9 / 28
9
しおりを挟む
ラテが奇想天外な事業計画に胸を膨らませていた、ちょうどその頃。
王宮のエスプレッソ王子の執務室は、張り詰めた空気に包まれていた。
「殿下、こちらが帝国側から届いた、通商条約の最終草案です。明日の調印式までに、殿下と国王陛下の最終署名をいただく必要がございます」
宰相自らが持参した羊皮紙の巻物を、エスプレッソは神妙な面持ちで受け取った。
「うむ、ご苦労だった。この条約は、我が国の向こう十年の経済を左右する重要なものだ。決して間違いは許されん」
机の上に広げられた羊皮紙には、美しく、そして複雑な文面がびっしりと書き連ねてある。
エスプレッソは、側近たちと共に、一語一句、間違いがないかを確認する作業に没頭した。
部屋の中は、紙をめくる音と、小さな声での確認作業のやりとりのみが響いていた。
コン、コン。
控えめなノックの音に、誰もが顔を上げる。
しかし、返事をする間もなく、扉が少しだけ開いた。
「王子様……お仕事中、失礼いたします」
ひょこりと顔を覗かせたのは、潤んだ瞳が愛らしい、モカ・マキアートだった。
その手には、湯気の立つティーセットが乗ったお盆がある。
「皆様、お疲れでしょう? わたくし、とっておきの紅茶を淹れてまいりましたの」
にっこりと微笑むモカの姿に、執務室の張り詰めた空気が一瞬で緩んだ。
「おお、モカか! ありがとう、気が利くな」
エスプレッソは、厳しい王子の顔から、恋する青年の顔に戻って破顔する。
側近たちも、未来の王太子妃候補にこやかに会釈した。
「さあ、こちらへ。ちょうど休憩しようと思っていたところだ」
エスプレッソが手招きする。
モカは嬉しそうに「はい!」と返事をすると、執務机の方へと歩み寄った。
悲劇は、その時に起きた。
「あら?」
何もないはずの床で、モカは可憐に編み上げられたドレスの裾を踏んだ。
ほんの少し、バランスを崩しただけ。
普段であれば、すぐに立て直せたはずだった。
しかし、彼女の手には、なみなみと紅茶が注がれたポットと、ティーカップ一式が乗ったお盆があった。
「きゃあっ!」
可愛らしい悲鳴と共に、モカの体が大きく傾く。
手から滑り落ちた銀色のお盆が、宙を舞った。
ポットから放物線を描いて飛び出した褐色の液体が、まるで美しい芸術のように、スローモーションで執務机の上に広げられた条約案へと降り注いでいく。
ちゃりん、がちゃん、という食器の割れる音。
そして、びしゃ、という生々しい水音。
時が、止まった。
誰もが、目の前で起きた光景を信じられずに固まっている。
エスプレッソの執務机の真ん中。
各国の代表のサインが既に入っている、神聖なるべき条約案の羊皮紙は、見るも無残な紅茶の染みで、茶色くまだら模様になっていた。
特殊なインクで書かれた文字は滲み、もはや判読不能な部分もある。
「ああ……あ、ああ……」
最初に声を発したのは、宰相だった。
その顔からは血の気が引き、がくがくと震えている。
「じょ、条約案が……! これは、帝国特使が持参された、世界にたった一部しかない原本ですぞ……!」
「そんな……」
エスプレッソも、目の前の惨状に言葉を失い、ただ立ち尽くす。
「ご、ごめんなさい……! 王子様、ごめんなさい……!」
我に返ったモカが、その場にへたり込んでわっと泣き出した。
「わたくし……皆様のために、良かれと思って……! ううっ……!」
その涙に、エスプレッソははっと意識を取り戻した。
「だ、大丈夫だ、モカ! 君のせいじゃない! 俺が、もっと机の上を片付けておけばよかったんだ!」
エスプレッソは、必死にモカを庇う。
しかし、側近の一人が悲鳴のような声を上げた。
「殿下! そのような問題ではございません! 明日の調印式は、どうなさるおつもりですか!?」
「今すぐ書記官を集めろ! なんとか復元させるのだ!」
王子の号令で、執務室は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
しかし、王宮が誇る最高の書記官たちをもってしても、特殊なインクで書かれた条約案を、一晩で完璧に復元することは不可能だった。
「もはや、帝国特使に平身低頭謝罪し、調印式の延期を申し出るしか道はありますまい……。我が国の威信は、地に落ちますぞ、殿下!」
宰相の悲痛な声が、エスプレッソの胸に突き刺さる。
「くっ……!」
エスプレッソは、泣きじゃくるモカを抱きしめながら、ギリッと歯を食いしばった。
彼女を愛している。その気持ちに嘘偽りはない。
彼女の純粋な善意も、痛いほどわかっている。
しかし、なぜだろう。
彼女がそばにいると、なぜか、いつも公務に大きな支障が出てしまう。
彼の脳裏に、もうここにはいない婚約者の顔が、ふと浮かんだ。
(ラテが、いた頃は……)
彼女が補佐についていた頃は、どんなに複雑な公務も、常に完璧に、滞りなく進んでいた。
このような、初歩的で、そして致命的な事故など、想像したことすらなかった。
(なぜだ……。真実の愛を手に入れたはずなのに、なぜ、私の周りでは、こんなにも物事がうまくいかないのだ……)
エスプレッソは、愛する女性を腕に抱きながら、初めて、自らの選択に対する微かな、しかし消すことのできない疑念を、心に抱き始めていた。
王宮のエスプレッソ王子の執務室は、張り詰めた空気に包まれていた。
「殿下、こちらが帝国側から届いた、通商条約の最終草案です。明日の調印式までに、殿下と国王陛下の最終署名をいただく必要がございます」
宰相自らが持参した羊皮紙の巻物を、エスプレッソは神妙な面持ちで受け取った。
「うむ、ご苦労だった。この条約は、我が国の向こう十年の経済を左右する重要なものだ。決して間違いは許されん」
机の上に広げられた羊皮紙には、美しく、そして複雑な文面がびっしりと書き連ねてある。
エスプレッソは、側近たちと共に、一語一句、間違いがないかを確認する作業に没頭した。
部屋の中は、紙をめくる音と、小さな声での確認作業のやりとりのみが響いていた。
コン、コン。
控えめなノックの音に、誰もが顔を上げる。
しかし、返事をする間もなく、扉が少しだけ開いた。
「王子様……お仕事中、失礼いたします」
ひょこりと顔を覗かせたのは、潤んだ瞳が愛らしい、モカ・マキアートだった。
その手には、湯気の立つティーセットが乗ったお盆がある。
「皆様、お疲れでしょう? わたくし、とっておきの紅茶を淹れてまいりましたの」
にっこりと微笑むモカの姿に、執務室の張り詰めた空気が一瞬で緩んだ。
「おお、モカか! ありがとう、気が利くな」
エスプレッソは、厳しい王子の顔から、恋する青年の顔に戻って破顔する。
側近たちも、未来の王太子妃候補にこやかに会釈した。
「さあ、こちらへ。ちょうど休憩しようと思っていたところだ」
エスプレッソが手招きする。
モカは嬉しそうに「はい!」と返事をすると、執務机の方へと歩み寄った。
悲劇は、その時に起きた。
「あら?」
何もないはずの床で、モカは可憐に編み上げられたドレスの裾を踏んだ。
ほんの少し、バランスを崩しただけ。
普段であれば、すぐに立て直せたはずだった。
しかし、彼女の手には、なみなみと紅茶が注がれたポットと、ティーカップ一式が乗ったお盆があった。
「きゃあっ!」
可愛らしい悲鳴と共に、モカの体が大きく傾く。
手から滑り落ちた銀色のお盆が、宙を舞った。
ポットから放物線を描いて飛び出した褐色の液体が、まるで美しい芸術のように、スローモーションで執務机の上に広げられた条約案へと降り注いでいく。
ちゃりん、がちゃん、という食器の割れる音。
そして、びしゃ、という生々しい水音。
時が、止まった。
誰もが、目の前で起きた光景を信じられずに固まっている。
エスプレッソの執務机の真ん中。
各国の代表のサインが既に入っている、神聖なるべき条約案の羊皮紙は、見るも無残な紅茶の染みで、茶色くまだら模様になっていた。
特殊なインクで書かれた文字は滲み、もはや判読不能な部分もある。
「ああ……あ、ああ……」
最初に声を発したのは、宰相だった。
その顔からは血の気が引き、がくがくと震えている。
「じょ、条約案が……! これは、帝国特使が持参された、世界にたった一部しかない原本ですぞ……!」
「そんな……」
エスプレッソも、目の前の惨状に言葉を失い、ただ立ち尽くす。
「ご、ごめんなさい……! 王子様、ごめんなさい……!」
我に返ったモカが、その場にへたり込んでわっと泣き出した。
「わたくし……皆様のために、良かれと思って……! ううっ……!」
その涙に、エスプレッソははっと意識を取り戻した。
「だ、大丈夫だ、モカ! 君のせいじゃない! 俺が、もっと机の上を片付けておけばよかったんだ!」
エスプレッソは、必死にモカを庇う。
しかし、側近の一人が悲鳴のような声を上げた。
「殿下! そのような問題ではございません! 明日の調印式は、どうなさるおつもりですか!?」
「今すぐ書記官を集めろ! なんとか復元させるのだ!」
王子の号令で、執務室は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
しかし、王宮が誇る最高の書記官たちをもってしても、特殊なインクで書かれた条約案を、一晩で完璧に復元することは不可能だった。
「もはや、帝国特使に平身低頭謝罪し、調印式の延期を申し出るしか道はありますまい……。我が国の威信は、地に落ちますぞ、殿下!」
宰相の悲痛な声が、エスプレッソの胸に突き刺さる。
「くっ……!」
エスプレッソは、泣きじゃくるモカを抱きしめながら、ギリッと歯を食いしばった。
彼女を愛している。その気持ちに嘘偽りはない。
彼女の純粋な善意も、痛いほどわかっている。
しかし、なぜだろう。
彼女がそばにいると、なぜか、いつも公務に大きな支障が出てしまう。
彼の脳裏に、もうここにはいない婚約者の顔が、ふと浮かんだ。
(ラテが、いた頃は……)
彼女が補佐についていた頃は、どんなに複雑な公務も、常に完璧に、滞りなく進んでいた。
このような、初歩的で、そして致命的な事故など、想像したことすらなかった。
(なぜだ……。真実の愛を手に入れたはずなのに、なぜ、私の周りでは、こんなにも物事がうまくいかないのだ……)
エスプレッソは、愛する女性を腕に抱きながら、初めて、自らの選択に対する微かな、しかし消すことのできない疑念を、心に抱き始めていた。
77
あなたにおすすめの小説
貧乏人とでも結婚すれば?と言われたので、隣国の英雄と結婚しました
ゆっこ
恋愛
――あの日、私は確かに笑われた。
「貧乏人とでも結婚すれば? 君にはそれくらいがお似合いだ」
王太子であるエドワード殿下の冷たい言葉が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さった。
その場には取り巻きの貴族令嬢たちがいて、皆そろって私を見下ろし、くすくすと笑っていた。
――婚約破棄。
私が嫌いなら婚約破棄したらどうなんですか?
きららののん
恋愛
優しきおっとりでマイペースな令嬢は、太陽のように熱い王太子の側にいることを幸せに思っていた。
しかし、悪役令嬢に刃のような言葉を浴びせられ、自信の無くした令嬢は……
乙女ゲームっぽい世界に転生したけど何もかもうろ覚え!~たぶん悪役令嬢だと思うけど自信が無い~
天木奏音
恋愛
雨の日に滑って転んで頭を打った私は、気付いたら公爵令嬢ヴィオレッタに転生していた。
どうやらここは前世親しんだ乙女ゲームかラノベの世界っぽいけど、疲れ切ったアラフォーのうろんな記憶力では何の作品の世界か特定できない。
鑑で見た感じ、どう見ても悪役令嬢顔なヴィオレッタ。このままだと破滅一直線!?ヒロインっぽい子を探して仲良くなって、この世界では平穏無事に長生きしてみせます!
※他サイトにも掲載しています
ワンチャンあるかな、って転生先で推しにアタックしてるのがこちらの令嬢です
山口三
恋愛
恋愛ゲームの世界に転生した主人公。中世異世界のアカデミーを中心に繰り広げられるゲームだが、大好きな推しを目の前にして、ついつい欲が出てしまう。「私が転生したキャラは主人公じゃなくて、たたのモブ悪役。どうせ攻略対象の相手にはフラれて婚約破棄されるんだから・・・」
ひょんな事からクラスメイトのアロイスと協力して、主人公は推し様と、アロイスはゲームの主人公である聖女様との相思相愛を目指すが・・・。
溺愛最強 ~気づいたらゲームの世界に生息していましたが、悪役令嬢でもなければ断罪もされないので、とにかく楽しむことにしました~
夏笆(なつは)
恋愛
「おねえしゃま。こえ、すっごくおいしいでし!」
弟のその言葉は、晴天の霹靂。
アギルレ公爵家の長女であるレオカディアは、その瞬間、今自分が生きる世界が前世で楽しんだゲーム「エトワールの称号」であることを知った。
しかし、自分は王子エルミニオの婚約者ではあるものの、このゲームには悪役令嬢という役柄は存在せず、断罪も無いので、攻略対象とはなるべく接触せず、穏便に生きて行けば大丈夫と、生きることを楽しむことに決める。
醤油が欲しい、うにが食べたい。
レオカディアが何か「おねだり」するたびに、アギルレ領は、周りの領をも巻き込んで豊かになっていく。
既にゲームとは違う展開になっている人間関係、その学院で、ゲームのヒロインは前世の記憶通りに攻略を開始するのだが・・・・・?
小説家になろうにも掲載しています。
悪役令嬢に転生したので地味令嬢に変装したら、婚約者が離れてくれないのですが。
槙村まき
恋愛
スマホ向け乙女ゲーム『時戻りの少女~ささやかな日々をあなたと共に~』の悪役令嬢、リシェリア・オゼリエに転生した主人公は、処刑される未来を変えるために地味に地味で地味な令嬢に変装して生きていくことを決意した。
それなのに学園に入学しても婚約者である王太子ルーカスは付きまとってくるし、ゲームのヒロインからはなぜか「私の代わりにヒロインになって!」とお願いされるし……。
挙句の果てには、ある日隠れていた図書室で、ルーカスに唇を奪われてしまう。
そんな感じで悪役令嬢がヤンデレ気味な王子から逃げようとしながらも、ヒロインと共に攻略対象者たちを助ける? 話になるはず……!
第二章以降は、11時と23時に更新予定です。
他サイトにも掲載しています。
よろしくお願いします。
25.4.25 HOTランキング(女性向け)四位、ありがとうございます!
【完】夫に売られて、売られた先の旦那様に溺愛されています。
112
恋愛
夫に売られた。他所に女を作り、売人から受け取った銀貨の入った小袋を懐に入れて、出ていった。呆気ない別れだった。
ローズ・クローは、元々公爵令嬢だった。夫、だった人物は男爵の三男。到底釣合うはずがなく、手に手を取って家を出た。いわゆる駆け落ち婚だった。
ローズは夫を信じ切っていた。金が尽き、宝石を差し出しても、夫は自分を愛していると信じて疑わなかった。
※完結しました。ありがとうございました。
【完結】番である私の旦那様
桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族!
黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。
バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。
オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。
気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。
でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!)
大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです!
神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。
前半は転移する前の私生活から始まります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる