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第弐拾参話
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佳朗は、米の一粒まできれいに平らげると、静かに茶碗と箸を置いた。湯呑みに残っていたお茶を飲んで、喉を潤す。
自分でも恥ずかしくなるくらい夢中で食べてしまったな。
佳朗はそう思いつつも、その素直な美味しかったという気持ちと様々に感謝の意を込めて「ごちそうさまでした」と手を合わせた。本当に温かく美味しい食事だった。
「口にあったのであれば幸いだ」
月隠が柔和な笑みでそう返す。佳朗は当然とばかりに頷いた。
食事の礼と思い、食器の片付けは佳朗が行った。台所の水場には給湯器が備え付けられていて、直ぐに湯が出た。驚きながら月隠を見ると、肩を竦めながら言った。
「この北国で冬場に水での家事など、この時代において正気の沙汰ではないと言われてな」
佳朗はたしかにと思いながらも口を噤み、そう諭した何某かに心の中で感謝した。
食器を洗い終わると、ご飯を米櫃に移して羽釜にぬるま湯を張り、佳朗に任された作業は終わった。竈の火は月隠が消してくれた。
羽釜は完全に冷えてからになるため、月隠が洗ってくれるそうだ。そのことについて礼を言うと、月隠はふふと笑みをこぼした。
「礼を言うならこちらだろう。後片付けが早く終わった。ありがとう」
佳朗は恐縮しながらも、どういたしましてと微笑んだ。
月隠の入れてくれた食後の茶を飲みながら、一息ついていると、月隠が何ともなしに呟いた。
「久々に他のものと食事をともにしたが、良いものだな」
「そうなのですか? 里の皆さんとは?」
佳朗は疑問に感じて尋ねた。先程の子どもの様子や月隠の話しぶりから、慕われている人物像を描いていたからだ。
月隠は僅かに笑う。
「私がおっては皆も気を遣おう」
佳朗には、違うとも違わないとも答えられなかった。月隠の考えもわかるし、里の住民にも彼らの気持ちがあるだろう。
「俺もご一緒できてよかったです」
「そうか、ありがとう」
月隠は穏やかに頷くと、長い睫毛を下ろしながらゆったりと茶に口をつけた。
二人で静かな時を過ごしていると、佳朗は月隠から視線を感じた。そちらを伺うと、またあの神秘の瞳でこちらを見つめている。
「どうかしましたか」
月隠は無言だ。
表情は笑ってはいない。かと言って、怒っているわけでもなさそうだ。
それでもぞくりとした。
それはけして悪意ではない。
このわずかな時間、穏やかな対話、美味しい夕餉の時、静かな時間の共有で、佳朗は忘れていただけなのだ。
このひとは、ただ清廉で崇高な、人と異なるものなのだと。
徒人の物差しなどでは推し測ることなどできないのだと。
それ以上声も出ないまま、ただ僅かな呼吸を静かに繰り返す。
夜空のような深い瞳の色にまた魅入られていく。
穏やかさが心地よく、包み込むような温かさ。それでいて物寂しさのようなもの、いや人恋しさに近い想いもあるのが分かった。そして垣間見える不安のようなもの。
月隠さま自身が何かそのような思いを秘めている、のだろうか。
佳朗に答えを知る術はないが、確かにそう思った。
佳朗は、微笑んだ。
安心してもらいたいと思って。
数刻にも満たない間柄だが、月隠に対し信用してよいのだろうと理解している。彼は悪意なく寛容で人情もある。彼も佳朗の存在を許容してくれているとも理解している。
――しかし、おそらくは、これ以上探ってはならないのだと、佳朗は分かっていた。
彼が何モノで。
どうして此処にいて。
いったい何をしているのか。
佳朗には憶測すら立てられないが、この月魄の素性を追うことは、佳朗のするべきことではないのだろうと理解できた。
佳朗はこれ以上踏み込むつもりはなかった。
しかしそれは拒絶ではない。
否定でもない。
彼は佳朗の儚さを理解している。
それでも佳朗を傍に置いてくれたのだ。
この少なからず抱いている互いの信頼をなくす気など毛頭なかった。
追求するつもりもなく、探るつもりもなく、また素直に尋ねるつもりもない。
ただ信頼を感じ傍らにいる。
それだけでいい。
それを月隠に伝えたい。
しかしながら佳朗にはその術がなかった。
探れないだけではなく、探るつもりがないとすら伝えられない。
佳朗は考えた。
それなら、自分はただ明け渡すのみ。
全てを明け渡し、全幅の信頼を表す。
それが一番の信頼の表し方だと、佳朗は思った。
月隠さまなら大丈夫。
佳朗は、月隠の視線を全て受け入れた。
ただ微笑んで受け入れた。
それはまるで――
悠久の夜空を垣間見るようなものであった。
まるで夜空に吸い込まれるように、感情なのか記憶なのか、月隠の奔流に飲まれていった。
佳朗の周りを、流星のように色々なものが流れ去っていく。
あまりにも多すぎて詳細はわからない。
分かっているのは、想像もつかないほど永い時を月隠は人の子に寄り添ってきたのだということ。
好意、信頼、敬愛、崇拝、畏怖、不義、背信、怨嗟に至るまで、様々な感情、様々な出来事が月隠を取り巻いた。
それはただ、まるで月が満ち欠けるように繰り返される。
何度もなんども。
けして終わることがない。
何度も繰り返され、どのような目にあっても、月隠が終わらせなかった。
月隠は人の子を見捨てなかった。
見放さなかった。
その記憶――。
はたと気がつくと、暗い空間だった。
たしかに暗いのに、それでも何もない空間だということが分かる。
佳朗は、ふわりと導かれるように下り立った。
地面のようなものは、ないのにある。
佳朗はたしかに何処かに下り立った。
シャツの袖で、ぐしと涙を拭った。
良いこともあったろう。
けれど、数え切れない悪しきことがあったはずだ。
それでも――
それでも月隠は、人の子を見捨てなかった。
切りたくない情が、月隠にはあったのだろう。
佳朗はまたにじみ出てきた涙を拭いながらそう思った。
何かが聞こえて、はっと顔を上げる。
耳を澄まして見回せば、こちらからだと分かった。
暗闇しかない。
それでも佳朗はその先を見据えた。
「誰かが泣いている……」
自分でも恥ずかしくなるくらい夢中で食べてしまったな。
佳朗はそう思いつつも、その素直な美味しかったという気持ちと様々に感謝の意を込めて「ごちそうさまでした」と手を合わせた。本当に温かく美味しい食事だった。
「口にあったのであれば幸いだ」
月隠が柔和な笑みでそう返す。佳朗は当然とばかりに頷いた。
食事の礼と思い、食器の片付けは佳朗が行った。台所の水場には給湯器が備え付けられていて、直ぐに湯が出た。驚きながら月隠を見ると、肩を竦めながら言った。
「この北国で冬場に水での家事など、この時代において正気の沙汰ではないと言われてな」
佳朗はたしかにと思いながらも口を噤み、そう諭した何某かに心の中で感謝した。
食器を洗い終わると、ご飯を米櫃に移して羽釜にぬるま湯を張り、佳朗に任された作業は終わった。竈の火は月隠が消してくれた。
羽釜は完全に冷えてからになるため、月隠が洗ってくれるそうだ。そのことについて礼を言うと、月隠はふふと笑みをこぼした。
「礼を言うならこちらだろう。後片付けが早く終わった。ありがとう」
佳朗は恐縮しながらも、どういたしましてと微笑んだ。
月隠の入れてくれた食後の茶を飲みながら、一息ついていると、月隠が何ともなしに呟いた。
「久々に他のものと食事をともにしたが、良いものだな」
「そうなのですか? 里の皆さんとは?」
佳朗は疑問に感じて尋ねた。先程の子どもの様子や月隠の話しぶりから、慕われている人物像を描いていたからだ。
月隠は僅かに笑う。
「私がおっては皆も気を遣おう」
佳朗には、違うとも違わないとも答えられなかった。月隠の考えもわかるし、里の住民にも彼らの気持ちがあるだろう。
「俺もご一緒できてよかったです」
「そうか、ありがとう」
月隠は穏やかに頷くと、長い睫毛を下ろしながらゆったりと茶に口をつけた。
二人で静かな時を過ごしていると、佳朗は月隠から視線を感じた。そちらを伺うと、またあの神秘の瞳でこちらを見つめている。
「どうかしましたか」
月隠は無言だ。
表情は笑ってはいない。かと言って、怒っているわけでもなさそうだ。
それでもぞくりとした。
それはけして悪意ではない。
このわずかな時間、穏やかな対話、美味しい夕餉の時、静かな時間の共有で、佳朗は忘れていただけなのだ。
このひとは、ただ清廉で崇高な、人と異なるものなのだと。
徒人の物差しなどでは推し測ることなどできないのだと。
それ以上声も出ないまま、ただ僅かな呼吸を静かに繰り返す。
夜空のような深い瞳の色にまた魅入られていく。
穏やかさが心地よく、包み込むような温かさ。それでいて物寂しさのようなもの、いや人恋しさに近い想いもあるのが分かった。そして垣間見える不安のようなもの。
月隠さま自身が何かそのような思いを秘めている、のだろうか。
佳朗に答えを知る術はないが、確かにそう思った。
佳朗は、微笑んだ。
安心してもらいたいと思って。
数刻にも満たない間柄だが、月隠に対し信用してよいのだろうと理解している。彼は悪意なく寛容で人情もある。彼も佳朗の存在を許容してくれているとも理解している。
――しかし、おそらくは、これ以上探ってはならないのだと、佳朗は分かっていた。
彼が何モノで。
どうして此処にいて。
いったい何をしているのか。
佳朗には憶測すら立てられないが、この月魄の素性を追うことは、佳朗のするべきことではないのだろうと理解できた。
佳朗はこれ以上踏み込むつもりはなかった。
しかしそれは拒絶ではない。
否定でもない。
彼は佳朗の儚さを理解している。
それでも佳朗を傍に置いてくれたのだ。
この少なからず抱いている互いの信頼をなくす気など毛頭なかった。
追求するつもりもなく、探るつもりもなく、また素直に尋ねるつもりもない。
ただ信頼を感じ傍らにいる。
それだけでいい。
それを月隠に伝えたい。
しかしながら佳朗にはその術がなかった。
探れないだけではなく、探るつもりがないとすら伝えられない。
佳朗は考えた。
それなら、自分はただ明け渡すのみ。
全てを明け渡し、全幅の信頼を表す。
それが一番の信頼の表し方だと、佳朗は思った。
月隠さまなら大丈夫。
佳朗は、月隠の視線を全て受け入れた。
ただ微笑んで受け入れた。
それはまるで――
悠久の夜空を垣間見るようなものであった。
まるで夜空に吸い込まれるように、感情なのか記憶なのか、月隠の奔流に飲まれていった。
佳朗の周りを、流星のように色々なものが流れ去っていく。
あまりにも多すぎて詳細はわからない。
分かっているのは、想像もつかないほど永い時を月隠は人の子に寄り添ってきたのだということ。
好意、信頼、敬愛、崇拝、畏怖、不義、背信、怨嗟に至るまで、様々な感情、様々な出来事が月隠を取り巻いた。
それはただ、まるで月が満ち欠けるように繰り返される。
何度もなんども。
けして終わることがない。
何度も繰り返され、どのような目にあっても、月隠が終わらせなかった。
月隠は人の子を見捨てなかった。
見放さなかった。
その記憶――。
はたと気がつくと、暗い空間だった。
たしかに暗いのに、それでも何もない空間だということが分かる。
佳朗は、ふわりと導かれるように下り立った。
地面のようなものは、ないのにある。
佳朗はたしかに何処かに下り立った。
シャツの袖で、ぐしと涙を拭った。
良いこともあったろう。
けれど、数え切れない悪しきことがあったはずだ。
それでも――
それでも月隠は、人の子を見捨てなかった。
切りたくない情が、月隠にはあったのだろう。
佳朗はまたにじみ出てきた涙を拭いながらそう思った。
何かが聞こえて、はっと顔を上げる。
耳を澄まして見回せば、こちらからだと分かった。
暗闇しかない。
それでも佳朗はその先を見据えた。
「誰かが泣いている……」
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