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第二部 秋雨(あきさめ)
第20話
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探偵に言われた「夏雲」という新進気鋭の作家「二代目花房ルリヲ」が書いたというケータイ小説を、あたしは帰り道の書店で買った。
「夏雲」は「加藤麻衣 著」とあり、「二代目花房ルリヲ」の名義では書かれておらず、探すのに随分手間取ったけれど、帯をめくるとちゃんと「二代目花房ルリヲ 著」とあった。
帯には、女子高生売春強要事件の真相、と書かれていた。
ケータイ小説は、主人公と作者が同じ名前であることが多い。映画やドラマにもなった「恋空」や「赤い糸」が実際にあった体験をもとにしていることなどから、そういう形を取る作品が多いのだと思う。
「加藤麻衣」という名前、そして「女子高生の売春強要事件」をテーマとして扱っていると知り、あたしは書店で本を手に取るその腕に鳥肌が立つほど嫌な予感がした。
あたしが書店で思わずページをめくり前書きを読むと、そこには帯に書かれていた事件について触れられていて、そのケータイ小説が「あたしの知る加藤麻衣の物語」であり、主人公の名前もやはり「加藤麻衣」であることがわかった。
帰り道の電車の中で、いつの間にか降りるべき駅を乗り過ごしてしまうほど、あたしはそのケータイ小説を読み耽った。
確かに探偵の言う通り、あたしが知りたかったことがそこにはあった。
たとえばシュウという男の子のことだ。
彼は草詰アリスに振られてから横浜駅に滑り込んできた新幹線に身を投げるまでの間に、麻衣と会っていた。
伝言ダイヤルで体を売らされていた麻衣はお客としてやってきた彼に男としての喜びを教えてあげていた。中出しさせていた。
田所や轟たちに蜂の巣にされたあのyoshiという少年のことも書かれていた。
彼がどんな経緯で麻衣のもとを離れ、夏目メイに組みすることになったのか、そのケータイ小説には綴られていた。痛々しくて見ていられないようなシーンが何か所もあった。
そして、「二代目花房ルリヲ」もまた彼女を買い、そのペンネームのままで物語中盤に登場し、内藤美嘉のレイプのインターネット実況中継を麻衣といっしょに見ていた。
未成年で実名報道されないはずの麻衣の名前が、なぜ当たり前のように使われているかといえば、「加藤麻衣」という名は「二代目花房ルリヲの小説においてヒロインに与えられる名前」だからだ。
誰もあの事件の被害者の名前が「加藤麻衣」だということは知らないから、この物語も「二代目花房ルリヲが書いた加藤麻衣の物語」のひとつとして受け入れられるのだろう。
加藤麻衣以外の登場人物の多くは有名ケータイ小説家たちからとられていた。
それについて、あるいはケータイ小説を書くに至った経緯について、作者である二代目花房ルリヲはこう語っている。
「ぼくがこのように横書きと無意味な改行に溢れたケータイ小説を書くことに抵抗を示す方が少なからずいると思う。
特に父・花房ルリヲの息子としてのぼくを応援してくださっている方にとっては、父のケータイ小説が皆さんからずいぶんと酷評を受けたように、ぼくのこの小説も酷評されることだろう。
わかってほしいのは、ぼくや父がこうしてケータイ小説を書くのは、スィーツ(笑)と2ちゃんねるやそこら中のブログでさげすまれているケータイ小説という場所に文学を持ち込みたかったという、ただそれだけのことなのだ。
ケータイ小説は無名の新人でも五万部を売り上げることを皆さんはご存知だろうか?
ぼくや妹が好きなテレビゲームにドラゴンクエストという多分皆さんも一度くらいはプレイしたことがあるだろうゲームがあるが、ドラゴンクエストはたぶん来年の三月に発売されるだろう最新作をニンテンドーDS用ソフトとして発売すると発表している。
ドラゴンクエストはこれまで、リメイクや外伝を除いたナンバリングタイトルをすべてファミコンやスーパーファミコン、プレイステーションやプレイステーション2といったゲーム機をテレビに繋ぐ、いわゆる据え置き機で発売してきた。
一部の人たちは発売前からアマゾンのレビューで携帯ゲーム機での発売に対して星ひとつの酷評をしていたりするが、これまでドラゴンクエストが据え置き機で発売されてきたのはただ一番売れているゲーム機で発売してきたというだけのことであり、それならば最新作がニンテンドーDSで発売されるのも納得というものであろう。
ぼくや父も、一番売れる形でぼくたちの文学を世に出したい、そう考えた結果のケータイ小説としての出版であるとどうかご理解頂きたい。
今回、『夏雲』を書くにあたって、劇中人物の多くは有名ケータイ小説家の方々から名前を拝借した。
これはぼくから彼女たちに対してのささやかなメッセージである。
彼女たちがどんな受け取り方をするか、それは彼女たちの自由だし、彼女たちがスイーツ(笑)と呼ばれることに抵抗がなく、いつ終わるとも知れないケータイ小説ブームと共に自らの作家生命を共にすると言うならば好きにすればいいと思う。
繰り返すがぼくたちはただ、スイーツ(笑)とライトノベルの読者からさえ笑われているケータイ小説という場所に文学を持ち込みたかっただけである。
「恋空」が最高のケータイ小説で、「赤い糸」が最強のケータイ小説であるらしい。
それならば、とぼくは夏雲を究極のケータイ小説を目指して書いた。
少なくともぼくは、「夏雲」以上に面白いケータイ小説を知らない」
新進気鋭の作家は、自信に満ち溢れた言葉をあとがきに並べていた。
こんな挑戦的な文章を書く人が、探偵事務所の前で見たあの人と同一人物であるとはとても思えなかった。
行方不明になってしまった妹が彼を変えてしまったのだ。
このケータイ小説が二代目花房ルリヲの最後の小説になるかもしれないな、とあたしは思った。
あたしは本をあっという間に読み終えると鞄にしまって、次の駅で電車を降りた。
そこは見たことも聞いたこともない知らない小さな駅だった。
一応神奈川県内ではあるのだろうけれど。
駅からは寂れた商店街が見え、それほど遠くない場所に森があり、その田舎町は横浜市内に住んでいるあたしにはまるで違う世界のように見えた。
随分と遠くまで電車を乗り過ごしてしまっていた。
この駅はついさっきまで、あたしの世界にはなかったものだ。
屋根すらないホームのペンキが剥がれかけたベンチに座って、あたしはそんなことを考えた。
けれど、このあたりに住む人たちの世界では、随分昔から当たり前にこの駅や商店街や森はあって、あたしの世界とその人たちの世界が今少しだけ繋がっている。
世界はこの地球ひとつしかないけれど、そこに住む人の数だけ世界は存在する。ひとりひとりの人間が持てる世界なんてちっぽけなもので、人と人が交わることによって、関わりあうことによって、あたしたちの世界は少しずつ広がっていく。
あたしのちっぽけな世界も、この駅で折り返さずにもっと遠くまで電車に乗れば、もう少しだけ広がる。
世界が広がれば広がるだけ、あたしにも様々な可能性が与えられるかもしれなかった。
あたしのことを誰も知らないような場所で、ヤクザの孫であることとか組のこと、田所のこと、麻衣の事件のことや夏目メイへの復讐のこと、そういったことをすべて忘れられたら、あたしはフツーの女の子になることができるかもしれなかった。
だけどあたしはこの駅で折り返す。
あたしには横浜に帰らなければいけない理由がある。
あたしにはしなくちゃいけないことがあるんだ。
フツーの女の子になるのは、それが終わってからでいい。
数時間前、探偵があたしに見せたかったものは、住居を兼ねた事務所の床に、縛られて寝かされていた。
女だった。
知らない女。
探偵の趣味だろうか、スーツ姿のその女は、亀の甲羅の模様のように縄で縛られていた。
「夏の終わりに私は解雇されました。
彼女は私の代わりに九月から夏目メイが雇っていた探偵です」
と、探偵は言った。
「あなたが城戸女学園に編入されてからは、この女は主にあなたの身辺調査をしていました」
女は薬か何か投与されているのか、よだれを垂らしながら焦点の合っていない瞳であたしを見上げていた。
「自白剤を、少し、投与しすぎてしまいまして」
探偵は言い訳するようにそう言った。
警察が容疑者に自白させるために使うというその薬が実在することにあたしは驚いた。実在するとしても一般人が簡単に手に入れられるものじゃなかった。
「知り合いに刑事がいるんです。警察署に顔を出したときにこっそり拝借してきましてね」
探偵は笑いながらそう言った。
「これで私があなた側の人間であると信じて頂けましたか?」
あたしは首を縦に振り、目の前の探偵、硲裕葵に、依頼をすることを決めた。
探偵の住居兼事務所は足場もないほどに散らかっていた。食べ終わったコンビニの弁当の容器やスナック菓子の袋、空っぽのペットボトルや缶ビールの空き缶、読み終わった雑誌などが床には散乱していた。
何着同じオーバーオールを持っているのか知らないけれど、探偵はあたしにオーバーオールが脱ぎ捨てられ背もたれにかけられたソファに座るように促し、彼は向かい合わせにある彼のベッドに腰かけた。そこにもオーバーオールは脱ぎ捨てられていた。
ベッドは半分ほどが、積んであった漫画が崩れてそのままなのだろう、「金田一少年」や「名探偵コナン」といったミステリー漫画で埋め尽されており、枕はベッドの真ん中にあった。ものぐさな目の前の探偵は、小さなベッドのわずか半分のスペースで寝ているようだった。
漫画本やぐちゃぐちゃの布団から見え隠れするシーツは黄ばんでいて、何ヵ月も洗っていないように見えた。
「私は個人で探偵事務所を開いています。かつては助手のような者もいましたが、現在は私ひとりです。テレビや映画、あるいは小説、物語の中の探偵は私のように個人で事務所を構えているものばかりです。
ところが現実は違うんですね。世の中には探偵になるための学校なんてものがありまして、その学校を卒業した若き探偵たちが所属する大きな探偵事務所があります。
有名なところではガロエージェンシーという会社です」
探偵は、女ものの鞄の中から、身分証明書のようなものを取り出した。
そこには床に転がる女の顔写真と名前があり、鞄がその女のものであることがわかった。
女の名前は、加藤葉月。28歳。
加藤という苗字に一瞬、麻衣の顔が浮かんだ。床に転がる、涎を垂らしながら恍惚とした表情を浮かべる女の顔が麻衣によく似ているような気さえした。
だけど二代目花房ルリヲや行方不明の彼の妹だって苗字は加藤だ。
加藤なんてありふれた苗字はどこにでもある。この女が麻衣の親戚ということはないだろう。
「この女は、そのガロエージェンシー所属の探偵です」
探偵にさしだされた女の身分証明書には確かにその大手探偵事務所のロゴがあった。その事務所には所属する探偵に与えられる階級があるらしく、女はブルーロッジとあった。
「フリーメーソンという秘密結社をご存知ですか?
ブルーロッジというのは、その秘密結社の最下層の末端構成員に与えられる階級です。どうやらガロエージェンシーは、自社の階級制度にフリーメーソンのそれを採用しているようですね」
女は探偵としてはまだ若く、最も低い階級の探偵らしかった。
「私は夏に夏目メイの依頼で加藤麻衣という少女の身辺調査をしていました。
しかし私は彼女とその恋人の水島十和という少年に尾行を気付かれてしまうという失態を犯し、夏目メイから依頼を取り消され、未払い分の依頼料が支払われることはありませんでした。
おそらく彼女は、私のような個人の探偵は使えないと判断し、大手の探偵事務所の優秀な探偵に依頼することにしたのでしょう。
しかし、大病院の外科医たちが年間数件しかオペにたずさわれないように、探偵事務所も大手であればあるほどひとりの探偵がたずさわれる年間の依頼件数は減ります。
この女を捕えたのは三日前のことですが、あなたの尾行は確かにそつなくこなしてはいましたけれど、まさか自分を尾行する人間がいるとは思いもよらなかったのでしょう、この未熟な探偵は私の尾行に気付くことはありませんでした」
だからこの女はあたしのじいさんが田所に殺されたことも、あたしが夏目組を潰そうとしていることも知らない、と探偵は言った。
探偵はそこまで一息に話すと、
「何か飲まれますか?」
と、ようやくあたしにお茶を出す気になったらしい。
冷蔵庫に向かった探偵が運んできたのは、何度も使いふるしたような1リットルのウーロン茶の紙パックで、
「中身は普通の麦茶です」
麦茶のティーバッグを放りこみ、水道水を注いだだけのお茶を汚れたグラスに注いだ。
とても飲む気にはなれなかった。
お茶だけではない。部屋中から異臭がしていた。あたしは潔癖症というわけじゃなかったけれど、この部屋にはこれ以上いられそうもなかった。
「夏目メイの友人、小島ゆきを彼女のそばからまず消したいの」
だからあたしは、探偵に、いやフリーライターとしての彼に、一刻も早く依頼内容を告げてしまおうと思った。
「ゆきの祖父は参議院議員の金児陽三。彼は夏目組から多額の政治献金を受ける代わりに、夏目組の人間が犯した犯罪を警察に圧力をかけて揉み消してる。その証拠をつかんで表沙汰にしてほしいの」
お安い御用です、と探偵は笑ってお茶を飲みほした。
三日後の朝、新聞の1面を、参議院議員金児陽三の名前が踊った。
「夏雲」は「加藤麻衣 著」とあり、「二代目花房ルリヲ」の名義では書かれておらず、探すのに随分手間取ったけれど、帯をめくるとちゃんと「二代目花房ルリヲ 著」とあった。
帯には、女子高生売春強要事件の真相、と書かれていた。
ケータイ小説は、主人公と作者が同じ名前であることが多い。映画やドラマにもなった「恋空」や「赤い糸」が実際にあった体験をもとにしていることなどから、そういう形を取る作品が多いのだと思う。
「加藤麻衣」という名前、そして「女子高生の売春強要事件」をテーマとして扱っていると知り、あたしは書店で本を手に取るその腕に鳥肌が立つほど嫌な予感がした。
あたしが書店で思わずページをめくり前書きを読むと、そこには帯に書かれていた事件について触れられていて、そのケータイ小説が「あたしの知る加藤麻衣の物語」であり、主人公の名前もやはり「加藤麻衣」であることがわかった。
帰り道の電車の中で、いつの間にか降りるべき駅を乗り過ごしてしまうほど、あたしはそのケータイ小説を読み耽った。
確かに探偵の言う通り、あたしが知りたかったことがそこにはあった。
たとえばシュウという男の子のことだ。
彼は草詰アリスに振られてから横浜駅に滑り込んできた新幹線に身を投げるまでの間に、麻衣と会っていた。
伝言ダイヤルで体を売らされていた麻衣はお客としてやってきた彼に男としての喜びを教えてあげていた。中出しさせていた。
田所や轟たちに蜂の巣にされたあのyoshiという少年のことも書かれていた。
彼がどんな経緯で麻衣のもとを離れ、夏目メイに組みすることになったのか、そのケータイ小説には綴られていた。痛々しくて見ていられないようなシーンが何か所もあった。
そして、「二代目花房ルリヲ」もまた彼女を買い、そのペンネームのままで物語中盤に登場し、内藤美嘉のレイプのインターネット実況中継を麻衣といっしょに見ていた。
未成年で実名報道されないはずの麻衣の名前が、なぜ当たり前のように使われているかといえば、「加藤麻衣」という名は「二代目花房ルリヲの小説においてヒロインに与えられる名前」だからだ。
誰もあの事件の被害者の名前が「加藤麻衣」だということは知らないから、この物語も「二代目花房ルリヲが書いた加藤麻衣の物語」のひとつとして受け入れられるのだろう。
加藤麻衣以外の登場人物の多くは有名ケータイ小説家たちからとられていた。
それについて、あるいはケータイ小説を書くに至った経緯について、作者である二代目花房ルリヲはこう語っている。
「ぼくがこのように横書きと無意味な改行に溢れたケータイ小説を書くことに抵抗を示す方が少なからずいると思う。
特に父・花房ルリヲの息子としてのぼくを応援してくださっている方にとっては、父のケータイ小説が皆さんからずいぶんと酷評を受けたように、ぼくのこの小説も酷評されることだろう。
わかってほしいのは、ぼくや父がこうしてケータイ小説を書くのは、スィーツ(笑)と2ちゃんねるやそこら中のブログでさげすまれているケータイ小説という場所に文学を持ち込みたかったという、ただそれだけのことなのだ。
ケータイ小説は無名の新人でも五万部を売り上げることを皆さんはご存知だろうか?
ぼくや妹が好きなテレビゲームにドラゴンクエストという多分皆さんも一度くらいはプレイしたことがあるだろうゲームがあるが、ドラゴンクエストはたぶん来年の三月に発売されるだろう最新作をニンテンドーDS用ソフトとして発売すると発表している。
ドラゴンクエストはこれまで、リメイクや外伝を除いたナンバリングタイトルをすべてファミコンやスーパーファミコン、プレイステーションやプレイステーション2といったゲーム機をテレビに繋ぐ、いわゆる据え置き機で発売してきた。
一部の人たちは発売前からアマゾンのレビューで携帯ゲーム機での発売に対して星ひとつの酷評をしていたりするが、これまでドラゴンクエストが据え置き機で発売されてきたのはただ一番売れているゲーム機で発売してきたというだけのことであり、それならば最新作がニンテンドーDSで発売されるのも納得というものであろう。
ぼくや父も、一番売れる形でぼくたちの文学を世に出したい、そう考えた結果のケータイ小説としての出版であるとどうかご理解頂きたい。
今回、『夏雲』を書くにあたって、劇中人物の多くは有名ケータイ小説家の方々から名前を拝借した。
これはぼくから彼女たちに対してのささやかなメッセージである。
彼女たちがどんな受け取り方をするか、それは彼女たちの自由だし、彼女たちがスイーツ(笑)と呼ばれることに抵抗がなく、いつ終わるとも知れないケータイ小説ブームと共に自らの作家生命を共にすると言うならば好きにすればいいと思う。
繰り返すがぼくたちはただ、スイーツ(笑)とライトノベルの読者からさえ笑われているケータイ小説という場所に文学を持ち込みたかっただけである。
「恋空」が最高のケータイ小説で、「赤い糸」が最強のケータイ小説であるらしい。
それならば、とぼくは夏雲を究極のケータイ小説を目指して書いた。
少なくともぼくは、「夏雲」以上に面白いケータイ小説を知らない」
新進気鋭の作家は、自信に満ち溢れた言葉をあとがきに並べていた。
こんな挑戦的な文章を書く人が、探偵事務所の前で見たあの人と同一人物であるとはとても思えなかった。
行方不明になってしまった妹が彼を変えてしまったのだ。
このケータイ小説が二代目花房ルリヲの最後の小説になるかもしれないな、とあたしは思った。
あたしは本をあっという間に読み終えると鞄にしまって、次の駅で電車を降りた。
そこは見たことも聞いたこともない知らない小さな駅だった。
一応神奈川県内ではあるのだろうけれど。
駅からは寂れた商店街が見え、それほど遠くない場所に森があり、その田舎町は横浜市内に住んでいるあたしにはまるで違う世界のように見えた。
随分と遠くまで電車を乗り過ごしてしまっていた。
この駅はついさっきまで、あたしの世界にはなかったものだ。
屋根すらないホームのペンキが剥がれかけたベンチに座って、あたしはそんなことを考えた。
けれど、このあたりに住む人たちの世界では、随分昔から当たり前にこの駅や商店街や森はあって、あたしの世界とその人たちの世界が今少しだけ繋がっている。
世界はこの地球ひとつしかないけれど、そこに住む人の数だけ世界は存在する。ひとりひとりの人間が持てる世界なんてちっぽけなもので、人と人が交わることによって、関わりあうことによって、あたしたちの世界は少しずつ広がっていく。
あたしのちっぽけな世界も、この駅で折り返さずにもっと遠くまで電車に乗れば、もう少しだけ広がる。
世界が広がれば広がるだけ、あたしにも様々な可能性が与えられるかもしれなかった。
あたしのことを誰も知らないような場所で、ヤクザの孫であることとか組のこと、田所のこと、麻衣の事件のことや夏目メイへの復讐のこと、そういったことをすべて忘れられたら、あたしはフツーの女の子になることができるかもしれなかった。
だけどあたしはこの駅で折り返す。
あたしには横浜に帰らなければいけない理由がある。
あたしにはしなくちゃいけないことがあるんだ。
フツーの女の子になるのは、それが終わってからでいい。
数時間前、探偵があたしに見せたかったものは、住居を兼ねた事務所の床に、縛られて寝かされていた。
女だった。
知らない女。
探偵の趣味だろうか、スーツ姿のその女は、亀の甲羅の模様のように縄で縛られていた。
「夏の終わりに私は解雇されました。
彼女は私の代わりに九月から夏目メイが雇っていた探偵です」
と、探偵は言った。
「あなたが城戸女学園に編入されてからは、この女は主にあなたの身辺調査をしていました」
女は薬か何か投与されているのか、よだれを垂らしながら焦点の合っていない瞳であたしを見上げていた。
「自白剤を、少し、投与しすぎてしまいまして」
探偵は言い訳するようにそう言った。
警察が容疑者に自白させるために使うというその薬が実在することにあたしは驚いた。実在するとしても一般人が簡単に手に入れられるものじゃなかった。
「知り合いに刑事がいるんです。警察署に顔を出したときにこっそり拝借してきましてね」
探偵は笑いながらそう言った。
「これで私があなた側の人間であると信じて頂けましたか?」
あたしは首を縦に振り、目の前の探偵、硲裕葵に、依頼をすることを決めた。
探偵の住居兼事務所は足場もないほどに散らかっていた。食べ終わったコンビニの弁当の容器やスナック菓子の袋、空っぽのペットボトルや缶ビールの空き缶、読み終わった雑誌などが床には散乱していた。
何着同じオーバーオールを持っているのか知らないけれど、探偵はあたしにオーバーオールが脱ぎ捨てられ背もたれにかけられたソファに座るように促し、彼は向かい合わせにある彼のベッドに腰かけた。そこにもオーバーオールは脱ぎ捨てられていた。
ベッドは半分ほどが、積んであった漫画が崩れてそのままなのだろう、「金田一少年」や「名探偵コナン」といったミステリー漫画で埋め尽されており、枕はベッドの真ん中にあった。ものぐさな目の前の探偵は、小さなベッドのわずか半分のスペースで寝ているようだった。
漫画本やぐちゃぐちゃの布団から見え隠れするシーツは黄ばんでいて、何ヵ月も洗っていないように見えた。
「私は個人で探偵事務所を開いています。かつては助手のような者もいましたが、現在は私ひとりです。テレビや映画、あるいは小説、物語の中の探偵は私のように個人で事務所を構えているものばかりです。
ところが現実は違うんですね。世の中には探偵になるための学校なんてものがありまして、その学校を卒業した若き探偵たちが所属する大きな探偵事務所があります。
有名なところではガロエージェンシーという会社です」
探偵は、女ものの鞄の中から、身分証明書のようなものを取り出した。
そこには床に転がる女の顔写真と名前があり、鞄がその女のものであることがわかった。
女の名前は、加藤葉月。28歳。
加藤という苗字に一瞬、麻衣の顔が浮かんだ。床に転がる、涎を垂らしながら恍惚とした表情を浮かべる女の顔が麻衣によく似ているような気さえした。
だけど二代目花房ルリヲや行方不明の彼の妹だって苗字は加藤だ。
加藤なんてありふれた苗字はどこにでもある。この女が麻衣の親戚ということはないだろう。
「この女は、そのガロエージェンシー所属の探偵です」
探偵にさしだされた女の身分証明書には確かにその大手探偵事務所のロゴがあった。その事務所には所属する探偵に与えられる階級があるらしく、女はブルーロッジとあった。
「フリーメーソンという秘密結社をご存知ですか?
ブルーロッジというのは、その秘密結社の最下層の末端構成員に与えられる階級です。どうやらガロエージェンシーは、自社の階級制度にフリーメーソンのそれを採用しているようですね」
女は探偵としてはまだ若く、最も低い階級の探偵らしかった。
「私は夏に夏目メイの依頼で加藤麻衣という少女の身辺調査をしていました。
しかし私は彼女とその恋人の水島十和という少年に尾行を気付かれてしまうという失態を犯し、夏目メイから依頼を取り消され、未払い分の依頼料が支払われることはありませんでした。
おそらく彼女は、私のような個人の探偵は使えないと判断し、大手の探偵事務所の優秀な探偵に依頼することにしたのでしょう。
しかし、大病院の外科医たちが年間数件しかオペにたずさわれないように、探偵事務所も大手であればあるほどひとりの探偵がたずさわれる年間の依頼件数は減ります。
この女を捕えたのは三日前のことですが、あなたの尾行は確かにそつなくこなしてはいましたけれど、まさか自分を尾行する人間がいるとは思いもよらなかったのでしょう、この未熟な探偵は私の尾行に気付くことはありませんでした」
だからこの女はあたしのじいさんが田所に殺されたことも、あたしが夏目組を潰そうとしていることも知らない、と探偵は言った。
探偵はそこまで一息に話すと、
「何か飲まれますか?」
と、ようやくあたしにお茶を出す気になったらしい。
冷蔵庫に向かった探偵が運んできたのは、何度も使いふるしたような1リットルのウーロン茶の紙パックで、
「中身は普通の麦茶です」
麦茶のティーバッグを放りこみ、水道水を注いだだけのお茶を汚れたグラスに注いだ。
とても飲む気にはなれなかった。
お茶だけではない。部屋中から異臭がしていた。あたしは潔癖症というわけじゃなかったけれど、この部屋にはこれ以上いられそうもなかった。
「夏目メイの友人、小島ゆきを彼女のそばからまず消したいの」
だからあたしは、探偵に、いやフリーライターとしての彼に、一刻も早く依頼内容を告げてしまおうと思った。
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