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第二部 秋雨(あきさめ)
第10話
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「何のつもりですか、結衣さん」
「お嬢……」
戸田の車の助手席に乗り込んだあたしに、彼と轟が声を上げた。
あたしは後部座席を振り返り、
「轟、ごめんね」
と言った。
「あんたが組のためにこれまでいろんなことしてきてくれたこと、あたしわかってるから」
あたしは手を伸ばして、轟の手錠に繋がれた両手を握った。
ごつごつして、大きな男の人の手だった。
ヤクザなんかにならなければ、人並みの幸せを掴むことができたはずの手だった。
「あんなのがあたしのじいさんでごめんね。あんなのが組の頭でごめんね。
奥さんと娘さんのことは心配いらないから。あたしが責任もって組に面倒みさせるから」
それが今のあたしにできる精一杯のことだと思った。
「それから、これはもしもの話になっちゃうんだけど、轟がまたシャバに出てこられたとき、じいさんが死んでて、田所かあたしが組を治めてたら、また組に戻ってきて。
田所もあたしも轟のこと家族だって思ってるから。
あたしたち、じいさんとは違うから」
轟はぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「ラブスカのreYとmomoのサイン、もらってきてあげられなくて、ごめんね」
あたしも涙がこぼれてた。
ぱち、ぱち、ぱち、と戸田が堪に障る拍手をした。
「組のために逮捕される構成員と、彼に目をかけていた頭の孫の感動的な別れ、といったところでしょうか。
用件はそれだけですか?」
あたしは戸田を睨みつけた。
「おお、こわい。さすがおじいさまのお言いつけ通り、ヤクザ相手に体を売っていただけありますね」
戸田は本当に何でも知っているのだ。
「その年でもういっぱしの極道の女の顔になってらっしゃる」
褒められているのか、馬鹿にされているのか、たぶんその両方だろうとあたしは思った。
憎たらしい男だけれど、今のあたしには目の前の男の力が必要だった。
「戸田刑事、あたし、あなたと取引きがしたいの」
だから、あたしはそう言った。
「取引き?」
そう、取引きだ。
相手のことを調べ尽しているのは戸田だけの特権じゃなかった。
それは相手より優位に立つための必要条件だ。
だからあたしもいつかきっと役に立つことがあるだろうと、戸田のことは初めて会った二年前から田所や轟を使って調べ尽していた。
あたしは戸田が喉から手が出るほど欲しがっている情報が何か知っていた。
その回答も用意はできていた。
それはずっと、あたしの中で使われる日を待っていた。
「あたしは夏目メイの情報が知りたい」
「その代わりに、あなたはぼくに何の情報をくれるんですか?」
「宮沢渉と、名古屋マユミの潜伏場所でどうかしら?」
戸田の顔色が変わった。
彼がキャリア組から脱落し、マル暴担当になったのは二年前のことだけれど、それよりさらに遡ること七年、今から九年前、戸田は愛知県警にいた。
九年前、1999年の夏、愛知県名古屋市では世界犯罪史上はじめての大量殺人事件が起きていた。
その事件は、少女ギロチン連続殺人事件と呼ばれている。
名古屋市内で連日、無数の少女の生首が発見されるというおぞましい事件だった。
戸田は、彼の指導係であった安田という刑事とともに、この事件の捜査に参加していた。
犠牲者百人以上という大量殺人事件は、まだ中学生だった少女が犯人であるとされ、その意味でもこの事件は世界犯罪史に名を残し、一応の解決を迎えていた。
しかし事件の最中、その安田という刑事の妻、旧姓・名古屋マユミが行方不明になっていた。
マユと呼ばれていたそのあたしたちと同い年の女の子は、犯人であるとされた少女の兄、宮沢渉と友人関係にあり、ふたりは共に少女によって殺害され、少女の家の庭から発見された数十体の遺体のいずれかだというのが警察の見解だった。
だが、真実は違っていた。
宮沢渉こそが真犯人であり、少女はただ犯人にしたてあげられてしまっただけだった。
宮沢渉は名古屋マユミを連れて行方をくらましていたのだ。
ふたりの潜伏場所を、あたしは掴んでいた。
「あの事件の真犯人、宮沢渉を捕まえることができたなら、あなたキャリア組に復帰できるんじゃないかしら?」
あたしは戸田の返事を待った。
「あなたは夏目メイの何について知りたいんですか?」
返事を待つ必要などなかった。
戸田は簡単にあたしの取引きに応じた。
「先にふたりの潜伏場所について聞かなくてもいいの?」
そう尋ねると、
「興味がありません」
と戸田は言った。
少し驚きはしましたけれどね、と戸田は続けた。
「警察が、解決したとして捜査を打ち切った事件とはいえ、暴力団がぼくら刑事より先にふたりの潜伏先を調べあげているとは思いもよりませんでした」
あたしは組が仕入れている銃を密輸している中東にある国の、銃や麻薬の密輸を非合法に行う組織の末端構成員のリストに、宮沢渉の名があったのを田所と轟が見つけたことを話した。
あとは現地の知り合いに高い金を積めば、宮沢渉と名古屋マユミの潜伏先はすぐに見付かった。
彼らは異国の地で、犯罪に手を染めながらも堂々とただの一般人として生活していた。
ヒナコという娘までいた。
「アフガニスタンやイラクでの戦争で、彼の名が常に対米軍の外国人傭兵部隊のリストにあったところまでは我々も掴んでいたのですがね」
戸田たちにはそれ以降の宮沢渉の足取りはつかめなかったという。
「それにしても密輸に手を染めているとは、彼も落ちたものです。
彼は殺人者としての類稀な才能を持っていました。彼の才能なくして、少女ギロチン連続殺人事件は世界犯罪史に名を残す事件にはなりえなかった。
そんな彼がたえまなく紛争が続く中東で傭兵として活動しているという事実には正直、この狭い島国にはなかった彼の居場所をようやく彼は見つけることができたのだと、ぼくは心から祝福しました。
しかし、まさか傭兵をやめているとは……」
類稀な才能を持つ殺人者も、戦争で人を殺しすぎて、殺すことに飽きてしまったのかもしれなかった。
あるいは戦争で、もう傭兵として働くことができない体になってしまったのかもしれなかった。
警察とヤクザがもちつもたれつの関係にあるとは、こういうことだった。
警察にしか手に入れられない情報があり、ヤクザだからこそ手に入れられる情報がある。
だから警察はヤクザの組を潰さない。
だからヤクザがこの国から姿を消すことはない。
「県警の少年事件課に、九年前にぼくの指導係だった安田という刑事がいます。名古屋マユミの夫です。その情報は彼に提供してあげてください」
戸田はそう言った。
「ぼくがあなたとの取引きに応じる気になったのは、ぼくもまた夏目メイについては、その安田という刑事からの情報しか持ち得ないからです」
安田という刑事は少年事件課ということだった。
つまり、売春強要事件の全貌を知りうる刑事だということだ。
それはあたしが最も欲しい情報だった。
ともかく取引きは成立した。
あたしは戸田に、夏に起きた女子高校生売春強要事件で三人の容疑者に売春を強要された加藤麻衣という女の子の友達であることを告げた。
「一度しか会ったことはないんだけどね。
少しだけ話して、ケータイの番号を交換しただけで、それっきり電話もメールもお互いにしてないんだ。だけど麻衣はそれでもあたしの大切な友達」
あんなに自分に似てる子にあたしはこれまで出会ったことがなかったし、これからも出会うことはないと思った。
じいさんの命令通り夏目メイとこども同士の抗争をするつもりはあたしにはなくて、夏目メイが加藤麻衣の事件に関わっているのなら、彼女が麻衣に売春を強要していたのなら、その報いを彼女に受けさせたいだけだと話した。
「なるほど。奇妙な偶然が重なって、あなたをとりまく環境は実に実におもしろいことになっているんですね」
戸田は感心したようにそう言うと、
「ご自宅はどちらですか? ここでお話ししているのも悪くないですが、轟さんを署に連行するついでにお送りしますよ」
あたしの家くらい知ってるくせに戸田はそう言って車を出した。
ハルに会いたかった。
会って、yoshiの死体をコンクリート詰めにして海に棄てたあの事件、じいさんが鬼頭建設の若い奴にやらせたというその事件に、ハルが関わっていないことを確かめたかった。
「死体が入ったドラム缶にコンクリート詰めたりしてないよね?」
なんて聞けない。
だからあの日あの時間ハルが何をしていたか聞こうと思った。
あたしは、あたしの家に向かおうとしていた戸田に、鬼頭建設の事務所を訪ねるように言った。
戸田からはいくつか夏目メイに関する貴重な情報を手に入れることができた。
思いもよらなかったのは、城戸女学園の教師で、あたしたちの担任でもある要雅雪の情報まで手に入れることができたことだった。
戸田の言葉通り、奇妙な偶然が重なって、あたしを取り巻く環境が実におもしろいことになっていた。
あたしたちは鬼頭建設の駐車場で別れた。
あたしは轟に裁判には必ず顔を出すと約束した。
ハルとは秋葉原で遊んで以来会っていなかった。
秋葉原でナオと別れて、ふたりきりで電車に揺られているとき、ハルは随分酔っぱらっていたからきっと覚えてはいないだろうけれど、彼はずっとあたしの膝枕ですやすやと寝息を立てていた。
はじめて見るハルの寝顔は、とてもかわいかった。
ときどき、寝言であたしの名前を呼んだ。
うぬぼれじゃなく、ハルはあたしのことが好きで好きでしょうがないんだと思った。
「ねぇ、ハル、知ってる? あたしも同じくらいハルのことが好きだよ」
あたしはハルの、夏に日差しを浴びすぎたせいで赤茶けた頭を優しく撫でた。
薄い唇に、唇を重ねた。
それが、ハルは覚えていない、あたしたちのファーストキスだった。
あたしたちが生まれるずっと前から、この国の教育は中学を卒業したら高校へ行くのが当たり前になっていて、高校を卒業したら大学に行くのが当たり前になっていた。
今年の春、あたしが卒業した中学校から高校へ進学しなかったのは、高校生の彼氏に妊娠させられて不登校になった、「かな」という名前の女の子だけだった。
あたしは勉強は嫌いじゃないし、たぶんそれなりの大学に行って、きっと大学院にも行く。
だからあたしが就職をするころにはたぶん24とか25とかになっている。
あたしがやっとどこかの会社に新入社員として入社する頃、中学を卒業してすぐ15歳で働きはじめたハルはきっとナオのように現場を任されるようになっているだろう。
中学を卒業して、いくら行ける高校がなかったからといっても、バイトじゃなくてちゃんと就職して働いて、お金を稼いでいるハルのことをあたしは尊敬していた。
秋葉原でのお金の使い方はちょっとアレだなって思ったけれど、ハルはギャンブルもしないし風俗にも行かない。
まだ15歳だからということもあるけれど、煙草にも、それからシャブにも興味がないみたいだった。お酒は飲んでたけど。
ハルは、夏休みにあたしが毎晩相手にさせられてたようなヤクザたちと違って、あたしとも違って、とてもまっすぐに、一生懸命生きている男の子だった。
あたしはハルさえ求めてくれたら、ハルにあたしのすべてを差し出しても、捧げてもいいと思ってた。
大好きだった。
いつかハルがナオのように、あたしの正体を知って離れていくときがくるとしても、それまででいいからあたしはハルのそばにいたかった。
あたしたちがよく行くゲームセンターは土日だけ女の子はメダルゲーム用のメダルが50枚、500円相当がもらえて、その日だけはハルは大好きな格闘ゲームをする前にいつもいっしょにメダルゲームに付き合ってくれた。
明日は土曜日。
ハルは仕事がお休み。
ハルのシフトは全部、あたしの頭に入ってる。
ねぇ、ハル、明日もいっしょに遊ぼう?
あたしは鬼頭建設の事務所の扉を開けた瞬間から、ただならぬ空気を感じていた。
いつもなら仕事を終えたハルが、まだ山積みの仕事を抱える現場監督のナオに冗談を言って叱られていたりする、そんな時間のはずだった。
だけど事務所には、ハルの姿もナオの姿もなかった。
「お嬢様っ」
経理の未来ちゃんが顔を上げて、あたしを呼んだ。
「ハルくんが……」
その後に続いた言葉を耳にしたとき、あたしの目の前が真っ暗になった。
「お嬢……」
戸田の車の助手席に乗り込んだあたしに、彼と轟が声を上げた。
あたしは後部座席を振り返り、
「轟、ごめんね」
と言った。
「あんたが組のためにこれまでいろんなことしてきてくれたこと、あたしわかってるから」
あたしは手を伸ばして、轟の手錠に繋がれた両手を握った。
ごつごつして、大きな男の人の手だった。
ヤクザなんかにならなければ、人並みの幸せを掴むことができたはずの手だった。
「あんなのがあたしのじいさんでごめんね。あんなのが組の頭でごめんね。
奥さんと娘さんのことは心配いらないから。あたしが責任もって組に面倒みさせるから」
それが今のあたしにできる精一杯のことだと思った。
「それから、これはもしもの話になっちゃうんだけど、轟がまたシャバに出てこられたとき、じいさんが死んでて、田所かあたしが組を治めてたら、また組に戻ってきて。
田所もあたしも轟のこと家族だって思ってるから。
あたしたち、じいさんとは違うから」
轟はぽろぽろと大粒の涙をこぼした。
「ラブスカのreYとmomoのサイン、もらってきてあげられなくて、ごめんね」
あたしも涙がこぼれてた。
ぱち、ぱち、ぱち、と戸田が堪に障る拍手をした。
「組のために逮捕される構成員と、彼に目をかけていた頭の孫の感動的な別れ、といったところでしょうか。
用件はそれだけですか?」
あたしは戸田を睨みつけた。
「おお、こわい。さすがおじいさまのお言いつけ通り、ヤクザ相手に体を売っていただけありますね」
戸田は本当に何でも知っているのだ。
「その年でもういっぱしの極道の女の顔になってらっしゃる」
褒められているのか、馬鹿にされているのか、たぶんその両方だろうとあたしは思った。
憎たらしい男だけれど、今のあたしには目の前の男の力が必要だった。
「戸田刑事、あたし、あなたと取引きがしたいの」
だから、あたしはそう言った。
「取引き?」
そう、取引きだ。
相手のことを調べ尽しているのは戸田だけの特権じゃなかった。
それは相手より優位に立つための必要条件だ。
だからあたしもいつかきっと役に立つことがあるだろうと、戸田のことは初めて会った二年前から田所や轟を使って調べ尽していた。
あたしは戸田が喉から手が出るほど欲しがっている情報が何か知っていた。
その回答も用意はできていた。
それはずっと、あたしの中で使われる日を待っていた。
「あたしは夏目メイの情報が知りたい」
「その代わりに、あなたはぼくに何の情報をくれるんですか?」
「宮沢渉と、名古屋マユミの潜伏場所でどうかしら?」
戸田の顔色が変わった。
彼がキャリア組から脱落し、マル暴担当になったのは二年前のことだけれど、それよりさらに遡ること七年、今から九年前、戸田は愛知県警にいた。
九年前、1999年の夏、愛知県名古屋市では世界犯罪史上はじめての大量殺人事件が起きていた。
その事件は、少女ギロチン連続殺人事件と呼ばれている。
名古屋市内で連日、無数の少女の生首が発見されるというおぞましい事件だった。
戸田は、彼の指導係であった安田という刑事とともに、この事件の捜査に参加していた。
犠牲者百人以上という大量殺人事件は、まだ中学生だった少女が犯人であるとされ、その意味でもこの事件は世界犯罪史に名を残し、一応の解決を迎えていた。
しかし事件の最中、その安田という刑事の妻、旧姓・名古屋マユミが行方不明になっていた。
マユと呼ばれていたそのあたしたちと同い年の女の子は、犯人であるとされた少女の兄、宮沢渉と友人関係にあり、ふたりは共に少女によって殺害され、少女の家の庭から発見された数十体の遺体のいずれかだというのが警察の見解だった。
だが、真実は違っていた。
宮沢渉こそが真犯人であり、少女はただ犯人にしたてあげられてしまっただけだった。
宮沢渉は名古屋マユミを連れて行方をくらましていたのだ。
ふたりの潜伏場所を、あたしは掴んでいた。
「あの事件の真犯人、宮沢渉を捕まえることができたなら、あなたキャリア組に復帰できるんじゃないかしら?」
あたしは戸田の返事を待った。
「あなたは夏目メイの何について知りたいんですか?」
返事を待つ必要などなかった。
戸田は簡単にあたしの取引きに応じた。
「先にふたりの潜伏場所について聞かなくてもいいの?」
そう尋ねると、
「興味がありません」
と戸田は言った。
少し驚きはしましたけれどね、と戸田は続けた。
「警察が、解決したとして捜査を打ち切った事件とはいえ、暴力団がぼくら刑事より先にふたりの潜伏先を調べあげているとは思いもよりませんでした」
あたしは組が仕入れている銃を密輸している中東にある国の、銃や麻薬の密輸を非合法に行う組織の末端構成員のリストに、宮沢渉の名があったのを田所と轟が見つけたことを話した。
あとは現地の知り合いに高い金を積めば、宮沢渉と名古屋マユミの潜伏先はすぐに見付かった。
彼らは異国の地で、犯罪に手を染めながらも堂々とただの一般人として生活していた。
ヒナコという娘までいた。
「アフガニスタンやイラクでの戦争で、彼の名が常に対米軍の外国人傭兵部隊のリストにあったところまでは我々も掴んでいたのですがね」
戸田たちにはそれ以降の宮沢渉の足取りはつかめなかったという。
「それにしても密輸に手を染めているとは、彼も落ちたものです。
彼は殺人者としての類稀な才能を持っていました。彼の才能なくして、少女ギロチン連続殺人事件は世界犯罪史に名を残す事件にはなりえなかった。
そんな彼がたえまなく紛争が続く中東で傭兵として活動しているという事実には正直、この狭い島国にはなかった彼の居場所をようやく彼は見つけることができたのだと、ぼくは心から祝福しました。
しかし、まさか傭兵をやめているとは……」
類稀な才能を持つ殺人者も、戦争で人を殺しすぎて、殺すことに飽きてしまったのかもしれなかった。
あるいは戦争で、もう傭兵として働くことができない体になってしまったのかもしれなかった。
警察とヤクザがもちつもたれつの関係にあるとは、こういうことだった。
警察にしか手に入れられない情報があり、ヤクザだからこそ手に入れられる情報がある。
だから警察はヤクザの組を潰さない。
だからヤクザがこの国から姿を消すことはない。
「県警の少年事件課に、九年前にぼくの指導係だった安田という刑事がいます。名古屋マユミの夫です。その情報は彼に提供してあげてください」
戸田はそう言った。
「ぼくがあなたとの取引きに応じる気になったのは、ぼくもまた夏目メイについては、その安田という刑事からの情報しか持ち得ないからです」
安田という刑事は少年事件課ということだった。
つまり、売春強要事件の全貌を知りうる刑事だということだ。
それはあたしが最も欲しい情報だった。
ともかく取引きは成立した。
あたしは戸田に、夏に起きた女子高校生売春強要事件で三人の容疑者に売春を強要された加藤麻衣という女の子の友達であることを告げた。
「一度しか会ったことはないんだけどね。
少しだけ話して、ケータイの番号を交換しただけで、それっきり電話もメールもお互いにしてないんだ。だけど麻衣はそれでもあたしの大切な友達」
あんなに自分に似てる子にあたしはこれまで出会ったことがなかったし、これからも出会うことはないと思った。
じいさんの命令通り夏目メイとこども同士の抗争をするつもりはあたしにはなくて、夏目メイが加藤麻衣の事件に関わっているのなら、彼女が麻衣に売春を強要していたのなら、その報いを彼女に受けさせたいだけだと話した。
「なるほど。奇妙な偶然が重なって、あなたをとりまく環境は実に実におもしろいことになっているんですね」
戸田は感心したようにそう言うと、
「ご自宅はどちらですか? ここでお話ししているのも悪くないですが、轟さんを署に連行するついでにお送りしますよ」
あたしの家くらい知ってるくせに戸田はそう言って車を出した。
ハルに会いたかった。
会って、yoshiの死体をコンクリート詰めにして海に棄てたあの事件、じいさんが鬼頭建設の若い奴にやらせたというその事件に、ハルが関わっていないことを確かめたかった。
「死体が入ったドラム缶にコンクリート詰めたりしてないよね?」
なんて聞けない。
だからあの日あの時間ハルが何をしていたか聞こうと思った。
あたしは、あたしの家に向かおうとしていた戸田に、鬼頭建設の事務所を訪ねるように言った。
戸田からはいくつか夏目メイに関する貴重な情報を手に入れることができた。
思いもよらなかったのは、城戸女学園の教師で、あたしたちの担任でもある要雅雪の情報まで手に入れることができたことだった。
戸田の言葉通り、奇妙な偶然が重なって、あたしを取り巻く環境が実におもしろいことになっていた。
あたしたちは鬼頭建設の駐車場で別れた。
あたしは轟に裁判には必ず顔を出すと約束した。
ハルとは秋葉原で遊んで以来会っていなかった。
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あたしは勉強は嫌いじゃないし、たぶんそれなりの大学に行って、きっと大学院にも行く。
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中学を卒業して、いくら行ける高校がなかったからといっても、バイトじゃなくてちゃんと就職して働いて、お金を稼いでいるハルのことをあたしは尊敬していた。
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まだ15歳だからということもあるけれど、煙草にも、それからシャブにも興味がないみたいだった。お酒は飲んでたけど。
ハルは、夏休みにあたしが毎晩相手にさせられてたようなヤクザたちと違って、あたしとも違って、とてもまっすぐに、一生懸命生きている男の子だった。
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大好きだった。
いつかハルがナオのように、あたしの正体を知って離れていくときがくるとしても、それまででいいからあたしはハルのそばにいたかった。
あたしたちがよく行くゲームセンターは土日だけ女の子はメダルゲーム用のメダルが50枚、500円相当がもらえて、その日だけはハルは大好きな格闘ゲームをする前にいつもいっしょにメダルゲームに付き合ってくれた。
明日は土曜日。
ハルは仕事がお休み。
ハルのシフトは全部、あたしの頭に入ってる。
ねぇ、ハル、明日もいっしょに遊ぼう?
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いつもなら仕事を終えたハルが、まだ山積みの仕事を抱える現場監督のナオに冗談を言って叱られていたりする、そんな時間のはずだった。
だけど事務所には、ハルの姿もナオの姿もなかった。
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