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第四話:過去の迷い人の声
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『×月×日 今日も、空は灰色だった。元の世界に帰りたい』
その一行から始まる日記は、拙いけれど、切実な思いが伝わってくる文字で綴られていた。
書いたのは、私と同じように、突然この世界に迷い込んでしまった、過去の日本人なのだろうか。
名前はどこにも書かれていない。
性別も、年齢も分からない。
ただ、その孤独と絶望が、紙を通してひしひしと伝わってきた。
『○月△日 言葉が少しわかるようになってきた。ここはエルドラ王国というらしい。魔法が存在する世界だなんて、信じられない』
『□月×日 『聖女』じゃなかった俺(私?)は、神殿の隅にある古い塔に追いやられた。誰も寄り付かない。まるで忘れられたみたいだ』
日記は、毎日書かれていたわけではないようで、日付は飛び飛びになっている。
内容は、異世界での驚きや発見、そして、それ以上に深い孤独感や故郷への想いが中心だった。
読んでいると、自分のことのように胸が締め付けられる。
(私も、同じなんだ……)
ページを捲る手が、少し震える。
『☆月◇日 騎士団の人がたまに様子を見に来る。銀色の髪の人だ。何を考えているのか分からないけど、少しだけ、他の人とは違う気がする』
(銀色の髪……カイさんのこと……?)
ドキリとした。
この日記の書き手も、カイさんと接触があったのかもしれない。
いつ頃書かれた日記なのだろうか。
さらに読み進めると、世界の断片的な情報も記されていた。
このエルドラ王国には王様がいて、貴族がいて、魔法が存在すること。
人々は『精霊』の恩恵を受けて生活していること。
そして、時折『瘴気』と呼ばれる邪悪な気が発生し、魔物を生み出すこと。
『聖女』はその瘴気を浄化する特別な力を持っているらしい。
『◎月□日 元の世界に帰る方法を探している。何か手がかりはないか。古い文献を漁っているけど、難しい。でも、諦めたくない』
その記述を最後に、日記は途切れていた。
最後のページは、インクが滲んだような跡があり、まるで何かを書きかけて、やめてしまったかのようだ。
(この人は、どうなったんだろう……? 帰れたのかな……? それとも……)
考えたくない可能性が頭をよぎる。
この日記帳が、なぜ私が使うことになった部屋に置かれていたのかも謎だ。
カイさんは、この日記の存在を知っているのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に扉がノックされた。
コンコン。
「……!」
ビクッとして、慌てて日記帳をベッドの下に隠す。
まだ、この日記のことを誰かに知られるのは、まずい気がした。
「……どうぞ」
おずおずと返事をすると、ギィ、と音を立てて扉が開いた。
入ってきたのは、カイさんではない。
黒い髪を後ろで一つにきっちりとまとめ、地味だが清潔な侍女服を着た、若い女性だった。
切れ長の目に、薄い唇。
どこか冷たい印象を受ける顔立ちだ。
彼女は、手に持っていたお盆――食事らしきものが乗っている――を、無言でテーブルの上に置いた。
「……あなたが、今日から私の世話係をしてくださる方ですか?」
私が尋ねると、侍女は値踏みするような視線を私に向け、小さく頷いた。
「リリア、と申します。
以後、お見知りおきを。
ユキ様、でしたね」
「は、はい。よろしくお願いします、リリアさん」
「様付けは不要です。
私はあなたにお仕えする立場ではありませんので」
ピシャリ、と言い放たれる。
その声には、何の感情も籠っていない。
(……やっぱり、歓迎されてないんだな)
テーブルの上に置かれた食事を見る。
スープと、黒っぽいパン、それと、見たことのない紫色の芋のようなものが添えられていた。
お世辞にも美味しそうとは言えないけれど、お腹は空いていた。
「いただきます……」
小さく呟いて、スプーンを手に取る。
スープを一口飲むと、少し薬草のような独特の風味がした。
パンは硬くてパサパサしている。
紫色の芋は、ほんのり甘い味がした。
食べられないほどではないけれど、日本の食事とは全く違う。
リリアは、私が食事をする間も、部屋の隅に直立不動で立っている。
監視されているようで、全く落ち着かなかった。
「あの……リリアさん」
「……何でしょう」
「少し、お聞きしたいことがあるんですけど……」
「内容によります」
「この国のこととか……聖女様のこととか……」
日記のことを直接聞くのは避けて、当たり障りのない質問をしてみる。
少しでも、この世界のことを知りたい。
リリアは、表情一つ変えずに答えた。
「そのような情報は、あなたにお伝えする必要はありません。
カイ様からも、余計な詮索はしないようにと、言われているはずですが」
「……っ」
冷たい拒絶だった。
やはり、私は囚人同然の扱いらしい。
「あなたは、ただ大人しく、カイ様の指示に従っていればいいのです。
それが、あなたのような『外れ』の迷い人が、この国で生きていく唯一の方法ですから」
その言葉は、鋭い棘のように私の心に突き刺さった。
悔しくて、何か言い返したかったけれど、言葉が出てこない。
俯いて、黙々と食事を続けるしかなかった。
食事が終わると、リリアは手際よく食器を片付け、さっさと部屋を出て行った。
もちろん、扉には外から鍵がかけられる。
再び、静寂と孤独が部屋を満たす。
窓の外を見ると、空の色が深い藍色に変わり始めていた。
異世界での、初めての夜が来る。
(これから、ずっとこうなのかな……)
リリアさんのような冷たい視線に晒されて、カイさんの監視下で、何も知らされないまま、ただ息を潜めて生きていく。
そんなの、耐えられない。
ベッドの下から、そっと日記帳を取り出す。
パラパラとページを捲り、あの言葉をもう一度探した。
『諦めたくない』
そうだ。
この人も、諦めなかったんだ。
私も、諦めちゃいけない。
元の世界に帰る方法があるのかどうかは分からない。
でも、このまま何もせずに終わるなんて、絶対に嫌だ。
その時、再び扉がノックされた。
コンコン。
(リリアさん……? それとも……)
緊張しながら、「どうぞ」と答える。
扉を開けて入ってきたのは――カイさんだった。
「……具合は、どうだ」
相変わらずの無表情で、彼は尋ねてきた。
「……だ、大丈夫です」
「そうか。食欲は?」
「……はい、一応、食べました」
カイさんは、部屋の中をゆっくりと見回す。
その視線が、一瞬、ベッドの下あたりで止まったような気がして、心臓が跳ねた。
(まさか、日記のこと、気づかれた……?)
しかし、彼は特に何も言わず、すぐに私に視線を戻した。
「何か、困っていることはないか」
「……いえ、特に……」
日記のことを言うべきか、一瞬迷った。
でも、彼の前でそれを見せる勇気は、まだなかった。
もし、取り上げられてしまったら?
「……そうか。ならいい」
カイさんは、それ以上何も聞かず、踵を返そうとした。
「あの!」
また、呼び止めてしまう。
今日、二度目だ。
「……今度は何だ?」
「……どうして、私に日記帳を……?」
口から、思わず言葉が滑り出ていた。
しまった、と思ったけれど、もう遅い。
カイさんは、少し驚いたように目を見開いた。
そして、すぐにいつもの無表情に戻る。
「……何の、ことだ?」
「とぼけないでください! あの、日本語で書かれた……!」
「さあな。俺は知らない」
カイさんは、そう言って、今度こそ部屋を出て行った。
バタン、と閉まる扉の音が、やけに大きく響いた。
(……知らない、ですって……?)
嘘だ。
絶対に、カイさんが置いたに違いない。
どうして、知らないふりをするんだろう。
それに、私が日記を見つけることを、まるで分かっていたような……。
カイさんの考えていることが、ますます分からなくなった。
彼は、私の敵なのだろうか。
それとも……。
窓の外を見ると、空には二つの月が浮かんでいた。
一つは銀色に、もう一つは淡い青色に輝いている。
星の数も、日本で見ていたものよりずっと多い気がした。
本当に、ここは違う世界なんだ。
ベッドに横になり、目を閉じる。
不安と、疑問と、ほんの少しの決意を抱えたまま。
異世界での、長い長い夜が、始まった。
ふと、遠くで何かの鳴き声のようなものが聞こえた気がした。
それは、獣の声のようでもあり、風の音のようでもあった。
ただ、妙に胸騒ぎがする、不気味な響きだった。
その一行から始まる日記は、拙いけれど、切実な思いが伝わってくる文字で綴られていた。
書いたのは、私と同じように、突然この世界に迷い込んでしまった、過去の日本人なのだろうか。
名前はどこにも書かれていない。
性別も、年齢も分からない。
ただ、その孤独と絶望が、紙を通してひしひしと伝わってきた。
『○月△日 言葉が少しわかるようになってきた。ここはエルドラ王国というらしい。魔法が存在する世界だなんて、信じられない』
『□月×日 『聖女』じゃなかった俺(私?)は、神殿の隅にある古い塔に追いやられた。誰も寄り付かない。まるで忘れられたみたいだ』
日記は、毎日書かれていたわけではないようで、日付は飛び飛びになっている。
内容は、異世界での驚きや発見、そして、それ以上に深い孤独感や故郷への想いが中心だった。
読んでいると、自分のことのように胸が締め付けられる。
(私も、同じなんだ……)
ページを捲る手が、少し震える。
『☆月◇日 騎士団の人がたまに様子を見に来る。銀色の髪の人だ。何を考えているのか分からないけど、少しだけ、他の人とは違う気がする』
(銀色の髪……カイさんのこと……?)
ドキリとした。
この日記の書き手も、カイさんと接触があったのかもしれない。
いつ頃書かれた日記なのだろうか。
さらに読み進めると、世界の断片的な情報も記されていた。
このエルドラ王国には王様がいて、貴族がいて、魔法が存在すること。
人々は『精霊』の恩恵を受けて生活していること。
そして、時折『瘴気』と呼ばれる邪悪な気が発生し、魔物を生み出すこと。
『聖女』はその瘴気を浄化する特別な力を持っているらしい。
『◎月□日 元の世界に帰る方法を探している。何か手がかりはないか。古い文献を漁っているけど、難しい。でも、諦めたくない』
その記述を最後に、日記は途切れていた。
最後のページは、インクが滲んだような跡があり、まるで何かを書きかけて、やめてしまったかのようだ。
(この人は、どうなったんだろう……? 帰れたのかな……? それとも……)
考えたくない可能性が頭をよぎる。
この日記帳が、なぜ私が使うことになった部屋に置かれていたのかも謎だ。
カイさんは、この日記の存在を知っているのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に扉がノックされた。
コンコン。
「……!」
ビクッとして、慌てて日記帳をベッドの下に隠す。
まだ、この日記のことを誰かに知られるのは、まずい気がした。
「……どうぞ」
おずおずと返事をすると、ギィ、と音を立てて扉が開いた。
入ってきたのは、カイさんではない。
黒い髪を後ろで一つにきっちりとまとめ、地味だが清潔な侍女服を着た、若い女性だった。
切れ長の目に、薄い唇。
どこか冷たい印象を受ける顔立ちだ。
彼女は、手に持っていたお盆――食事らしきものが乗っている――を、無言でテーブルの上に置いた。
「……あなたが、今日から私の世話係をしてくださる方ですか?」
私が尋ねると、侍女は値踏みするような視線を私に向け、小さく頷いた。
「リリア、と申します。
以後、お見知りおきを。
ユキ様、でしたね」
「は、はい。よろしくお願いします、リリアさん」
「様付けは不要です。
私はあなたにお仕えする立場ではありませんので」
ピシャリ、と言い放たれる。
その声には、何の感情も籠っていない。
(……やっぱり、歓迎されてないんだな)
テーブルの上に置かれた食事を見る。
スープと、黒っぽいパン、それと、見たことのない紫色の芋のようなものが添えられていた。
お世辞にも美味しそうとは言えないけれど、お腹は空いていた。
「いただきます……」
小さく呟いて、スプーンを手に取る。
スープを一口飲むと、少し薬草のような独特の風味がした。
パンは硬くてパサパサしている。
紫色の芋は、ほんのり甘い味がした。
食べられないほどではないけれど、日本の食事とは全く違う。
リリアは、私が食事をする間も、部屋の隅に直立不動で立っている。
監視されているようで、全く落ち着かなかった。
「あの……リリアさん」
「……何でしょう」
「少し、お聞きしたいことがあるんですけど……」
「内容によります」
「この国のこととか……聖女様のこととか……」
日記のことを直接聞くのは避けて、当たり障りのない質問をしてみる。
少しでも、この世界のことを知りたい。
リリアは、表情一つ変えずに答えた。
「そのような情報は、あなたにお伝えする必要はありません。
カイ様からも、余計な詮索はしないようにと、言われているはずですが」
「……っ」
冷たい拒絶だった。
やはり、私は囚人同然の扱いらしい。
「あなたは、ただ大人しく、カイ様の指示に従っていればいいのです。
それが、あなたのような『外れ』の迷い人が、この国で生きていく唯一の方法ですから」
その言葉は、鋭い棘のように私の心に突き刺さった。
悔しくて、何か言い返したかったけれど、言葉が出てこない。
俯いて、黙々と食事を続けるしかなかった。
食事が終わると、リリアは手際よく食器を片付け、さっさと部屋を出て行った。
もちろん、扉には外から鍵がかけられる。
再び、静寂と孤独が部屋を満たす。
窓の外を見ると、空の色が深い藍色に変わり始めていた。
異世界での、初めての夜が来る。
(これから、ずっとこうなのかな……)
リリアさんのような冷たい視線に晒されて、カイさんの監視下で、何も知らされないまま、ただ息を潜めて生きていく。
そんなの、耐えられない。
ベッドの下から、そっと日記帳を取り出す。
パラパラとページを捲り、あの言葉をもう一度探した。
『諦めたくない』
そうだ。
この人も、諦めなかったんだ。
私も、諦めちゃいけない。
元の世界に帰る方法があるのかどうかは分からない。
でも、このまま何もせずに終わるなんて、絶対に嫌だ。
その時、再び扉がノックされた。
コンコン。
(リリアさん……? それとも……)
緊張しながら、「どうぞ」と答える。
扉を開けて入ってきたのは――カイさんだった。
「……具合は、どうだ」
相変わらずの無表情で、彼は尋ねてきた。
「……だ、大丈夫です」
「そうか。食欲は?」
「……はい、一応、食べました」
カイさんは、部屋の中をゆっくりと見回す。
その視線が、一瞬、ベッドの下あたりで止まったような気がして、心臓が跳ねた。
(まさか、日記のこと、気づかれた……?)
しかし、彼は特に何も言わず、すぐに私に視線を戻した。
「何か、困っていることはないか」
「……いえ、特に……」
日記のことを言うべきか、一瞬迷った。
でも、彼の前でそれを見せる勇気は、まだなかった。
もし、取り上げられてしまったら?
「……そうか。ならいい」
カイさんは、それ以上何も聞かず、踵を返そうとした。
「あの!」
また、呼び止めてしまう。
今日、二度目だ。
「……今度は何だ?」
「……どうして、私に日記帳を……?」
口から、思わず言葉が滑り出ていた。
しまった、と思ったけれど、もう遅い。
カイさんは、少し驚いたように目を見開いた。
そして、すぐにいつもの無表情に戻る。
「……何の、ことだ?」
「とぼけないでください! あの、日本語で書かれた……!」
「さあな。俺は知らない」
カイさんは、そう言って、今度こそ部屋を出て行った。
バタン、と閉まる扉の音が、やけに大きく響いた。
(……知らない、ですって……?)
嘘だ。
絶対に、カイさんが置いたに違いない。
どうして、知らないふりをするんだろう。
それに、私が日記を見つけることを、まるで分かっていたような……。
カイさんの考えていることが、ますます分からなくなった。
彼は、私の敵なのだろうか。
それとも……。
窓の外を見ると、空には二つの月が浮かんでいた。
一つは銀色に、もう一つは淡い青色に輝いている。
星の数も、日本で見ていたものよりずっと多い気がした。
本当に、ここは違う世界なんだ。
ベッドに横になり、目を閉じる。
不安と、疑問と、ほんの少しの決意を抱えたまま。
異世界での、長い長い夜が、始まった。
ふと、遠くで何かの鳴き声のようなものが聞こえた気がした。
それは、獣の声のようでもあり、風の音のようでもあった。
ただ、妙に胸騒ぎがする、不気味な響きだった。
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