『君は、未来で僕を見つける。』

月影 朔

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第一章:止まった時間と不思議なレシート

第三話:動けない理由

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 スパイスの香りに誘われて流した涙は、枯れることなく溢れ続けた。

 どれくらいそうしていただろう。
やがて、手のひらのひび割れが、シンクの冷たさを伝えるまでになった。

 スマートフォンが震えたのは、そんな時だった。

 ディスプレイに表示されたのは、大学時代からの親友、美咲の名前。
彼女からの連絡は、圭が亡くなってからも途切れることなく続いていた。

 最初は心配して頻繁に電話をかけてきてくれたが、遥がまともに話せないことを察してからは、気遣うようなメッセージを時折送ってくれるだけになっていた。

 指先が迷う。電話に出るべきか、それともこのままやり過ごすか。
きっと、また優しい言葉をかけてくれるだろう。

 でも、その優しさが、今の遥には重かった。
気丈に振る舞おうとしても、声は震え、言葉は途切れる。
そんな自分を見られるのが、何よりも辛かった。

 美咲は、遥の性格をよく理解している。
弱音を吐くのが苦手で、一人で抱え込みがちな遥のことを、いつも心配してくれていた。
圭が亡くなってからの遥は、まさにその性格が悪い方に出ていた。

 恐る恐る通話ボタンを押す。 

「もしもし、遥? 大丈夫? 今日、連絡なかったから……」

  美咲の優しい声が、鼓膜を震わせた。
その声を聞いた途端、遥の喉の奥がキュッと締め付けられる。 

「うん、大丈夫。ちょっと、仕事が忙しくて連絡できなかっただけ」 

 精一杯、平静を装って答える。

 嘘をついているわけではない。
本当に仕事は忙しい。
でも、それが連絡できなかった本当の理由ではないことも、遥自身が一番よくわかっていた。

「そっか。無理しないでね。いつでも話聞くからね」

  美咲は、遥の不器用な嘘に気づいているだろうに、それ以上深掘りすることはなかった。

 その気遣いが、かえって遥の胸を締め付けた。遥は、美咲の優しさに甘えている自分が情けなかった。

「ありがとう。また、落ち着いたら連絡するね」 
そう言って、遥は通話を終えた。

 スマートフォンを握りしめたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。

 圭のいない世界と向き合うことへの恐怖。
それが、遥をこの部屋に閉じ込めている一番の理由だった。

 外に出れば、楽しそうに笑い合うカップルがいる。
通り過ぎる人々の顔には、それぞれの日常が刻まれている。
そのすべてが、遥にとっては眩しすぎた。

 圭と歩いた街並みは、どこを見ても彼の面影がちらつき、遥の心を深く抉る。

 まるで、心が深い水底に沈んでいるようだった。
光が届かず、音も聞こえない、冷たくて暗い場所。

 遥は、そこから抜け出す術を知らなかった。
もがけばもがくほど、深い場所へと沈んでいくような感覚に陥る。

 圭の死は、遥の時間を止めただけではない。
遥の心を、まるで石のように固くしてしまった。

 かつては、好奇心旺盛で、新しいことに挑戦するのが好きだった自分は、どこにもいない。
感情を表に出すことも、誰かに頼ることも、まるでできなくなっていた。

「圭……」 

 再び、彼の名前を呼ぶ。
今度は、もう涙は出なかった。
ただ、胸の奥に、ずっしりとした重い塊があるだけだった。

 この重さは、いつになったら消えるのだろう。
いつになったら、遥の時間は、再び動き出すのだろう。

 遥は、膝を抱え込み、小さく丸くなった。

 部屋の隅に積まれた段ボール箱が、遥の視界の端に映る。
そこに詰まっているのは、圭の思い出の品々だ。
それらに向き合うこと。
それが、遥にとって、どうしても踏み出せない一歩だった。

 圭のいない日常を、真正面から受け入れること。それが、どれほど恐ろしいことか。
遥は、ただひたすら、その恐怖から逃げ続けていた。
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