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王宮騎士団の全面協力を得て、ラテの『空飛ぶスイーツ店』計画は、驚くべき速度で進展していた。
騎士団から派遣されてきたのは、いずれもそれぞれの分野の超一流の専門家たち。
彼らは最初こそ、ラテの突飛な計画に眉をひそめていたが、彼女の豊富な知識と情熱、そして的確な指示に、すぐに一目置くようになった。
その日は、公爵家主催の夜会が開かれていた。
ラテは、打ち合わせ続きだった頭を休めるのと、事業の協力者となってくれそうな貴族に挨拶をするため、鮮やかな純白のドレスに身を包んで会場に姿を現した。
「まあ、ラテ様だわ」
「相変わらず、お美しいけれど……」
「近頃、騎士団と何か事業を始められたそうよ」
『悪役令嬢』の噂は健在だが、最近の彼女の活躍――外交問題をスイーツで解決した一件は、貴族たちの間でも大きな話題となっていた。
好奇と、少しばかりの畏敬の念が入り混じった視線が、ラテに注がれる。
ラテは、そんな視線を全く意に介さず、優雅にグラスを傾けていた。
会場の壁際では、アフォガートが騎士団長として、警備の指揮を執っていた。
その鉄仮面はいつも通りだったが、黒曜石の瞳は、なぜか頻繁に、会場の中心で堂々と立つラテの姿を捉えていた。
その時、会場の入り口がにわかに騒がしくなり、音楽が止んだ。
エスプレッソ王子と、その腕に可憐に寄り添うモカ・マキアートの登場だった。
誰もが、王子とその寵愛を受ける令嬢に、深々と頭を下げる。
しかし、多くの者が気づいていた。
以前のような輝きが、エスプレッソ王子から失われていることに。
その表情はどこか晴れず、笑顔もどこか虚ろに見える。
先日、彼が国の至宝である『鎮龍の宝壺』を、過って(ということになっている)破壊してしまったというニュースは、まだ記憶に新しかった。
そんな王子の心労を知ってか知らずか、モカは初めて参加する大規模な夜会に、目をきらきらと輝かせている。
王子とモカが、挨拶回りをしながら会場を進む。
そして、ついに、運命の糸が引かれるように、三者は顔を合わせた。
「……ラテ」
エスプレッソが、かすれた声で呟く。
ラテは、驚くこともなく、ただ静かに、完璧なカーテシーをとった。
「殿下、ごきげんよう。お元気そうで、何よりでございます。マキアート嬢も、今宵は一段とお美しいですわね」
その声には、皮肉も、嫌味も、何も含まれていなかった。
ただ、事実を述べただけ。
しかし、その落ち着き払った態度が、逆にエスプレッソの胸を締め付けた。
「ああ……君も、息災そうで何よりだ」
なんとかそれだけ返すのが、精一杯だった。
その時だった。
二人の間に漂う気まずい空気を打ち破るように、モカが明るい声を上げた。
「まあ、ラテ様! きっとお喉が渇いていらっしゃるでしょう? わたくしが、特別に美味しいワインをお持ちしますわ!」
その言葉に、近くにいた貴族たちの顔が、さっと引きつった。
(やめろ! 誰か、その天使の善意を止めるのだ!)
という心の声が、会場のあちこちから聞こえてくるようだった。
モカは、そんな空気も読まず、近くの給仕係から、赤ワインが並々と注がれたグラスが乗るトレーを受け取った。
そして、少しふらついた足取りで、ラテの方へと歩み寄る。
誰もが、次に起こることを正確に予測していた。
「きゃあっ!」
案の定、モカは、何もないはずの床で、自らのドレスの裾を踏んだ。
彼女の体が傾ぎ、トレーが宙を舞う。
放物線を描いた深紅の液体が、寸分の狂いもなく、ラテの純白のドレスの胸元へと降り注いだ。
時間が、止まる。
会場は、水を打ったように静まり返った。
「あ……あ……ご、ごめんなさい、ラテ様……!」
モカが、わっと泣き出す。
エスプレッソは「またか……!」と、天を仰いで頭を抱えた。
誰もが、激昂するであろう悪役令嬢の姿を想像した、その時だった。
すっ、と一つの黒い影が動いた。
いつの間にか、アフォガートがラテの隣に立っていた。
彼は、自分が羽織っていた騎士団長用の豪奢な上着を、ためらうことなくラテの肩にかけ、汚れた部分を隠した。
「公爵令嬢、お怪我は?」
低い、落ち着いた声。
ラテは、驚いたようにアフォガートを見上げたが、すぐに悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ、平気ですわ、騎士団長。どうやらこのドレスが、少しお酒を飲みたがっただけのことですもの」
そのユーモアに、凍り付いていた周囲の空気が、少しだけ和らぐ。
アフォガートは、そんなラテの強さに小さく頷くと、次に、泣きじゃくるモカと、呆然と立ち尽くすエスプレッソ王子に、氷のように冷たい一瞥をくれた。
「殿下」
「……な、なんだ」
「ここは危険なようですので、公爵令嬢には一度、席を外していただきます」
その言葉は、建前上は王子に向けられていたが、その行動は、明らかにラテを守るためのものだった。
彼は、ラテの腰にそっと手を添えると、人々がモーゼの海のように割れて開ける道の中を、スマートにエスコートし始めた。
会場中の令嬢たちが、その騎士然とした完璧な振る舞いに、うっとりとため息を漏らす。
去り際に、アフォガートは、エスプレッソ王子の耳元で、彼にしか聞こえない声で、静かに、しかし刃物のように鋭く、こう告げた。
「……殿下。貴方がその手で手放されたものが、どれほど価値のある、得難い宝であったか。そろそろ、心の底からお気づきになられてはいかがですかな」
その言葉は、エスプレッソの心臓に、冷たい杭のように突き刺さった。
彼は、何も言い返すことができない。
ただ、アフォガートに守られるようにエスコートされて去っていく、ラテの凛とした後ろ姿を、呆然と見つめることしか、できなかった。
自分の犯した過ちの大きさを、これほどまでに痛感させられたことはなかった。
王子の心に宿った後悔は、もはや、取り返しのつかない絶望へと、その色を変えようとしていた。
騎士団から派遣されてきたのは、いずれもそれぞれの分野の超一流の専門家たち。
彼らは最初こそ、ラテの突飛な計画に眉をひそめていたが、彼女の豊富な知識と情熱、そして的確な指示に、すぐに一目置くようになった。
その日は、公爵家主催の夜会が開かれていた。
ラテは、打ち合わせ続きだった頭を休めるのと、事業の協力者となってくれそうな貴族に挨拶をするため、鮮やかな純白のドレスに身を包んで会場に姿を現した。
「まあ、ラテ様だわ」
「相変わらず、お美しいけれど……」
「近頃、騎士団と何か事業を始められたそうよ」
『悪役令嬢』の噂は健在だが、最近の彼女の活躍――外交問題をスイーツで解決した一件は、貴族たちの間でも大きな話題となっていた。
好奇と、少しばかりの畏敬の念が入り混じった視線が、ラテに注がれる。
ラテは、そんな視線を全く意に介さず、優雅にグラスを傾けていた。
会場の壁際では、アフォガートが騎士団長として、警備の指揮を執っていた。
その鉄仮面はいつも通りだったが、黒曜石の瞳は、なぜか頻繁に、会場の中心で堂々と立つラテの姿を捉えていた。
その時、会場の入り口がにわかに騒がしくなり、音楽が止んだ。
エスプレッソ王子と、その腕に可憐に寄り添うモカ・マキアートの登場だった。
誰もが、王子とその寵愛を受ける令嬢に、深々と頭を下げる。
しかし、多くの者が気づいていた。
以前のような輝きが、エスプレッソ王子から失われていることに。
その表情はどこか晴れず、笑顔もどこか虚ろに見える。
先日、彼が国の至宝である『鎮龍の宝壺』を、過って(ということになっている)破壊してしまったというニュースは、まだ記憶に新しかった。
そんな王子の心労を知ってか知らずか、モカは初めて参加する大規模な夜会に、目をきらきらと輝かせている。
王子とモカが、挨拶回りをしながら会場を進む。
そして、ついに、運命の糸が引かれるように、三者は顔を合わせた。
「……ラテ」
エスプレッソが、かすれた声で呟く。
ラテは、驚くこともなく、ただ静かに、完璧なカーテシーをとった。
「殿下、ごきげんよう。お元気そうで、何よりでございます。マキアート嬢も、今宵は一段とお美しいですわね」
その声には、皮肉も、嫌味も、何も含まれていなかった。
ただ、事実を述べただけ。
しかし、その落ち着き払った態度が、逆にエスプレッソの胸を締め付けた。
「ああ……君も、息災そうで何よりだ」
なんとかそれだけ返すのが、精一杯だった。
その時だった。
二人の間に漂う気まずい空気を打ち破るように、モカが明るい声を上げた。
「まあ、ラテ様! きっとお喉が渇いていらっしゃるでしょう? わたくしが、特別に美味しいワインをお持ちしますわ!」
その言葉に、近くにいた貴族たちの顔が、さっと引きつった。
(やめろ! 誰か、その天使の善意を止めるのだ!)
という心の声が、会場のあちこちから聞こえてくるようだった。
モカは、そんな空気も読まず、近くの給仕係から、赤ワインが並々と注がれたグラスが乗るトレーを受け取った。
そして、少しふらついた足取りで、ラテの方へと歩み寄る。
誰もが、次に起こることを正確に予測していた。
「きゃあっ!」
案の定、モカは、何もないはずの床で、自らのドレスの裾を踏んだ。
彼女の体が傾ぎ、トレーが宙を舞う。
放物線を描いた深紅の液体が、寸分の狂いもなく、ラテの純白のドレスの胸元へと降り注いだ。
時間が、止まる。
会場は、水を打ったように静まり返った。
「あ……あ……ご、ごめんなさい、ラテ様……!」
モカが、わっと泣き出す。
エスプレッソは「またか……!」と、天を仰いで頭を抱えた。
誰もが、激昂するであろう悪役令嬢の姿を想像した、その時だった。
すっ、と一つの黒い影が動いた。
いつの間にか、アフォガートがラテの隣に立っていた。
彼は、自分が羽織っていた騎士団長用の豪奢な上着を、ためらうことなくラテの肩にかけ、汚れた部分を隠した。
「公爵令嬢、お怪我は?」
低い、落ち着いた声。
ラテは、驚いたようにアフォガートを見上げたが、すぐに悪戯っぽく微笑んだ。
「ええ、平気ですわ、騎士団長。どうやらこのドレスが、少しお酒を飲みたがっただけのことですもの」
そのユーモアに、凍り付いていた周囲の空気が、少しだけ和らぐ。
アフォガートは、そんなラテの強さに小さく頷くと、次に、泣きじゃくるモカと、呆然と立ち尽くすエスプレッソ王子に、氷のように冷たい一瞥をくれた。
「殿下」
「……な、なんだ」
「ここは危険なようですので、公爵令嬢には一度、席を外していただきます」
その言葉は、建前上は王子に向けられていたが、その行動は、明らかにラテを守るためのものだった。
彼は、ラテの腰にそっと手を添えると、人々がモーゼの海のように割れて開ける道の中を、スマートにエスコートし始めた。
会場中の令嬢たちが、その騎士然とした完璧な振る舞いに、うっとりとため息を漏らす。
去り際に、アフォガートは、エスプレッソ王子の耳元で、彼にしか聞こえない声で、静かに、しかし刃物のように鋭く、こう告げた。
「……殿下。貴方がその手で手放されたものが、どれほど価値のある、得難い宝であったか。そろそろ、心の底からお気づきになられてはいかがですかな」
その言葉は、エスプレッソの心臓に、冷たい杭のように突き刺さった。
彼は、何も言い返すことができない。
ただ、アフォガートに守られるようにエスコートされて去っていく、ラテの凛とした後ろ姿を、呆然と見つめることしか、できなかった。
自分の犯した過ちの大きさを、これほどまでに痛感させられたことはなかった。
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