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第7章:銀狼のルナ
第34話:芽生えた小さな信頼
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俺は一度も振り返らなかった。
闇の中へと消える俺の背中に、ルナの戸惑いに満ちた視線が突き刺さるのを感じながら。
(この交渉は、焦った方が負けだ)
前世で学んだ、数少ない教訓の一つだ。
今、俺が彼女に与えるべきは食料じゃない。
「信頼」という名の、見えない種をまく時間。
後には、パチパチと燃える焚き火と、湯気を上げる一塊の肉だけを残した。
砕けた心に寄り添うとは、無理やり破片を拾い集めることじゃない。
ただ静かにそばにいて、相手が自らの力で立ち上がるのを辛抱強く待つことだ。
(……それで、いい)
寝ぐらへと続く暗い道を歩きながら、静かにつぶやく。
復讐のためでも、生き延びるためでもない。
ただ、一つの傷ついた魂を救いたいという、純粋な思い。
その思いが、この冷え切った俺の心に、ほんの少しだけ温かい光を灯してくれている気がした。
奈落の谷の夜は、まだ長い。
◇ ◇ ◇
焚き火の光だけが揺れる岩場に、静寂が戻る。
洞窟の暗がりから、ルナは獣のように身を潜め、外の様子をうかがっていた。
あの人間は、本当に去って行った。
何の罠も、仕掛けられていないように見える。
ただ、焚き火の穏やかな光と、空腹をこれでもかと刺激する肉の匂いだけを残して。
(……何なのよ、あいつは……!)
ルナの心は、激しい混乱に見舞われていた。
人間は、敵だ。
故郷を焼き、同胞を殺し、誇りである《天賦》を奪った憎むべき存在。
それだけが、この地獄で生き延びるための唯一の支えだったはずだ。
なのに、あの男は違った。
自分を殺そうとしなかった。
それどころか、魂の奥底に封じた悲劇を、まるで見ていたかのように言い当てた。
『お前の咆哮は、ただの威嚇じゃない。森の獣たちを従える、気高き王の証だったはずだ』
あの言葉が、耳から離れない。
忘れようとしていた過去。
忘れることでしか、自分を保てなかった記憶。
それを暴かれ、心を支えていた憎悪の鎧は、ガラガラと崩れ落ちてしまった。
今の心は、むき出しで、傷だらけだ。
ぐぅぅぅ……。
不意に、腹の虫が情けない音を立てた。
岩の上に置かれた、あの肉。
湯気と共に立ち上る香ばしい匂いが、容赦なく鼻をくすぐる。
最後に、まともな食事をしたのはいつだったか。
この谷では、常に飢えとの戦いだ。
手に入れた魔物の生肉を、血の味と共に飲み込むだけの日々。
火で調理された温かい食事など、故郷が燃えたあの日以来、一度も口にしていない。
(……罠だ。絶対に、罠に決まってる)
自分に強く言い聞かせる。
人間が獣人族に、情けをかけるはずがない。
あの肉には毒が塗られている。食べれば、苦しみながら死ぬに決まってる。
だが、脳裏をよぎるのは、あの男の瞳だった。
そこには、憎しみも、侮蔑も、支配欲もなかった。
ただ深い悲しみをたたえた、静かな瞳。
まるで、自分の痛みも全て分かっているとでも言うような……。
「……っ!」
ルナは、かぶりを振った。
騙されるものか。人間は嘘をつく生き物だ。
優しい顔をして近づき、全てを奪っていく。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
彼女は洞窟の奥へと後ずさり、壁に背中を預けてぎゅっと膝を抱えた。
だが、一度意識してしまった肉の匂いは、悪魔のささやきのように思考を侵食してくる。
空腹が、理性を麻痺させていく。
孤独が、心を蝕んでいく。
◇ ◇ ◇
寝ぐらに戻った俺は、焚き火も起こさず暗闇の中で静かに座っていた。
ルナのことが、気になって仕方がない。
俺の行動は、正しかったのか?
彼女が心を閉ざしてしまったら?
罠だと判断し、二度と姿を現さなくなったら?
前世の俺なら、すぐに結果を求めていただろう。
だが、この奈落の谷での日々が俺を変えた。
獣は、待つ。
獲物が油断する瞬間を、何時間でも、何日でも。
息を殺して、ただひたすらに。
俺は、ルナの魂の気配に意識を集中させる。
《物語の観測者》の力を、ごくわずかだけ。
彼女の魂に干渉するのではなく、ただその揺らぎを遠くから感じるために。
風が運んでくる情報が、彼女の葛藤を伝えてくる。
(……ステータス、オープン)
俺の目の前に、半透明のウィンドウがふわりと浮かび上がった。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
名前 :ルナ(銀狼の獣人)
状態 :衰弱、精神的混乱
魂の物語(表層) :
【混乱】:あの人間は何者? なぜ私を殺さない?
【恐怖】:罠かもしれない。人間は信じられない…!
【渇望】:……お腹が、すいた。温かいものが、食べたい。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
(……よし)
俺は、心の中で静かにつぶやいた。
彼女の心を縛っていた「憎悪」の鎖に、「混乱」と「渇望」という楔が打ち込まれている。
あと一押し。
だが、それは俺がすることじゃない。
彼女自身が決めることだ。
俺は、待つ。
獣のように、ただひたすらに。
◇ ◇ ◇
どれくらいの時間が、過ぎただろうか。
ルナは、ついに耐えきれなくなった。
空腹と、そして何よりも心の孤独が、彼女を洞窟の外へと押し出した。
月のない奈落の谷の闇。
だが、遠くに見える焚き火の光だけが、道しるべのように揺れている。
彼女は獣のように四つん這いに近い姿勢で、音もなく洞窟から滑り出る。
全身の神経を針のように研ぎ澄ませて。
周囲に、あの男の気配はない。罠の気配もない。
ただ、静寂と肉の焼ける匂いだけがある。
彼女はゆっくりと、岩の上の肉へと近づいた。
まだ、温かい。
立ち上る湯気が、冷え切った頬を優しく撫でた。
その温かさが、まるで生き物の温もりのように感じられ、胸がチクリと痛む。
肉を前にして、しばらく動けなかった。
手を伸ばせば、届く。
だが、それを受け取ることは、人間を少しだけ信じることに他ならない。
それは、今まで守り抜いてきた誇りを、捨てることでもあった。
脳裏に、燃え盛る故郷の森が蘇る。
地面に倒れる、同胞たちの姿。
そして、全てを奪った男の、冷たい笑顔。
『―――人間は、敵だ』
魂に刻まれた呪いが、動きを縛り付ける。
だが、同時に。
あの男の、悲しそうな瞳も思い出していた。
『お前の物語は、まだ終わっちゃいない』
ぐぅぅぅ……。
腹の虫が、再び鳴った。
もう、限界だった。
彼女は震える手で、ゆっくりと肉を掴んだ。
ずしりと、重い。命の重さだ。
恐る恐る口元へと運び、小さく一口だけ、かじり取る。
その瞬間。
じゅわっ!
口の中に、温かい肉汁が爆ぜるように広がった。
それは、ただの肉の味ではなかった。
塩も香辛料もない、無骨な味。
だが、不思議なほど優しくて、温かい。
それは、彼女が忘れかけていた「誰かに与えられる」という温かさそのものだったのかもしれない。
「…………」
ルナの琥珀色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
憎しみの涙か、悲しみの涙か。
あるいは、ほんの少し芽生えた希望の涙か。
彼女自身にも、まだ分からなかった。
ただ夢中で肉にかじりつく。失われた何かを取り戻すかのように。
◇ ◇ ◇
遠く離れた洞窟で、俺は静かに目を開けた。
風が運んでくるルナの魂の揺らぎが、その色をわずかに変えたのを、確かに感じ取っていた。
憎悪と絶望一色だった彼女の魂に、本当に小さな、温かい光が灯ったのを。
(……食ったか)
俺の口元に、この谷に来てから初めてかもしれない、穏やかな笑みが浮かぶ。
それは、ほんの小さな一歩だ。
だが、この閉ざされた世界を動かすための、何よりも大きな一歩だった。
芽生えた信頼の種をどう育てるか。
俺は、彼女の失われた物語を「再誕」させるための、次の一手を静かに考え始めていた。
闇の中へと消える俺の背中に、ルナの戸惑いに満ちた視線が突き刺さるのを感じながら。
(この交渉は、焦った方が負けだ)
前世で学んだ、数少ない教訓の一つだ。
今、俺が彼女に与えるべきは食料じゃない。
「信頼」という名の、見えない種をまく時間。
後には、パチパチと燃える焚き火と、湯気を上げる一塊の肉だけを残した。
砕けた心に寄り添うとは、無理やり破片を拾い集めることじゃない。
ただ静かにそばにいて、相手が自らの力で立ち上がるのを辛抱強く待つことだ。
(……それで、いい)
寝ぐらへと続く暗い道を歩きながら、静かにつぶやく。
復讐のためでも、生き延びるためでもない。
ただ、一つの傷ついた魂を救いたいという、純粋な思い。
その思いが、この冷え切った俺の心に、ほんの少しだけ温かい光を灯してくれている気がした。
奈落の谷の夜は、まだ長い。
◇ ◇ ◇
焚き火の光だけが揺れる岩場に、静寂が戻る。
洞窟の暗がりから、ルナは獣のように身を潜め、外の様子をうかがっていた。
あの人間は、本当に去って行った。
何の罠も、仕掛けられていないように見える。
ただ、焚き火の穏やかな光と、空腹をこれでもかと刺激する肉の匂いだけを残して。
(……何なのよ、あいつは……!)
ルナの心は、激しい混乱に見舞われていた。
人間は、敵だ。
故郷を焼き、同胞を殺し、誇りである《天賦》を奪った憎むべき存在。
それだけが、この地獄で生き延びるための唯一の支えだったはずだ。
なのに、あの男は違った。
自分を殺そうとしなかった。
それどころか、魂の奥底に封じた悲劇を、まるで見ていたかのように言い当てた。
『お前の咆哮は、ただの威嚇じゃない。森の獣たちを従える、気高き王の証だったはずだ』
あの言葉が、耳から離れない。
忘れようとしていた過去。
忘れることでしか、自分を保てなかった記憶。
それを暴かれ、心を支えていた憎悪の鎧は、ガラガラと崩れ落ちてしまった。
今の心は、むき出しで、傷だらけだ。
ぐぅぅぅ……。
不意に、腹の虫が情けない音を立てた。
岩の上に置かれた、あの肉。
湯気と共に立ち上る香ばしい匂いが、容赦なく鼻をくすぐる。
最後に、まともな食事をしたのはいつだったか。
この谷では、常に飢えとの戦いだ。
手に入れた魔物の生肉を、血の味と共に飲み込むだけの日々。
火で調理された温かい食事など、故郷が燃えたあの日以来、一度も口にしていない。
(……罠だ。絶対に、罠に決まってる)
自分に強く言い聞かせる。
人間が獣人族に、情けをかけるはずがない。
あの肉には毒が塗られている。食べれば、苦しみながら死ぬに決まってる。
だが、脳裏をよぎるのは、あの男の瞳だった。
そこには、憎しみも、侮蔑も、支配欲もなかった。
ただ深い悲しみをたたえた、静かな瞳。
まるで、自分の痛みも全て分かっているとでも言うような……。
「……っ!」
ルナは、かぶりを振った。
騙されるものか。人間は嘘をつく生き物だ。
優しい顔をして近づき、全てを奪っていく。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
彼女は洞窟の奥へと後ずさり、壁に背中を預けてぎゅっと膝を抱えた。
だが、一度意識してしまった肉の匂いは、悪魔のささやきのように思考を侵食してくる。
空腹が、理性を麻痺させていく。
孤独が、心を蝕んでいく。
◇ ◇ ◇
寝ぐらに戻った俺は、焚き火も起こさず暗闇の中で静かに座っていた。
ルナのことが、気になって仕方がない。
俺の行動は、正しかったのか?
彼女が心を閉ざしてしまったら?
罠だと判断し、二度と姿を現さなくなったら?
前世の俺なら、すぐに結果を求めていただろう。
だが、この奈落の谷での日々が俺を変えた。
獣は、待つ。
獲物が油断する瞬間を、何時間でも、何日でも。
息を殺して、ただひたすらに。
俺は、ルナの魂の気配に意識を集中させる。
《物語の観測者》の力を、ごくわずかだけ。
彼女の魂に干渉するのではなく、ただその揺らぎを遠くから感じるために。
風が運んでくる情報が、彼女の葛藤を伝えてくる。
(……ステータス、オープン)
俺の目の前に、半透明のウィンドウがふわりと浮かび上がった。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
名前 :ルナ(銀狼の獣人)
状態 :衰弱、精神的混乱
魂の物語(表層) :
【混乱】:あの人間は何者? なぜ私を殺さない?
【恐怖】:罠かもしれない。人間は信じられない…!
【渇望】:……お腹が、すいた。温かいものが、食べたい。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
(……よし)
俺は、心の中で静かにつぶやいた。
彼女の心を縛っていた「憎悪」の鎖に、「混乱」と「渇望」という楔が打ち込まれている。
あと一押し。
だが、それは俺がすることじゃない。
彼女自身が決めることだ。
俺は、待つ。
獣のように、ただひたすらに。
◇ ◇ ◇
どれくらいの時間が、過ぎただろうか。
ルナは、ついに耐えきれなくなった。
空腹と、そして何よりも心の孤独が、彼女を洞窟の外へと押し出した。
月のない奈落の谷の闇。
だが、遠くに見える焚き火の光だけが、道しるべのように揺れている。
彼女は獣のように四つん這いに近い姿勢で、音もなく洞窟から滑り出る。
全身の神経を針のように研ぎ澄ませて。
周囲に、あの男の気配はない。罠の気配もない。
ただ、静寂と肉の焼ける匂いだけがある。
彼女はゆっくりと、岩の上の肉へと近づいた。
まだ、温かい。
立ち上る湯気が、冷え切った頬を優しく撫でた。
その温かさが、まるで生き物の温もりのように感じられ、胸がチクリと痛む。
肉を前にして、しばらく動けなかった。
手を伸ばせば、届く。
だが、それを受け取ることは、人間を少しだけ信じることに他ならない。
それは、今まで守り抜いてきた誇りを、捨てることでもあった。
脳裏に、燃え盛る故郷の森が蘇る。
地面に倒れる、同胞たちの姿。
そして、全てを奪った男の、冷たい笑顔。
『―――人間は、敵だ』
魂に刻まれた呪いが、動きを縛り付ける。
だが、同時に。
あの男の、悲しそうな瞳も思い出していた。
『お前の物語は、まだ終わっちゃいない』
ぐぅぅぅ……。
腹の虫が、再び鳴った。
もう、限界だった。
彼女は震える手で、ゆっくりと肉を掴んだ。
ずしりと、重い。命の重さだ。
恐る恐る口元へと運び、小さく一口だけ、かじり取る。
その瞬間。
じゅわっ!
口の中に、温かい肉汁が爆ぜるように広がった。
それは、ただの肉の味ではなかった。
塩も香辛料もない、無骨な味。
だが、不思議なほど優しくて、温かい。
それは、彼女が忘れかけていた「誰かに与えられる」という温かさそのものだったのかもしれない。
「…………」
ルナの琥珀色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
憎しみの涙か、悲しみの涙か。
あるいは、ほんの少し芽生えた希望の涙か。
彼女自身にも、まだ分からなかった。
ただ夢中で肉にかじりつく。失われた何かを取り戻すかのように。
◇ ◇ ◇
遠く離れた洞窟で、俺は静かに目を開けた。
風が運んでくるルナの魂の揺らぎが、その色をわずかに変えたのを、確かに感じ取っていた。
憎悪と絶望一色だった彼女の魂に、本当に小さな、温かい光が灯ったのを。
(……食ったか)
俺の口元に、この谷に来てから初めてかもしれない、穏やかな笑みが浮かぶ。
それは、ほんの小さな一歩だ。
だが、この閉ざされた世界を動かすための、何よりも大きな一歩だった。
芽生えた信頼の種をどう育てるか。
俺は、彼女の失われた物語を「再誕」させるための、次の一手を静かに考え始めていた。
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