『秒速シンデレラ』

第10章：心と心の再構築

第55話：ゆっくりなペースで

　結衣のアトリエでの時間が、蓮にとってどれほど心地よいものだったか、その表情が物語っていた。

　帰りがけ、蓮は結衣の手をそっと取った。

　彼の指先が触れるたび、結衣の心臓が小さく跳ねる。

「クリスマスイブ、僕と一緒に過ごしてくれないかな？」

　蓮の声は、冬の澄んだ空気のように清らかで、真っ直ぐに結衣の心に届いた。

　以前なら、デートプランを練ることに必死になっていたはずだ。
けれど今は、ただ蓮の言葉が嬉しい。

「はい、喜んで」

　結衣は、顔が熱くなるのを感じながら、蓮の目をしっかりと見て答えた。

　そして迎えたクリスマスイブ。

　結衣は蓮に誘われ、いつもとは違う場所にいた。

　賑やかな繁華街を抜けた先に広がるのは、見慣れない閑静な住宅街。
レンガ造りの趣ある建物が並び、街灯の光が石畳に反射して、どこか異国情緒を感じさせる。

「どこに行くんだろう？」

　結衣の頭には、そんな疑問が浮かんでいた。

　蓮はただ、穏やかな笑顔で結衣の手を引き、ゆっくりと歩を進める。

　しばらく歩くと、一軒の小さなアンティークショップの前に立ち止まった。

　扉の向こうからは、古いレコードの擦れるような、懐かしいジャズの音が微かに漏れてくる。

「ここ、なんだか素敵ですね」

　結衣が呟くと、蓮は微笑んだ。

「今日は、特別な場所を案内したくて」

　店内は、壁一面に並べられた古書の匂いと、埃っぽい絨毯の匂いが混じり合い、時間の流れが止まったような錯覚を覚える。

　奥には、暖炉の炎が赤々と燃え、その光が古い家具やガラスの置物に反射して、幻想的な陰影を描き出していた。

　蓮は、結衣を連れて、店の奥へと進んだ。

　そこには、小さなステージと、数台のグランドピアノが置かれている。

　そして、ステージの中央に置かれた一台のピアノの前に座ると、蓮は結衣に向き直った。

「実は、少しだけ、ピアノが弾けるんだ」

　蓮の意外な言葉に、結衣は目を丸くした。

　エクレアがいた頃には、蓮の趣味や特技に関する情報は完璧に把握していたはずなのに、これは全く知らなかった。

　驚きが、結衣の胸を駆け巡る。

　蓮の指が、ゆっくりと鍵盤に触れた。
響き渡るのは、耳慣れたクリスマスソングのメロディ。

　けれど、その音色は、街で流れる賑やかなそれとは違い、どこか繊細で、蓮の感情が込められているように感じられた。

　メロディは、次第に穏やかなバラードへと変化していく。

　その音色に、結衣の心はすっかり奪われていた。

　演奏が終わると、蓮はゆっくりと顔を上げた。

　彼の瞳が、真っ直ぐに結衣を捉える。

「結衣さん。
君と出会って、僕はたくさんの偽りの自分を演じていたことに気づいた。

　そして、君もまた、本当の自分を隠していたこと。
僕たちは、完璧ではないけれど、だからこそ惹かれ合ったのかもしれない」

　蓮の声は、ピアノの音色のように優しく、けれど芯があった。

　結衣の心臓が、ドクドクと大きく鳴り響く。

「完璧じゃない君の全てが、僕には愛おしい。
不器用で、時には言葉に詰まる君だけど、その真っ直ぐな気持ちが、僕には何よりも大切なんだ」

　蓮は、そっと結衣の手を取った。
彼の指が、結衣の指に絡まる。

「だから、お願いがある。
僕と、正式にお付き合いしてほしい」

　蓮の告白に、結衣は息を呑んだ。

　目頭が熱くなり、視界がぼやける。

　エクレアが用意した完璧なデートでも、高級レストランの食事でも、こんなにも胸が震えることはなかった。

　これは、自分の意思で掴み取った、偽りのない感情。

「はい……
はいっ！」

　結衣は、込み上げる涙を抑えきれずに、何度も頷いた。

　蓮は、結衣の涙を優しく拭うと、そっと抱きしめた。

　彼の腕の中に包まれると、安心感と、これまでにない温かさに満たされた。

「秒速」で駆け抜けた偽りの恋ではなく、一歩一歩、お互いの心を確認し合うように。

　二人はゆっくりと、そして着実に、愛を育んでいく。

　クリスマスの夜空の下、二人の新しい物語が、始まった。