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新月の夜
新月の夜 三
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するりと腰から離れていく腕。頭上で低く唸りのようなものが含まれたため息が空気に熔けた。たったそれだけで、部屋の中はまるで違う世界に来てしまったかのように緊張感に支配される。
毎日のようにこの部屋に来ているのは私の方なのに、今この瞬間だけは完全に彼のものだった。
「…………下品な真似をすることになった上、ベッドメイキングすらされていないとはな」
「……すみません。予約があると伝えてはいたのだけど」
男はテーブルに浅く腰掛けた。
この部屋での照明は古びたランタンの一つしかなく、その頼りない光が彼の体に遮られたせいで顔の方はほとんど影に覆われてしまう。少し目を離せば暗闇に沈んでいきそうだ。
軋む音が止んで再び静寂に包まれる。否、薄い壁で隔たれた隣室やその隣から滲む乱れた女の声や怒声のような男の声が混ざり合い、静かとはとても言えない。
生唾を呑んだ。いつもならば男へ媚びながらしなだれかかるところだが、それをすれば彼の気分を害するということは明らかだった。
何か話して場を繋ぐことすらできないほどに重苦しい空気の中、喉に冷たいナイフの刃を当てられているようなスリルが体を固めている。時折黒い瞳が僅かに動くのを追うだけで精一杯だ。
「どうして俺だとわかった?」
ようやく彼が口を開く。緩く上がった口角とは裏腹に平坦で感情のない声。
観察眼にはそこそこ自信があったが、今まで私が見てきたどの人間とも違っていて、透明な霧が髪の一本一本、爪の先まで余すところなく覆い隠している。
手を伸ばしたとしてもその霧すらも掴めず、体もすり抜けて向こう側へ出てしまうのではないだろうか。
「……匂いと、手袋が同じだったから」
女を誘うような甘い香りがやけに似合う、黒の革手袋をはめた男。
記憶に焼きついたその姿は目の前に座っている男と全く同じ形をしていて、鼻に届く甘さは脳が揺れるような錯覚を覚える。
私の返答に納得しているのかいないのか、獲物を吟味する視線が体を這った。もうとっくに慣れたと思っていたそれに恐怖を感じるのはいつぶりだろうか。
なるほど、酷い人生の中でも今日はとびっきり最悪の日だ。
「どうしたものかな」
本当に悩んでいるのかすらもわからない声で呟きながら、彼は人差し指をくいと曲げる。
命令だと判断したのは正解だったようで、彼のすぐ前へ立つと革手袋に覆われた大きな手が頬に触れた。ひんやりしたそれは唇の縁をなぞったり髪を耳に掛けたり、自由気ままに私の顔を弄んでいる。
素手で無遠慮に触ってくる客よりずっと優しい手つきが逆に不気味で、触れられたところに赤黒い血が塗られているような気さえした。
「顔の造りは悪くない。天使のキスもよく似合うじゃないか。鮮やかな赤毛だが、遺伝か?」
「……母は同じ色でした」
髪を梳く指が時折引っかかって止まるのがいやに恥ずかしい。紳士然とした振る舞いがあまりにも様になっていて、みすぼらしい自分との差を外から見ているような感覚が酷く惨めだ。
首を絞められていたり吐くまで腹を殴られていたりといろいろな自分を見てきたが、この自分がとびきり情けない。
首に指先が触れて現実に引き戻される。
彼がその気になれば一切の抵抗を許さず私を絞め殺せるのだと本能が理解し、一歩だけ遠ざかっていた死への恐怖が背筋をなぞる。
首を掴むかのようにゆっくり伸びる指。手のひらが喉仏を撫でた。空いていた片手に指を絡め取られ、まるで恋人かのように握られて長い指に甲を擽られる。胸を強く踏まれているのかと思うほど呼吸が苦しい。左手は捕まっていないはずなのに、指の一本すら上手く動かすことができなかった。
「怯えるなよ。俺とお前が会うのは三回目。三回会ったらもうお友達だ」
三回。そう、三回目だ。
今日の昼が二回目で、初めて会った一回目は二年前。霧が特に濃い日の夜明け前、娼館までの帰路についていた時。水がタイルを叩くような音に曲がり角を覗き込んだところで。
――路地裏で初めて見た彼は、女の腹を裂いていた。
毎日のようにこの部屋に来ているのは私の方なのに、今この瞬間だけは完全に彼のものだった。
「…………下品な真似をすることになった上、ベッドメイキングすらされていないとはな」
「……すみません。予約があると伝えてはいたのだけど」
男はテーブルに浅く腰掛けた。
この部屋での照明は古びたランタンの一つしかなく、その頼りない光が彼の体に遮られたせいで顔の方はほとんど影に覆われてしまう。少し目を離せば暗闇に沈んでいきそうだ。
軋む音が止んで再び静寂に包まれる。否、薄い壁で隔たれた隣室やその隣から滲む乱れた女の声や怒声のような男の声が混ざり合い、静かとはとても言えない。
生唾を呑んだ。いつもならば男へ媚びながらしなだれかかるところだが、それをすれば彼の気分を害するということは明らかだった。
何か話して場を繋ぐことすらできないほどに重苦しい空気の中、喉に冷たいナイフの刃を当てられているようなスリルが体を固めている。時折黒い瞳が僅かに動くのを追うだけで精一杯だ。
「どうして俺だとわかった?」
ようやく彼が口を開く。緩く上がった口角とは裏腹に平坦で感情のない声。
観察眼にはそこそこ自信があったが、今まで私が見てきたどの人間とも違っていて、透明な霧が髪の一本一本、爪の先まで余すところなく覆い隠している。
手を伸ばしたとしてもその霧すらも掴めず、体もすり抜けて向こう側へ出てしまうのではないだろうか。
「……匂いと、手袋が同じだったから」
女を誘うような甘い香りがやけに似合う、黒の革手袋をはめた男。
記憶に焼きついたその姿は目の前に座っている男と全く同じ形をしていて、鼻に届く甘さは脳が揺れるような錯覚を覚える。
私の返答に納得しているのかいないのか、獲物を吟味する視線が体を這った。もうとっくに慣れたと思っていたそれに恐怖を感じるのはいつぶりだろうか。
なるほど、酷い人生の中でも今日はとびっきり最悪の日だ。
「どうしたものかな」
本当に悩んでいるのかすらもわからない声で呟きながら、彼は人差し指をくいと曲げる。
命令だと判断したのは正解だったようで、彼のすぐ前へ立つと革手袋に覆われた大きな手が頬に触れた。ひんやりしたそれは唇の縁をなぞったり髪を耳に掛けたり、自由気ままに私の顔を弄んでいる。
素手で無遠慮に触ってくる客よりずっと優しい手つきが逆に不気味で、触れられたところに赤黒い血が塗られているような気さえした。
「顔の造りは悪くない。天使のキスもよく似合うじゃないか。鮮やかな赤毛だが、遺伝か?」
「……母は同じ色でした」
髪を梳く指が時折引っかかって止まるのがいやに恥ずかしい。紳士然とした振る舞いがあまりにも様になっていて、みすぼらしい自分との差を外から見ているような感覚が酷く惨めだ。
首を絞められていたり吐くまで腹を殴られていたりといろいろな自分を見てきたが、この自分がとびきり情けない。
首に指先が触れて現実に引き戻される。
彼がその気になれば一切の抵抗を許さず私を絞め殺せるのだと本能が理解し、一歩だけ遠ざかっていた死への恐怖が背筋をなぞる。
首を掴むかのようにゆっくり伸びる指。手のひらが喉仏を撫でた。空いていた片手に指を絡め取られ、まるで恋人かのように握られて長い指に甲を擽られる。胸を強く踏まれているのかと思うほど呼吸が苦しい。左手は捕まっていないはずなのに、指の一本すら上手く動かすことができなかった。
「怯えるなよ。俺とお前が会うのは三回目。三回会ったらもうお友達だ」
三回。そう、三回目だ。
今日の昼が二回目で、初めて会った一回目は二年前。霧が特に濃い日の夜明け前、娼館までの帰路についていた時。水がタイルを叩くような音に曲がり角を覗き込んだところで。
――路地裏で初めて見た彼は、女の腹を裂いていた。
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