた彼が脳裏に閃く。光を透かせば金色が混じって見えた亜麻色の髪をかき分け触れた肌の、北方の民特有の、青みさえ感じるほどに透き通った白さとは裏腹の熱。平時は涼しげな雪のようなそこが、身を合わせていると次第に上気して、華やかに色づいていく様も愛おしかった。乱れた髪の合間から覗いていた、時に劫火のように、時に熾火のように、あるいは氷の中に閉じられた焔のような、あの毅い眼差し。
あぁ、我が身のなんと正直な事か。いとも容易く彼と過ごした、決して多くは無い閨事の記憶をなぞって戦慄き、悶える。誰でも、で良いわけではない。彼が良い、と心は喚いて止まないのに、この身の疼きを止めてくれるのならば誰でも良い、と肉欲に狂い果てた獣性が吼えている。
その獣の性を持て余し結果、今夜よりの娼館通いに舵を切らせた事実を、我が事ながらいっそ嗤ってしまいたかった。
手放したのは自分だ。それが彼にとって一番安全に近い事を認識して、彼の祖国、あるいは祖国だった国の上層部がそうなればと願っていた事も解っていて、手を離した。
その選択に、後悔は無い。特に当時は、父王を弑して自らも自害するつもりでさえあったから。根底にあるのがただの我が儘と知っていても、彼の死に顔なぞ想像したくも無かった。
結果的にのうのうと生き延びて現在があるものの、あの選択が誤りだったとは思っていない。事実彼は、帰国して僅か一年たらずでこちらの耳目にも届くほど、かつての祖国で辣腕を振るっている。些か早急に思える領土拡張である事だけは、少しばかり気がかりではあるのだが。
本能を捻じ曲げ、思考の矛先をすり替える。一度湧いてしまった情欲は時間の経過では消せないが、堰を切った先の淫らさは、誰よりも自分自身が知っていた。不本意とはいえ長い付き合いになりそうな存在だ。生理現象の範囲内であれば宥め方や誤魔化し方は、それなりに身に着けていた。
ひどく熱を帯びている息を務めて意識しないよう気を払いながら呼吸を深くし、いつの間にか肘掛にもたれかかっていた上半身をどうにか起こす。
そうする中、少しづつではあるが確実に速度が落ちていき、そこまで大きな揺れもなく馬車は止まった。御者台から降りてくる気配二つ、と、こちらに向かって歩いてくる気配一つ。ややして、出入り口が開け放たれる。
顔を覗かせたのはノールディン。彼には通常の任務の傍ら、私が赴く娼館の選定と交渉も頼んであった。私の顔、あるいは姿を見て、あー、と呻く。どれほど見苦しい様を晒しているのかと、口許が引きつる。
ノールディンは頭を掻き回し、少し思案する様子の後、羽織っていたマントを脱いだ。
「俺の普段使いで失礼しますけどー」
背中を丸めて入ってきた彼がマントを私に着せかけ、フードを被らせる。肩の辺りで合わせ、金具で布を刺して留めた。普段使いとの言い分の割には体臭などは染み込んではおらず、香りの良い草を乾燥させたような匂いが、過敏になった神経を宥めるように鼻をくすぐる。
「話はー、ついてます。ただぁ、顔合せだけはお願いします。最悪、フードは取らなくても良いです。最低でも一角の上客として、扱う為に必要な手順らしいんでー」
「そういうものか」
「そーゆーもんらしーです」
口調の割には几帳面な手つきでマントの合わせなどを調整しつつ一通り確認して、ノールディンは一つ肯いた。
「んじゃー、行きましょうか。手ぇは要ります?」
「……いや。歩く分にはどうにかなるだろう。これを降りる時は貸してくれ。階段はあるか?」
「顔合わせまでは、精々建物の入り口で数段あるくらいですねぇ。その後はー、確信はありませんけど建物の構造的に、あっても不思議じゃないかなぁ。客を迎える階層は二階で、これから行くとこは一階と二階の狭間らしーんで」
「そうか」
マントから漂ってくる爽やかさのためか、会話をしているためか、少しだけ身体の疼きは楽だ。立ち上がって移動するにはやや手狭な馬車の空間をするりと抜いて、昇降台に片足をかけたノールディンが片手をこちらに差し伸べてくる。そこへ特に考えずに自分の手を乗せて――滑った。遅まきに気付く。汗でじっとりと全身が湿っていた。
「帰りに合わせて、着替えが必要ですねー」
無意識の内に逃げを打っていた私の手を掴んで引き留め、握りこむ。その掌がやけに熱く感じられるのは、私の末端の体温が下がっているせいだろう。今は少し楽といえ、疼きは今も変わらず内側で、燃え上がるのを焦れながら待ちかねている。
奥歯を噛みしめ、私は手を引かれるまま馬車を降りた。
降りると同時に流れるように、私の手を握りこんでいた掌が離れていく。そんな僅かな間で気付くほど、その館の存在は圧倒的だった。夜闇の中でも一つの光の塊の如く煌々と存在を謳う、視界を覆い尽くしてくる絢爛さ。規模は王宮とは比較にもならない。しかし、その煌びやかさに感じたのは、紛れもない矜持だった。自らに恥じる所は無いと胸を張る誇り高さは、あるいは王宮には無いものであるかもしれない。
ノールディンが腰に佩いていた剣を預け、馬車の番と警戒のため場に残った二人――リデルと、どうも先ほどの医師の所で入れ替わったらしいもう一人は、ノールディンのかつての両腕の片割れ。今は彼の元から離れ王都で一隊を率いているが、こちらが何か言う前に、好きでしているので気にしないで欲しい、といった旨を言われてしまった。サダルスードはどれほどの人間に対して、認識阻害が緩むようにしているのか。――に見送られ、普段の倍ほどの時間をかけて辿り着いた、暗地の木材で落ち着いた意匠の扉の前に敷かれた階段下で、男が一人待っていた。
「お待ちしておりました」
よく張られた弓弦を震わせるような、しなやかな印象の声だった。年のころは声と同じような肌の張りもあって不明瞭だが、四十には届いているだろう。
仕立ての良い黒衣の上からでも分かる鍛えられた体躯で折り目正しく一礼し、きびきびとした動作で階段を上がる。階段の脇に掲げられた篝火を反射して、男の一方の肩だけに取りつけられた肩当から美しく弧を描いて吊り下がる二連の銀鎖が夜闇に煌めく。ノールディンの二の腕を掴んで、私もどうにか階段を上がりきった。
私達が階段の一番上まで辿り着くまで待っていた男が、白い手袋で覆われた右手の中指にはめられた指輪を扉の前で何やらひらめかせる。かちり、と扉から小さく音がした。
そのまま扉を開けた男に促されて、敷居を跨ぐ。外観とは裏腹に、屋内は抑えた照明が等間隔に点々としていた。
勝手知ったるとばかりにゆるりと先導し、歩き出したノールディンの後を踏みしめながら追う。背後で扉を閉める気配と共に、また、かちり、と音がした。
三人分の足音、そして衣擦れの音がいやに耳につく。宥めてもまたすぐに鎌首をもたげてくる神経に、音を立てないよう注意を払いながら嘆息した。
廊下を歩いている時間は、そこまででも無かったが、息が少し上がっている。感覚的に、やや坂な造りになっているようだった。
つき当りの一際大きな扉の前でノールディンが足を止め、私達の横を後ろから控えて着いてきていた男が、気配も薄く通り抜けていく。ゆっくりと三回、扉が叩かれる。併せて、きららかな鈴のような音も三度響いた。
ややして、内から扉が開く。厳格そうな雰囲気を漂わせた年かさの女性が、こちらを見て一礼した。
行儀正しくこちらに下げられたまとめ髪は一筋の乱れもなく、再びこちらに向けられた顔は年を上手く重ねた者の趣を、丹念な化粧で彩っている。滲ませたインクのようにやや淡い黒を基調にまとめた装いの中で、胸元に飾られている銀台に緑色の石をあしらった飾りが鮮烈な印象であった。身体の前で品よく組まれている手の左親指にはまった、一般的な体格の女性が身に着けるにしては大振りな指輪に僅か目を止めたところで、主人が待ちかねておりました、と少しだけ掠れているが水のようにさらりと通ってくる声が告げる。脇に避けられて、招き入れられた。
室内は、ランタンの精緻な透かし彫りの向こうから零れる光で、どこか幻想的に調度を浮かび上がらせていた。浮かび上がる最たるものが、一人の男だった。
まとめる必要もないほど短い、ゆるく波打った黒い髪。丁寧に煮詰めた飴のような肌。絶世の美貌、という風情では無かったが、猛禽を思わせる目許の下で柔らかく弧を描く口許を基調とした面立ちは、不均衡さを感じさせず、むしろそれさえ魅力としているようだった。首元をゆるりと取り巻く襟のある白い短衣と揃いの履き物の上から、仄かに黄色を帯びた柔らかな色合いの青い薄布を、帯も使わず巻きつけ体格をやんわりと覆う様式は、はて、どこの地域のものだったか。
こちらにゆっくりと向き直った男が、静かに一礼する。飾りを幾つか通したその手が金属のすれ合う音と共にゆるやかにひらめくと、背後で静かに扉の閉じるのが感ぜられた。
「ルクレンティスへようこそお出で下さいました」
やや高い声は、それでいてどこか凄みを伴っている。年のころは、自分と同じくらいか、少し上か。その年ごろで一つの集団の頂点に上り詰めた者の、一種の気迫であった。
男が、少しだけ目を細める。緑色のその瞳に、ふと玉座に就いた異母弟(おとうと)の眼差しがよぎる。鮮やかな冴えで煌めくあの瞳とは呼び方は同じ緑色でもまるで違う、とろりとした風合いであったが、そこに宿る光は少しだけ似ていた。
何か切り出そうとしたノールディンを制し、前に出る。少しだけ躊躇ってから、フードを一思いに脱いだ。
「世話になる」
思っていたよりは平静な声が出た。表情はさておき。この男に対しては生半可な言動では通じないと感じたからこそ、それなりに素を晒す気になった。
目の前の男はゆっくりと二度三度瞬きをして、また頭を下げる。その礼は、先ほどよりも明らかに深かった。
無意識の内に、首の輪を弄っていた。魔術に精通しているわけではないが、自らに常に纏わりつく力の気配には澱みはない。術は、恙なく機能している。サダルスードがこの男に対して、認識阻害を緩めているとも思えない。ならば。
横に佇むノールディンも、僅かに気を張り詰めたのが分かる。それに気付いていないわけでもないであろうに、男の態度は変わらなかった。
「ご来訪は不定期だと伺っております。となりますと、ご希望の娼妓を常に、という訳にはまいりませんので、その点はご容赦くださいますようお願いいたします」
「あぁ」
「本日は僭越ながら、こちらで相手を吟味させて頂きました。合わないようであればまたお教えください。ただ、同性を抱く手際を心得ている娼妓は限られておりますので、そこから選んでいただく事になりますが」
「分かった。……今宵の相手は、既に部屋で待っているのか?」
「いえ。自室にて控えさせております」
「では、今日は先に体を洗っておきたい。可能か?」
「湯殿の用意がございます個室を準備させて頂いております。ご自由にお使いください」
「そうか。なら、そうさな、私が入室してから半時ほど後に寄越してくれ」
「畏まりました」
不躾にならない程度に室内を一瞥して一つの扉を確認し、高さの目算を立てる。傍らのノールディンを眺めやった。
「ここで良い。お前はいったん下がれ」
「……はい」
一瞬もの言いたげな顔はしたが、行儀よく答えた彼が退室していくのを視界の端で見とめながら、私は再びフードを被る。
「では、案内を頼む」
「はい」
そうして先に立った男が、卓の上から眼鏡を取り上げてかける。華奢な銀色の蔓に支えられたやや幅広の楕円形のガラスは灰色に煙っており、その表情をどこか曖昧なものにした。
「失礼。少し、目が弱いものですから」
「そうか」
正直な話。少しだけ安堵した。目の色として緑は決して珍しい色合いでは無いが、アストロードとどこか趣の似ているその眼差しで見据えられるのは、なんとなし気まずかった。
先ほど目をつけた扉を男が示し、手ずから開ける。今いる部屋より少し明るい照明が灯されている其処に鎮座する七、八段ほどの階段に、分かってはいたが、とマントの下で下腹部を抑えた。宥めるように撫でる。
「こちらで目を慣らされていくとよろしいでしょう。この先はまた明るくなりますので」
「そうしよう」
せいぜい勿体ぶって見えるよう、ことさらゆっくりと階段を上がる。踏みしめる階段に敷かれた絨毯は、多少乱暴に歩いても音を吸い込みそうなほどに柔らかく、それでいて足が埋まりすぎない程度には弾力があった。知らぬ顔をして、自分の少し先で合わせてゆっくりと階段を上っていく背中の、その自然さに内心で舌を巻く。相手をよく認識している。前身は恐らく、彼も娼妓だろう、さぞ人気であっただろうとちらりと考え、下世話な話だとそっと思考をそこで押し止めた。
前後して階段を上りきり、扉を見上げる。艶やかに磨き上げられた木地に、大輪の花々へ集う蝶の浮彫り。自分は花か、蝶か。はたまたそれ以外か。愚にもつかないことを刹那考える。
扉の向こうからは、男女問わない数多の声が漏れ聞こえてきていた。
「開けてもよろしいでしょうか?」
「構わない」
私が答えると、男は腕にはめた飾りの中の一つを外し、その彫刻の隙間から鍵の形を引き出す。そしてそれを、鍵穴に無造作に押し込む。かちり、と音がした。
扉のほど近くで、はっ、と息を呑む気配が感じられ、それが扉の向こうの空間にさざ波のように広がっていくのが分かる。上客としての扱いの意味を、それでどうとなく察した。
鍵を元に戻し、何食わぬ顔で飾りを腕に通した男の前で、扉が音らしい音もなく開いていく。途端に燦然と差し込んでくる光に、フードの下で思わず目を細めた。
「こちらへ」
招かれて、広間へと踏み出す。男女入り乱れる人波が、割れるように引いていった。扉を開けたと思しき黒衣の男が二人、護衛のように付き従ってくる。
「入室されましたら、扉には鍵を。それで室外からの音は原則遮断されます。外に居る者にも適用されます」
彼は広間を横切りながら、一定の距離を保っていた先ほどまでが嘘のように私の横に立ち、歩きながらそっと耳打ちした。
「原則か」
「娼妓を守るための最低限の例外でございますよ」
同じように声を潜めて答えた私に、彼が小さく笑う。
「……口が軽いのではないか」
「貴方様方、ですから。やむを得ない困窮でこのような場所に売り飛ばされ、流れ着く子供の数が減ってきている事を、手前は本当に喜ばしく思っているのです」
疑念が確信に変わる。そんな私のマントを軽く引いて足を止めさせる。
「あの方は、知らぬ存ぜぬ振りを通せと申しておられました。……それを知って破ったのは、手前の一存です。処分を下されますなら、どうか我が身のみで」
そうして一歩二歩と後ずさって、男はまた一礼した。覚悟を定めた者の、迷いの無さだった。
「では、ごゆるりとお過ごしくださいますよう」
打って変わり朗と声を上げたと思えば、男は黒衣の一方を引き連れて元の扉へ戻っていく。残ったもう一方が、周囲の目線から私を隠すように立ち、いつの間にか開かれていた部屋を寡黙に示した。私が入室すると、静かに扉が閉められる。忘れない内に鍵をかけ、扉にもたれかかりながら私は深く息を漏らす。広間からの喧噪は、確かに鍵をかけた時点で聞こえなくなっていた。
気を取り直し、扉の脇に設置されていた靴箱を開け、数足用意されている大輪の花の刺繍が美しい、ゆったりとした布製の室内履きを見下ろす。それには手を付けないまま、わざと靴をそのまま脱ぎ散らして上がる。
湯殿に併設された厠で用を足してから、自らの肌から剥ぎ取るように服を脱ぎ捨て立ち入った浴室は、滑らかな乳白色の石が隙間なく畳まれ、面積はそこまででもなかったが、室内が上に広がる開放的な印象の空間だった。
中央にゆるやかに数段下って埋められるように設けられた、一般的な体格ならば二人は楽に浸かれるであろう石造りの浴槽。そんな空間を、筒から浴槽へ止め処なく溢れだす湯から立ち上る湯気の白が染め上げていた。流れ込む湯の勢いの割に周囲の床が濡れていないのは、浴槽に穴でも開けられて湯が排出されているのだろう。贅沢な限りだった。
部屋の隅に誂えられていた台に歩み寄れば、容器に収められた石鹸と口の狭い壷、立てかけるように木製の湯桶が置かれていた。壷の中身を確認してみれば、とろりとした質感。香油らしい。蠱惑的な香りをかいだ瞬間、湯気が充満して寒気など無いはずなのに、ぞわりと背筋を這い上がる悪寒を覚えた。
壷を鼻先から引き離す。心の臓が、嫌な音を立てて脈打っているのが分かる。
魔鉱石の算出するフォティアヴィエオ山脈。そこでのみ自生するリソルサという名の、角度を変えると微妙に色合いを変えていく紫色をした花。それから取られた香油の匂いが混じっている。……父王によって体を拓かれていた日々には、リソルサの香油が常に着いて回っていた。その希少さゆえに魔鉱石ほど厳格では無いがこの百年ほどは流通に規制がかかり、生のまま用いることは王族にしか許されなくなっている、天然の強壮薬たる花の――近年は専ら、催淫の方向だが。
アストロードの下で国政に携わる事に頷いて以降は、自らに課した、宰相であるヴァルテールと遠縁な地方貴族の四男坊で元聖職者、という「素性」に見合った装いになり、リソルサも縁遠いものとなっていた。置いた距離と時間が、却って忌避感を強めたのかもしれない。
かといって、解さないわけにもいかないだろう。石鹸だけでも用は足りるが、香油も用いた方が経験上、挿入は楽になる。今夜の相手にとっては解して慣らすことなど些事かもしれないが、これはどちらかと言えば自分の側の問題だった。
壷を取り落さないよう握り直し、もう一方の手で桶の中に石鹸を容器ごと入れて取っ手を掴む。浴槽に歩み寄り――段差は跨ぐのと大差ない緩やかさだった――、腰を下ろす。石鹸と壷を縁に置いてから湯をくみ上げ、頭から被った。続けて二度、三度。濡れそぼった髪をぞんざいに絞り、色が落ちていない事を確かめる。この際、浴槽に湯が流れ込むことはなく、滑らかに背後へと流れていった。知覚できない程度の傾斜でもあるらしい。目に見えないところにまで計算の行き届いた、やはり贅沢な造りだと改めて認識する。
また湯をくんで、石鹸に手を伸ばした。
たっぷりと濡らした手で石鹸を泡立て、指の間にまで泡を纏わせる。そして菊座に、小指から埋めていく。中の具合を確かめながら一本一本指を増やし、泡を指の届く範囲にある程度広げる。本腰を入れた下準備は出立前に済ませていたから、ここは適当だ。抜いた手指を桶の中で洗い、中身を捨てる。また湯船から桶にくみ、香油の壷を掴んだ。
内側をざっとすすいでから、手のひらに香油を垂らす。敢えて何も考えないように務めながらやや冷たかった香油を温める。立ち上ってくる香りに眩暈を起こしそうになりながら一度足し、たっぷりと濡れた指を今度は人差し指、次は中指と挿し入れる。快感を拾う必要はないと意図して事務的に動かしても、ともすれば揺れそうになる腰を堪え、解す。
やがて大方馴染んだと判断して引き抜いた手を先ほどより執拗に洗って、湯を捨てる。なみなみと湯を汲んだ桶の中、もう一度手を泳がせてから、慣らしている間に足の間に飛び散った香油を落とす。あらかた流れたところで止め、全身も大まかに洗ってしまう。最後にまた頭から湯を被ってから、壷と石鹸と桶を元の位置に戻した。
浴室を出て脱衣所に上がり、初めから用意されていた布で体を拭き、同じように並べるように置かれていたローブ状の白い寝着に袖を通す。同色の帯を結んで備えつけの鏡を覗き、ありふれた焦げ茶色に染めた髪と眉に違和感が無いことを確認し、ようやく湯殿を後にして一息ついたところで、まるで図っていたかのように鈴の音が響く。
また無意識の内に首の飾りを触りつつ、音のした方を眺めやってみれば、先ほど入ってきた扉である。少し目を凝らしてみれば、上部の方に金色の鈴が二つほど、突き出した棒の先に吊り下がっているのが見て取れた。先ほど閉めた時は開閉以外音は無かったので、何らかの仕掛けが施されているのだろう。
そっと足を出す。素肌を晒した足裏に、絨毯の毛先が触れて少しくすぐったい。適当に選んだ室内履きを足に引っ掛けている間に、鈴がまた鳴った。
鍵を開け、少しだけ扉を開いて自分は数歩後ろに下がる。やや間をおいて、向こうからまた広げられた隙間から、男が一人、滑りこむように入ってきた。
「お前が、今夜の私の相手かい?」
口にした後で、口調の変え方が甘かったことに気付く。全体に穏やかすぎる。もう少し、物言いも声の調子も居丈高にする予定だったのだ。一線を引くつもりで。わざと靴を雑に脱いだ意味が、これでは無い。……相手が入ってくるのをわざわざ待っている時点で、片手落ちなことも分かってはいるのだが。一度そうしてしまった以上、それで通すことに決める。
「はい、旦那さま」
言葉少なに答えた相手は、雪を固めたような肌をしていた。青白くさえ見えるその面は、それでいて不健康な印象は無く、内から自ずと溢れ返るような生気で輝いてすらいるようだった。
肌の印象が似ているな、と動揺した思考を、北方の民の特徴だ、と捻じ伏せる。
手繰りかけた面影を沈め、身を翻す。
「言葉遊びをする気分ではない。おいで」
「はい」
寝台へと向かいながら、鍵が再び掛かる音。靴を脱いで上がってくる気配を背中で聞いた。
赤い生地の薄布が垂れ下がる天蓋付きの寝台に腰掛け、怠惰な指使いで男娼に天蓋を下すよう告げる。従順に従う彼を尻目に、枕元でちろちろと揺らめくランプの明かりを吹き消した。
天井から吊り下がるランタンの灯りが、布を透かして辛うじて射してくる薄暗がりの中、躊躇いがちに様子を窺ってくるその、青灰色の瞳がやけにはっきりと見える。
「早く」
苛ついて見えるようやや強めに掛布を叩けば、その姿は存外すんなりとした動きで寝台へ上がってきて、傍らに控えた。
「お召し物を、解いて構いませんか」
「良い。ただ、首はあまり触るなよ」
「それでは」
男がまず、自らの装いに手を掛ける。薄暗がりの中でも分かる、大輪の花が鮮やかに惜しげもなく縫い取られた帯を解き、帯の華やかさとは対照的な、禁欲的に肌を隠す裾も袖も長い黒衣をはだけさせる。そこから現れた胸板は、何らかの武芸を修めているのか、程よく鍛えられて健康的に締まっていた。
「失礼いたします」
伸びた指先が、私が纏った寝着の帯を解く。そのまま撫でるように開いていく手際は、いっそ優雅なほどだ。
小さく感嘆の吐息が聞こえる。
「よく鍛えておられますね」
「それなりにな」
うっすらと混じった羨望は、本音だと思った。体を鍛えるようになった切っ掛けは決して好ましい心情からでは無かったが、腕を引いて導き、共に琢磨し、最終的には大幅に抜かれた相手がきっと、互いに良い影響を及ぼし、それが今に至っている。肖像画一つ残っていない母の面影は今や、完全に思い出す事は出来ず。それと同様に、あるいは、自らの顔である程度補完が利く母よりもっと早く、思い出せなくなる可能性がある彼が遺したよすがも、慈しんでいたかった。
添えられた手の動きに抗わず寝台に身を沈める。首筋でまとめられていた相手の髪が肩に半ば引っ掛かりながら落ちかかってきて、視界を煙らせる。淡い金色が、薄布越しのカンテラのおぼつかない光を弾き、少しばかり色を濃くして見える。少しばかり長いが、まるで亜麻色の……。
未練がましい。目を伏せた。
「始めます」
「あぁ」
一旦上から退く気配があって、磁器のすれ合う音が高く小さく聞こえる。そこに粘性のある音が混じり、取って代わる。そこまでは平静であったと思う。ある匂いが鼻を衝くまでは。
浴室でも嗅いだ、リソルサの匂い。思わず見開いた目に映る、こちらに圧し掛かっている黒みがかった影。顔が、見えない。急速に干あがり、縮み上がった口内。その奥から、制御できない引きつった悲鳴じみた呼気が押し出される。
「旦那さま?」
異変に気付いた相手が覗き込んでくる。こちらを気遣っているだけだと冷静な何処かは呟くのに、身体はいよいよ強張っていく。
手が伸ばされてくる。怖い。強張っていたはずの手が翻って、差し出されていた腕を弾き飛ばしていた。途端、冷水を浴びせられたように理性が戻ってくる。弾き飛ばした時の手付きが、短剣を握った時のそれだと気付いて、堪らず掌に爪を立てる。父王から母へ送られたという護身用の、刀身にまで細工を施された華奢な懐剣。形見の一つとしてあの部屋に、手入れも欠かされず二十年安置されていたもの。――父王の命を絶ち、今は共にひっそりと葬られているもの。
呼吸が、中々定まらない。夜着をかきよせ、男娼から顔を逸らす。
「……見苦しい姿を見せた。すまない、下がって良い。その腕、じき腫れてくるぞ」
期待した後ろの孔は既に雄を欲して疼いてやまなかったが、それへの対応を彼に強いる気にはとてもなれなかった。先ほどの件の非は完全に自分にあったし、力加減など出来なかった以上、相手が鍛えているといっても間違いなく打ったその場所は腫れてくる。ならばせめて、すぐに処置が出来るように図った方が良いという判断だった。
「承りました」
どれほどの時間であったのか。ややして静かな声が沈黙を破り、天蓋の幕が開かれる。直接射しこんでくる灯りで、寝台の上がやや明るくなった。
装束を整える気配の後、そっと離れていく足音。少し遠く、鈴の音を聞いた。
静まり返った室内。鍵をかけ直すのも億劫だった。腕を伸ばし、掛布をめくり上げる。生じた隙間から潜り込んで、欲情を煽るような赤い生地の割には清潔な感触の布団の中で身を丸める。指を下半身に滑らせ、菊座をぐるりとなぞってから埋める。香油が残る内部で、先ほどとは打って変わって指を時に激しく、時に執拗にじりじりと動かす。内部を一通り撫でまわして体の調子がある程度「上がって」きたと自認したところで、探し当てるまでもなく場所を知っているしこりをなぞる。押し込む。撫でまわす。
早めに一度達してから誤魔化すための性具を探すことにして、勃ち上がり始めている自身に手を伸ばしかけたところで、鈴が鳴った。ノールディンだろうか。
唇を噛んで漏れ始めていた嬌声を殺し、意識して全身を弛緩させる。深い呼吸を数度繰り返し、声の調子を確認する。
「開いている」
声の調子自体は通常に近いものだったが、大きさが少し小さかったかもしれない。危惧したが、扉が開く音に杞憂だったと息を漏らす。さすがに他者が入ってきて続ける気にはならず、かといって起き上がる気にもなれず寝返りを打って、目を疑った。
こちらに近付いてくるのは、先ほど出ていったはずの男娼であった。
「代金か? いや、手付けか? それなら心配せずとも」
「いいえ」
遮るように上がった声は、変わらず静かだった。
「お一人にしておくのが、手前勝手ながら躊躇われましたので」
片袖をまくり上げ、包帯らしいものが巻かれた腕を見せる。
「処置はしてもらいました。それにこの娼館は、売りものに対して決して冷酷では無い。どんな娼妓でも、ある程度傷が癒えるまでは、あるいは都合がつかない場合は、きちんと休養が取れるのですから」
こちらを見ている青灰色の瞳は、穏やかに凪いでいる。それなりに肥えている見る目が、そこや彼の帯びる空気に怒りやそれに類した感情を拾い上げることは無かった。少なくとも、表面には全く出ていなかった。これがそっくり芝居であるというのなら、大した演者だ。
軽く奥歯を噛みながら菊門に埋めていた指を抜く。上気しているであろう肌はどうしようも無いが、誠意を感じさせる態度で向かい合ってくる相手に対して、自分も可能な限り誠実であろうと思ったのだ。
「非礼を承知でお尋ねしますが、御身が疼いて鎮まらないのでは?」
「そうだな」
だから此処へ来たのだと、吐息混じりに応じる。
「性欲はまだしも身が疼くのは、閨にてそうあるよう求められたから。しかし旦那さま。貴方様は、その中で何らかの恐怖を覚えたのではありませんか? 先ほど手前を拒まれた時に」
あれだけ顕著な反応をすればいかに鈍い者でも気付くであろうし、察しの良い者ならある程度類推も利くだろう。
「上にかかってくる影。後は、そこの香油だな。正しくは、配合されているものの中の一つ二つ」
「……本当は、暗い中で上からのしかかってくる、表情のよく分からない相手が恐ろしいのではありませんか?」
「目敏いな」
苦笑する。一人で暗い室内にいる分にはどうともないのだが、他の誰かと光りが無い、乏しい室内に居ると身構える、身が強張る症状が、「あの時期」を境にして出るようになっていった。天幕でランタンの灯りを遮るのは、本当は悪手であった。しかし、それとはまた別の羞恥がそうさせたのだ。結局は、自らの認識が甘かったとしか言えないが。
寝具の中から少し苦労して、後孔をほぐしていなかった方の腕を引き出す。よく見せるように横たえた。神経質なほどに剃毛された肌を。
「髪と眉以外の毛をな、剃るよう強要されていた。……解放されてもう随分になるのに、未だに抜けない」
これは嘘だった。髪と眉はどうとでもなるが、他の部位――特に陰毛部などは他の部位より肌が弱い事もあって、染めるには難があった。ほぼ確実に見られるであろう場所が、明らかに毛色が違えば疑念に通じかねない。ならば、完全に剃ってしまい、理由として適当な前提を匂わせようという、有り体に言ってしまえばそういう事だった。
果たして彼は、頷いた。
「確かに、剃られた部分をまじまじと眺められるのは、あまり良い気持ちはしませんね」
しみじみと実感の滲んだ口調だった。多少後ろめたい思いはあるが、恥ずかしいのは事実である。無言で肯定を返した。
「それでは、天幕は開いたままで。体位はいかがされますか?」
「……後ろから、だろうな」
獣のような体勢ではあるが、その方が却って気が楽なように思われた。
「承りました。布団の中へ入っても?」
「構わない」
持ち上げられた掛布の隙間から入り込んできた空気の冷たさに身を震わせるより早く、寄り添う柔らかさで触れてきた感覚に思わず強張った体の上を、布越しにゆっくりとさすられる。その穏やかさに、緊張が次第に解けていく。
やがて、見計らっていたように寝着の合わせ目から差し入れられた手が、穏やかさはそのまま、肌に触れた。
汗でじめついた肌の上を這う手のひらが、腹筋を撫で下ろして、股間に辿り着く。睾丸を柔く揉みこみながら陰茎を扱く手つきは、ああ、ひどく手馴れている。
「ッ、ぅ……ふっ」
「声を出しすぎるのは決して良くはありませんが、かといって殺しすぎるのも喉を痛めますよ」
冷静な声のまま、性器に施される愛撫が強くなった。隠されたまま施されているので正確には判断は難しかったが、手全体で可能な限り包み込まれながら、尿道口を中心に撫でられるように責められているように思われた。
「……っは、う、あ、あ、あァ、ん、」
一度堰を切ってしまえば、とめどなくこぼれ落ちていく己の声の浅ましさに耳を塞いでしまいたいのに、半端に絡まった寝着と震えて力の入らない四肢に動きは妨げられ、その場で寝具を辛うじて握りしめるのが精々といった体たらく。情けなさと与えられる刺激で、視界が滲んだ。
元々自慰の途中であった事もあって、容易く追い上げられていく。
「ひ……ぃ、あ、や、あ、ああぁ」
そうして、呆気なく達した。
じっとりと空気さえも纏わりついてくる布団の中、放心していたのは、あるいはいられたのは、ほんの一時だった。掛布の中で、肌に張りつくほどに湿った衣をたくし上げられる。臀部に触れ、自らの意思で窄めている後孔の周辺を彼の指がなぞった。
「……なるほど」
解していたのが知れたのだと、直感で察した。外気に触れて僅かに冷まされていた肌が、羞恥でまた熱を帯びていくのが分かる。そのつもりで解していたのは自分だろうに、と唇だけで自嘲を刻む。
「腰を、少し上げて頂けますか?」
言われた通り腰を浮かせば、その隙間に寝台の上で所在なさげであった枕が二つ差し込まれる。
「中を、検めさせて頂きたく」
あくまで平静な声に、意地を張り続けることも馬鹿らしく。締めていた力を緩めた。
確認するように挿し入れられた指が、先ほどの自慰で大方流れたが僅かに残っていた香油をかき混ぜて音を立てる。
一通り確かめてから、指が抜かれた。
「少し足します」
衣擦れの音を背景に何かの蓋をねじって開ける小さな音が響き、そして孔に再び指が埋められた。粘膜に擦りつけられ、何か溶けていくのが分かる。軟膏の類だろうか。一本、二本と増えた指がばらばらと動いて、中が拡げられていく。
動きの一つ一つに腰が跳ね、ねだるように物欲しげな声と呼吸が入り混じる。
もう良いと、早く挿れてくれと頼んでも愚直なほどにその指は慣らし、解し尽くして。そうして、焦らしに焦らされた末に灼熱を打ち込まれた後のことは、あまりはっきりとは覚えていない。
*
意識が明瞭に戻ってきた時、まず感じたのは清潔に乾いた手触りの寝具だった。肌の感覚もさらりとしていて、意識が朦朧としていた間に可能な限りの始末もつけられていたのだと分かる。髪にだけは布が添えられ、それが湿っているのは分かったが、汗や他の体液による不快な湿り気では無かった。そっと身を起こし、まだ少し水気の残る髪の毛先を摘まんで確かめていると、寝台の傍らに近づく気配があった。
「随分と至れり尽くせりだな」
「この部屋……ピアニィの間と申しますが、ここに初見で通された方は、当館に於いて、最上級の旦那さまですから。――お水になさいますか? お酒にされますか?」
「水を」
「はい」
枕元に用意されていた二つの水差しの内の一つを取り上げ、少し注いだ中身を飲んで見せてから、口を付けた部分を中心に縁全体を布で拭われ、改めてなみなみと注がれて差し出された盃を受け取る。毒見役か、と内心得心しながら口許に寄せ、匂いを嗅ぐ。特に妙な所は無い。一口含み、口の中で転がすように確かめる。少なくとも、即効で効いてくる毒や薬の類は入っていない。よく冷えている一方で口当たりはまろやかな、ただの水だった。
「良い水だ」
「ありがとうございます」
一礼した彼は完全に身繕いを終えていて、髪の一筋にさえ乱れは見受けられない。
「脱衣の間の方に、新しいお召し物のご用意があります。……支度をお手伝いいたしましょうか?」
「いや、良い」
窓の方を見やる。遠目にも分かる薄さで仕立てられた紗幕の向こうは、まだ明らかに暗かった。無意識の内に、安堵の息が漏れる。
ゆっくりと水を干してからもう一杯を促し、盃を戻す。代金は店側に払うが、手付けは確か本人に直接渡すのだった、と思い出し、裾を整えながら寝台から降りる。下半身に鈍く違和感はあるが、動くには支障のない程度だと判断を下す。
「少し待て」
「はい」
揃えて置かれていた室内履きに足を通す気にはなれず、そのまま浴室へと向かった。
脱衣所に入れば、すぐに分かるよう出されていた藤籠の中に、先ほど脱ぎ捨てた物と大差ない着衣が一揃い入っている。
一番上に置かれていた袋を手に取り、封をしている結び目が隠密達が用いる物の内の一つである事を見とめてから、解く。中に入っていたのは、指先で摘まめる程度の輝石が三つ。深い青、青緑、青紫のサファイア。ほぼ原石ではあるが、どれも見たところ最高位の品質だ。手のひらに出し、はてどうしたものか。少なすぎるのは論外だが、かといって多すぎるのも逆に良くないだろう。
そもそも、娼館における手付けや代金の相場は幾らなのか。思い返してみれば、あれよあれよとお膳立てされ今の状態に至っているので、そういった事は無知も同然だった。「坎の塔」に幽閉されている事になっている「自分」と施設の維持に割かれた予算と、「秘書官としての自分」の給金から天引きして予算は捻出するという話ではあったが、ルクレンティスは確か、この国では随一と謳われる娼館であったはずだ。そして今日自分に宛がわれた男娼は、明らかにその中でも高位の存在であろう。……足りるのだろうか。否、足りるように自らが務めれば良いのか。
嘆息と共に意識を切り替えて輝石を袋に戻し、適当に結ぶ。そうして、用意されていた着衣を手に取った。
身支度を済ませ、一晩買った男娼に結局は袋をそのまま渡して部屋を出れば、その先の広間は、入る前よりだいぶ光源は絞られていたが、それでも周囲を楽に見渡せる程度には明るい。人気はほとんど無くひっそりとした中、巡回をしていたらしい黒衣の男が一人、心得たように近付いてきて、促されるままについて行く。
先ほどとは異なる、見るからに正規のものだろうと一見で知れる、端と端に一つづつ設けられた天井近くまで高さのある絢爛な扉の一方に誘われ、見送られる。開け放たれている扉の先には、リデルが待っていた。
石段を下り、寄せられていた馬車へと近づけば中からノールディンが顔を出す。伸ばされた手に、心配性なことだ、と苦笑してから手を重ね、中へと上がった。それぞれに向かい合って席に落ち着けば、ややして馬車は夜の暗がりを走り始める。
道を走る車輪の僅かな振動の他は静まり返った車内の沈黙を破ったのは、ノールディンの方だった。
「如何でしたかねぇ?」
「良かったぞ。だが、高いのだろうな」
「まぁそりゃ。けど、ある程度こちら側が営業面で目こぼししてる所もあったりするんでぇ、正規よりも大分安くはなってますよー」
釘を刺された、と解った。料金の事は気にするな、と。無論、言っている事自体は真実だろう。しかし、それだけでは無いのだと。これはヴァルテールが相当動いているな、と政治の方面で長らく自らの片腕だった男の仏頂面を思い浮かべる。国政に関する事では妥協は許さないが、私事に関する方面ではどうにも甘い部分のある男である。
「……国政には影響を出さないようにお願いします」
「言っときまーす」
王の秘書官として、ため息混じりに妥協を遠回しに告げれば、いっそ無邪気なほどに悪びれの無い答え。それこそがこの男のたちの悪い部分であることは、とうに知っていた。
「着いたら起こせ」
「はーい」
本当の意味で眠れはしないだろうが、少しでも休めておかねばならないと目を閉ざす。
政に対して浮ついた思いで対せないのは、自らも同じだった。結果としては逃げて、本来ならば玉座からは遠く、生きていけるはずだった弟に全て押しつけた負い目も重ねて。殊更に。
いやに重たく感じられた“鎖”を一撫でして、意識して呼吸を深くする。
この国に、この国を負って立つ者に不要と断じられるまで。あるいは断じられても、自分は、この国を見捨てられはしない。
これは郷愁では無い。贖罪でもない。妄執だ。何の事は無い。感情の向かう先が異なるだけで、父王と同じなのだ。自分は。自分も。
その事実に罪悪や嫌悪を抱く時期は過ぎて久しい。それなのに。
何故、痛むのか。
閉ざした瞼に籠った力を御しかねて、指先で強引に揉みほぐす。
ちりちりと瞬く面影を、そして、今度こそ振り落とした。
いつものように。
10
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