願わないと決めた

蛇ノ目るじん

文字の大きさ
8 / 12

番外3、或いは明転 天秤は傾いだ 中

しおりを挟む
※今回のR18部分には、「異種姦」要素が含まれます。




 自分が知る限り最初の、崩壊への序章は、原因の定かではない事故の頻発する炭鉱の調査に赴いた「彼」の、生存は絶望的、との一報が届いた時だった。並行して後宮で起こっていた複数の事案により人員を割けず、一人で行かせてしまったのを誰より悔いたのは、父王だったろう。あるいは――。
 今にして思えば、父は大切な存在に去られ続けた人生だった。その有り様にすら影響を及ぼす最初の一打が、私の母の死。最初の楔。そこに、さらに重なっていって、ひびを広く、深くしていった喪失。それでもまだ、辛うじて形は保っていた。その努力を嘲笑うかのように打ち込まれた、決定的な楔。
 ひび割れが、いずれ崩壊に至る亀裂に変わった時だった。
 報告を受けた日の晩、青いを通り越して白い顔色で訪ねてきた父王を及ばずながらも慰めようと腕を伸ばして――抱かれた。誤りだと知っていた。それでも、拒めなかった。

 そういう事態になるとは思わなかった、というのは、言い訳でしかない。あのような事態に成り果てた事も、そもそも、最初に抱かれるのを許容したという事実も。前提から間違っている事は、分かっていた。それでも、変えられなかったのは。止められなかったのは。結局のところ私は、自らの決断で近しい存在の息の根を止める事が、恐ろしかっただけなのだろう。
 あの日、最後の一線を越えなかったというのも、誤りを正すものにはならない。己の身が、まだ単に受け付けられないだけであったのだから。
 私の母を喪って以降、好色に拍車が掛かったという父王は半面、一人を長く寵愛するという事も無くなったという。事実、母が没するまでの間に生まれた子供達の中には、継承権を与えられる前に早世した者も含め、両親を同じくする者達の組み合わせは幾つかあるが、その後の子らには尽く、同腹のきょうだいは存在しなかった。手を付けられた男達についても、半年続けば長い方であったようだ。
 母に似ている自覚はあったが、それでも自分は男で、当時から既にそれなりに鍛えていた体躯は、明らかに女のものでは無かった。加えて、例え子を成さない同性同士であっても近親相姦は、大陸全体で白眼視される風潮である。
 入る者も出る者も制限され、機密の保持がそこまで難しくはない――元々侵入も逃走もしづらいよう、二つの出入り口以外は敷地を取りつき辛い滑らかな塀で囲われ、王妃や側妃直属ではない、敷地全体の管理をする侍女達は知らぬ顔に敏感なので、隠密も公式の役職を持たなければ捜索もおぼつかない。逆に言えば、侍女達を味方に付けられたなら大概の事を隠蔽する事もかなう――、王宮の北部大半を占める後宮とは異なり、自分が日常生活を過ごしていたのは東に位置し、太子宮とも称される「震の宮」。火急の報告を受ける為もあって、制限は後宮に比べれば緩い。一度や二度は取り繕えても、数を重ねれば重ねるほど漏洩の可能性は高くなる。それが分からない父王でもなし、と精々数度で収まるだろう、と楽観したのが、二つ目の誤り。ああそうだ。当時の私は、明らかに認識が甘かった。――知っていた所で、拒めなかっただろうけれども。

 ……密かに行っていた治療も芳しくなく状態は次第に悪化し、それでも一定の理性、あるいはそれに近しいものは長らく働き続けて。数十年は使われていなかった「坎の塔」の内装を秘密裏に整えさせ、秘密を知る者をほとんど増やさずに続けられた密通。
 その真意がどこにあったのであれ、私は結局、その行いに否を突きつけられなかったのだ。



  *  *  *

 娼館・ルクレンティス。その最上層に席を持つ十数人の娼妓の部屋には、狭いながらも浴室が併設されている。
 ピアニィの間というホールに隣り合った貴賓室のように直接引くには至らないらしく、湯は運びこませる様式のようだが一声掛けた後、バルコニーから階下に広がる庭園のそこかしこに灯された篝火の数をゆっくり数え終わる頃には、浴槽に湯が満たされているのが常だった。

 湯船から上れば出入口を曖昧に仕切った、蔓草を編み合わせた如く織られた麻の帳を潜って青年が一人やってきて、手にしていた布で丹念に体を拭っていく。そうして肌に、香りの良い水をすり込んで馴染ませてから、着衣を整えるのを手伝い、可能な限り髪の水気を拭ってくれる。一段落つけば本間に戻り、よく冷えた水が饗される。
 小間使いさながらのまめまめしい奉仕は、愛想を振りまくべき上客ゆえと、彼自身の資質がない交ぜ、といったところだろう。何度か他の娼妓が相手となったこともあり、彼らもあれこれ世話は焼いてくれるが、半分以上は見習いとして控えている少年の仕事だ。初めの日に私の相手をした彼――フレスノは少なくとも、私が訪れた時は寝台に入る前に見習いの少年を外に出して――いつも命じるのではなく、頼むような口調の柔らかさと互いへの態度的に、上下関係というよりは兄弟に近いのかもしれない――ほとんど一人で取り仕切る。それでほとんど支障を感じたことはないので、世話を焼くのは慣れているのだろう。
「兄弟のようだね」
 水を一口、ゆっくりと確かめて飲んでから――毒を警戒するのはもはや習い性だ――放った言葉に、青年は珍しく目を見開く。やがて、
「私には、預かった以上一人前に育てる義務がありますから」
 逸らした顔の頬には、うっすらと常には無い赤みがあった。そこまでの気負いでもって見習いを育てている娼妓を、少なくとも男娼を、私は彼以外には知らなかったが、そこはそれ以上詮索するものでも無いだろう。最低限生きていけるまでの個別の支援が出来ない以上、安易な同情などするものではない。気付いていない振り、が一番波風が立たない。
 それでも言ってしまった理由は……王たる弟から打診された役割を果たす時が近づき心持ちが乱れているのと、きっと、個人として彼を気に入り始めているからだ。気に入った相手のことは、褒めてやりたくなる。かと言って、それを直截に表に出すのもこういった場では野暮な話であろう。分かってはいるのだ。
 これは、代替行為だ。身勝手な望みだ。叶えられなかった幻の行く末を、それでも願った、ただの押し付け。
「私には仲の良い弟達と、妹が居た」
 この娼妓は他言しないだろう。だから、手前勝手に押し付けてしまいたかった。当事者同士で語るには、今はまだあまりに傷が生々しく、互いに傷をまた深くすると知っていた。
 向けられた彼の視線から逃れるように、また水を一口含む。しみ入るように、やけに甘い。
「相談相手だった妹は遠くに嫁いだ。直接会う機会は、もうほとんど無いだろう。弟の一人は当主になり、また別の意味で遠くなった。一人は、まだ私の近くに居てくれるが。……もう一人は、死んだ。私のせいだ」
 彼は、私の剣の相手でもあった。内密の。知っている人間の方が稀だった。幼い頃から仕えてくれている侍女の古参や、侍女の役職を得ていた隠密などは知っていたが、十五を過ぎた辺りから接触が増えていったヴァルテールとノールディンにも、話した事はない。ノールディンは近衛を勤めていた時期もあるから、何かしら察しているかもしれないが。何せ落ち合っていた場はもっぱら後宮の、さらに片隅だった。胎の違いでいがみ合うのが普通だった中、私達は確かに「きょうだい」だった。
 兄上、我が王。と笑って慕ってくれた顔を、声を、まだ覚えている。いつまで、覚えていられるだろう。
 愚かと一括りにされた二人の内の一方、先王の第三王子・オルテア。王子よりは騎士団の長の一人としての方が通りの良かった、私と、サダルスードのすぐ下の弟。同盟国へ嫁いだ妹の、同腹の弟。愚かと形容されたのは、すぐ近くに居た姉が、あまりに聡明だった事もあるだろう。しかし、それで気を病む様子もない、頑固さはあるが健やかな精神の持ち主だった。それ故に、命を縮めた。二君には仕えられないと、死を選んだ。私のせいだった。
 その死を告げた時のサダルスードの顔は普段よりもさらに色悪く、今にも倒れてもおかしくないほどに青白かった。「私達」の一番末の弟であり、年も一人離れていたアストロードは私達とオルテアの関係を知らなかった――伝えていなかった――のだから、私に伝えるまで彼は、一人で抱えるしかなかったのだ。そして、何よりも――。
 今、私は、どんな顔をしているのだろう。口元を隠すように、無地の硝子の上に赤と青の色硝子で幾つも花を象った器を押し当てる。

 フレスノが、微かに息を呑んだ気がした。
「実の兄弟でも、儘ならない事はある。だから、仲が良さそうなお前達が、少しばかり羨ましいよ。それが、出来れば長く続くものであるようにと思ってしまうほどに」
 身勝手だと流してくれたら良い、他者の自己満足を押しつけられても迷惑だと。と告げた自分は、果たして笑えていたのだろうか。
 やがて寄り添ってきた彼の、簡単にまとめられた髪に一本だけ飾られた、黒檀のかんざし。金で蔦模様が描き散らされたその中に、最初に渡したサファイアのうち一番色が深かったものとよく似た石が、はめ込むようにあしらわれているのをちらりと見とめて、思い上がることにする。少なくとも、機嫌を取っておくべき上客という認識をされている、とは。まあ、私の金では無いわけだが。
「今度、コーディに木の実と干し葡萄の焼き菓子を、私にはエリスロ様、あなた行きつけの店で無地の革が欲しいです。鍛錬に使っている手甲がそろそろ取り換え時なので。それで、手を打って差し上げます」
 無地の革。軽く思考を巡らせていつだったか、身支度を手伝われていたとき革帯を手に、良い革を使っていますね、と言われたことがあったと思い出す。特注なのだと答えた気がする。恐らくそれだろう。特注というか、かつての配下からの献上品である。使い勝手が良く目立つ造りでもなかったので、何本かは手放さずに今も使っているのだ。王都に皮革店は幾つかあるが、近いものを探せるだろうか、やや不安になりつつ、肯いた。
「考えておこう」
「楽しみにしています」
 私の答えに応じたフレスノの声は、機嫌が良いように思われた。中身が無くなりかけていた器に、また水を注いでくれる。甲斐甲斐しく尽くし、約束をすれば楽しそうにする。訪れに間が開いた時は、拗ねられたこともある。
 手管の一つなのかもしれない。その顔を曇らせたくないと、失望されたくないと、客はそうして貢ぐのだろうか。……そういった気持ちが、少しばかり分かる気もした。
 理性では時を測りながら、感情はもう少し、と粘る時間を探っている。この娼館で最も顔を合わせる機会の多い彼との時間に、癒しを見出している自分を認めていた。再び口を付けた水は、今度は常のように喉を落ちていく。



「終わりました」
 微かな震えと共に、首に当てられた“鎖”が再度固定される。類似品を作っていない、唯一の弟の魔法具は時々調整をしてやる必要がある――という名目で、短時間でも喉を自由にしようという彼の配慮だろう。普段は付けていることも忘れるほど馴染んではいるのだが、やはり無いと有るでは違う。微かな違和感を、意識しないようにする。やがては「元」通りだ。寛げていた立襟を正す。
「良し、ではそちらは預かっていく」
「はい」
 サダルスードが“鎖”を手に取る前に完成させ、乾かしていた報告書を巻いて結び目に指先を置き、一言二言呟くと結ばれた部分が僅かに光を放ち、何事も無かったように消える――大した事をしたようには見えないが、該当者以外が開こうとすると発火して焼失、不届き者には術者が解除しない限り癒えない火傷を残し、それを魔法の痕跡として追跡出来る程度には厄介な術式だ――。寄越されたそれを、先立って渡されていた別の手紙――こちらは、質と品が良い以外ごく普通の封筒に入っている――と共に、上着のかくしに潜ませる。
 席を立とうとした所で、ああ、そうだ、と弟が呼び止める。そうして、発せられた提案は、意外とまではいかないが、比較的珍しいものであった。


「食事まで、すまないな」
「ついででしたから。それにこの時間帯ですと、宮廷の食堂も一息入れる頃合いでしょう」
 流していた銀髪を手際よくまとめた――母方の血の濃いこの弟には、赤髪は遺伝しなかった――サダルスードが手慣れた動作で半分ほど食べられた後らしい、楕円形のパンの塊からやや厚めに四枚切り出し、照明の橙を帯びた光を受けてなお黒光りする金属製の板の上に並べる。端に刻まれた紋章に指を翳して何やら短く呟いた後、横にもう一つ備え付けられた同じ形の板の方にも同じ作業を施し、そちらに乗っていた鍋の蓋を少しだけずらす。そうして、横に据え付けられた棚を開いて幾つか陶製の容器を取り出した。
「何か、する事はあるか?」
「そうですね……では、あちらの棚から食器をお願いします。皿は平と深いの二種類で。後、適当に飲み物も」
「分かった」
 視線だけで示された少し離れた位置にある棚に向かい、二つに仕切られた段の上の方で、適当に積み重ねられた皿と乱雑に突っ込まれている匙をそれぞれ二つづつ取ってサダルスードの横に置き、取って返す。
 上段とは打って変わって丁寧に物が並んでいる下段は茶道具が一通り誂えてあり、きっちり蓋がされた幾つかの壷以外は一つ一つ、あるいは一揃いづつ、明らかに違うものであった。
 その中で、星が煌めく様を描き取ったものと、薔薇が描かれたものを一揃いづつ選んだ事に、きっと、さして意味は無い。
 茶器は先ほどまで向かい合っていた卓へと運んでから、壷を一つ一つ手に取って蓋越しに匂いを嗅ぎ、一番香りがまろやかに感じたものを選ぶ。選んだ後で、疲れている自分を認識した。ため息一つで散らして、鼻を掠めた香ばしい匂いに振り返れば、サダルスードが鉄板に並べたパンをひっくり返している所だった。その内の二枚に切り出したチーズを被せ、いつの間にか蓋を取ってあった鍋を一度かき混ぜ、並行していたらしい別の作業に戻っていく。鍋が乗っている方の板の上にはいつの間にか、小ぶりの薬缶まで用意されていた。
 不格好に切り出したパンを焼きもせずそのまま無表情に齧って、出しすぎて色からして渋くなりすぎた茶と共に流し込んでいた頃と比べて、随分進歩したものだと、苦笑が漏れた。
 つまみを捩じれば開閉するようになっている、針で刺したような穴がびっしりと開いている金属の球形に壷から茶葉を必要な分だけ移し、封をする。華奢な鎖で吊るすようになっているそれを茶壺に入れ、鎖をずり落ちないよう蓋で止める。それを手にしたまま、今度はサダルスードの方へと足を向けた。彼はパンの仕上げに入っていて、乗せてあるチーズがとろけている方の上には茸の油漬けを乗せた物、何も乗っていない方には乾燥させたハーブを混ぜたバターを塗って何枚も削るように切った燻製肉を重ね、その上に細かく刻んだ野菜の酢漬けを乗せた物の二種類を手際よく皿に一つづつ乗せた。続けて、干し果実や木の実がみっしりと詰められた焼き菓子も一切れづつ横に添えられる。そうしている弟の横で、自分も薬缶から茶壺に湯を勢いよく注ぎ入れ、蒸らしに入る。それを卓に置きに行くのは、精々数歩で十分だ。
「持って行って良いか?」
「お願いします」
 今度は深皿にスープをよそい始めた弟を横目に、パンを乗せた皿の上に匙を添えて運び、上手い具合に蒸らされた茶を互い違いに注ぎ入れる。茶器を温める余裕までは無かったが、せめてもと最後の一滴は弟行きだ。足元にふと光が差し込んでくるのに気付いて振り返れば、作業をしていた立ち台から少し離れた位置にある窓の、先ほどまでは確かに閉ざされていた幕を弟が引き直した所だった。

「残り物とありあわせですが」
「十分だよ」
 恐らく最初は芋と玉葱も入っていたのだろう――今や見る影もなくとろりとしている――スープには、摘みたてと知れるハーブが追加で数種類散らされていて、優しい香りの中に爽やかさも感じられる。食前の祈りを済ませてスープに匙を沈めれば、思いのほか大きい燻製肉の塊が付いてきた。一口に含めば、ハーブの爽香が鼻を抜けて行って食欲をそそらせ、渾然となったスープが柔らかくなっている肉と相俟って、出来立てとはまた違うこなれた感を覚えさせる。厨房の者はさておき、宮廷ではまかり間違っても出されないであろう代物ではあるが、これはこれで悪くない。何より、温かいのが良い。
 チーズと茸が乗ったパンは、まろい味わいのチーズに茸からそのものの旨味と香辛料の辛さが立って油っこさは程よく中和されて食べやすく、燻製肉と酢漬けの方は塩気と酸味の塩梅が良い具合だ。焼き菓子は、果実の優しい甘さと木の実の香ばしさが素朴な一方で、僅かに香る酒の香りが印象を引き締めている。
 会話はほとんど交わさないが、この弟とは、これぐらいが互いにちょうど良いのだ。
 茶器をすっかり染みついた優雅さで取り上げ、ゆっくりと一口飲んだ弟の表情が微かに綻ぶ。
「茶の淹れ方は、兄上を越えられる気がしませんね」
「買いかぶりだ」
「いいえ」
 いつも血色の悪い顔に、珍しく湛えられた柔い笑み。それは、頑固さと裏表だった。
「……お前は、段々と料理の腕を上げていくね」
 言葉を探しながら、スープを掬う。
「散々失敗しましたから」
 一度茶器を両の掌で包み込んで解いた手の下から、新たに生み出されたように薔薇が露わになる。その瞬間から、何故か、目を逸らせなかった。自らも茶器に伸ばした手は、震えてはいなかったか――。
「魔鉱石の継続的な使用についてはどうか?」
「まだまだ、ですね。これを焼いた時の道具がそうですが……細かい火力調節はこちらで弄る必要があります。……かといって術式が煩雑になりますと不具合が起こりやすくなりますし、点検同士の間も短くなります」
 パンを取り上げて考え考え――恐らく専門用語を言葉から省くのに要した時間だろう――応じて、齧る。
「術式の合理化については、あれは正しく天才でしたね」
 ごく、軽くを装った口調でさらりと告げられた言葉。あれ、が誰を示すのかなど聞くまでもない暗黙の了解事。この弟が、ただ一人取った直弟子。魔法師として薫陶を存分に受け、ある分野に関しては師にさえ影響を及ぼし、そしてこの国を去った男。
「弟子をまた取る気は」
「あれ以上、なら、考えます」
「そう」
 首筋からちらと覗く紐を指先でねじった所作は、気を落ち着ける時の彼の癖。その紐の先にある物が、あるいは安定の拠り所だ。この弟も、大概生きづらい性質をしている。
「なにか?」
「いいや、何でもないよ」
 茶器に口を当てながらひっそりと、目の前の、強要されて臍を曲げればひたすら偏屈になる才能が、実を結ばないまま徒花として散るのを、惜しんだ。
「ラルの方にも尋ねてみてはどうだい? あちらも、より効率的な利用法は喉から手が出るほど欲しいはずだ」
 仕舞った手紙のある辺りを撫でて話題を切り替えれば、微かに首を傾げる。
「……技能交流の提案ですか。一考には値しますね」
 そう答えた弟が何やら考え込んで言葉少なになったので続く食事は静かに終わり、片付けだけを手伝って、私は彼の元を辞した。



 遠目に見えた姿に、淡々と横に避けて頭を垂れる。薄く開いた視界の中に、磨き上げられた靴が映り込む。靴先が、こちらを向いた。ああ、またか。
「顔を上げよ」
 付いて回る不快さを腑に押し込め、身を起こす。宮廷の日常の規律を乱さぬ程度に、しかしそこかしこに成金趣味が透けて見える、いたずらに仰々しい小物や刺繍をちりばめた宮廷装束。成り上がりの性か、如才ない人当たりの良さげな表情を浮かべた顔は美しくも醜くもないが、目に現れた好色の色は隠す気も無いのか、気付かれていないつもりなのか。どちらにせよ問題だ、と不自然でない程度に目を伏せる。
「陛下のご機嫌は如何か?」
「お変わりございません」
「それは重畳」
 白々しいやり取りが交錯する。これといった用件も無いので早々に切り上げ、礼をして見送る体勢を取った。その間も、這い回るような視線を感じながら。去り際、男の口元が声なく動くのを視界の端で認識する。もうすぐだ、と。視界の隅で揺れる自らの髪を意識して、ため息を押し殺した。
 男の姿が視界から完全に失せ、私は逆方向へと歩き出す。先王の狂気が周知のものとなるより前。先王が、私に用いる事があった玩具の出所を察した時。それらの使用方法、効果を仰々しく謳いながら、我らを、私を見ていた視線。時折、先王が扱いを図りかねた玩具を、許可の上用いてこちらを乱してくる事もあった。
 「彼」も損なわれた後、先王が意見を頼る機会が増えた、成り上がり者。先代に重用されながらも、その狂気が周囲に詳らかとなった途端に傍を離れ、現王に頭を下げたと聞いた者。今も、「坎の塔」を時折監視していると報告が入る者。つい先ほども「廃太子」に「髪色と目、背格好」は「似ている」私に、欲望の視線を向けた者。そして、もうじき――。
 「王の秘書官」としての形を保つ為の“鎖”に立襟の上から一度だけ触れ、私は王の執務室へと足を急がせた。

 執務室の前で警護に立つ武官達――全部隊から、実力・品位で選りすぐられた二十名が交代制である――に挨拶をして、内一人が扉を叩く。程なくして、内側から開かれた。招かれて入れば、室内には武官がまた二人。私の他にもう三人文官が居るのだが、今は一人を残して留守にしているらしい――王付きの文官は基本的に四人で、休息日などは宰相府から代理が入るか、残る人員で仕事を回すのが常だ――。その残った一人は、折り重なった書類を手際よく五つの盆に振り分けているところだった。奥の机では現王が、何やら本を捲っている。卓の上にはその本の他以外は、容器に収められた筆記具と四つの印章――かつて私がヴァルテールらと考案して用いるようになった、認可、保留、再検討、却下を示すもの――ばかりだ。今留守にしている内の二人は、書類を届けに行っているか、あるいは食事か。
「戻ったか」
 本から視線を上げた彼が、梢で鳴く小鳥の透かし彫りを繊細に施された金の薄板から成る栞を挟み、脇へ避ける。
「アナズィトンの兄上は、如何か?」
「お変わりは無く。こちらを預かって参りました」
 サダルスードから受け取った報告書を差し出せば、受け取った指先が結び目の上で揺らされる。途端、結び目が自らほどけた。広げ、小さく嘆息する。
「やはり、お前が一番適任だな」
「あの方が、私を買ってくださる限りは」
 互いに納得づくの芝居、だった。魔法を専門的に修める者は頑固な者が多く、サダルスードが際立って偏屈な類であるのは、宮廷の者であれば大抵は知っている有名な話で。加えて、形式上といえ未だ王族でもある。
 その噂を逆手に取って、私が彼の元に赴く理由を作っている。“鎖”は定期的な点検が必要なうえ存在を秘す一点物であるから、他者に調整を任せるわけにもいかない。兼ね合いの問題だった。加えて現在、王の直臣としては新参の類である「自分」に箔を付ける意味合いもある。本来の人柄と実力とで向かい合って勝ち取ってくる者に対して、いささか有利すぎる立ち位置とは思うが、使える手は打ちきってこそ。背後から流れてくる感嘆の気配を流すのも、もはや日常であった。負の感情が含まれていないだけ、処しやすくはある。

 一礼して王の前から退き、今の自分の定位置となっている少し離れた位置に向かい合って二つづつ並んだ机に戻る。一人残っていた彼は折よく、振り分けを終えたところだった。
「ありがとうございます。カルムさん。運ぶのはお引き受けしますね」
「レイドさん。ええ、お願いします」
 目礼で応じて、まずは特に装飾の無い他の四つとは明らかに異なる蔦が彫りこまれた、書類の一番少ないものを取り上げる。
 そうしてそれを、先ほど下がった王の元へと運んだ。彼は、既に筆記具を取り出し、印章を並べ、平皿にインクを流している。
「では、陛下。ひとまず、こちらの決裁を」
「ああ」
 カルムが隣の席に盆を押しやるように移動させている間に残る二つを配分し、自分の席であるカルムの向かい側に戻ったところで、他の二人も戻ってくる。まず王へ挨拶をしてから戻って来た一人は穏やかに礼を述べ、もう一方は表情こそ柔らかに笑みを象ってはいるが目は淡々としている。初対面からそういう具合なので、好かれてはいないのだろう。仕事に関しては私情を挟んでこないので、その点は助かる。
「カルムさん、レイドさん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「リチェルカさん、エルブさん、お帰りなさい」
「お二人もお帰りなさい」
 挨拶を終えて、印章を使う準備を整え、まずは書類に一通り目を通す。定められた位置に捺した印章で優先順位を定めてから、一枚一枚を確かめる。ある程度までは一人で決裁をするが、重大と考えた案件は他の三人とも協議をし、場合によっては王の判断を仰ぐ。処理した書類は、多くが武官が受け取り、必要に応じて振り分けられるが、一部の特に重要なものは秘書官の誰かが宰相府へと運び、場合によっては宰相から問われて応対する――弟が、王が即位してもうじき一年になる。決して短い時間では無いが、政治上の判断というのは、完全な正解が無いように、決して画一的なものでもない。それを見極めさせるための宰相から王へ、引いてはそれに直接仕える秘書官へ寄越される、振り分けから始まる実践的な課題だった――。
 それが、秘書官としての私の今の日常だ。




  体が、重い。夢見るように過去を彷徨っていた意識が無理やり固められるような、その端からどろりとこぼれ落ちていくような、上手くまとまらない思考。堪らず深く吸い込んだ空気が、既に内に巡る粘つくような甘ったるい匂いの上に重なった。青臭く、一方で生臭く、それを無理に甘ったるさで誤魔化そうとしている中に、よく知っている……そして関わりたくない香りがする。
 真紅に華美な金色の刺繍が施された長椅子の上、半ば埋まりながら視線を彷徨わせる。指先一つ動かすにも難儀する動作とは裏腹に、感覚はぞっとするほどに明敏だった。服と肌の間を、ぞろりぞろりと何かが這い回っている。そいつ、が這った跡はじっとりと湿り、既に服の何処にも乾いた箇所は残っていない。肌に貼りつき、体の輪郭を浮かび上がらせる、そのだらしない有様を情けなく思うのに、口から溢れる声は止め処なく、浅ましい。
「あ、あ…っう、う、あ、っひ、い、ぃ、んッう゛、ッァア」
 肌を這われているだけなのに、昂っていくのが分かる。もっと強い刺激が欲しいと腰が捩れるのを、止められない。部屋に焚かれた、粘つく甘い匂いのせいだと知っていた。知っているだけだった。
 ずるり。肌を這っているものが、滑るように向きを変えて、腹の上から下へ。そして。
「やめ、そこは、あ、あ、ああああ゛ぁ゛ァ」
 その声に、期待が混じっていた事実を、他ならぬ自分が知っていた。
 陰茎と睾丸をまとめて、人間にはあり得ない感覚で包み込んだそれが、一斉に動く。揉まれる、擦られる、吸われる。目の前が霞む。すぐ近くで、喉を鳴らす音がした。
 一気に追いやられて、絶頂に至る。しかし、休む間も、ありはしなかった。唐突に触れてきた指――人間の手が、身に着けたまま濡れそぼった私の下衣を剥ぎ取るようにずらし――途中、邪魔らしかった靴をもぎるように脱がされた――、私の男の部分にへばりついていたものを掴み取る。それは、粘液が凝り固まったような物体で、網の目のように末端を広げながら明らかに、自分で動いていた。肉色と灰色と緑色が入り混じったような、ぞっと肌が粟立つ質感の半透明なそれの中で、白いものがうねっている。先ほど私が出したものだった。
「そうら狂ってしまえ。その方が楽だぞ」
 それを掴んでいた男が下卑た笑みを漏らし、そして、無防備な私の後ろの孔へと、押しつけた。辛うじてまだ閉じていたそこに、ねじ込んでくるように、入ってくる。細く、あるいは薄くなって窄まりを抜けたそれが、体内で次第に膨らんで……違う、元の姿に戻りつつある。
「く、るし…っぐ、あ゛、あ、あ、ぁ、う゛、うぅぅ」
 ぐぢゅ、ぶじゅ、ずちゅ、じゅるじゅる――そういった、酷い音が、絶えることなく耳から、体内から、私を犯す。這い回りながら探られ、吸い上げられ、こそげ取られ、こねくり回され、どんどん押し広げられているのが分かるのに、感じるのは痛みではなくどうしようもない圧迫感と、だんだん塗り込められていくような快楽だ。熱を移すように、じわじわと刷り込まれていく。と、不意に体を転がされた。特筆すべき特徴の無い顔全体に広がっている、好色。
「ああ、少し手を入れれば、似てくるだろうよ」
 何に? 誰に? とっくに認識している筈の答えが、出てこない。伸びてくる手に、何の反応も出来なかった。立襟の留め具を一つ二つと外されていくのが、ひどくゆっくりに感じられた。
 舌打ちの音。
「手付きか」
 相変わらず犯されたまま、正気を飛ばすには浸食が緩慢な刺激に痺れている下半身とは異なる、無数の針に刺されたような痛みが首元に走る。男が、首の輪に指を掛けていた。また、舌打ち。赤く腫れた指が、むしり取るように残りの留め具が外していく。何度か、弾け飛んだような気がした。
「母子揃って馬鹿にしやがって。特に餓鬼の方だ。あんなにもひぃひぃ喘いでた癖に、お高く止まりやがって」
 そうして男が、私の喉元に顔を埋める。きつく、吸われるのを二度三度と繰り返される。
「……まあ、良い。焦る必要はない。お前は、あの若造に売られたのだから」
 その言葉に、それまでどこもかしこも散漫になっていた思考の一部が冴え返った。無意識に唇が歪んでいく。それはそう、憫笑だ。そして、それを待ちかねていたかのように、ぴったりと閉ざされていたはずの部屋の中を、突風が吹き抜けていった。

 いつの間にか開け放たれていた窓から、幕をばたばたと巻き上げながら荒れ狂う風が抜ける。今や室内からは、あの甘ったるい匂いは一掃されていた。それだけでも、ずいぶん気分は楽になる。体内に吸い込んだものは変わらず燻ってはいるが、少なくともこれ以上に悪化することだけはない。浅くなっていた呼吸を、意図して深くした。
 そうして、気付けば直ぐ傍らに腰を下ろしていた存在にようやく意識を向ける。その手からちょうど、大ぶりの陶器の容器の中へ、肉色と灰色が入り混じった半透明の存在が入り込んでいくところだった。それで気付く。下肢から全身に向けて苛んできていた刺激も、多少の違和感以外は何もない。
「リマクス・エダークス。フォティアヴィエオにのみ生息する固有種で、粘体生物の一種。植物の特性も有する。食性は雑食だがリソルサを好むこと、及び体液が強力な強壮薬にもなると判明したことで、駆除と密猟により激減。後に、周辺環境の状態悪化を確認。調査後、保全のため保護種に移行……密猟及び売買、法令違反だ。お前が保持していた他の同種も、今ごろ確保されたことだろう。多少手は加えたようだが、胞子を出すまでは保たなかったとみえる。ずいぶん他にも使い潰していたようだな」
 蓋をした容器をそこはかとなく気だるげな仕草で撫でながら、弟が告げる。一つの歪みも無くそれでいて気負いもなく腰掛けるように、研究者としての生活が長くなってもなお残る優雅な所作とは裏腹にその視線は冷ややかで、少し離れた床に、上から完全にのしかかり動きを封じている隠密の一人によって成す術もなく這っている男を見据えていた。何とも手際が良いことで、男の口には既に猿轡が嚙まされており、言葉は封じられていた。

 ようやく順序立った思考が戻ってくる。そう、ずっと泳がせ続けてきたこの男に裁きを下すために、証拠を長らく集めてきた。
 とはいえ、状況証拠のみで財務省の長の首をすげ替えるわけにもいかない。その点、繋がりのもみ消し等は当時徹底していた。
 一つ一つを掘り起こさせ、必要とあらば寝返らせ、保護した者から証言を取り、抹消される前に回収し――それこそ、一つの逃げ道も残さないように。
 これは、見せしめだ。悪趣味と思われるほど派手に、徹底的でなければならない。度を過ぎなければ目こぼしするが、過ぎればこうなるのだと、そういった、沈黙の威圧。
 何も、最初からここまで徹底していた訳では無い。並行して他の良くない噂のある者の身辺も探らせていて、密売組織の摘発の情報などを不自然にならないよう流し、出方を見ていた。そうして少しづつ篩にかけ、段階を進め、最後に残った中の筆頭がこの男だった。そうなるだろうとは初めの調査の段階で推測はされていたが、あまりにも想定通りに進んだ。
 そうして、この男に完全に詰みだと認識させ、衆目にも有らしめるための手段を、玉座に着く弟から打診され、容れた。
 財務省長官の「赤毛」狂いは、ある程度情勢を知っている者の間では常識の範疇だ。表向きの遊びである娼館通いにおいても、贔屓の娼妓は赤毛ばかりであるという。その理由である「廃太子への執着」まで知っている者となると、限られてはくるが。
 そうして私は赤毛で、全体として「それとなく廃太子に似ている」。王の手持ちの札の中では、最も餌に向いていた。何より相手が、望んでいた。だから、けしかけた。
 王が差し出した取引の皮を被った罠に男はまんまと掛かり、何も知らぬ風で出向いてきた私を催淫性の香で満ちたこの部屋に連れ込んだ。怪しまれないよう我ながら浅はかな芝居をしたが、その甲斐はあっただろう。
 結果が、これだ。違反品を何かしら一つでも用いていれば直接証拠として引き立てるには十分だったが、二つ用いてくるとは思わなかった。こちらとしては好都合である。並行して、「見せしめ」の他の面々の屋敷への突入も済んだ頃だろう。処断する時は一気呵成に。下手に長引かせては人心に要らぬ不安を抱かせ、王室への無用な不満の不安の種になりかねない。一時に済ませるのが最善で、弟は恐らくそれを成し、これで最後の段階に進むはずだ。

 口を塞がれているため全く言葉にならない抗議の唸りを、制止するでもなく好きにさせたまま、入れ物を慎重に床に置いたサダルスードが向き直ってくる気配がして、こちらも姿勢を最低限正す。上はほぼ手付かずのようだが、下は動くに支障の無いよう引き上げられていた。凭れた背中を伸ばすほどの気力は無かった。
「ご苦労だった」
「いえ」
  手を付いた先の長椅子の感触は、すっかり滑らかに乾いている。一方で全身湿ったままの自分に、また濡らしてしまうなと思考が掠めたところで、弟の手が伸びてきた。その動きを読んで、その上で弟が仕掛けようとしてきている芝居に乗ってやることにする。頭部を、首筋をどうにか差し出した。
「一度、外すぞ」
 指先が髪を梳くように顔の横に垂れさせ、そのまま喉元に触れる。痛みは、無かった。微かな振動と共に、首筋が寒くなる。同時に何かに包まれるように温かくなり、拭うように過ぎ去った後には全身の感触はさらりとしていた。次いで“鎖”から、矯めつ眇めつしながら慎重な様子で汚れを取り去っていく弟。窓から通ってくる風で僅かに髪が後ろに流れる。唸り声が、止んだ。
「遅くなって、すみませんでした」
 こちらを一瞥もせず紡がれた言葉。横顔は、感情らしい感情を浮かべていない。それはこの弟の、合わせる顔が無いという、不器用で誤解を招きやすい、気まずさの表現だった。
「最悪には至っていなかった。そこまで気にしなくて良い」
 最悪とはこの場合、完全に理性を飛ばして対話すら儘ならない事態だ。弟は声もなく淡く口許を歪め、汚れを完全に拭い取られた“鎖”に仕上げと香水を二三度噴きつける。私が王太子の頃から身に着けている、杉を基調とした香りだ――最も、調合した香りの数は王太子の頃より減らして、かなり単純なものになっているが――。
 髪を払い、喉を晒す。下から向けられてくる突き刺さるような視線には、気付いていない振りを。そうして首回りに、それは再び填められた。
 急に、体が重くなった気がする。忘れていた訳では無いが義務感で誤魔化せていた疼きが、内から全身を苛んでくる。僅かな身じろぎで擦れる布の微かな感触にさえ肌が粟立って、次第に熱へ変じていく。半端に拓かれたまま、宙ぶらりんのまま、降りてこられていない奥が待ち焦がれているのが分かる。とっくに存在を知っている熱でかき乱されることを、乞うている。せっかく乾かしてくれた服がまた湿ってしまうと、どうしようもないことを思った。
 寝椅子に本格的に身を埋め、瞼を落とす。今まではどうということもなかった陽の光が、目を焼く心地だった。
「ずいぶん好き勝手をされたと昔は思ったが、それでも宮廷内へ、法に触れたものを持ち込んだら危険という認識はあったようだね」
「だからこそ、尻尾を掴むまでそれなりに苦労したではありませんか。口外どころか周囲に匂わせもしなかったのですから」
「それもそうだった」
 いよいよ思考が回っていない。これ以上醜態を晒す前に、無駄口は脳内に留めた方が無難だ。
「後で誰か寄越します。どうするかは、それまでに」
「考えておく、すまないな」
「いいえ。……よし、入れ!」
 弟が立ちあがる気配と共に、扉が開く音と複数人が入ってくる音が流れてくる。
「香炉を探せ、一つではないはずだ。見つかったら私の研究室と監査に回せ。――連れていけ!」
「はっ」
 憲兵達が、私を居ないものとして活動に移ったのが分かる。それは恐らく、悪意でも隔意でもない。何せ、足音がほとんどしない。どころか、移動や探査の気配はかなり慎重な様子だ。通常の捜索であればもう少し大がかりに行うし、物を移動させることもあるから荒っぽさも出る。会話も普通に飛び交う。今は、やり取り自体はあるが、声量は大幅に抑えられている。
 そうして、捜索している時間もそこまで長くは無かった。規律を守って退去の準備を始めている音を聞きながら、呼吸を整えた。
「皆さん、よろしくお願いしますね」
「はい。レイド秘書官も、ご自愛くださいませ」
 間断なく成されたその返答が、推測の答えだ。退室していく時も、扉も閉める時も、その行動は徹底して丁寧だった。
 誰も居なくなった部屋で、ようやく完全に緊張を解く。奥歯を噛みながら、ろくに回らない思考をそれでも回そうと試みる。
 先回ルクテンティスに赴いて、確かまだ一週間ほどであったはずだ。そこまで短期間で訪れたことはない。明らかに何かあったと言うようなものだ、少しばかり気は重い。それに、相手がある程度、互いに知っているフレスノになるとも限らない。しかしかと言って、他に頼める相手も思いつきはしない。王家にいつ頃からか集団として仕え、王とその継承者にのみ忠誠を誓ってきた隠密達は首領を筆頭に、現在の王である弟に忠を尽くしながら、既に王族でもない自分に対しても未だ操を立ててはくれているが、こういった発散に使う気にはなれない。
 吐いた息の熱さを、唐突に自覚する。肘掛けに凭れかかって、投げ出した腕に額を押しつける。そうして意図して作り出した心もとない影の下で、ようやく瞬きをした。
「操、か」
 自嘲した。自分がそれをどうこう言える立場ではないなど知っているのに、他者に対してそれを強いるを躊躇うなど、滑稽だった。分かったうえで、その選択肢を取れない自分に。
 唇だけで「彼」の名前を辿る。愛称をなぞる。呼ぶなど、ずいぶんと久しぶりだった。呼応したように一際、下腹部が疼く。苦しい、虚しい……淋しい。胸を掻きむしりたくもなったが適わず、唇を噛んだ痛みさえ感覚は鈍く、どこか甘さを伴っている。吐き気さえした。
「やはり、頼むか」
 ルクレンティスまで自分が堪えれば良いだけの話である。彼らは聞きたくない事は逸らし、聞かれたくない事は問わず、一時とはいえ全てを忘れられるよう流してくれるだろう。
 胸に空き続けたままの虚(うろ)を直視させられている今、無理やりにでも視線を引き剥がさなくてはならない。その為に、そう。彼らを利用する。それ以上でも、それ以下でもない。
 ――そうやって、自らに言い含めている時点で、既に彼らを冷徹に切り捨てられなくなっている自分の甘さを、突きつけられていた。

 こういった、意思をあっさり屈して弟に乞うたこの後のことは、あまり覚えていないし、進んで思い出したい類でもない。例えそこに、何らかの思惟の気配を感じたとしても、誘惑を払えなかったのは他でもない、自分自身の弱さなのだから。



 *  *  *

 フードを被って馬車を降りる。館の扉へと通じる石段に寄せて馬車を止められるのも、庭師とあだ名される警備隊の制服たる黒衣の男が誰かしら出向いてくるのも、恐らくは最も扱いの重い上客への特権の一つと知ったのは、通うようになって数度めのことだったか。用心棒という風体に取り繕った二人――今夜は、武官から侍女へと転向して今は後宮の図書室の管理に携わる一人となった変わり者と、王都に滞在していた遊撃隊の副長であり、ノールディンのかつての片腕の片割れだ――を従え、顔を隠したまま私は先導する警備隊の男の後に続く。末広がりに設えられた大階段を上がり、華麗に花と蔦を象嵌された扉の前に立った所で二人はわざとばらけて礼をし、常の手はず通りにそこで見送ってくる。そうして私は、再び花園に足を踏み入れた。

 扉の向こう、すぐは広大なホールとなっている。三階層の吹き抜けになっている天井は高く、煌々と明かりを灯されたシャンデリアが規則的に吊り下がっており、壁際にも点々と燈台が誂えられて、昼の如く明るい。今はホールに人気はほぼ無く、隅の方に娼妓が数人たむろしていて、巡回らしい警備隊員一人と会釈を受けすれ違っただけだ。娼妓達もこちらを一瞥はしたが、一礼をしただけで近付いては来ない。
 一方奥の方からは、多くの人の気配が流れてくる。自分は入ったことが無いがこのホールの向こうにはさらに広間があり、そこでは酒や料理が提供され、楽師や踊り子が場を賑わせ、娼妓の幾人かも酌を務めているのだという。
 見上げれば、一番上の階層から娼妓が一人、こざっぱりとした身なりの少年を横に連れて見下ろしていた。淡い金髪を顔の横でゆるやかに巻いてまとめ、軽やかな水色をした薄物の長衣を纏っている。全体に透明感さえ感じる装いの中、腰に結んだ黒い幅広の帯が彼の印象を際立たせてはいたが、色合いの対照さとは裏腹にしっくりと馴染んで見えた。フレスノである。
 先導者を置いて階段を上がり、最上層に辿り着く。しなやかに近付いてきた彼らに笑いかけたところで、俄かに階下が騒がしくなった。警告的な鈴の音が一回、高く鳴り響く。
「フレスノ、この淫売! 金で股を開く性悪め! 顔を出す度胸もない、そいつの金がそんなに魅力的か!」
 喧騒を裂くように怒声が、真っ直ぐこちらに届く。視線の先で、物腰穏やかだった青灰色の瞳にあっという間に激しい輝きが宿った。階下に向けた横顔の鋭さに、ふと重なるものがある。
「私が先に約束をしていたのだぞ! それを蹴るなど、覚悟は出来ているのか!」
 ホールで、駆けつけたらしい警備隊員達に取り押さえられた男が、叫びながら身を捩じらせている。その顔に、覚えがあるような気がした。
 殺気立ってさえ見える場を静めるように三度、手を打ち鳴らされる音がホールに木霊する。
「困りますね、お客様」
 怒鳴っているわけでもないのに、その声はよく響いた。白い短衣と合わせた履き物は記憶のまま、今夜は濃紺の薄布で全身を覆って現れた館主は、色眼鏡を掛けた顔を真っ直ぐ乱入者へ据えていた。
 拘束された男から、フレスノがそっと視線を外す。
「手前の部屋へ。後は、館主が上手く捌いてくれます」
 見上げてくる視線の、少し躊躇うような趣に、また重なるものがあって、不意に得心した。王になったアストロード。私が果たせなくなった役割を、代わりに受け入れる事を選んでくれた弟。彼が、継承争いで敵対した者に処断を施していった際の横顔の氷山の如き峻烈さと、私だけ、あるいはサダルスードとだけに見せたであろう良心の呵責に苦しむ若者の稚さ。
 そこに、重なったのだと。
 宥めるように頬を軽く撫でれば、強張っていた表情が僅かに緩む。あの時の弟にも、そうしてやりたかったのだと、ようやく気付いた。
「約束の革を用意してきた。気に入ってくれたら良いのだが。……コーディ、お前にも菓子を買ってきた」
 笑みを刻む。連れ立って歩き出しながら心の片隅で、今からでもあの弟に何かをしてやれるだろうかと、考えを巡らせる。公人としては許されなくとも、私人としての有り様を全て取り上げては、遅かれ早かれ人間は潰れる。無力な、ただの兄弟として、何をしてやれるだろう。
 ああ、そうだ。元・財務省の長官が獄中で気が触れ、処刑の瞬間まで戻らなかった理由についても、やや気は重いが問わねばならない。銀の髪を普段はざんばらに流している顔を思い浮かべて、息を漏らした。

 フレスノの部屋に入り、コーディ――見習いの少年にローブと、その隠しに収めてあった菓子の包みを差し出し、一巻きの革――鹿の革らしい。隠密の一人に皮革屋について問うたら、新しい剣帯と共に献上された。確かにそろそろ替え時とは思ってはいたが。少しばかり泣きそうになっていたのは何故だろう――を部屋の主に見せてやる。
 訪れた時の習慣になりつつあるささやかな茶会に笑顔で招かれながら、こういった場では無粋なあれこれをどこかで考えてしまう己の難儀さに、少しばかり呆れた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました

あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」 完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け 可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…? 攻め:ヴィクター・ローレンツ 受け:リアム・グレイソン 弟:リチャード・グレイソン  pixivにも投稿しています。 ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。

批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。

処理中です...