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第5章:奈落の谷
第22話:生存のための天賦(ギフト)
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鋭い牙が、目の前に迫る。
死の匂いが、鼻を満たした。
(……動け……動け、俺の力……!)
(あいつを殺すまでは……
死んでたまるかッ!!)
俺は無我夢中で、心の奥底に眠る力に呼びかけた。
この世界で授かった、たった一つの武器。
《物語の観測者》に。
その瞬間。
俺の世界から、音が消えた。
目の前に迫っていた魔物の姿が、まるで古い映画のように色褪せていく。
時間の流れが、蜜のようにねっとりと引き延ばされる感覚。
獣の筋肉が収縮し、骨がきしむ音までが、情報として頭に流れ込んでくるようだった。
ズキンッ!
こめかみを、鋭い針で突き刺されたかのような激痛が走る。
脳内に、膨大な情報が濁流のように流れ込んできた。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
種族名:奈落の猟犬
魂の物語:
【渇望】:飢え。目の前の獲物を喰らいたい。
【恐怖】:光。かつて光を放つ魔物に縄張りを焼かれた記憶。
【衝動】:狩り。動くものを追いかけ、引き裂きたい。
弱点:
【物理】:頑丈な皮。並大抵の攻撃は通用しない。
【魔法】:闇の力への高い耐性。光の魔法には、極端に弱い。
【構造】:首の付け根、下あごの真裏にある神経の塊。強い衝撃を受けると、全身が一時的に麻痺する。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
「……ぐ……ぁっ……!」
情報の奔流に、意識が焼き切れそうになる。
これが、俺の天賦の本当の力。
ただ人の心に寄り添うだけじゃない。
この世界のあらゆる存在の「物語」――その本質と弱点を、強制的に暴き出す力。
だが、今の俺に何ができる?
光の魔法など使えるはずもない。
頑丈な皮を貫く武器も、力もない。
残された道は、ただ一つ。
(……神経の塊……)
首の付け根、下あごの真裏。
そこに、万に一つの活路がある。
引き延ばされていた時間が、急速に現実へと戻ってくる。
奈落の猟犬の巨大なあごが、俺の頭を砕こうとまさに閉じられようとしていた。
もう、時間がない。
右に動けば牙が届く、左に動けば爪が来る。
残された道は、牙と牙の隙間、わずか数十センチの死角のみ!
恐怖で凍りつきそうな体を、復讐の炎が無理やり動かす。
俺は地面に転がっていた手のひらサイズの尖った石を、最後の力を振り絞って掴み取った。
逃げるんじゃない。
避けるのでもない。
(―――ここだッ!)
俺は、迫りくる牙に向かって自ら身を滑り込ませた。
獣のあごの下、懐へと。
それは自殺行為に等しい、紙一重の賭け。
俺の髪を、獣の牙が数本かすめていく。
焼けるような痛み。
だが、構うものか。
俺は獣のあごの下に潜り込んだ体勢のまま、尖った石を握りしめた右腕を天へと突き上げた。
狙うは一点。
《物語の観測者》が示した、絶対の弱点。
グシャリ。
肉を貫き、神経の束を断ち切る鈍い感触。
俺の腕に、獣の生温かい血が降り注いだ。
「―――ッッ!?」
獣の動きが、ピタリと止まる。
驚きと、信じられないといった混乱がその赤い瞳に浮かぶ。
そして、次の瞬間。
「ギィヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
鼓膜が破れんばかりの絶叫が、奈落の谷に響き渡った。
獣の巨体が、あり得ない角度でけいれんする。
全身の筋肉が意思に反して縮み上がり、まるで壊れたおもちゃのように暴れ始めた。
俺はすぐさまその場を転がり、距離を取る。
獣は俺のことなどもう目に入っていないようだった。
ただただ、喉を突き刺す見えない痛みにのたうち回っている。
やがて、けいれんが収まったかと思うと、獣は憎しみとそれ以上の恐怖が入り混じった目で俺を睨みつけた。
そして、ウサギのように素早く暗闇の中へと逃げ去っていった。
その背中には、明らかな敗走の色が浮かんでいた。
「…………はぁ……はぁ……はぁ……」
静寂が戻った谷底で、俺の荒い呼吸だけが響く。
右手には、まだあの尖った石を握りしめていた。
獣の血でぬるりと濡れている。
「……はは……」
乾いた笑いが、再び漏れた。
今度は、生き延びたことへの安堵だけじゃない。
「……ははは……ははははははははっ!」
笑いが、止まらない。
心の底から、歓喜が湧き上がってくる。
俺は、勝ったのだ。
飢えと渇きで死にかけていた、丸腰の俺が。
あの凶暴な魔物に、己の力だけで。
俺はゆっくりと、上体を起こした。
腕についた獣の血を、無造作に拭う。
そして、近くにあった水たまりに映る自分の顔を見た。
そこにいたのは、数日前まで絶望に打ちひしがれていた、哀れな男ではなかった。
瞳の奥に、冷たく、そして鋭い光が宿っている。
飢えた獣と同じ、生存への渇望。
そして、敵を狩る者の光。
この手は、もう書類にサインをするためだけの手じゃない。
敵を殺すための手だ。
(……そうか)
俺は、ようやく理解した。
この奈落の谷は、ただの牢獄じゃない。
リュウガが俺を殺すために突き落とした、処刑場でもない。
ここは、俺のための訓練場だ。
復讐という目的を果たすために、俺をより強く、より冷徹な存在へと作り変えるための。
優しさも、理想も、甘えも。
そんなものは、ここでは何の役にも立たない。
この地獄で生き抜くために必要なのは、力だけだ。
そして俺には、そのための最強の武器がある。
俺は水たまりに映る自分の顔に向かって、不敵に笑いかけた。
その笑みは、かつての親友が俺に見せたあの冷酷な笑みと、どこか似ていた。
「見てろよ、リュウガ……」
俺は、まだ死なない。
死んでやらない。
この地獄の底で牙を研ぎ、爪を磨き、必ずやお前の喉笛を食い破る最強の獣となって、お前の前に現れてやる。
あの日、奈落の谷でただの「餌」だった男は死んだ。
代わりに生まれたのは、この谷の理不尽な「物語」を喰らい尽くす、一匹の飢えた獣だった。
死の匂いが、鼻を満たした。
(……動け……動け、俺の力……!)
(あいつを殺すまでは……
死んでたまるかッ!!)
俺は無我夢中で、心の奥底に眠る力に呼びかけた。
この世界で授かった、たった一つの武器。
《物語の観測者》に。
その瞬間。
俺の世界から、音が消えた。
目の前に迫っていた魔物の姿が、まるで古い映画のように色褪せていく。
時間の流れが、蜜のようにねっとりと引き延ばされる感覚。
獣の筋肉が収縮し、骨がきしむ音までが、情報として頭に流れ込んでくるようだった。
ズキンッ!
こめかみを、鋭い針で突き刺されたかのような激痛が走る。
脳内に、膨大な情報が濁流のように流れ込んできた。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
種族名:奈落の猟犬
魂の物語:
【渇望】:飢え。目の前の獲物を喰らいたい。
【恐怖】:光。かつて光を放つ魔物に縄張りを焼かれた記憶。
【衝動】:狩り。動くものを追いかけ、引き裂きたい。
弱点:
【物理】:頑丈な皮。並大抵の攻撃は通用しない。
【魔法】:闇の力への高い耐性。光の魔法には、極端に弱い。
【構造】:首の付け根、下あごの真裏にある神経の塊。強い衝撃を受けると、全身が一時的に麻痺する。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
「……ぐ……ぁっ……!」
情報の奔流に、意識が焼き切れそうになる。
これが、俺の天賦の本当の力。
ただ人の心に寄り添うだけじゃない。
この世界のあらゆる存在の「物語」――その本質と弱点を、強制的に暴き出す力。
だが、今の俺に何ができる?
光の魔法など使えるはずもない。
頑丈な皮を貫く武器も、力もない。
残された道は、ただ一つ。
(……神経の塊……)
首の付け根、下あごの真裏。
そこに、万に一つの活路がある。
引き延ばされていた時間が、急速に現実へと戻ってくる。
奈落の猟犬の巨大なあごが、俺の頭を砕こうとまさに閉じられようとしていた。
もう、時間がない。
右に動けば牙が届く、左に動けば爪が来る。
残された道は、牙と牙の隙間、わずか数十センチの死角のみ!
恐怖で凍りつきそうな体を、復讐の炎が無理やり動かす。
俺は地面に転がっていた手のひらサイズの尖った石を、最後の力を振り絞って掴み取った。
逃げるんじゃない。
避けるのでもない。
(―――ここだッ!)
俺は、迫りくる牙に向かって自ら身を滑り込ませた。
獣のあごの下、懐へと。
それは自殺行為に等しい、紙一重の賭け。
俺の髪を、獣の牙が数本かすめていく。
焼けるような痛み。
だが、構うものか。
俺は獣のあごの下に潜り込んだ体勢のまま、尖った石を握りしめた右腕を天へと突き上げた。
狙うは一点。
《物語の観測者》が示した、絶対の弱点。
グシャリ。
肉を貫き、神経の束を断ち切る鈍い感触。
俺の腕に、獣の生温かい血が降り注いだ。
「―――ッッ!?」
獣の動きが、ピタリと止まる。
驚きと、信じられないといった混乱がその赤い瞳に浮かぶ。
そして、次の瞬間。
「ギィヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
鼓膜が破れんばかりの絶叫が、奈落の谷に響き渡った。
獣の巨体が、あり得ない角度でけいれんする。
全身の筋肉が意思に反して縮み上がり、まるで壊れたおもちゃのように暴れ始めた。
俺はすぐさまその場を転がり、距離を取る。
獣は俺のことなどもう目に入っていないようだった。
ただただ、喉を突き刺す見えない痛みにのたうち回っている。
やがて、けいれんが収まったかと思うと、獣は憎しみとそれ以上の恐怖が入り混じった目で俺を睨みつけた。
そして、ウサギのように素早く暗闇の中へと逃げ去っていった。
その背中には、明らかな敗走の色が浮かんでいた。
「…………はぁ……はぁ……はぁ……」
静寂が戻った谷底で、俺の荒い呼吸だけが響く。
右手には、まだあの尖った石を握りしめていた。
獣の血でぬるりと濡れている。
「……はは……」
乾いた笑いが、再び漏れた。
今度は、生き延びたことへの安堵だけじゃない。
「……ははは……ははははははははっ!」
笑いが、止まらない。
心の底から、歓喜が湧き上がってくる。
俺は、勝ったのだ。
飢えと渇きで死にかけていた、丸腰の俺が。
あの凶暴な魔物に、己の力だけで。
俺はゆっくりと、上体を起こした。
腕についた獣の血を、無造作に拭う。
そして、近くにあった水たまりに映る自分の顔を見た。
そこにいたのは、数日前まで絶望に打ちひしがれていた、哀れな男ではなかった。
瞳の奥に、冷たく、そして鋭い光が宿っている。
飢えた獣と同じ、生存への渇望。
そして、敵を狩る者の光。
この手は、もう書類にサインをするためだけの手じゃない。
敵を殺すための手だ。
(……そうか)
俺は、ようやく理解した。
この奈落の谷は、ただの牢獄じゃない。
リュウガが俺を殺すために突き落とした、処刑場でもない。
ここは、俺のための訓練場だ。
復讐という目的を果たすために、俺をより強く、より冷徹な存在へと作り変えるための。
優しさも、理想も、甘えも。
そんなものは、ここでは何の役にも立たない。
この地獄で生き抜くために必要なのは、力だけだ。
そして俺には、そのための最強の武器がある。
俺は水たまりに映る自分の顔に向かって、不敵に笑いかけた。
その笑みは、かつての親友が俺に見せたあの冷酷な笑みと、どこか似ていた。
「見てろよ、リュウガ……」
俺は、まだ死なない。
死んでやらない。
この地獄の底で牙を研ぎ、爪を磨き、必ずやお前の喉笛を食い破る最強の獣となって、お前の前に現れてやる。
あの日、奈落の谷でただの「餌」だった男は死んだ。
代わりに生まれたのは、この谷の理不尽な「物語」を喰らい尽くす、一匹の飢えた獣だった。
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