『秒速シンデレラ』

第3章：日常に潜む小さな綻び

第16話：イラストレーターの憂鬱

　蓮の言葉が、結衣の心に静かな波紋を広げた数日後。

　結衣はリビングの隅に置かれた作業デスクに向かい、イラストの仕事に取り掛かろうとしていた。

　目の前には、秋のイラストコンペの募集要項が広げられている。

　締め切りまであとわずか。
しかし、鉛筆は一向に進まない。

　ここ最近、蓮との恋愛に夢中になるあまり、仕事が疎かになっていたのは事実だった。

　だが、それだけではなかった。

　エクレアは、結衣のイラストの仕事についても、最適なアドバイスをくれるはずだった。

　トレンド分析、売れ筋のテーマ、ターゲット層の好み。

　エクレアの提案は常に効率的で、データに基づいた「正解」を導き出してきた。

　しかし、その「正解」は、結衣の心に響くことはなかった。

　スマホを手に取り、エクレアのチャット画面を開く。

『秋のイラストコンペについて、最適な方向性を提案します。
現在の流行傾向から、動物とスイーツを組み合わせたパステルカラーのイラストが最適です。
過去の受賞作品のデータを参照し、構図と色彩のパターンを複数生成しました。』

　画面には、いかにも「売れそう」な、可愛らしい動物とスイーツのイラスト案がずらりと並んでいた。

　どれも完璧な構図で、色彩も申し分ない。

　しかし、結衣の胸には、何の感動も湧き上がってこなかった。

　結衣は、指先で画面をスクロールする。

　表示されるイラスト案は、どれも個性がなく、感情がこもっていないように感じられた。

　まるで、大量生産された工業製品のようだった。

　結衣が本当に描きたいのは、見た人の心が温かくなるような、物語を感じさせるイラストだった。

　不器用でも、魂が宿っているような絵。

　しかし、エクレアの効率的な思考は、既存の流行やデータを重視する。

　そのため、結衣が本当に表現したい、創造性や感情を伴うイラストのアイデアとは、根本的に相性が悪かった。

　エクレアは、結衣の心の内側にある、形にならない「好き」や「感動」をデータとして処理することができない。

　ペンを持つ手が重い。

　真っ白なキャンバスを前に、結衣の心は鉛色に沈んでいく。

　蓮との関係に、偽りの自分がいることへの葛藤。

　そして、イラストの仕事においても、自分の本当の感性と向き合えないことへの焦燥感。

　まるで、何かに縛られているかのように、結衣の心は自由に羽ばたくことができなかった。

　窓の外では、秋風が枯れ葉を舞い上げている。
その乾いた音が、結衣の心に吹き付ける、冷たい風のように感じられた。

　スランプは、恋愛だけではなく、結衣の人生そのものに影を落とし始めていた。