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第5章:奈落の谷
第24話:棄てられた者たちの物語
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(さて……)
(お前たちは、どんな『物語』を持って、このゴミ箱に捨てられた?)
俺の意識は、研ぎ澄まされた刃のように闇を切り裂き、崖下へと落下した者たちへと伸びていく。
もはや、俺の《物語の観測者》は暴走する感情の濁流ではない。
ただ冷徹に目的の情報だけを抜き取るための、分析道具と化していた。
ドシャッ、という鈍い音がいくつか響き、悲鳴は途絶えた。
五つの影のうち三つは岩肌に叩きつけられ、もはやただの肉塊と化している。
この谷では、ありふれた光景だ。
だが残りの二つは運良く、俺がそうだったように分厚い苔の群生地に落ちたらしい。
かろうじてまだ、息があった。
俺は音もなく崖を駆け下りると、まず近くでうめき声を上げている男に近づいた。
全身を強く打ってはいるが、命に別状はなさそうだ。
彼はかつては上等だったであろう仕立ての良い服を泥に汚し、絶望に満ちた目で瘴気の空を見上げている。
同情など、湧かない。
俺はただ、彼の魂に意識を集中させた。
《物語の観測者》――発動。
脳内に、彼の人生が映像となって流れ込んでくる。
◇ ◇ ◇
男は、帝都でも有名な音楽家だった。
彼が持つ天賦は《魂を揺さぶる旋律》。
彼が奏でるリュートの音色は人々の心を深く揺さぶり、忘れかけていた喜びや押し殺していた悲しみを、涙と共に解放させる力を持っていた。
薄暗い酒場での演奏。
彼の音楽に、人々は泣き、笑い、そして肩を組んで歌っていた。
そこには、リュウガが作った管理された幸福ではない、もっと生々しく人間臭い感情の爆発があった。
誰もが心の鎧を脱ぎ捨て、魂をむき出しにして、音楽という一つの絆で結ばれている。
なんと美しく、なんと人間らしい光景だろうか。
だが、それが彼の運命を決定づけた。
ある日、彼の家に踏み込んできたのは、感情のない黒鎧の兵士たちだった。
罪状は、『民衆に不要な感情の乱れをあおりたてた罪』。
彼は思想犯として捕らえられ、その指を、リュウガに奪われたのだという。
◇ ◇ ◇
「…………」
俺は、静かに彼から意識を引き剥がした。
男は、俺の存在に気づくこともなくただ虚空を見つめている。
不要な、感情の乱れ。
それが、彼の罪。
俺は、もう一人の生存者へと歩を進めた。
今度は、まだ若い女だった。
腕の良い発明家だったらしく、その手は油と切り傷で荒れている。
再び、観測を開始する。
彼女の物語が、俺の頭の中に映し出された。
◇ ◇ ◇
彼女の天賦は《機構の閃き》。
複雑な機械の仕組みを瞬時に理解し、改良する力。
彼女は、帝国の物流を支える運河の水量を、天候に左右されず自動で調整する画期的な水門を設計した。
夜も寝ずに図面を引き、歯車を削り、失敗を繰り返す。
その瞳は、より良い未来を創りたいという純粋な希望に輝いていた。
それは多くの人々の仕事を楽にし、国の生産性を飛躍的に高めるはずの発明だった。
だが、その発明はリュウガが管理する『治水ギルド』の存在意義そのものを、脅かすものだった。
罪状は、『国家の経済基盤を揺るがし、社会不安をあおった罪』。
彼女の発明は完成直前に帝国によって没収され、彼女自身もまた、その全てを奪われた。
リュウガの完璧な計画経済に、予測不能な「個人の創意工夫」が入り込む余地はなかったのだ。
◇ ◇ ◇
「…………そうか」
俺の口から、乾いた声が漏れた。
俺は、もう彼女たちに何の興味もなかった。
彼らがこの後、この谷で生き延びられるかどうかも、どうでもいい。
俺は彼らに背を向けると、自らの寝ぐらである洞窟へとただ黙って歩き始めた。
脳内で、今まで観測してきた者たちの物語が、パズルのピースのように組み合わさっていく。
あのスラム街で出会った、天賦が暴走していた少年レオ。
彼は、ただ仲間と繋がりたかっただけだ。
枯れかけた花を手に泣いていた、あの女性。
彼女は、ただ亡き夫との思い出を大切にしたかっただけだ。
そして、今しがた捨てられた音楽家と発明家。
彼らは、ただ自らの才能で人々を喜ばせ、世の中を良くしたかっただけ。
誰も、悪人などではなかった。
誰も、帝国に逆らおうなどとは考えていなかった。
彼らの罪は、ただ一つ。
その存在が、リュウガの創り上げた完璧な「仕組み」にとって、都合が悪かった。
それだけだ。
音楽は、人の心を彼の管理できない方向へと動かす。
発明は、彼の計画経済に予測不能な変化をもたらす。
自由な救済は、彼の支配体制の求心力を揺るがす。
彼らは、犯罪者ではない。
ただ、リュウガの理想郷という完璧な機械の規格に合わない、「不良品」だったのだ。
俺の脳裏に、前世の記憶が蘇る。
会社という組織。
そこでは、出る杭は打たれた。
新しい提案は、前例がないという理由だけで却下された。
会社のルールに馴染めない者は、無能のレッテルを貼られ窓際に追いやられた。
全く、同じじゃないか。
リュウガが創り上げた理想郷の正体は、俺が心の底から憎んでいた、あの息苦しい会社組織そのものだったのだ。
個性を尊重せず、ただ仕組みに従順な歯車だけを求める巨大なシステム。
そして、その仕組みから弾き出された者は……。
俺は、洞窟の入り口で足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
眼下に広がるのは、どこまでも続く不毛の大地。
瘴気が渦巻き、不気味な魔物たちがうごめく死の世界。
だが、その中で。
俺と同じように全てを奪われこの場所に捨てられながらも、まだ生きている者たちがいる。
岩陰に身を潜め、汚れた水をすすり、それでもまだ命を繋いでいる者たちが。
彼らは、罪を償うためにここにいるのではない。
ただ、捨てられたのだ。
リュウガの光り輝く理想郷の、その景観を損なわないように。
彼の完璧な世界の、目につかない場所へと。
俺は、ようやく理解した。
この奈落の谷の、本当の意味を。
復讐心だけを支えに、俺はここで生き延びてきた。
リュウガ個人への憎しみだけを、頼りにして。
だが、もう違う。
俺の中で燃え盛っていた炎が、その色を変えていくのが分かった。
激情の赤ではない。
全てを凍てつかせる、絶対零度の青い炎へと。
俺の怒りは、もはやリュウガ個人に向けられたものではなかった。
彼の創り上げた、この世界の理不尽な「仕組み」そのものへ。
人の心を、物語を、ただの部品のように扱うその傲慢さへ。
俺は、冷え切った声で呟いた。
その声は、この谷の瘴気よりもずっと冷たく、重かった。
「……ここは、牢獄じゃない」
そうだ。
ここは罪人を罰するための場所などではない。
「……ゴミ箱だ」
リュウガの理想郷にとって、不都合な者たちを隔離するための。
彼の完璧な世界の、薄汚いゴミ箱。
そして俺もまた、そのゴミ箱に捨てられたただのゴミの一つに過ぎない。
その冷徹な真実が、俺の心を完全に作り変えた。
(お前たちは、どんな『物語』を持って、このゴミ箱に捨てられた?)
俺の意識は、研ぎ澄まされた刃のように闇を切り裂き、崖下へと落下した者たちへと伸びていく。
もはや、俺の《物語の観測者》は暴走する感情の濁流ではない。
ただ冷徹に目的の情報だけを抜き取るための、分析道具と化していた。
ドシャッ、という鈍い音がいくつか響き、悲鳴は途絶えた。
五つの影のうち三つは岩肌に叩きつけられ、もはやただの肉塊と化している。
この谷では、ありふれた光景だ。
だが残りの二つは運良く、俺がそうだったように分厚い苔の群生地に落ちたらしい。
かろうじてまだ、息があった。
俺は音もなく崖を駆け下りると、まず近くでうめき声を上げている男に近づいた。
全身を強く打ってはいるが、命に別状はなさそうだ。
彼はかつては上等だったであろう仕立ての良い服を泥に汚し、絶望に満ちた目で瘴気の空を見上げている。
同情など、湧かない。
俺はただ、彼の魂に意識を集中させた。
《物語の観測者》――発動。
脳内に、彼の人生が映像となって流れ込んでくる。
◇ ◇ ◇
男は、帝都でも有名な音楽家だった。
彼が持つ天賦は《魂を揺さぶる旋律》。
彼が奏でるリュートの音色は人々の心を深く揺さぶり、忘れかけていた喜びや押し殺していた悲しみを、涙と共に解放させる力を持っていた。
薄暗い酒場での演奏。
彼の音楽に、人々は泣き、笑い、そして肩を組んで歌っていた。
そこには、リュウガが作った管理された幸福ではない、もっと生々しく人間臭い感情の爆発があった。
誰もが心の鎧を脱ぎ捨て、魂をむき出しにして、音楽という一つの絆で結ばれている。
なんと美しく、なんと人間らしい光景だろうか。
だが、それが彼の運命を決定づけた。
ある日、彼の家に踏み込んできたのは、感情のない黒鎧の兵士たちだった。
罪状は、『民衆に不要な感情の乱れをあおりたてた罪』。
彼は思想犯として捕らえられ、その指を、リュウガに奪われたのだという。
◇ ◇ ◇
「…………」
俺は、静かに彼から意識を引き剥がした。
男は、俺の存在に気づくこともなくただ虚空を見つめている。
不要な、感情の乱れ。
それが、彼の罪。
俺は、もう一人の生存者へと歩を進めた。
今度は、まだ若い女だった。
腕の良い発明家だったらしく、その手は油と切り傷で荒れている。
再び、観測を開始する。
彼女の物語が、俺の頭の中に映し出された。
◇ ◇ ◇
彼女の天賦は《機構の閃き》。
複雑な機械の仕組みを瞬時に理解し、改良する力。
彼女は、帝国の物流を支える運河の水量を、天候に左右されず自動で調整する画期的な水門を設計した。
夜も寝ずに図面を引き、歯車を削り、失敗を繰り返す。
その瞳は、より良い未来を創りたいという純粋な希望に輝いていた。
それは多くの人々の仕事を楽にし、国の生産性を飛躍的に高めるはずの発明だった。
だが、その発明はリュウガが管理する『治水ギルド』の存在意義そのものを、脅かすものだった。
罪状は、『国家の経済基盤を揺るがし、社会不安をあおった罪』。
彼女の発明は完成直前に帝国によって没収され、彼女自身もまた、その全てを奪われた。
リュウガの完璧な計画経済に、予測不能な「個人の創意工夫」が入り込む余地はなかったのだ。
◇ ◇ ◇
「…………そうか」
俺の口から、乾いた声が漏れた。
俺は、もう彼女たちに何の興味もなかった。
彼らがこの後、この谷で生き延びられるかどうかも、どうでもいい。
俺は彼らに背を向けると、自らの寝ぐらである洞窟へとただ黙って歩き始めた。
脳内で、今まで観測してきた者たちの物語が、パズルのピースのように組み合わさっていく。
あのスラム街で出会った、天賦が暴走していた少年レオ。
彼は、ただ仲間と繋がりたかっただけだ。
枯れかけた花を手に泣いていた、あの女性。
彼女は、ただ亡き夫との思い出を大切にしたかっただけだ。
そして、今しがた捨てられた音楽家と発明家。
彼らは、ただ自らの才能で人々を喜ばせ、世の中を良くしたかっただけ。
誰も、悪人などではなかった。
誰も、帝国に逆らおうなどとは考えていなかった。
彼らの罪は、ただ一つ。
その存在が、リュウガの創り上げた完璧な「仕組み」にとって、都合が悪かった。
それだけだ。
音楽は、人の心を彼の管理できない方向へと動かす。
発明は、彼の計画経済に予測不能な変化をもたらす。
自由な救済は、彼の支配体制の求心力を揺るがす。
彼らは、犯罪者ではない。
ただ、リュウガの理想郷という完璧な機械の規格に合わない、「不良品」だったのだ。
俺の脳裏に、前世の記憶が蘇る。
会社という組織。
そこでは、出る杭は打たれた。
新しい提案は、前例がないという理由だけで却下された。
会社のルールに馴染めない者は、無能のレッテルを貼られ窓際に追いやられた。
全く、同じじゃないか。
リュウガが創り上げた理想郷の正体は、俺が心の底から憎んでいた、あの息苦しい会社組織そのものだったのだ。
個性を尊重せず、ただ仕組みに従順な歯車だけを求める巨大なシステム。
そして、その仕組みから弾き出された者は……。
俺は、洞窟の入り口で足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
眼下に広がるのは、どこまでも続く不毛の大地。
瘴気が渦巻き、不気味な魔物たちがうごめく死の世界。
だが、その中で。
俺と同じように全てを奪われこの場所に捨てられながらも、まだ生きている者たちがいる。
岩陰に身を潜め、汚れた水をすすり、それでもまだ命を繋いでいる者たちが。
彼らは、罪を償うためにここにいるのではない。
ただ、捨てられたのだ。
リュウガの光り輝く理想郷の、その景観を損なわないように。
彼の完璧な世界の、目につかない場所へと。
俺は、ようやく理解した。
この奈落の谷の、本当の意味を。
復讐心だけを支えに、俺はここで生き延びてきた。
リュウガ個人への憎しみだけを、頼りにして。
だが、もう違う。
俺の中で燃え盛っていた炎が、その色を変えていくのが分かった。
激情の赤ではない。
全てを凍てつかせる、絶対零度の青い炎へと。
俺の怒りは、もはやリュウガ個人に向けられたものではなかった。
彼の創り上げた、この世界の理不尽な「仕組み」そのものへ。
人の心を、物語を、ただの部品のように扱うその傲慢さへ。
俺は、冷え切った声で呟いた。
その声は、この谷の瘴気よりもずっと冷たく、重かった。
「……ここは、牢獄じゃない」
そうだ。
ここは罪人を罰するための場所などではない。
「……ゴミ箱だ」
リュウガの理想郷にとって、不都合な者たちを隔離するための。
彼の完璧な世界の、薄汚いゴミ箱。
そして俺もまた、そのゴミ箱に捨てられたただのゴミの一つに過ぎない。
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