偽りの学園

シマセイ

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第2話:見えない首輪

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心臓が、耳のすぐそばで鳴っている。

『見たな』

たった三文字のメッセージが、脳内で無限に反響していた。
それは、桐嶋先生からのものに違いない。
あの冷たい瞳。
あの、全てを見透かしたような、歪んだ笑み。
私はスマートフォンの電源を落とし、暗闇の中で膝を抱えた。

ガタガタと震えが止まらない。
どうしよう。
どうすればいい?
警察に言う?
誰が信じるだろう。
学校で人気の、あの桐嶋先生が、女子生徒とあんな……。
証拠はどこにもない。
あるのは、私の恐怖と、この正体不明のメッセージだけだ。

きっと、先生は私を試している。
私が口外しないか、どういう出方をするか、じっと観察しているんだ。
下手に動けば、何をされるか分からない。
あの人は、そういう人間だ。
教室で見せる穏やかな顔の下に、底知れない闇を隠している。
蓮と同じ種類の、でももっと危険な闇。

結局、私は一睡もできないまま、朝を迎えた。
窓から差し込む光が、やけに白々しく感じられる。
鏡に映った自分の顔は、死人のように青ざめていた。
学校へ行きたくない。
でも、休めば余計に怪しまれる。
私は、まるで絞首台へ向かう罪人のような気分で、重い足を引きずって家を出た。

教室のドアを開けるのが、これほど怖かったことはない。
息を止め、ゆっくりとドアを開ける。
教室は、いつもと同じ、朝のざわめきに満ちていた。
私の存在に気づく者は誰もいない。
ホッと胸をなでおろし、自分の席へ向かう。
その途中、視線を感じて顔を上げた。
蓮だった。
彼は自分の席で友達と話していたはずなのに、いつの間にか私を見ていた。
その瞳には、心配そうな色が浮かんでいる。
私はすぐに目を逸らし、自分の席に座った。
心臓が、また嫌な音を立て始める。

朝のホームルーム。
桐嶋先生が、いつもと変わらない涼しい顔で教室に入ってきた。

「おはよう」

その声が、私の鼓膜を直接揺さぶる。
ビクッと肩が震えたのを、自分でも感じた。
先生は、ゆっくりと教室内を見渡す。
その視線が、私の上で一瞬、ほんの一瞬だけ、止まったような気がした。
気のせいだと思いたい。
でも、あの冷たい光は、昨夜公園で見たものと、間違いなく同じだった。
先生は、私にだけ分かるように、静かな警告を送っているのだ。
『余計なことはするな』と。

授業の内容なんて、全く頭に入ってこない。
ただ、桐嶋先生の一挙手一投足に、全身の神経を集中させていた。
先生がチョークを置く音。
ページをめくる音。
廊下を歩く足音。
その全てが、私を追い詰めるためのカウントダウンのように聞こえた。

昼休み。
食欲なんて全くなくて、私はまた第二図書室へ逃げ込んだ。
静寂だけが、今の私にとって唯一の救いだった。
古い本の匂いを深く吸い込む。
少しだけ、落ち着きを取り戻せる気がした。
窓際のいつもの席に座り、鞄から文庫本を取り出す。
しかし、ページを開いた瞬間、私は息を呑んだ。
本の間に、一枚の写真が挟まっていた。
それは、昨夜の公園で撮られたものだった。
薄暗くて不鮮明だけど、桐嶋先生と女子生徒が抱き合っているのが、はっきりと分かる。
そして、その写真の隅に、小さく、驚いた顔で立ち尽くす私が写り込んでいた。

「っ……!」

声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。
全身から、サーッと血の気が引いていくのが分かった。
いつ?
誰が?
私の鞄に?
震える手で写真を裏返す。
そこには、赤いペンで、こう書かれていた。

『共犯者』

頭を殴られたような衝撃。
これは、脅しじゃない。
もっと、陰湿で、悪質な罠だ。
もしこの写真が誰かの手に渡れば、私も桐嶋先生の共犯者として扱われる。
先生は、私に見えない首輪をつけたのだ。
逃げられないように。
裏切れないように。
絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。

「……何、それ」

不意に、背後から声がした。
ハッと振り返ると、そこに立っていたのは蓮だった。
いつからそこに?
彼は、私の手の中にある写真に、鋭い視線を向けていた。

「見せて」

有無を言わさぬ、低い声。
私は、抵抗できなかった。
蓮は私の手から写真をひったくるように取ると、その内容を黙って見つめた。
彼の表情が、みるみるうちに険しくなっていく。

「……桐嶋か」

蓮は、吐き捨てるように言った。
その声には、明らかな嫌悪と、そしてどこか、同類を嗅ぎつけたような匂いが混じっていた。

「これ、どうしたの」

「……分からない。気づいたら、本に挟まってた」

「ふーん……」

蓮は写真をひっくり返し、裏の文字を読む。
『共犯者』。
その文字を見た瞬間、彼の口元に、フッと自嘲するような笑みが浮かんだ。

「やり方が、えげつないね」

まるで他人事のように、彼は言った。
でも、その瞳の奥は、笑っていなかった。
冷たい怒りの炎が、静かに燃えているように見えた。

「佐伯君……」

「大丈夫」

蓮は、私の言葉を遮るように言った。
そして、信じられない行動に出た。
彼はその写真を、何の躊躇もなく、ビリビリと細かく破り捨てたのだ。

「えっ……!?」

「証拠なんて、なければいい」

彼はそう言うと、破り捨てた紙片をポケットにしまい込んだ。

「でも……!」

「でも、何? これで、水野さんはただの目撃者に戻った。共犯者なんかじゃない」

蓮の言葉は、不思議な説得力を持っていた。
恐怖で麻痺していた思考が、少しずつ動き出す。
そうだ。
写真がなければ、私は……。

「なんで、こんなことを……」

「さあね」

蓮は肩をすくめ、いつもの掴みどころのない笑顔を見せた。

「言ったでしょ。水野さんは、面白いって」

彼はそう言うと、私の頭をポンと軽く撫でた。
大きな、少し骨張った手の感触。
その瞬間、安心感と、それとは別の、新しい種類の戸惑いが、同時に胸に広がった。

「あんまり、一人で抱え込まない方がいいよ。ああいう手合いは、孤独な人間を狙うのが好きだから」

それは、まるで経験者のような口ぶりだった。
彼も、何かを知っているのだろうか。
桐嶋先生の、本当の顔を。
そして、この学園の、もっと深い闇を。

蓮が図書室を出て行った後も、私はしばらくその場から動けなかった。
ポケットにしまわれた写真の残骸。
頭に残る、彼の手の感触。
恐怖は消えていない。
むしろ、事態はもっと複雑になった気がする。
でも、たった一人で暗闇を歩いているような感覚は、少しだけ和らいでいた。
隣に、誰かがいる。
それが救いなのか、それとも新たな地獄の始まりなのか、今の私にはまだ分からなかった。

その日の放課後。
私は、意を決して職員室のドアをノックした。
もちろん、桐嶋先生に会うためではない。
別の、もっと安全な大人に、相談しようと思ったのだ。
学年主任の、温厚で生徒からの信頼も厚い、田中先生に。

「失礼します。水野です。田中先生に、ご相談したいことが……」

ドアを開け、中に声をかける。
しかし、私の目に飛び込んできた光景に、全身が凍りついた。
職員室の奥。
窓際のデスクで、田中先生が誰かと話している。
その相手は――桐嶋先生だった。
二人は、親しげに笑い合っていた。
田中先生が、桐嶋先生の肩を、まるで弟を励ますように、力強く叩いている。
その光景が、雄弁に物語っていた。
この学園という閉鎖された空間で、桐嶋先生がどれほどの信頼を得ているのか。
私が、どれほど無力なのかを。

絶望的な気持ちで踵を返そうとした、その時。
桐嶋先生が、こちらを向いた。
目が、合う。
彼は、にっこりと、完璧な笑顔を私に向けた。
その唇が、声を出さずに、ゆっくりと動く。

『バカな真似は、するなよ』

見えない声が、私の心を締め付ける。
私は、逃げるように職員室を後にした。
廊下を歩きながら、込み上げてくる吐き気を必死にこらえる。
誰も、信じられない。
どこにも、逃げ場はない。
私は、完全に、桐嶋先生の掌の上で転がされている。
その事実が、重い鎖となって、私の足に絡みついていた。
灰色の世界は、いつの間にか、真っ暗な闇に変わっていた。
そしてその闇の中で、私を見つめる瞳が、一つだけではないことに、私はまだ気づいていなかった。
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