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第5章:奈落の谷
第23話:奈落の住人
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あの日、奈落の谷でただの「餌」だった男は死んだ。
代わりに生まれたのは、この谷の理不尽な「物語」を喰らい尽くす、一匹の飢えた獣だった。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのか。
二つの太陽も月も見えないこの谷底では、時間の感覚などとうに失われていた。
数ヶ月、と呼ぶのが妥当なだけの時間が、俺の肉体と魂を完全に作り変えていた。
ジジ……ッ。
焚き火であぶった肉の塊から、脂がしたたり落ちて爆ぜる。
香ばしいとは到底言えない獣臭い匂いが、俺が寝ぐらと定めた小さな洞窟に満ちていた。
俺は無言でその肉塊にかじりつく。
硬く、筋張っていて、噛み切るのにもあごの力が必要だ。
味などない。
ただ、生きるために必要な熱量とタンパク質を、腹の中に流し込むだけの作業。
水たまりに映る自分の姿は、もはや元の「相馬健人」の面影をどこにも残してはいなかった。
陽の光を知らず伸び続けた髪は土と脂で汚れ、無造作に肩まで伸びている。
かつては営業用の笑顔を貼り付けていた顔は、無精ひげに覆われ頬はこけていた。
だがその奥で光る両目だけは、前世のどんな時よりも鋭く飢えた光を宿していた。
それはもはや、人間の目ではない。
暗闇の中で獲物を探す、夜行性の肉食獣の目だった。
着ているのは、あの時身に着けていた麻の服の残骸と、俺が狩った魔物たちの皮をその腱で縫い合わせただけの粗末なもの。
だが、それはどんな高級なスーツよりも、この地獄を生き抜くためには優れた鎧だった。
贅肉は全てそぎ落とされ、全身には無数の傷痕が刻まれている。
だがその下には、この過酷な環境に適応するために鍛え上げられた、鋼のような筋肉がついていた。
優しさも、理想も、他人を信じる心も。
そんなものは、この谷の瘴気と共にとうの昔に消え去った。
俺の心に残っているのはただ、二つ。
リュウガへの凍てつくような復讐心。
そしてその目的を果たすまで、何をしてでも生き延びるという獣のような生存本能だけだ。
俺は、食い終えた骨を無造作に投げ捨てると、ゆっくりと立ち上がった。
そろそろ、次の「狩り」の時間だった。
洞窟の外に出ると、よどんだ空気が肺を満たす。
もはや、この瘴気すら俺の体の一部となっていた。
俺は、崖の壁面に作った即席の足場を猿のような身軽さで登っていく。
そして、辺りを見渡せる岩棚の上に立つと、目を閉じて意識を集中させた。
《物語の観測者》――。
かつて人の心を救うために使っていたこの力は、今や俺にとって最高の敵を探す道具となっていた。
俺の意識が、さざ波のように周囲へと広がっていく。
岩陰に潜む、小さな牙を持つトカゲの物語。
沼の底で眠る、巨大な口を持つナマズの物語。
そして……。
(……いた)
北東、約三百メートル。
岩場の影に、ひときわ大きな生命の反応。
その魂が紡ぐ物語は、単純明快だった。
【渇望】:血肉。
【衝動】:破壊。
俺は、静かに目を開けた。
口の端が、自然と吊り上がる。
今日の獲物は、決まった。
俺は音もなく岩棚から飛び降りると、獣のように四つん這いに近い低い姿勢で、闇の中を疾走する。
もはや、俺の動きに迷いはない。
この奈落の谷の地形は、俺の庭も同然だった。
やがて、目標の岩場が見えてくる。
そこにいたのは、猪に似た姿の魔物だった。
だが、その体は俺の背丈ほどもあり、その皮膚はまるで岩石のようにゴツゴツとしている。
種族名:岩石猪。
この辺りの生態系の、中堅どころといったところか。
以前の俺なら、出会った瞬間に逃げ出していただろう。
だが今の俺には、こいつがただの「食料」にしか見えなかった。
俺は、息を殺して岩陰に潜む。
そして、もう一度だけ《物語の観測者》の力を集中させた。
狙うは、弱点。
その物語に潜む、たった一つの致命的な欠陥。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
弱点:
【構造】:突進の際、一瞬だけ剥き出しになる喉元の柔らかい部分。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
(……やはりな)
情報は、得た。
あとは、その通りに実行するだけだ。
俺は、足元に転がっていた石を拾うと、岩石猪から少し離れた場所にある岩壁に向かって全力で投げつけた。
カーン!
甲高い音が響き、岩石猪が警戒したようにそちらを向く。
その瞬間、俺は岩陰から飛び出した。
「ブルルルルッッ!!」
俺の姿を認めた岩石猪が、怒りの叫びを上げる。
そして、その巨体に似合わないほどの速度で一直線に俺へと突進してきた。
大地が揺れる。
まともに食らえば、俺の体など一瞬で肉塊と化すだろう。
だが、俺は逃げなかった。
ただ、静かにその突進を見据える。
かつて奈落の猟犬を仕留めた時と同じだ。
恐怖など、もう感じない。
俺の心は、絶対零度の氷のように静まり返っていた。
二十メートル、十メートル、五メートル……!
岩石猪の巨大な牙が、俺の体を貫こうと迫る。
(―――今だ!)
俺は、突進を横に跳んでかわすのとほぼ同時に、懐から自作の武器を取り出した。
奈落の猟犬の牙を削り、石で研ぎ上げた即席の骨のナイフだ。
そして、すれ違いざまに。
突進の勢いでわずかにがら空きになった、岩石猪の喉元。
そこに、俺はナイフを深々と突き立てた。
ザシュッ!
肉を断つ、生々しい感触。
岩石猪は、信じられないといったように目を見開いたままその巨体を地面に横たえた。
そして、二度と動くことはなかった。
「…………ふぅ」
俺は、返り血を浴びたナイフを無造作に拭うと、死骸の解体を始めた。
これも、もう慣れた作業だ。
食料となる肉と、武具の素材となる皮や骨を手際よく分けていく。
前世で俺が握っていたのは、ペンだった。
俺がさばいていたのは、複雑な情報だった。
今の俺が握っているのは、血塗られた骨のナイフ。
さばいているのは、魔物の死体。
(……笑えるな)
どちらが、俺の本当の人生だったのだろうか。
もはや、どうでもいいことだった。
俺は必要なだけの肉を皮で包むと、残りは他の魔物のためにその場に残し、寝ぐらへと戻ることにした。
これが、この谷のルール。
全てを独り占めしようとする者は、やがて他の飢えた獣たちに食い殺される。
洞窟へと戻る途中、ふと俺は足を止めた。
はるか頭上。
瘴気の雲が渦巻く空の、さらにその上から。
何か、かすかな音が聞こえた気がしたからだ。
それは、人の叫び声のようだった。
複数人の、絶望に満ちた悲鳴。
俺は、崖の上を見上げた。
そこは、俺がこの地獄へと突き落とされた場所。
帝国の、処刑場だ。
ヒュッ、と空気を切り裂く音と共に、いくつかの小さな影が瘴気の雲を突き抜け、この谷底へと落ちてくるのが見えた。
ゴミのように、無造作に。
(……またか)
俺は、何の感情も浮かばない瞳でその光景をただ見つめていた。
時折、こうして新たな罪人たちが帝国から「廃棄」されてくるのだ。
彼らが地面に激突し、肉塊と化す音ももう聞き慣れた。
運良く生き延びたとしても、この過酷な環境に耐えきれず、数日後には魔物の餌となるだけだ。
俺がそうだったように。
俺は、彼らに何の興味もなかった。
同情も、憐れみも。
そんな感情は、とうの昔に捨てた。
この地獄では、弱者はただ死ぬだけだ。
それが、唯一の真実。
俺は彼らに背を向けると、再び自分の寝ぐらへと歩き始めた。
だが、数歩進んだところで俺の足はピタリと止まる。
心の奥底で、何かがうずいた。
それは、好奇心だったのかもしれない。
あるいは俺の中にまだ、わずかに残っていた人間としての最後の残りかすだったのかもしれない。
俺は、もう一度だけ振り返った。
そして、罪人たちが落ちてきた方向へと意識を集中させる。
《物語の観測者》――。
(さて……)
(お前たちは、どんな『物語』を持って、このゴミ箱に捨てられた?)
代わりに生まれたのは、この谷の理不尽な「物語」を喰らい尽くす、一匹の飢えた獣だった。
それから、どれくらいの時間が過ぎたのか。
二つの太陽も月も見えないこの谷底では、時間の感覚などとうに失われていた。
数ヶ月、と呼ぶのが妥当なだけの時間が、俺の肉体と魂を完全に作り変えていた。
ジジ……ッ。
焚き火であぶった肉の塊から、脂がしたたり落ちて爆ぜる。
香ばしいとは到底言えない獣臭い匂いが、俺が寝ぐらと定めた小さな洞窟に満ちていた。
俺は無言でその肉塊にかじりつく。
硬く、筋張っていて、噛み切るのにもあごの力が必要だ。
味などない。
ただ、生きるために必要な熱量とタンパク質を、腹の中に流し込むだけの作業。
水たまりに映る自分の姿は、もはや元の「相馬健人」の面影をどこにも残してはいなかった。
陽の光を知らず伸び続けた髪は土と脂で汚れ、無造作に肩まで伸びている。
かつては営業用の笑顔を貼り付けていた顔は、無精ひげに覆われ頬はこけていた。
だがその奥で光る両目だけは、前世のどんな時よりも鋭く飢えた光を宿していた。
それはもはや、人間の目ではない。
暗闇の中で獲物を探す、夜行性の肉食獣の目だった。
着ているのは、あの時身に着けていた麻の服の残骸と、俺が狩った魔物たちの皮をその腱で縫い合わせただけの粗末なもの。
だが、それはどんな高級なスーツよりも、この地獄を生き抜くためには優れた鎧だった。
贅肉は全てそぎ落とされ、全身には無数の傷痕が刻まれている。
だがその下には、この過酷な環境に適応するために鍛え上げられた、鋼のような筋肉がついていた。
優しさも、理想も、他人を信じる心も。
そんなものは、この谷の瘴気と共にとうの昔に消え去った。
俺の心に残っているのはただ、二つ。
リュウガへの凍てつくような復讐心。
そしてその目的を果たすまで、何をしてでも生き延びるという獣のような生存本能だけだ。
俺は、食い終えた骨を無造作に投げ捨てると、ゆっくりと立ち上がった。
そろそろ、次の「狩り」の時間だった。
洞窟の外に出ると、よどんだ空気が肺を満たす。
もはや、この瘴気すら俺の体の一部となっていた。
俺は、崖の壁面に作った即席の足場を猿のような身軽さで登っていく。
そして、辺りを見渡せる岩棚の上に立つと、目を閉じて意識を集中させた。
《物語の観測者》――。
かつて人の心を救うために使っていたこの力は、今や俺にとって最高の敵を探す道具となっていた。
俺の意識が、さざ波のように周囲へと広がっていく。
岩陰に潜む、小さな牙を持つトカゲの物語。
沼の底で眠る、巨大な口を持つナマズの物語。
そして……。
(……いた)
北東、約三百メートル。
岩場の影に、ひときわ大きな生命の反応。
その魂が紡ぐ物語は、単純明快だった。
【渇望】:血肉。
【衝動】:破壊。
俺は、静かに目を開けた。
口の端が、自然と吊り上がる。
今日の獲物は、決まった。
俺は音もなく岩棚から飛び降りると、獣のように四つん這いに近い低い姿勢で、闇の中を疾走する。
もはや、俺の動きに迷いはない。
この奈落の谷の地形は、俺の庭も同然だった。
やがて、目標の岩場が見えてくる。
そこにいたのは、猪に似た姿の魔物だった。
だが、その体は俺の背丈ほどもあり、その皮膚はまるで岩石のようにゴツゴツとしている。
種族名:岩石猪。
この辺りの生態系の、中堅どころといったところか。
以前の俺なら、出会った瞬間に逃げ出していただろう。
だが今の俺には、こいつがただの「食料」にしか見えなかった。
俺は、息を殺して岩陰に潜む。
そして、もう一度だけ《物語の観測者》の力を集中させた。
狙うは、弱点。
その物語に潜む、たった一つの致命的な欠陥。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
弱点:
【構造】:突進の際、一瞬だけ剥き出しになる喉元の柔らかい部分。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
(……やはりな)
情報は、得た。
あとは、その通りに実行するだけだ。
俺は、足元に転がっていた石を拾うと、岩石猪から少し離れた場所にある岩壁に向かって全力で投げつけた。
カーン!
甲高い音が響き、岩石猪が警戒したようにそちらを向く。
その瞬間、俺は岩陰から飛び出した。
「ブルルルルッッ!!」
俺の姿を認めた岩石猪が、怒りの叫びを上げる。
そして、その巨体に似合わないほどの速度で一直線に俺へと突進してきた。
大地が揺れる。
まともに食らえば、俺の体など一瞬で肉塊と化すだろう。
だが、俺は逃げなかった。
ただ、静かにその突進を見据える。
かつて奈落の猟犬を仕留めた時と同じだ。
恐怖など、もう感じない。
俺の心は、絶対零度の氷のように静まり返っていた。
二十メートル、十メートル、五メートル……!
岩石猪の巨大な牙が、俺の体を貫こうと迫る。
(―――今だ!)
俺は、突進を横に跳んでかわすのとほぼ同時に、懐から自作の武器を取り出した。
奈落の猟犬の牙を削り、石で研ぎ上げた即席の骨のナイフだ。
そして、すれ違いざまに。
突進の勢いでわずかにがら空きになった、岩石猪の喉元。
そこに、俺はナイフを深々と突き立てた。
ザシュッ!
肉を断つ、生々しい感触。
岩石猪は、信じられないといったように目を見開いたままその巨体を地面に横たえた。
そして、二度と動くことはなかった。
「…………ふぅ」
俺は、返り血を浴びたナイフを無造作に拭うと、死骸の解体を始めた。
これも、もう慣れた作業だ。
食料となる肉と、武具の素材となる皮や骨を手際よく分けていく。
前世で俺が握っていたのは、ペンだった。
俺がさばいていたのは、複雑な情報だった。
今の俺が握っているのは、血塗られた骨のナイフ。
さばいているのは、魔物の死体。
(……笑えるな)
どちらが、俺の本当の人生だったのだろうか。
もはや、どうでもいいことだった。
俺は必要なだけの肉を皮で包むと、残りは他の魔物のためにその場に残し、寝ぐらへと戻ることにした。
これが、この谷のルール。
全てを独り占めしようとする者は、やがて他の飢えた獣たちに食い殺される。
洞窟へと戻る途中、ふと俺は足を止めた。
はるか頭上。
瘴気の雲が渦巻く空の、さらにその上から。
何か、かすかな音が聞こえた気がしたからだ。
それは、人の叫び声のようだった。
複数人の、絶望に満ちた悲鳴。
俺は、崖の上を見上げた。
そこは、俺がこの地獄へと突き落とされた場所。
帝国の、処刑場だ。
ヒュッ、と空気を切り裂く音と共に、いくつかの小さな影が瘴気の雲を突き抜け、この谷底へと落ちてくるのが見えた。
ゴミのように、無造作に。
(……またか)
俺は、何の感情も浮かばない瞳でその光景をただ見つめていた。
時折、こうして新たな罪人たちが帝国から「廃棄」されてくるのだ。
彼らが地面に激突し、肉塊と化す音ももう聞き慣れた。
運良く生き延びたとしても、この過酷な環境に耐えきれず、数日後には魔物の餌となるだけだ。
俺がそうだったように。
俺は、彼らに何の興味もなかった。
同情も、憐れみも。
そんな感情は、とうの昔に捨てた。
この地獄では、弱者はただ死ぬだけだ。
それが、唯一の真実。
俺は彼らに背を向けると、再び自分の寝ぐらへと歩き始めた。
だが、数歩進んだところで俺の足はピタリと止まる。
心の奥底で、何かがうずいた。
それは、好奇心だったのかもしれない。
あるいは俺の中にまだ、わずかに残っていた人間としての最後の残りかすだったのかもしれない。
俺は、もう一度だけ振り返った。
そして、罪人たちが落ちてきた方向へと意識を集中させる。
《物語の観測者》――。
(さて……)
(お前たちは、どんな『物語』を持って、このゴミ箱に捨てられた?)
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