3 / 55
第一章:止まった時間と不思議なレシート
第三話:動けない理由
しおりを挟む
スパイスの香りに誘われて流した涙は、枯れることなく溢れ続けた。
どれくらいそうしていただろう。
やがて、手のひらのひび割れが、シンクの冷たさを伝えるまでになった。
スマートフォンが震えたのは、そんな時だった。
ディスプレイに表示されたのは、大学時代からの親友、美咲の名前。
彼女からの連絡は、圭が亡くなってからも途切れることなく続いていた。
最初は心配して頻繁に電話をかけてきてくれたが、遥がまともに話せないことを察してからは、気遣うようなメッセージを時折送ってくれるだけになっていた。
指先が迷う。電話に出るべきか、それともこのままやり過ごすか。
きっと、また優しい言葉をかけてくれるだろう。
でも、その優しさが、今の遥には重かった。
気丈に振る舞おうとしても、声は震え、言葉は途切れる。
そんな自分を見られるのが、何よりも辛かった。
美咲は、遥の性格をよく理解している。
弱音を吐くのが苦手で、一人で抱え込みがちな遥のことを、いつも心配してくれていた。
圭が亡くなってからの遥は、まさにその性格が悪い方に出ていた。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし、遥? 大丈夫? 今日、連絡なかったから……」
美咲の優しい声が、鼓膜を震わせた。
その声を聞いた途端、遥の喉の奥がキュッと締め付けられる。
「うん、大丈夫。ちょっと、仕事が忙しくて連絡できなかっただけ」
精一杯、平静を装って答える。
嘘をついているわけではない。
本当に仕事は忙しい。
でも、それが連絡できなかった本当の理由ではないことも、遥自身が一番よくわかっていた。
「そっか。無理しないでね。いつでも話聞くからね」
美咲は、遥の不器用な嘘に気づいているだろうに、それ以上深掘りすることはなかった。
その気遣いが、かえって遥の胸を締め付けた。遥は、美咲の優しさに甘えている自分が情けなかった。
「ありがとう。また、落ち着いたら連絡するね」
そう言って、遥は通話を終えた。
スマートフォンを握りしめたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
圭のいない世界と向き合うことへの恐怖。
それが、遥をこの部屋に閉じ込めている一番の理由だった。
外に出れば、楽しそうに笑い合うカップルがいる。
通り過ぎる人々の顔には、それぞれの日常が刻まれている。
そのすべてが、遥にとっては眩しすぎた。
圭と歩いた街並みは、どこを見ても彼の面影がちらつき、遥の心を深く抉る。
まるで、心が深い水底に沈んでいるようだった。
光が届かず、音も聞こえない、冷たくて暗い場所。
遥は、そこから抜け出す術を知らなかった。
もがけばもがくほど、深い場所へと沈んでいくような感覚に陥る。
圭の死は、遥の時間を止めただけではない。
遥の心を、まるで石のように固くしてしまった。
かつては、好奇心旺盛で、新しいことに挑戦するのが好きだった自分は、どこにもいない。
感情を表に出すことも、誰かに頼ることも、まるでできなくなっていた。
「圭……」
再び、彼の名前を呼ぶ。
今度は、もう涙は出なかった。
ただ、胸の奥に、ずっしりとした重い塊があるだけだった。
この重さは、いつになったら消えるのだろう。
いつになったら、遥の時間は、再び動き出すのだろう。
遥は、膝を抱え込み、小さく丸くなった。
部屋の隅に積まれた段ボール箱が、遥の視界の端に映る。
そこに詰まっているのは、圭の思い出の品々だ。
それらに向き合うこと。
それが、遥にとって、どうしても踏み出せない一歩だった。
圭のいない日常を、真正面から受け入れること。それが、どれほど恐ろしいことか。
遥は、ただひたすら、その恐怖から逃げ続けていた。
どれくらいそうしていただろう。
やがて、手のひらのひび割れが、シンクの冷たさを伝えるまでになった。
スマートフォンが震えたのは、そんな時だった。
ディスプレイに表示されたのは、大学時代からの親友、美咲の名前。
彼女からの連絡は、圭が亡くなってからも途切れることなく続いていた。
最初は心配して頻繁に電話をかけてきてくれたが、遥がまともに話せないことを察してからは、気遣うようなメッセージを時折送ってくれるだけになっていた。
指先が迷う。電話に出るべきか、それともこのままやり過ごすか。
きっと、また優しい言葉をかけてくれるだろう。
でも、その優しさが、今の遥には重かった。
気丈に振る舞おうとしても、声は震え、言葉は途切れる。
そんな自分を見られるのが、何よりも辛かった。
美咲は、遥の性格をよく理解している。
弱音を吐くのが苦手で、一人で抱え込みがちな遥のことを、いつも心配してくれていた。
圭が亡くなってからの遥は、まさにその性格が悪い方に出ていた。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「もしもし、遥? 大丈夫? 今日、連絡なかったから……」
美咲の優しい声が、鼓膜を震わせた。
その声を聞いた途端、遥の喉の奥がキュッと締め付けられる。
「うん、大丈夫。ちょっと、仕事が忙しくて連絡できなかっただけ」
精一杯、平静を装って答える。
嘘をついているわけではない。
本当に仕事は忙しい。
でも、それが連絡できなかった本当の理由ではないことも、遥自身が一番よくわかっていた。
「そっか。無理しないでね。いつでも話聞くからね」
美咲は、遥の不器用な嘘に気づいているだろうに、それ以上深掘りすることはなかった。
その気遣いが、かえって遥の胸を締め付けた。遥は、美咲の優しさに甘えている自分が情けなかった。
「ありがとう。また、落ち着いたら連絡するね」
そう言って、遥は通話を終えた。
スマートフォンを握りしめたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
圭のいない世界と向き合うことへの恐怖。
それが、遥をこの部屋に閉じ込めている一番の理由だった。
外に出れば、楽しそうに笑い合うカップルがいる。
通り過ぎる人々の顔には、それぞれの日常が刻まれている。
そのすべてが、遥にとっては眩しすぎた。
圭と歩いた街並みは、どこを見ても彼の面影がちらつき、遥の心を深く抉る。
まるで、心が深い水底に沈んでいるようだった。
光が届かず、音も聞こえない、冷たくて暗い場所。
遥は、そこから抜け出す術を知らなかった。
もがけばもがくほど、深い場所へと沈んでいくような感覚に陥る。
圭の死は、遥の時間を止めただけではない。
遥の心を、まるで石のように固くしてしまった。
かつては、好奇心旺盛で、新しいことに挑戦するのが好きだった自分は、どこにもいない。
感情を表に出すことも、誰かに頼ることも、まるでできなくなっていた。
「圭……」
再び、彼の名前を呼ぶ。
今度は、もう涙は出なかった。
ただ、胸の奥に、ずっしりとした重い塊があるだけだった。
この重さは、いつになったら消えるのだろう。
いつになったら、遥の時間は、再び動き出すのだろう。
遥は、膝を抱え込み、小さく丸くなった。
部屋の隅に積まれた段ボール箱が、遥の視界の端に映る。
そこに詰まっているのは、圭の思い出の品々だ。
それらに向き合うこと。
それが、遥にとって、どうしても踏み出せない一歩だった。
圭のいない日常を、真正面から受け入れること。それが、どれほど恐ろしいことか。
遥は、ただひたすら、その恐怖から逃げ続けていた。
30
あなたにおすすめの小説
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー
i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆
最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡
バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。
数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)
脅迫して意中の相手と一夜を共にしたところ、逆にとっ捕まった挙げ句に逃げられなくなりました。
石河 翠
恋愛
失恋した女騎士のミリセントは、不眠症に陥っていた。
ある日彼女は、お気に入りの毛布によく似た大型犬を見かけ、偶然隠れ家的酒場を発見する。お目当てのわんこには出会えないものの、話の合う店長との時間は、彼女の心を少しずつ癒していく。
そんなある日、ミリセントは酒場からの帰り道、元カレから復縁を求められる。きっぱりと断るものの、引き下がらない元カレ。大好きな店長さんを巻き込むわけにはいかないと、ミリセントは覚悟を決める。実は店長さんにはとある秘密があって……。
真っ直ぐでちょっと思い込みの激しいヒロインと、わんこ系と見せかけて実は用意周到で腹黒なヒーローの恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
表紙絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真のID:4274932)をお借りしております。
旦那様、離婚しましょう ~私は冒険者になるのでご心配なくっ~
榎夜
恋愛
私と旦那様は白い結婚だ。体の関係どころか手を繋ぐ事もしたことがない。
ある日突然、旦那の子供を身籠ったという女性に離婚を要求された。
別に構いませんが......じゃあ、冒険者にでもなろうかしら?
ー全50話ー
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる