【完結】『紅蓮の算盤〜天明飢饉、米問屋女房の戦い〜』

月影 朔

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第二章:暗転と絶望

第十五話:夫の逮捕

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 稲穂屋から全ての米が奪われた後、店には鉛のような沈黙が垂れ込めていた。

 佐助は土間に蹲り、声を上げて泣いていた。源左衛門は怒りと無力感に打ちひしがれ、荒い息を繰り返している。お凛は、空になった米俵の跡を見つめながら、ただ立ち尽くしていた。

 どれほどの時間が経っただろうか。再び、けたたましい足音が稲穂屋に近づいてくるのが聞こえた。お凛は、胸騒ぎを覚えながら戸口に目をやった。

 先ほど米を奪っていった役人たち、そしてあの淀屋の手下が再び現れたのだ。彼らの顔には、冷酷な笑みが浮かんでいる。彼らの後ろには、さらに数人の役人が控えていた。

「何用だ! もう我々から奪うものなど何もなかろう!」
 源左衛門が、絞り出すような声で怒鳴った。

 同心は、源左衛門の声には見向きもせず、佐助に冷たい視線を向けた。
「稲穂屋佐助、貴様に不正な取引の嫌疑がかかっている。奉行所までお調べのためお越し願おうか」

「な…何を言われるのですか!」
 佐助は、顔を上げて叫んだ。不正な取引など、自分は一切していない。ただ、役人の言う通りに不当な契約に判を押しただけではないか。

「不正な取引だと? ふざけるな! お前たちが無理やり…!」
 源左衛門が再び叫んだが、同心は言葉を遮った。

「黙れ! 奉行所の者だ! 逆らうことは許されん!」
 同心は、配下の役人に佐助を捕らえるよう命じた。

 役人たちは、蹲る佐助に容赦なく手荒く組み付いた。

「やめろ! 何をするんだ!」
 佐助は必死に抵抗しようとしたが、多勢に無勢。あっという間に腕を捻り上げられ、縄をかけられた。

「あなた様! あなた様!」
 お凛は、佐助の姿を見て駆け寄ろうとした。しかし、淀屋の手下が立ちはだかった。

「あまり騒ぐなよ、稲穂屋の女房。旦那は、お前のような出来すぎた女房に唆されて、不正な取引に手を染めたのだ」
 淀屋の手下は、嘲るように言った。

「嘘ですわ! あなたたちが仕組んだ罠ではないですか! あなたたちが、私たちを…!」
 お凛は、怒りと悲しみで声を震わせながら叫んだ。

「何を証拠に? こちらには奉行所の調べが入っているのだ。不正なのは、高値で米を囲い込み、庶民を苦しめる貴殿らであろう」

 淀屋の手下は、平然と嘘をついた。彼らは、自分たちの悪事を隠蔽するために、佐助に罪を着せようとしているのだ。

 佐助は、縄をかけられながらも、お凛に必死に訴えた。
「お凛…俺は…俺は何も…!」

「分かっていますわ、あなた様! 分かっています!」
 お凛は涙を流しながら叫んだ。

「さあ行くぞ! もたもたするな!」
 同心は佐助を無理やり立たせ、店の外へと連行しようとした。

「待ってください! 私も行きます! 奉行所で、全てを話します!」
 お凛は役人たちの後を追おうとした。

 しかし、同心はお凛を一瞥すると、冷たく言い放った。
「貴様のような者は無用だ。不正に関わった疑いがないとは言えんからな。大人しくしておれ」
 そして、配下の役人に、お凛が店の外に出られないように見張るよう命じた。

 お凛は、店の戸口から、連行されていく佐助の後ろ姿を必死に見つめた。縄をかけられ、力なく引きずられていく夫の姿が、お凛の目に焼き付いた。佐助は、振り返ることもなく、人混みの中に消えていった。

 静寂が再び稲穂屋を包み込んだ。そこには、空になった土間と、打ちひしがれた源左衛門、そして、最も大切な存在を奪われたお凛だけが残された。

 お凛は、戸口の前に崩れ落ちた。寒々とした風が、開け放たれた格子戸から吹き込んでくる。物理的な財産だけでなく、心の支えであった夫までも奪われた現実が、お凛の心を深く抉った。

 無実の罪を着せられ、権力によって力ずくで連行された夫。お凛は、その理不尽さと無力さに、ただただ打ちのめされていた。

 この時、お凛はこれまでに感じたことのないほどの絶望を味わっていた。店の破滅、夫の逮捕。彼女は、文字通り全てを失ったのだ。

 飢饉という大きな災いの中で、悪徳商人の悪意と権力の腐敗が、稲穂屋を、そしてお凛を、地の底へと突き落とした。

 これから、お凛は一人で、この絶望の淵からどう這い上がることになるのだろうか。
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