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第5章:奈落の谷
第21話:復讐心だけを糧に
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風を切る音だけが、耳に響いていた。
闇。
どこまでも続く、絶対的な無。
巨大な崖から突き落とされた俺の体は、まるで石ころのように底も見えない暗闇の中へと落ちていく。
(ああ、そうか。俺、死ぬのか)
二度目の人生も、結局はこんな結末か。
前世でトラックに轢かれた時のような、安堵の気持ちはどこにもなかった。
あるのはただ、胸を焼き尽くすような無念と、たった一人の男に対するどす黒い憎しみだけ。
脳裏に焼き付いて離れないのは、親友だった男のあの冷酷な眼差しと、耳に残る悪魔のささやき。
『お前は確かに、最高の『駒』だったよ、ケント』
ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるなッ!
俺は、お前の駒なんかじゃない。
俺は、俺の人生を生きるためにここに来たんだ。
(覚えていろ、リュウガ……!)
(地の底からでも、必ず這い上がってやる……!)
(そして、必ず……!)
(お前を、殺すッ!!)
漆黒の復讐の炎を心に宿したまま、俺の意識はゆっくりと闇の中へと沈んでいった。
◇ ◇ ◇
「……う……ぐ……っ」
全身を駆け巡る鈍い痛み。
骨がきしむような感覚と肌を刺すような寒気で、俺の意識はゆっくりと現実へと引き戻された。
目を開けようとするが、まぶたが鉛のように重くて上がらない。
鼻を突くのは、嗅いだことのない濃密な匂い。
腐った土と硫黄が混じったような、魂が拒絶するよどんだ空気。
瘴気だ。
奈落の谷の底によどむという、死の空気。
(……俺は……生きている……のか……?)
かろうじて指先を動かしてみる。
感覚はあった。
俺はゆっくりと、重いまぶたをこじ開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、どこまでも広がる暗闇だった。
空を見上げても、二つの太陽も月も見えない。
分厚い瘴気の雲が、空を完全に覆い隠している。
わずかに差し込む光が、この世のものとは思えない不気味な形の岩肌や枯れ果てた木々を、ぼんやりと照らし出していた。
ゴポッ……ゴポッ……。
近くの地面から、粘り気のある泡が弾けるような音が聞こえる。
見ると、そこには紫色のヘドロが溜まった沼が不気味に広がっていた。
地獄。
もし、地獄という場所があるのなら、きっとこういう光景なのだろう。
俺はゆっくりと、自分の体を確認した。
全身打撲。
だが、致命傷はなかった。
崖から突き落とされて、なぜ生きている?
理由はすぐに分かった。
俺が横たわっている地面は岩ではなく、分厚い苔のようなもので覆われていた。
そしてこの谷底に満ちる濃密な瘴気そのものが、落下の衝撃を奇跡的に和らげてくれたらしい。
「……は……はは……」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
生きている。
まだ、俺は生きている。
「……生きているぞ……リュウガァ……!」
憎しみが、生きる力に変わる。
俺は腕の痛みに顔を歪めながら片腕で体を支え、なんとか上体を起こした。
身も心も、ボロボロだった。
だが、心に灯った復讐の炎だけは少しも衰えていなかった。
それから、本当の地獄が始まった。
まず襲ってきたのは、耐え難いほどの渇きだった。
喉が張り付き、声も出ない。
あの紫色の沼の水を飲むわけにもいかず、俺はただひたすらに岩の隙間から染み出すわずかな雫を求めて、這いずり回った。
次に、飢えが俺を苦しめた。
食えるものなど、どこにもない。
視界の端で何かが動くたびに、それが食えるものではないかと目で追ってしまう。
俺の中の人間としての尊厳が、日に日に削り取られていくのが分かった。
そして何よりも恐ろしかったのは、この谷に潜む「何か」の気配だった。
暗闇の中から常に、視線を感じる。
俺が眠りにつこうとすると、近くで不気味な鳴き声が聞こえる。
それは、飢えた獣のうなり声。
この谷はリュウガの理想郷から追放された罪人たちと、凶暴な魔物たちの巣窟なのだ。
今の俺は、何の力も持たないただの「餌」。
俺は岩陰に身を隠し、息を殺して夜を明かす。
眠ることすら、許されない。
少しでも気を抜けば、暗闇から現れるであろう獣に食い殺されるだろう。
そんな極限状態の中で、俺の精神をかろうじて支えていたのはただ一つ。
リュウガへの、復讐心だけだった。
(なぜだ……
なぜなんだ、リュウガ……!)
(俺たちは、親友だったはずだろう……!)
何度も、何度も自問自答を繰り返す。
楽しかった小学生の頃の記憶。
この世界で再会し、固く誓い合ったあの日のこと。
スラム街で俺が救った、人々の笑顔。
療養施設で俺を信じてくれた、職員たちの顔。
その全てが、あの男によって仕組まれた壮大な茶番劇だったというのか。
『お前は確かに、最高の『駒』だったよ、ケント』
あの悪魔のささやきが、脳内で何度も響き渡る。
「……ちくしょう……ちくしょうッ……!」
悔し涙が頬を、伝った。
だが、その涙もすぐに乾いていく。
絶望に心を支配されそうになるたびに、俺は奥歯を強く噛み締めた。
(死んでたまるか……)
(こんな場所で、終わってたまるか……)
(あいつが創り上げた偽りの理想郷を、この手で引きずり下ろすまでは……)
(あいつのあの絶望に歪んだ顔を、この目で見るまでは……!)
復讐の誓いが、俺の心を黒く、硬く塗りつぶしていく。
優しさも理想も、他人を信じる心も、全てがどうでもよくなっていった。
ただ、生き延びる。
そして、復讐を果たす。
その二つだけが、俺の全てになった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
三日か、あるいは一週間か。
時間の感覚は、とうに失われていた。
俺の体力は、もう限界に近かった。
復讐心だけを支えに生き延びてきたが、その燃料も尽きかけている。
喉の渇きと飢えで、もう指一本動かすのもおっくうだった。
岩陰に横たわり、かすむ意識の中でぼんやりと瘴気の空を見上げる。
(……ここまで、か……)
悔しいが、これが現実だ。
復讐の誓いも、この肉体が滅びてしまえば何の意味もない。
遠くで、ガサリ、と何かが動く音がした。
また、魔物か。
だがもう、逃げる気力もなかった。
いっそ、このまま食われて終わる方が楽かもしれない。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
その、瞬間だった。
グルルルルル……。
地を這うようなうなり声が、すぐ近くで聞こえた。
俺は、ハッと目を開ける。
暗闇の中から、爛々と輝く二つの赤い光が俺をまっすぐに見つめていた。
それは、狼に似た獣だった。
だが、その体は異常に大きく、その口からは鋭い牙が何本も突き出している。
飢えと、明確な殺意を宿した瞳。
獣は、俺を完全な「獲物」として認識していた。
ゆっくりと、しかし確実に俺との距離を詰めてくる。
(……死ぬ)
直感的に、そう理解した。
せっかく手に入れた二度目の人生。
復讐を誓ったこの命が、こんな場所でこんな化け物に食われて終わるのか。
冗談じゃない。
冗談じゃない、冗談じゃないッ!!
俺の中で、最後に残っていた何かがブツリと音を立てて切れた。
死への恐怖が、復讐の炎を再び激しく燃え上がらせる。
「……来るな……」
俺は、最後の力を振り絞って化け物を睨みつけた。
「俺はまだ……死ねないんだ……!」
獣は、俺の威嚇など意にも介さず、その巨大な口を大きく開けた。
鋭い牙が、目の前に迫る。
終わった。
そう、誰もが思うだろう。
だが、俺はまだ諦めていなかった。
俺の魂が、生きることを諦めていなかった。
(……動け……
動け、俺の力……!)
(あいつを殺すまでは……
死んでたまるかッ!!)
俺は無我夢中で、心の奥底に眠る力に呼びかけた。
この世界で授かった、たった一つの武器。
《物語の観測者》に。
闇。
どこまでも続く、絶対的な無。
巨大な崖から突き落とされた俺の体は、まるで石ころのように底も見えない暗闇の中へと落ちていく。
(ああ、そうか。俺、死ぬのか)
二度目の人生も、結局はこんな結末か。
前世でトラックに轢かれた時のような、安堵の気持ちはどこにもなかった。
あるのはただ、胸を焼き尽くすような無念と、たった一人の男に対するどす黒い憎しみだけ。
脳裏に焼き付いて離れないのは、親友だった男のあの冷酷な眼差しと、耳に残る悪魔のささやき。
『お前は確かに、最高の『駒』だったよ、ケント』
ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるなッ!
俺は、お前の駒なんかじゃない。
俺は、俺の人生を生きるためにここに来たんだ。
(覚えていろ、リュウガ……!)
(地の底からでも、必ず這い上がってやる……!)
(そして、必ず……!)
(お前を、殺すッ!!)
漆黒の復讐の炎を心に宿したまま、俺の意識はゆっくりと闇の中へと沈んでいった。
◇ ◇ ◇
「……う……ぐ……っ」
全身を駆け巡る鈍い痛み。
骨がきしむような感覚と肌を刺すような寒気で、俺の意識はゆっくりと現実へと引き戻された。
目を開けようとするが、まぶたが鉛のように重くて上がらない。
鼻を突くのは、嗅いだことのない濃密な匂い。
腐った土と硫黄が混じったような、魂が拒絶するよどんだ空気。
瘴気だ。
奈落の谷の底によどむという、死の空気。
(……俺は……生きている……のか……?)
かろうじて指先を動かしてみる。
感覚はあった。
俺はゆっくりと、重いまぶたをこじ開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、どこまでも広がる暗闇だった。
空を見上げても、二つの太陽も月も見えない。
分厚い瘴気の雲が、空を完全に覆い隠している。
わずかに差し込む光が、この世のものとは思えない不気味な形の岩肌や枯れ果てた木々を、ぼんやりと照らし出していた。
ゴポッ……ゴポッ……。
近くの地面から、粘り気のある泡が弾けるような音が聞こえる。
見ると、そこには紫色のヘドロが溜まった沼が不気味に広がっていた。
地獄。
もし、地獄という場所があるのなら、きっとこういう光景なのだろう。
俺はゆっくりと、自分の体を確認した。
全身打撲。
だが、致命傷はなかった。
崖から突き落とされて、なぜ生きている?
理由はすぐに分かった。
俺が横たわっている地面は岩ではなく、分厚い苔のようなもので覆われていた。
そしてこの谷底に満ちる濃密な瘴気そのものが、落下の衝撃を奇跡的に和らげてくれたらしい。
「……は……はは……」
乾いた笑いが、喉から漏れた。
生きている。
まだ、俺は生きている。
「……生きているぞ……リュウガァ……!」
憎しみが、生きる力に変わる。
俺は腕の痛みに顔を歪めながら片腕で体を支え、なんとか上体を起こした。
身も心も、ボロボロだった。
だが、心に灯った復讐の炎だけは少しも衰えていなかった。
それから、本当の地獄が始まった。
まず襲ってきたのは、耐え難いほどの渇きだった。
喉が張り付き、声も出ない。
あの紫色の沼の水を飲むわけにもいかず、俺はただひたすらに岩の隙間から染み出すわずかな雫を求めて、這いずり回った。
次に、飢えが俺を苦しめた。
食えるものなど、どこにもない。
視界の端で何かが動くたびに、それが食えるものではないかと目で追ってしまう。
俺の中の人間としての尊厳が、日に日に削り取られていくのが分かった。
そして何よりも恐ろしかったのは、この谷に潜む「何か」の気配だった。
暗闇の中から常に、視線を感じる。
俺が眠りにつこうとすると、近くで不気味な鳴き声が聞こえる。
それは、飢えた獣のうなり声。
この谷はリュウガの理想郷から追放された罪人たちと、凶暴な魔物たちの巣窟なのだ。
今の俺は、何の力も持たないただの「餌」。
俺は岩陰に身を隠し、息を殺して夜を明かす。
眠ることすら、許されない。
少しでも気を抜けば、暗闇から現れるであろう獣に食い殺されるだろう。
そんな極限状態の中で、俺の精神をかろうじて支えていたのはただ一つ。
リュウガへの、復讐心だけだった。
(なぜだ……
なぜなんだ、リュウガ……!)
(俺たちは、親友だったはずだろう……!)
何度も、何度も自問自答を繰り返す。
楽しかった小学生の頃の記憶。
この世界で再会し、固く誓い合ったあの日のこと。
スラム街で俺が救った、人々の笑顔。
療養施設で俺を信じてくれた、職員たちの顔。
その全てが、あの男によって仕組まれた壮大な茶番劇だったというのか。
『お前は確かに、最高の『駒』だったよ、ケント』
あの悪魔のささやきが、脳内で何度も響き渡る。
「……ちくしょう……ちくしょうッ……!」
悔し涙が頬を、伝った。
だが、その涙もすぐに乾いていく。
絶望に心を支配されそうになるたびに、俺は奥歯を強く噛み締めた。
(死んでたまるか……)
(こんな場所で、終わってたまるか……)
(あいつが創り上げた偽りの理想郷を、この手で引きずり下ろすまでは……)
(あいつのあの絶望に歪んだ顔を、この目で見るまでは……!)
復讐の誓いが、俺の心を黒く、硬く塗りつぶしていく。
優しさも理想も、他人を信じる心も、全てがどうでもよくなっていった。
ただ、生き延びる。
そして、復讐を果たす。
その二つだけが、俺の全てになった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
三日か、あるいは一週間か。
時間の感覚は、とうに失われていた。
俺の体力は、もう限界に近かった。
復讐心だけを支えに生き延びてきたが、その燃料も尽きかけている。
喉の渇きと飢えで、もう指一本動かすのもおっくうだった。
岩陰に横たわり、かすむ意識の中でぼんやりと瘴気の空を見上げる。
(……ここまで、か……)
悔しいが、これが現実だ。
復讐の誓いも、この肉体が滅びてしまえば何の意味もない。
遠くで、ガサリ、と何かが動く音がした。
また、魔物か。
だがもう、逃げる気力もなかった。
いっそ、このまま食われて終わる方が楽かもしれない。
俺は、ゆっくりと目を閉じた。
その、瞬間だった。
グルルルルル……。
地を這うようなうなり声が、すぐ近くで聞こえた。
俺は、ハッと目を開ける。
暗闇の中から、爛々と輝く二つの赤い光が俺をまっすぐに見つめていた。
それは、狼に似た獣だった。
だが、その体は異常に大きく、その口からは鋭い牙が何本も突き出している。
飢えと、明確な殺意を宿した瞳。
獣は、俺を完全な「獲物」として認識していた。
ゆっくりと、しかし確実に俺との距離を詰めてくる。
(……死ぬ)
直感的に、そう理解した。
せっかく手に入れた二度目の人生。
復讐を誓ったこの命が、こんな場所でこんな化け物に食われて終わるのか。
冗談じゃない。
冗談じゃない、冗談じゃないッ!!
俺の中で、最後に残っていた何かがブツリと音を立てて切れた。
死への恐怖が、復讐の炎を再び激しく燃え上がらせる。
「……来るな……」
俺は、最後の力を振り絞って化け物を睨みつけた。
「俺はまだ……死ねないんだ……!」
獣は、俺の威嚇など意にも介さず、その巨大な口を大きく開けた。
鋭い牙が、目の前に迫る。
終わった。
そう、誰もが思うだろう。
だが、俺はまだ諦めていなかった。
俺の魂が、生きることを諦めていなかった。
(……動け……
動け、俺の力……!)
(あいつを殺すまでは……
死んでたまるかッ!!)
俺は無我夢中で、心の奥底に眠る力に呼びかけた。
この世界で授かった、たった一つの武器。
《物語の観測者》に。
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